鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 人吉その3

2009-01-16 05:39:24 | Weblog
明治15年(1882年)12月から正月にかけての兆民の九州旅行(出張)の内容は、紀行文が残されていないとなると、何からわかるかと言えば、まず兆民の書簡から分かります。同年12月17日付で熊本の、その名も「熊本旅館」より出された児嶋稔(大島更造)宛書簡がそれ。児嶋稔は高知滞在中に兆民がいろいろとお世話になった人であるようです。そこでは、宇和島に到着してから、12月8日に乗船してその日の夜に佐賀関(さがのせき)に上陸。佐賀関から陸行して熊本に11日に到着。熊本では、相愛社や紫溟会(しめいかい)の面々や実学党の人々に面会したことが記されています。「随分事新しき様にて反(かえ)つて愉快を相覚申候(あいおぼえもうしそうろう)」としています。また、薩摩へ行くことになるかも知れないと、今後の予定がチラと示されています。この書簡を書いた「熊本旅館」がどこにあったかは、今のところわからない。相愛社ばかりか、紫溟会や実学党(本文では「実業党」となっていますが、これはあきらかに実学党のこと)の人々とも面会しているのが兆民らしいところ。熊本訪問の主目的が「出版一件」であることも明記されています。この書簡以外に、どういう資料で旅の様子が伺えるかというと、その資料はきわめて少ないのですが、しばらく後の文章に登場してきます。「阿讃紀游」に、「熊本水禅寺境内は水に宜(よろし)きも山有(あ)ること無し」と、熊本の水前寺公園が出てきます。兆民は熊本滞在中、水前寺公園を訪れたはずです。「阿土紀游」には、「肥後三太郎」が険しい道の一つであることが記されています。この「肥後三太郎」というのは、肥後南端の「薩摩街道」上に連続する三つの峠のこと。この「肥後三太郎」を、兆民が越えていることが、これでわかります。この「肥後三太郎」については「阿讃紀游」にも出てくる。「吾等嘗(かつ)て肥後三太郎山を通(と)ふり…」とあって、大名が通行した参勤交代路の中でももっとも険峻な峠道の一つであることが記されています。「肥後三太郎」は、土佐から讃岐や伊予に出る「北山黒森峠」(四国山脈越え)ほどではないけれども、兆民にとってはかなり難儀を覚えた峠道の一つであったことがわかるのです。ということで、兆民が鹿児島に赴いたことはほぼ確実なことと言えるでしょう。なぜなら、「肥後三太郎」は薩摩と肥後を結ぶ薩摩街道にある峠道であるからです。 . . . 本文を読む