フェリーチェ・ベアトの『F・ベアト幕末日本写真集』のP13~14の上半分に、「野毛山から見た横浜」という写真があります。これはいったいどこから写したものだろう。前に「横浜道~海岸通り」その4で推測してみたことがありますが、ヒントとなるのは写真中央やや右下に光る川筋。舟が浮かんでいますが、これが大岡川。その河口付近には野毛橋(現都橋)が架かっているはずですが、この写真では木々と人家に隠れて見えない。その先の吉田橋はよく見える。中央に向けてややせりあがっている木造の橋がそれ。前景左手は野毛町。その手前の比較的大きな建物は神奈川奉行所の御役宅。ということは中央下部の森の下の方には太田村陣屋があるはずです。この太田村陣屋というのは、現在の場外馬券売り場(ウィンズ横浜)がある辺りにあったもの。その上(西側)となると、現在の中央図書館がある辺りの上の丘の突端付近ということになります。現在の野毛山公園に向かう野毛坂の途中から丘をよじのぼったのだろうか。それとも神社か何かがあって、その石段を上がり、その神社の境内から撮ったものだろうか。左手端っこの真ん中には弁天社の杜があり、また中央真ん中から右手に山手の森が続いています。よく見ると、港の沖合いには夥しい数の船が浮かんでいます。このページの下半分の写真を考え合わせて見ると、この写真は、おそらく下関遠征のために四ヶ国の連合艦隊が集結したさまを撮影したもの。ということは、この写真がベアトによって撮影されたのは、元治元年(1864年)の夏。さらに6月の中旬頃(旧暦)のある日と絞り込むるかも知れない。もしその推定が正しければ、この年の10月22日(旧暦)に「鎌倉事件」が発生し、その翌月の11月17日に江戸の千住で清水清次が逮捕され、江戸から唐丸駕籠で、11月29日に戸部の牢屋敷に運ばれてきた清水が、同日、荷馬に乗せられて横浜市中引き回しの上、夕刻に戸部の牢屋敷に戻った(処刑は翌日に延期)ことを考えてみると、市中引き回しの一行は、 ベアトが写した横浜のこの町中を(同じ風景の中を)、おそらく戸部の牢屋敷→野毛の切り通し→野毛橋→吉田町→吉田橋(ここに清水は、翌日、首を晒される)→現在の馬車道とほぼ重なる通り→弁天通り→居留地内→弁天通り→吉田橋→吉田町→野毛の切り通し→戸部の牢屋敷(くらやみ坂付近)というルートをたどったと思われます)。 . . . 本文を読む