鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

中江兆民と山本松次郎のこと その1

2007-04-12 21:45:23 | Weblog
長崎にあった幕府直轄の語学所「済美館」が置かれていたところは、もと長州藩の蔵屋敷があったところでした。長崎には、西南各藩の蔵屋敷がありました。蔵屋敷というのは、大名などが、年貢米や諸国の産品などを売りさばいて貨幣に替える目的のために設けたもので、長崎には、西南諸藩の蔵屋敷があり、そこには「聞役(ききやく)」という職名の者が駐在して、長崎の動きや事件などをいち早く自藩に報告することを重要な任務としていました。長崎にあった蔵屋敷は全部で20。薩摩・肥後・筑前・長州・佐賀・久留米・小倉・柳川・対馬・島原・大村・五島・富江・黒田美作・諫早・鹿島・武雄・多久・深堀・土佐の諸家でした。このうち蔵屋敷の所在地は、『長崎町人誌 第一巻 世変わり人情編』(長崎文献社)に載っており(P92)、薩摩は「現在の東京銀行」、長州は「自治会館」、土佐は「あさひ銀行」となっています。この「自治会館」があるところ(長州藩蔵屋敷跡)が、「済美館」があったところになります。この「自治会館」がどこにあるのかを調べてみると、現住所は、長崎市興善町6-24。通り隔てて西側に長崎中央消防署があり、北側に長崎社会保険事務局があります。この辺りは、幕末においては「新町」と呼ばれたところで、長州藩蔵屋敷の隣には小倉藩蔵屋敷もありました。長州藩は、元冶元年(1864年)の7月の「蛤御門(はまぐりごもん)の変」において、御所に向けて発砲したことなどを理由に幕府より「朝敵」とされ、江戸の長州藩邸は破却され(木材は江戸市中の風呂屋の燃料になりました)、大坂の蔵屋敷も打ち壊され、そしてこの長崎の蔵屋敷は幕府に没収されることとなり、慶応元年(1865年)の夏から、「済美館」という語学所として使用されることになったのです。 . . . 本文を読む