なあむ

やどかり和尚の考えたこと

大震災62 動きをまとめて

2011年06月29日 14時14分10秒 | 東日本大震災

昨日は、曹洞宗東北管区教化センター教化資料作成委員会で仙台に。

震災前まで放送していたテレビCMが震災で中断しているものをどうするか、という協議も。

結論として、震災についてのものに作り替えて放送するということになり、内容を検討・決定しました。

タオルですが、これまで宮城県を中心に配布してきましたが、岩手県にもシャンティ国際ボランティア会(SVA)の拠点が立ち上がり、そこからの配布も進みそうです。ということで、5000枚を追加発注しました。6月5日岩手入り予定。

台湾の佛教慈済基金会が釜石、大船渡、陸前高田で家を失った被災者に義捐金を配布していますが、気仙沼への支援についても申請することになり、明日東京の日本分会へ交渉に行きます。引き続きSVA理事会も。

最上町黒沢地区餅つき唄保存会の皆さんが、気仙沼で餅と唄を披露してくれました。避難所と仮設住宅を結ぶかけはしというねらいもあったようで、被災者も行かれた方々も喜ばれたようでした。まけない!タオルの支援金の中から炊き出し分として費用の一部を協力させていただきました。

やなせななさんが、「まけないタオル」と鎮魂歌「千年眠れ」のCD化を進めているという情報は既に流しましたが、やなせさんのホームページには、震災関連で、動画「街の灯」が貼り付けられています。傷口が癒されます。是非ご覧ください。このページにリンクが貼られています。そこからどうぞ。


ガマの油

2011年06月26日 20時12分27秒 | 家族模様

昨日、ある日あるところで撮影されたDVDをみた。私が少し話をしている様子が映っている。

元々、自分の映っているものは見るのも嫌だし、声も話も聞きたくはない。

魔が差した。

この人、何でこんなに口が曲がってるんだ?

この顔をみんなは普通に見てるのか?何で誰も何も言わないんだ?

なんでこうなるのかと顔を動かしてみると、左の口角には力が入ってキュッとつり上がるのだが、右はどうもうまくいかない。意識的にやると非常に疲れる。このせいだ。

何代か前の総理大臣も口が曲がっていたが、「ウソを言うから口が曲がるのだ」と言われていた。

話の中で(それほど)ウソを言った覚えはないが、人前で話すような人はこれではまずいんじゃない?

これはいつからはじまったのだ?癖なのか、生まれつきか、表情筋の問題か。

下の娘も話す時口が曲がるな。

娘ならコケティッシュでかわいい、とでも言えばいいが、親父ではウソつきのほうが相場だろう。

志ん生も曲がっていたんじゃないかな。ふ~ん。

もう一つ驚いたのは、カメラが横から顔をとらえたのがあって、いわゆる横顔を見た。

この男、アゴがないではないか。

何じゃこれは?

アゴと思われる所からすぐ首になっている。

うっすらと上弦の月のようなくぼみが見えるのでかろうじてここがアゴなのだろうと推測される。

その下のだらんとしたズボンのすそのようなものは何だ?

どんな機能があるのだ。

ペリカンじゃあるまいし、そこに食べ物をためておくのか?

いやあ驚いた。これが顔か?おまえはマトリョーシカか。

よくみんな、吹き出さずに見て、何も言わないモンだな。

こんなのを見せられたら少し考えるよな。

何とかしなけりゃならんだろう。

芸能人っていうのはアレだな、自分の身体をよく見るから気をつけるんだろうな。

自分でこれを見たら脂汗出るもの。四六のガマだな。

時々見て油流した方がいいね。

ああ驚いた。


大震災61 合唱曲へ

2011年06月25日 17時28分24秒 | 東日本大震災

「まけないタオル」が合唱曲になります。

最上町から「この歌を子どもたちに合唱させたい」という声が上がり、NPOやまなみ主催のコンサートが開かれることになりました。

ヴァイオリニストの池田敏美さん、声楽家の池田弦さん親子が全面的に協力してくださることになり、弦さんが指導する首都圏の合唱団と最上町の子どもたちが一緒に歌うという企画です。

その中に、早坂文明さん、やなせななさん、それに三部による3人の対談も企画されています。

もちろん、やなせさんの歌、池田敏美さんのヴァイオリン演奏もあります。

期日は8月21日(日) 午後1時開演の予定です。

今月中には合唱曲のアレンジもできあがり、7月に入ると練習がスタートすることになる模様です。

子どもから大人まで、全員でタオルを持って「まけないタオル」を合唱するのはどれほど壮観でしょうか。今からワクワク楽しみです。

きっと来場者も歌うことになると思います。是非参加ください。詳細は追ってご案内します。

もう一つ、早坂文明、やなせななコンビから新しい歌が生まれます。

この歌詞「千年眠れ」は、早坂さんが「まけないタオル」より前に、震災直後に書かれたものだそうですが、暖めていたものを、タオルがきっかけでやなせさんに曲の依頼をされて作品になることになったものです。

やなせさんは、曲ができるまでに苦労されたようですが、先日無事レコーディングも終わり、「タオル」とのカップリングで、8月あたまにCDとして完成予定とのこと。こちらも楽しみにしてください。

ジャケットデザインも決まりました。

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大震災60 使われているタオル

2011年06月23日 15時23分03秒 | 東日本大震災

執筆を依頼されている曹洞宗の「禅の友」の編集者から、「石巻を訪ねたとき、皆さんまけないタオルを頭にかぶって懸命にお経を読んでいました」という情報が寄せられ、詳しく知りたいとお願いしたところ、返事が来ました。

それは、震災の日から3ヶ月目の6月11日、被災された方々から依頼された洞源院さんが、石巻、女川、東松島の3カ所で追悼法要を行ったときのことだそうです。

当日は飛び入りもあって、予定より大勢の方々がご詠歌とお経を読んで供養されたということでした。

読経が始まると不思議に雨が降り出し、皆さん頭にまけないタオルをかぶってお勤めされたということで、写真を送ってくれました。雨にもまけないタオルでした。

タオルが、被災地で、ちゃんと使われている、ということを知って涙が出ました。

どうも、タオルの両端にゴムを通してかぶるようにしたとか、これは決して頭に巻いているのではなく、かぶっているということらしいです。

また、これも以前の情報ですが、仏教系の業界紙に取材された分が記事になりました。大変よくまとめていただいたので紹介したいと思います。

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久しぶりのカヌー

2011年06月22日 22時57分04秒 | 今日のありがとう

ごめんなさい、遊んでしまいました。

何年か前にマイ・カヌーを購入し、年に数度乗っていましたが、ここ2年ばかりは全くその機会がなく、埃をかぶっていました。

今日は大きな用事もなく、昼前に唐突に(いつも思いつき、別名無計画)、午後からカヌーをしたいと思いました。暑いし。

大谷小学校長の長岡先生が、カヌーで最上川を下るNPOブナの森を立ち上げているので、HPを覗いてみると、長井から中山町までのコースが載っていました。ところが2日間のコース配分になっています。

そんなにかかるものかと思い、先生に電話してみたところ、「これから半日では絶対無理」というお答え。

では、中山町から河北町までなら何とかなるだろうと思い(何の根拠もなく)、息子を使ってカヌーをつけて運んでもらいました。

久しぶりのカヌーにドキドキしながら漕ぎ出すと、川風がすこぶる気持ちいい。

ところが、20分ほど進むと、取水口のためのダムのような状態の所に出くわし、やむなく上陸。息子を呼んで今回はここまでと断念しました。

恐るべし最上川。というよりも、下調べもない、単なる無計画。

しかし、スッキリせず、もう少しでも乗りたいと思い、河北町の谷地橋で下ろしてもらい、河北橋までのわずかな距離を乗って、ようやく満足しました。

水の上を滑るのは本当に気持ちがいい。お陰でリフレッシュできました。

でも、考えてみたら、ダムがなくても中山町からでは明るい内にゴールするのは難しかったでしょう。危ない、危ない。

夜の環境を考える会の例会で、自然の心地よさを伝えました。

息子が撮ってくれた写真とセルフ写真。

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大震災59 父祖の地

2011年06月21日 18時04分41秒 | 東日本大震災

以前このブログに書いたことですが、松林寺の過去帳には宝暦の大凶作の証として、宝暦6年の年、例年の7倍に上る死亡が記されています。

また、昭和9年の大凶作では、死者数に記録的な増加は見られないのですが、娘たちの身売りが行われ、最上郡内で2000名が売られたと当時の新聞は伝えています。いわゆる「おしん」の時代です。

そのような厳しい環境の中を我々の先祖は生き延びてきました。

そんなに厳しいなら、もっと住みやすいところに移住すればいい、と他所の人は言うかもしれません。

でも、そんなものじゃないでしょう。

「雪地獄 父祖の地なれば 住み継げり」

先祖が苦労して住み継いできた土地を、そう簡単に離れることができるものではありません。

現在の被災地も同じだと思います。

津波地獄かもしれません。それでも、「津波が恐くて漁師やってられないっちゃ」という言葉が胸に響きます。

放射能汚染により避難を余儀なくされている福島の方々の望郷の念と怒りは如何ばかりかと胸に迫ります。

今、私たちの住むこの土地は、先祖の人々が、天を仰ぎ、地を打って、血の涙を流した土地なのです。

家族を奪われ、半狂乱になりながらも、それでも生き抜いてきた土地なのです。

そのDNAが引き継がれている以上、そう簡単にふるさとを出ることはできないはずです。そして、必ず乗り越えていくこともできるはずです。

昨日の朝日新聞に痛ましい記事がありました。

相馬市の酪農家が、堆肥舎の壁に「原発さえなければと思います」という遺書を遺して自殺したという記事です。

これまでの天災とは全く違う、恐ろしい事故が現在進行形です。

それでも・・・、乗り越えていかなければなりません。生き継いでいかなければなりません。被災者自身の力が弱くなってきているのであれば、みんなで力を貸さなければなりません。

絶対に、一人も見捨ててはなりません。


大震災58 百ヶ日

2011年06月19日 16時02分14秒 | 東日本大震災

昨日は震災から百ヶ日、卒哭忌。

気仙沼、登米沢地区集会所からの依頼で講演をしてきました。

100日という区切りを迎え、お坊さんであり、SVAの関係者である人、という人選で息子が「ウチの父親でどう?」と話をして決まったようでした。

昨日は法事が二つあり、今朝は座禅会もあったので厳しかったのですが、「俺が運転するから」と息子が責任をとって言うものですから、出かけました。

新しいステージに向かって一歩を踏み出していただきたい、今日をその区切りの日にしていただきたい、という思いで話をさせていただきました。

これまでに経験のなかったことでしたが、話が終わってから、多くの人々から握手を求められました。

泣きながら抱きついてくる人もいました。

おそらく、私が話したかったことと、聞く人が話して欲しかったことがピッタリ合ったのではないか、と思いました。

「卒哭忌」は別名「泣き納め」の日と言われます。

泣くな、と言われても涙はこぼれます。忘れろ、と言われても、忘れられるはずがありません。

しかし、新たな一歩を踏み出して生きていくためには、どこかで過去との区切りをつけなければなりません。

失ったものは数限りなくあり、あまりにも大き過ぎます。

しかし、失ったものを数えていても何の解決にもなりません。

震災から、あるいはこの3ヶ月で、得られたものもきっとあるはずです。

それを大切にして、明日から生きて欲しいと切に願います。

そういう話ができるようになったことが、百ヶ日なのでしょう。

息子は、被災地での2ヶ月間でほとんど家族同然になった幸一さんから、「今日初めて漁に出て獲ってきた魚だ」と、箱いっぱいの鮭をもらってきました。

幸一さん、どれほどうれしかったのでしょうか。頭にタオルを締め直す手に力がこもっています。漁師は漁に出なければ元気が出ない。赤銅色に灼けた満面の笑みが、百か日の証です。

最後は、恒例になったまけないタオルを握りしめての「まけないぞ!」三唱の後、記念撮影です。20110618_204625

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実は先日

2011年06月17日 21時45分14秒 | ふと、考えた

震災後、ずーっと、「大震災」のカテゴリーで書いてきて、それ以外のカテゴリーは書けないようになっていました。

ちょっと、ここで一話を挿みたいと思います。

実は先日、12日の夜に急に動悸がし出しておかしいなと思っていました。

次の朝は、立ちくらみのようにクラクラする感じがあって、何だろうと思いました。

思い切って病院に行くことにして、午後最上町の開業医にいきました。

診察の前に、看護師さんが基礎データを調べます。

血圧を測ると、いつもは140-90ぐらいなのに、100-60という見たこともない低血圧の数値が出ました。虚弱体質になったような気分です。

脈を測ると、「抜けますね」という言葉。

「抜ける」って何?

「心電図とりましょう」

ピ、ピ、ピ・・・と心臓の鼓動が音になって聞こえるのですが、それが規則正しくなくて、「ピ、ピピ、・・・、ピ」みたいな不規則な音なのです。

「これ俺の心臓の音?」と聞くと、「そうです」と。

気持ち悪くなりました。

自分の体の中で、心臓が時々「抜ける」というのは、これはいったい誰のものなのか。自分の心臓は自分で動かしているのではない、と体験してしまいました。

「心房細動」いわゆる不整脈という診断でした。

しかし、点滴をしながら注射液を入れると、3分半で鼓動は規則正しく動き出しました。すごいですね!

ひどく疲れたり、お酒によっても発作が起こる場合がある、と言われました。

そういえば、何年か前にも、同じような症状になったことを思い出しました。

その時は立っていられずに救急車で病院に運ばれました。病院で「血圧が低くて測れない」と言われたのを覚えています。

あのときも、ひどく疲れていたと思います。

ついでに、と思って動脈硬化の検査もしてもらうことにして、昨日受けました。

結果は、血管の硬さは、年齢の標準値だということでひとまず安心しました。

ただ、左頸の血管の内部に膨らみがあって、血管の半分ぐらいをふさいでいるから、気をつけないと、という話でした。

「危険度3.1%」というのは、危険なのか安全なのかよく分かりません。10段階のようですが、9より上は表示がないのです。ほとんど死ぬということでしょう。

と、いうことで、今のところ大丈夫です。

「また動悸がしたら飲め」と頓服薬をもらいました。できれば飲まないで済ませたいです。


大震災57 最上中学校 

2011年06月16日 20時47分30秒 | 東日本大震災

今日は最上中学校での「教育講演会」なるものによばれてお話をしました。

体育館にキチンと整列して「体育座り」をしている生徒たちの前へ進むとき、何とテーマソング「まけないタオル」を流してくれました。

プロレスラーになった気分でした。

しかも、そういう教育をされているのでしょうね、入場時から、体ごと講師の方へ向いて迎えるという、システマテックな動きをしていました。

加えて、誰一人おしゃべりをしないで、水を打ったように静かに校長先生の挨拶を聞いているのには驚きました。

中学生ってこんなにいい子でしたっけ。

この学校は特別なのでしょうか。しつけが厳しいとか。

もちろん、悪いことではなく、とてもいいことなのですが、あまりの従順さにかえって心配に感じたのは、昔の中学生だからなのでしょうか。

中学時代を、自分の時間として主体的に、謳歌してもらいたいものだと思います。

講演会の後は「中体連」の壮行会という日程で、保護者の人たちも集まってきていました。

タオルを保護者に買っていただくのだ、と役員の方が言っておられましたが、生徒全員に「まけない」をなどということになったらどうしようと、勝手に困惑していました。あの後どうなりましたことやら。


大震災56 100000年後の安全

2011年06月15日 21時25分45秒 | 東日本大震災

若者にまけないように、twitterというものを始めてみました。

まだ、よく仕組みが分からないのですが、徐々に広げていければと思います。

河北町環境を考える会の須藤さんから勧められて「100000年後の安全」という映画を観てきました。

世界ではじめてフィンランドが進めている、核廃棄物最終処分の実態を記録したドキュメンタリーです。

フィンランドの地中深く、500メートルのところに、核廃棄物を「埋葬」するという計画で、少なくとも、10万年間絶対に掘り起こさないことを前提としているということでした。

しかし、現代から10万年以前は槍でマンモスを追いかけていたネアンデルタール人の時代で、10万年後の世界など誰も想像のできないことだというジレンマが表現されていました。

日本にも同じ計画があって「NUMO」と呼ばれていますが、そういえば、震災後全くCMが流れなくなりましたね。2028年頃に操業開始予定とされていますが、未だ処分地の見通しが立っていません。もう当分は無理でしょうね。あの福島原発の廃棄物はどうするのでしょうか。

しかし、もちろん、この問題は日本やフィンランドだけの問題ではなく、原発大国であるアメリカやフランス、世界各国の問題であります。

今後、中国やインドが先進国と同じような生活をしようとすれば、毎日3基ずつの原発を作ることが必要になると映画では紹介していました。

一度作ってしまった原子力エネルギーは、必ず放射性廃棄物を出すのであり、その放射能を軽減させる方法は全く見つかっていません。

つまり、未来へ処理方法の分からない危険物を、負の遺産として遺す以外の手段がないのが原発の現実です。

映画そのものは、おもしろい、と言えるものではありません。しかし、原子力を持ってしまったこの星の人々は、全員、その現実を知る必要があると痛感します。