なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ177 彼岸の中日に腹を立てる

2018年09月23日 04時32分26秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第177回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

9月23日、日曜日、お彼岸の中日です。

判官びいきというのはありますね。
総裁選でも大相撲でも。
強い者が勝つのは当然ですが、新しさを感じませんし、面白味がありません。
特に総裁選では、判官びいきだけでなく、これでいいのか、という感を強くしました。
所詮コップの中の争いではありますが、そこで選ばれた者が結局この国の舵取りをするわけで、事実上の総理大臣を選ぶ選挙でありました。
コップの中では、それぞれの思惑で、自分たちの損得のための選択をしたようにしか見えません。
そのようなことでこの国の責任者を決めていいのでしょうか。
そんな中、山形県の地方票は東北で唯一、負けた石破さんの方が多かったというのは、なんかいいなという感じです。投票したのは自民党員だそうですから、へえー、山形県の自民党員は反骨精神があるんだ、と思いました。
判官びいきだったかもしれませんし、現政権に反省を促す、一矢を報いるという気持ちだったかもしれません。
でもなんか気持ちいい。

いつも思います。
政治家という人たちは、果たして何割、国民庶民のために動いているのか、どれほど考えているのかと。
自分が目立ちたい、自分が偉くなりたい、みんなからチヤホヤされたい。
そこが政治家のスタートで、最後まで自分のための活動を行い、周囲を巻き込んでいるだけではないのか。
政治家そのものはそれで満足でそれでいいかもしれませんが、その人たちによって決められることで、またその人たちを決めるために使われる資金のために、国民が左右されるのは迷惑としか言いようがありません。
それを、選挙で選ばれた、民意だ、民主主義だと言われるのは片腹痛いです。
国民のための政治家ではなく、政治家のための国民であるかのようです。
ま、お坊さんの中にも似たよな人はいますけどね。

戦争だってそうです。
決めるのは政治家や軍部ですが、最前線に行かされるのは庶民であり、被害を被るのも庶民がほとんどです。
終いには「国民総懺悔」などと言われる始末。
国民は政治家の奴隷か、アリか。
原発事故の際も、政治家やその家族が真っ先に逃げたというウワサがまことしやかに流れました。
本当はどうなのでしょうか。
政治家って何ですか?
一応選挙をして選ばれた人ですが、選んだことが空しくなるようでは困ります。
いやいや、きっと自分のこと以上に国民のために働いてくれている政治家も中にはいることでしょう。
そういう方が増えてくれることを望みますし、そういう方を選ぶ目を国民も持ちたいと思います。
結局はそれ以外の方法はないのですから。

もう一つ、全国の学校の教室にエアコンが付くのですか?
へえー、益々電力が必要になり温暖化は進むでしょうね。「だから原発が必要だ」と言うのでしょうか。
向かうべき方向は逆じゃないですか。
エアコンに慣れることで寒暖の差に弱い体をつくることにならないでしょか。それは熱中症につながらないでしょうか。
密閉した風を感じられない環境は心の閉鎖につながるようにも思えます。
そよ風の扇風機ぐらいがいいように思いますが。
とりあえずの対策で子どもたちの未来の能力を奪ってしまうようなことにならなければいいですね。

彼岸の中日に腹を立ててしまいました。
六波羅蜜の第三は「忍辱(にんにく)」で、忍耐を説いていますが、我ながら残念なことです。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『僕たちの将来』。


あたしたち多分 大丈夫よね
フォークにスパゲティを巻きつけながら彼女は訊く
大丈夫じゃない訳って何さ
ナイフに急に力を入れて彼はことばを切る
ここは24時間レストラン
危いことばをビールで飲み込んだら
さっき抱き合った宿の名前でも もう一度むし返そうか
僕たちの将来はめくるめく閃光(ひかり)の中
僕たちの将来は良くなってゆく筈だね

電話すると周りで聞いてる
友だちのいない時はいつなのって彼女は訊く
電話してもいつもいない
君の休みの曜日を変えちまえよと彼は言う
あたしも都合が おいらも都合が
危いことばをビールで飲み込んだら
君がとび込んで来てくれた夜の 話をむし返そうか
僕たちの将来はめくるめく閃光(ひかり)の中
僕たちの将来は良くなっていく筈だね

青の濃すぎるTVの中では
まことしやかに暑い国の戦争が語られる
僕は 見知らぬ海の向こうの話よりも
この切れないステーキに腹を立てる

僕たちの将来はめくるめく閃光(ひかり)の中
僕たちの将来は
僕たちの将来は
僕たちの将来は良くなっていくだろうか


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
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サンサンラジオ176 勝ち負けよりも

2018年09月16日 04時50分55秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第176回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

9月16日、日曜日です。

夜にテレビは観ません、もちろん昼も食事時以外観ませんが、スポーツだけは例外です。
8月9月と、高校野球があり、アジア大会があり、サッカーがあったりテニスがあったりと、忙しく楽しませていただきました。
そして今、大相撲が始まっています。今日は中日ですね。

外国選手との試合で時々感じるのは、勝った側と負けた側の態度、礼儀です。
勝って大騒ぎをする選手に冷ややかな感情をいだきますし、負けて怒りをぶつける態度にも違和感を感じます。
全米オープンテニスは象徴的でしたね。
何だかんだ言っても、日本人選手は勝っても負けても礼儀正しいと感じます。
ここが日本人のいい所であり、自負してもいい態度だと思います。
つまり、日本人が大切にしているのは、勝っても負けてもその態度の美しさなのだろうと思うところです。
勝っておごらず、負けてくさらず。
勝っても負けても相手を敬い、リスペクトして試合を終える。
勝ち負けよりも、その態度の美しさに価値を見出す日本人こそ日本人の誇りのように感じるのです。
高校野球などは、負けたチームが整列して勝ったチームの校歌を聞くという態度で相手を敬います。
もちろん屈辱も悔しさもあるでしょうが、それに耐えて相手を称える。
そこに美しさを感じる日本人でありたいと思います。
勝たなければ意味がない、本当にそうでしょうか。
オリンピックなどの国際試合においても、たとえ負けたとしても、負けた後の態度、負け方の美学のようなものを、日本選手には見せてもらいたいと勝手ながら期待します。
それこそが、勝ち負けよりも大きな人間の評価として、自他ともに認められると思うからです。

大相撲は礼に始まり礼に終わる。
勝っても負けた相手を慮り、喜びの表情を表に表さないという伝統があります。
もちろん負けた側も礼をして土俵を下ります。
随分前に、当時平幕の逆鉾が横綱隆の里をやぶった時、土俵上でガッツポーズをとって審判部からこっぴどく怒られたことがありました。
その後、朝青龍が横綱になり土俵上で「どうだ」というような態度をとるようになっても誰も注意する人はいなくなりました。
現在は、少し喜びを表現したり悔しさをにじませたりした方が観客は喜ぶということで寛容になってきているかもしれませんが、基本的な態度は以前のままに守っていただきたいし、これからも他のスポーツにも引き継いでいただきたいと思うところです。

相手を敬い、慮って態度を慎むという姿勢は、何もスポーツに限ったことではなく、日常生活においても日本人が文化として大事にしてきたことであり、誇りにすべきことです。
相手を「言い負かす」などはあまり美しいとは言えません。コミュニケーションに勝ち負けはいらないでしょう。
勝ち負けよりも大事なものは何か、スポーツを観ながら考えてしまいました。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『清流』。


1.なぜ競わなければいられないのでしょう
男と女は敵じゃないわ
なぜ夢中になることは弱みになるのでしょう
私あなたの敵じゃないわ
従えてもひれ伏させても 掌に心は入らない
私が味方だとわからない
流れよ清き流れよ はじめの気持ちを忘れても
流れよどちらからともなくまじわり合って流れてゆけ

2.世の中に争いは数限りなくある
勝ちと負けとで成り立ってる
だからといってあなたまで何に身構えるの
私があなたに何をするの
うやまわせておそれさせておかなけりゃ逃げると思ってる
私が味方だとわからない
流れよ清き流れよ はじめの滴を忘れても
流れよどちらからともなくまじわり合って流れてゆけ

流れよ清き流れよ はじめの滴を忘れても
流れよどちらからともなくまじわり合って流れてゆけ


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



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サンサンラジオ175 安全と心配

2018年09月09日 04時50分11秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第175回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

9月9日、日曜日です。

西日本豪雨、台風21号に続き、北海道で大きな地震がありました。
風力発電の多い北海道ですが、何故か強制停止させたようです。こういう時こそ必要とされる電力のように感じますが電力系統の問題で力が発揮できなかったようで、残念なことでした。
ライフライン、特に電気と水の確保は国と自治体が責任をもってもらわないといけません。
亡くなられた方、ご家族、不便に耐えていらっしゃる方々に心よりお見舞い申し上げます。

シャンティ国際ボランティア会南相馬事務所で、1人寄り添い活動を続ける古賀スタッフから、毎朝日報が送信されてきます。
9月5日の日報では、原発事故の汚染水いわゆるトリチウム水処理問題に関して触れていました。
海洋放出の公聴会が開かれ、住民から反対発言が相次いだ。「安全というなら、東京湾に流せばいい」という怒りの声があったと。
そうでしょうね。
「福島だからしょうがない」みたいな空気がこの国全体に漂っているような気がします。
その水が「人体にほとんど影響はない」と言われても、例えばそれが自分の県の海だとしたら、放出に賛成する人はまずいないでしょう。
「オリンピックの時に東京の打ち水に使えばいい」という意見もあったとか。
その考えいいですね。
安全な水なのですから、暑さ対策に苦労している訳だし、どれだけ撒いても水道料金には影響ないし、一気に解決するじゃないですか。JOCに進言したらいいと思いますよ。
でもそんなことはしないでしょね。安全じゃないから。
正確に言えば、トリチウムは事故前も全国の原発から海に放出されていて、ある程度の量ならば海水に希釈されて健康に影響はないというのが政府と東電の説明のようです。
だからといって、長期間放出され蓄積されたトリチウムが将来的にどんな影響を及ぼすのか不明のままで、福島の海ならいいということにはならないでしょう。
貯蔵されている汚染水をトリチウム水にして基準値の量を守って全て放出するには、30年から40年かかると試算されていますが、政府東電は7年で放出できると説明しているとのこと。
更には、放出する水にはトリチウム以外の核種も混ざっていることが判明し、公聴会は大いに紛糾したようです。
まあ、もともと、東京の電気を作る原発を何故福島に作らなければならなかったのかというところから「安全だけど心配」という計算があったわけで、心配だけど「安全ですよ」と言って福島県民に納得させてきたわけですよね。
心配だからこそ「心配料」みたいにお金をじゃぶじゃぶつぎ込んでマヒさせて心配を忘れさせてきたのですよ。
ところが心配していたように事故は起こりました。やっぱり原発は福島でよかったね。そう思っている人はたくさんいるのではないですか。
それが東京を守るためだった、東京のために福島を犠牲にしてしまったと、少しでも責任を感じてる東京人はいるでしょうか。
それに加えて、安全に心配がある、打ち水にもできない水を、福島の海に流すこともやむなし、というような発想と発言が出ること自体、どれほど福島県民を傷つけているか。
漁業関係者は怒って当然です。
大変な問題なのです。
汚染水は増え続けています。溶け落ちた燃料デブリを冷やし続けなければならないのですから。
もう貯蔵タンクの置き場にも限界が近づいています。
その他の方法として、地中注入と水蒸気放出、地下埋設という案を政府東電は出していますが、いずれも現実味はなく、海洋放出誘導のための当て馬にすぎないようです。
ある専門家は、石油備蓄タンクのような大型のタンクに保管していくのが一番安全で安上がりだと提案しています。240年経てば雨水と同じ濃度になり海洋放出できると。
とにかく、原発事故はまだ解決したわけではありません。
なのに、この問題を福島の問題として閉じ込めて、オリンピックで目くらまししているうちに、いつの間にか海洋放出されて、子孫と福島県民に犠牲を押しつけてしまうことを強く懸念しています。
これまでの災害や事故から学び、過ちを繰り返さないような対策を講じなければ、犠牲を無駄にしてしまうことになります。
現政権が掲げる「経済最優先」政策が、命よりも未来よりも、とりあえずの経済が優先されると言っているように聞こえてしかたありません。
「次世代の人が振り返った時に、東北の、福島の人たちのあの苦しみがあったからこそ、日本が世界から尊敬される国になった、という転換点にしてほしいものです。そうでなければ、今の我々のつらさはあまにもむなしい」と語った菅野飯舘村長の言葉を思い出します。
松林寺では今も、朝課で「東日本大震災被災地早期復興、原発事故早期終息、被災者各々身心安寧」を毎朝祈っています。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『明日なき我等』。


1.我等明日なき者は 何も願いを持たず
風のままに 風に打たれ いつか風になろう
過ぎた日々と明日とは 支え合う弥次郎兵衛
昨日を捨てても 明日だけが
運命として そこにあるわけじゃない

   されど衆生は明日を占い
   されど日々を明日に託す
   憐れ我等さすらう者
   渦巻く時の波間に


2.我等明日なき者は 何も願いも持たず
風のままに 風に打たれ いつか風になろう
未だ会わぬ者にまで 別れをしたためるな
期待の底の欲望に 信頼という名で脅されるな

   されど衆生は明日を占い
   されど日々を明日に託す
   憐れ我等さすらう者
   渦巻く時の波間に


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
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三ちゃんのサンデーサンサンラジオ174

2018年09月02日 05時14分07秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

9月2日、日曜日です。

9月に入りました。
8月は、暑さと豪雨で大変な夏となりました。
異常気象も毎年起これば異常とは呼べません。
気候変動が進行し、熱帯雨林のようなスコールが起こる国になってしまったようです。
一旦集中豪雨に見舞われると、急峻な斜面の多いこの国では、土砂崩れ河川の氾濫が付き物のように襲ってきます。
その原因が地球温暖化にあり、その要因が人間が排出する二酸化炭素だということはもう疑いようのないことですから、人間社会の生活スタイルとエネルギー変革をすぐにでも始めないと、益々災害規模は大きくなるのだろう思われます。

さて、先週1週間で上映会が2回ありました。
その一つは最上町で8月26日、私も監事で関わっているNPO法人やまなみ主催のアニメ映画『この世界の片隅で』でした。
戦時中の広島・呉を舞台に、1人の平凡な女性が生きた普通の生活を描きます。
しかし、戦争は、平凡な普通の女性が当たり前に生きることすら許してくれませんでした。
やわらかいアニメの絵が、淡々とさりげなく激化していく戦争の下で暮らす人々を描いていきます。
やわらかいだけにかえって悲しみが深く染みるようでした。
軍港呉は米軍機による爆撃の標的となり、そして広島に原爆が投下されます。
そんな最も激しかった空の下でも人々は懸命に生きていました。ただ普通に生活したいという願いだけで。
ストーリーの中に二人の女の子が登場します。
1人は義姉の娘はるみ。
主人公すずと手をつないで歩いている時空襲に遭います。
時限式の爆弾が爆発し、つないでいたすずの右手ごとはるみは消えてしまいます。
もう一人は、原爆投下後の広島で、亡くなった母親の傍で蠅と蛆を追い払っていた娘。
すずが転がした海苔巻きを拾い食べようとしますが、見つかって返そうとします。
不憫に思いすずは娘を呉に連れて帰ります。
この二人の娘の人生が胸に突き刺さりました。
『火垂るの墓』の節子同様、生涯心に残る存在となるでしょう。

もう一つの映画は、昨日河北町でありました。
河北町環境を考える会主催の『おだやかな革命』の上映会です。
監督は、鶴岡市出身在住で『よみがえりのレシピ』を手がけられた渡辺智史監督。
今、日本の地方で始まっている民間による静かなエネルギー革命にライトを当てます。
それは持続可能なエネルギーの形であり、本当の豊かさとは何かを問いかけるものでもあります。
拳を突き上げて声高に主義主張を叫ぶ革命ではなく、自らの生き方と生活を足下から見つめ、そこにある資源に気づいていく。
それを自らやってみることで、その可能性が周囲に広がり人々を巻き込んでいく。
そんなおだやかだけどしっかりとした「革命」が今始まっていることを伝えるドキュメンタリー映画です。
昨日は上映前に監督によるトークがあり、作品に込めた思いを語っていただきました。
今後益々中央集中が進み過疎化が激化する地方。
しかし、地方にこそある資源を発見し活用することで、地方に生きる意味と豊かさを見つけることができる、とこの作品は呼びかけています。

どちらの作品もやわらかでおだやかな作品です。
しかしそれは、強いことでもあります。
おだやかでやわらかい強さこそが、国を静かに着実に動かす力だと望みます。
気候も同じく、おだやかでやわらかくあってほしいと願います。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『おだやかな時代』。


まだ眠っている町を抜け出して駈け出すスニーカー
おだやかでなけりゃ残れない時代少し抜け出して

まだ眠っている町を抜け出して駈け出すスニーカー
おだやかでなけりゃ残れない時代少し抜け出して
きのう産まれた獣たちもう目を開けて歩き出すよ
駅は部屋のドア 開ければそこから始まるよレールウェイ

おだやかな時代 鳴かない獣が好まれる時代
標識に埋もれて僕は愛にさえ辿り着けない
目をこらしても霧の中レールの先は見えないけど
止まり方しか習わなかった町の溜息を僕は聞いている
 毎日 Broken my heart 声もたてずに
 毎日 Broken my heart 傷ついていた
 毎日 Broken my heart 声もたてずに
 毎日 Broken my heart 傷ついていた

昨夜の雨が残す水たまり靴底にしみて爪先を濡らす
僕はジョークだけが上手くなった 愛を真に受けてもらえなくなった
僕に怯える天使たちよ僕は君ほど強くないさ
まだ眠っている町を抜け出して駈け出すスニーカー
 毎日 Broken my heart 声もたてずに
 毎日 Broken my heart 傷ついていた
 毎日 Broken my heart 声もたてずに
 毎日 Broken my heart 傷ついていた


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
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三ちゃんのサンデーサンサンラジオ173

2018年08月26日 05時15分31秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

8月26日、日曜日です。

最近、話したい書きたい気持ちが募ってます。
もしかして、死期が近いのか、単なるいつもの思いつきなのか。
自覚症状はありませんが。まあ、その時はそうなったで、「そういえば最近ずいぶん語っていたね」と思ってくれればいいです。
頭燃を払うように、語りたいときには語らしてもらいましょう。

修証義講話の準備をしていて懺悔について少し考えました。
もともと「懺悔」という言葉は仏教が中国に渡ってできた言葉です。インドのサンマという音を漢字にあてて「懺摩」としました。その意味が「過去の過ちを悔い改める」ということで漢訳すれば「悔過」になります。
そして、音の懺摩の「懺」と意味の悔過の「悔」を合わせて「懺悔」の文字ができました。
ですから、これはあくまで「ザンゲ」と濁らずに、「サンゲ」と読むべきです。
キリスト教が日本に入って来て、その意味にそのまま「懺悔」の言葉をあてたのでしょう。
その時からかどうかは定かではありませんが、いつの間にか「ザンゲ」の読み方が一般的となり、パソコンの変換で「ザンゲ」でないとこの文字が出てきません。残念なことです。
それはどうでもいいのですが。

「懺悔」の文字が日本全国に翻ったったのは、終戦直後の「一億総懺悔」という標語でしょう。
これは戦争責任を国民に押しつけるもので、結局誰も責任をとらない体質の最悪の事例です。
しかも、この言葉を使った当時の東久邇宮首相の「懺悔」の内容は、「敗戦を天皇陛下に謝罪しよう」という呼びかけでした。
開戦も終戦も天皇を利用し、政治家も軍部も責任をとらないまま今日まで来てしまいました。
平成天皇陛下が在位中、積極的に激戦地を訪ねて慰霊を行ったり、終戦記念日に「深い反省」を述べられたり、多くの被災地に足を運ばれたりするのも、昭和天皇から背負った贖罪で国民に懺悔されてきたのではなかったかと思うところです。
当に懺悔は、自らの心からにじみ出るもので、誰かに強制したりさせられたりするものではありません。
平成天皇の行動を見るとき、日本人の代表として首相より上の存在があることに救いを感じたりします。
在位最後のお言葉として、日本人のあり方を一言諫言していただいたらいいのに、と思います。
それに比べて。

福島第一原発事故の責任は一体誰がとるのでしょうか。
津波が想定されていなかったわけではありません。
津波の到達予想の高さを、経済的な側からの算出で想定していたにすぎません。
その責任は誰にあるのでしょうか。
自然には勝てないなどと言って、責任を自然のせいにすることも目くらましです。
地震と津波の規模が想定できなかったとしても、しているのですが、原発は人間が作ったものです。「絶対安全」と嘯くなら、こんな大事故になる津波を想定できなかった責任は誰にあるのでしょうか。
よもや、これも国民に押しつけて「一億総懺悔」しようなどと言うつもりではないですよね。賠償金を電気料金に付加しているのであれば結局そういうことか。

明確な責任をとらずにうやむやの中で意識が薄れていくのを待つ、それがこの国民の特徴のようですね。
でも、外国のように、元大統領であろうが悪いとなれば徹底的につぶすというやり方に、何となく違和感を感じたりするのは、責任問題をうやむやにしても仕方がないと思っている、日本人的な心の現われなのでしょうか。
うやむやに言葉にしない文化が「忖度」を生みました。国の不祥事も結局はうやむやのまま。
それはもしかして、日本国民の宗教観と関わりがあるのか、と思います。
絶対神を立てずに八百万の神をあがめ、ありがたい存在であれば神でも仏でも無条件にとりあえず手を合わす。
心が広いというか、和を以て貴しとなすというか、節操がないというか。
でもそれは、最後はトップがハラを切り自ら責任をとるということが暗黙の了解として約束されていたからではないですか。
そういう侍的な精神構造なしに責任をうやむやにすることは、この国をダメにしてしまうように思われてなりません。
懺悔がなければ、いくらリセットしても同じ過ちを繰り返すばかりです。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『泥海の中から』。


ふり返れ 歩きだせ 悔やむだけでは変わらない
許せよと すまないと あやまるだけじゃ変わらない
ふり返れ 歩きだせ 悔やむだけでは変わらない
許せよと すまないと あやまるだけじゃ変わらない

おまえが殺した 名もない鳥の亡骸は
おまえを明日へ 連れて飛び続けるだろう

ふり返れ 歩きだせ 悔やむだけでは変わらない
許せよと すまないと あやまるだけじゃ変わらない

ふり返れ 歩きだせ 忘れられない罪ならば
くり返す その前に 明日は少し ましになれ

おまえが壊した 人の心のガラス戸は
おまえの明日を 照らすかけらに変わるだろう

ふり返れ 歩きだせ 忘れられない 罪ならば
くり返す その前に 明日は少し ましになれ

ふり返れ 歩きだせ 悔やむだけでは変わらない
果てのない 昨日より 明日は少し ましになれ
ふり返れ 歩きだせ 悔やむだけでは変わらない
ふり返れ 歩きだせ 明日は少し ましになれ
          明日は少し ましになれ


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


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三ちゃんのサンデーサンサンラジオ172

2018年08月19日 04時24分07秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

8月19日、日曜日です。

このサンサンラジオは、和尚さん方も耳にしてくれていると思うので敢えてお話します。
先日、「墓じまいの金銭トラブル」という報道がありました。
「墓じまい」は、後継者のいない墓を永代供養などの共同墓に改葬して、先祖代々の墓を取り壊すという事例です。
金銭トラブルは、墓地を寺に返す際に寺から請求される金額が高額であることによるトラブルです。
記事では、その金額が数百万円にのぼるケースもあると紹介しながら、、檀家をやめる「離檀」の際の「手切れ金」のような請求は、今後檀家が減っていく寺院の事情を考えれば、金額は別にして分かる気がするとある程度の理解を示していました。
人口が減り、特に田舎においては急速に激減していくことは明らかなことで、当然寺の檀家も減り、墓地を守る人もいなくなるのは明白です。
今ある檀家の数が減っても寺の収入を減らさないために色々方策を考えるのだと思いますが、高額な離檀料や一件あたりのお布施の額を上げてみたりと、現状維持のための方策がむしろ、長期的に将来的な寺院離れにつながらないかと危惧しているところです。
寺院側から檀家への対価としては、死者に対する納得と宗教的な安堵感を与えることでしょうから、金銭の問題はそれを阻害する最も大きな原因になりうると思っています。

岩手の正法寺住職の盛田正孝老師は、以前ある研修会でこんな話をされました。
和尚にとって「読む・書く・話す」がキチンとできればそれほど問題にはならない、と。
「読む」は、お経の読み方で、聞いて心が洗われるような、ありがたいと感じるお経が読めているか。
「書く」は、塔婆や位牌を、拝む対象としてキチンと書いているか。
「話す」は、法話として、納得されるようなお話ができているか。
この三つのどれかではなく、三つがキチンとできているかが和尚としての条件だということでした。
葬儀や法事を勤めるときは、まさにこの三つが試されるときでもあり、最大の布教の場であると言えます。
まずお経。亡くなった方を称え、慰労と感謝の心を込めて読経することで、遺族に安心感を与えることができるでしょう。歌と同じく声を鍛えて心に響かせなければなりません。
そして書く。位牌や塔婆は仏として掌を合わす対象ですから、拝みたくなるような字でなければなりません。キチンと丁寧に書く必要があります。
最後に話す。普段仏教に関心がない人でも、家族が亡くなった時には、和尚の話も聞いてみようと思うもの。その期待に応えて、心に染みる話を分かりやすく話さなければなりません。

住職の使命は檀家を自分の信者にすることです。
その場として、葬儀や法事は最大の機会です。
それなのに、聞きづらいお経を読み、幼稚な字を書き、何の話もしないで場を離れるようでは、せっかくの機会をみすみす無駄にすることになるし、あまつさえ、お布施の金額で信頼を失うようなことでは、実にもったいないことです。
逆宣伝というか、逆布教と言わざるを得ません。

人口減少は和尚一人では何ともしがたいことですが、それに輪をかけるように自ら檀家離れに拍車をかけるようなことでは、長年続いてきた寺院の歴史に傷をつけ、歴代の住職方の努力を踏みにじることになります。
三つのうちで自分が不得意だと思うものがあれば、頑張って身につけるように努力すればいいだけです。
世の中のプロと呼ばれる人々で不断の研鑽と努力を重ねていない人はいないでしょう。
和尚も僧職としてのプロならば、日々努力することは当然の責務です。
数百年の歴史を踏まえて数百年の未来を見据えるならば、今和尚がすべきことは和尚らしく生きること、それ以外にありません。
読む、書く、話すを基本として、更に朝課・坐禅を行じていれば自信にもなるし、お経の鍛錬にもなります。
作務は禅寺のお家芸。いつ行ってもきれいな境内伽藍は雄弁な布教です。
何もできないというならば、せめて頭をきれいに剃り上げることはできるでしょう。
僧職のプロ意識と覚悟をもって生きる姿こそ、未来に続く布教であり檀家減少の方策と考えます。
目先の私的なことで檀家を離れさせるようなことがあってはなりません。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『走』。


1.風向きは変わり続けている  掌は返り続けている
ひと時の追い風も  ひと時の逆風も  旗色に従っている
約束は変わり続けている  審判は変わり続けている
昔からのルールも  出来たてのルールも  利害に従っている
  君も変わってしまうのだろうか
  君も忘れてしまうのだろうか
  迎える声は風の中  ゴールは吹雪の中
  どこまでもどこまでも荒野は続いている
辿り着けたら誰が居るだろう
力尽きたら誰が知るだろう
報われたなら  その時泣こう  それまでは笑ってゆこう
Yes, My Road, Yes, My Road, 愛だけで走ってゆく
Yes, My Road, Yes, My Road, 愛だけで走ってゆく


2.応援はとうに終わっている  表彰はとうに終わっている
ちぎれ去ったテープも  ゆき交った盃も  伝説に変わっている
恩人は恩返しを待っている  損になるか得になるか数えている
ひときれの優しさも  ひときれの励ましも  見返りを数えている
  僕は迷っているのだろうか
  僕は走っているのだろうか
  約束の船は風の中  はるかな吹雪の中
  どこまでもどこまでも荒野は続いている
辿り着けたら誰が居るだろう
力尽きたら誰が知るだろう
報われたなら  その時泣こう
それまでは笑ってゆこう
Yes, My Road, Yes, My Road, 愛だけで走ってゆく
Yes, My Road, Yes, My Road, 愛だけで走ってゆく
Yes, My Road, Yes, My Road, 愛だけで走ってゆく


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
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三ちゃんのサンデーサンサンラジオ171

2018年08月12日 04時35分55秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

8月12日、日曜日です。

先日は豪雨のニュースが全国的に流れ、方々から心配のお伺いをいただきました。
国道や県道、町道、農道などが土砂崩れ、冠水によって通行止めとなり、避難指示が出て、床上床下浸水が数件、温泉の水上がり、田畑の冠水、崩壊などありましたが、それでも記録的な短時間豪雨という割には他地区のような甚大な被害にはならなかったようです。
「ここは災害がなくていいね」というのが挨拶のような町でしたが、そんな所はこの国にはないのだと思い知らされたことでした。
ご心配いただいた皆様、ありがとうございました。

雨が降れば雨を恨み、降らなければ太陽を恨み、自分の環境、地域の問題、町や国の批判など、文句ばっかり言って暮らす人がいます。
口から出てくるのは、愚痴ばかり。
愚痴は相手をつまらなくし笑顔を失うので、聞いていて全くおもしろくありません。
愚痴は、相手もそして自分をもマイナスに引き込んでしまいます。
なにがその人をそうさせるのでしょうか。
その一つは、今を生きていないことにあると思います。
過去にとらわれて今を嘆いたり、未来を心配して悲観したり、今の自分を生きていないからです。
もう一つは、他人と比較するからでしょう。
誰かと比べて自分が低く見えたり足りないと思ったりして腹を立ててしまうのです。
「自分の今」だけを見つめて、今何がベストなのかを徹底的に考えれば、過去にとらわれたり未来に迷ったり、誰かと比べたりの苦しみを感じることはないでしょう。
みんなが貧乏で大変な時には貧乏はさほどの苦しみではありません。自分だけが貧乏に取り残されると思うことが苦しみなのです。比べるところから感じる苦しみです。
もちろん生活の大変さはあります。しかし、その上に比べることでの苦しさまで味わう必要はありません。

小さく古い家に住んでいたとします。
そこで生活をする中で、少しでも快適に過ごせるように、家の中をきれいに掃除をして、今あるものを使って小奇麗に飾り付けをしてみたり、「今を楽しむ」工夫をしている人がいます。
同じように、自分の住む環境、町を、今ある中でどのように快適に楽しく過ごせるかを考え、少しずつ改善していくことはできるはずです。
家が小さくて古いことを嘆いてみたり愚痴を言ってみたりしたところで何の喜びも得られません。
豪邸に住みながら、埃だらけで物置のような中で暮らしている人もいます。
快適な暮らしと楽しい生活は自ら作っていく以外にありません。
ああ、ごみの中の方が快適な人はそのままどうぞ。

今の足下を見つめ、その中でできること、その中で感じる喜びを、一つずつ工夫することに専念していきましょう。
現状から目をそらし紛らわすために享楽に耽ったり、一攫千金をねらってギャンブルに走ったりするのは向かっている方向が逆行していると言わざるを得ません。
足下の、一歩ずつを着実に改善していけば、やがてそれなりの結果が出るだろうし、周囲からも認められ状況は好転していくに違いないと思います。
結果を求めて今を我慢するのではなく、今そのものを楽しみにする生き方をするということです。
たとえ理想とするような結果にならなくても、今を見つめて生きた行為は、自らを認め自ら納得できる生き方になるはずです。
一歩一歩が手段ではなく、一歩一歩を目的とする歩き方、「自分の今」を生きることが禅的な生き方と言えます。
生きていることそのものを、楽しもうじゃありませんか。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『サメの歌』。


1.よしましょうよ
昔のことを飾ってる間に  短気な今が過ぎてゆく
よしましょうよ
昔の傷を気取ってる間に  身軽な今が過ぎてゆく
可笑(おか)しいことに  なまものは後ろへ進めない
なりふりを構いもせず  前(さき)へ向くように出来ている
サメよ  サメよ  落とし物の多い人生だけど


2.よしましょうよ
手柄(てがら)話を繕(つくろ)う暇(ひま)に  あこぎな今が過ぎてゆく
よしましょうよ
ほつれた過去を繕う暇に  浮気な今が過ぎてゆく
哀しいことに  なまものは後ろへ進めない
いまさらと笑いながら  後悔にさいなまれてる
サメよ  サメよ  忘れ物の多い人生だけど


3.可笑(おか)しいことに  なまものは後ろへ進めない
なりふりを構いもせず  前(さき)へ向くように出来ている
サメよ  サメよ  落とし物の多い人生だけど


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
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三ちゃんのサンデーサンサンラジオ170

2018年08月03日 14時12分15秒 | サンサンラジオ
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8月5日、日曜日です。

もう8月です。お盆ですよ。
こんなに暑いのにどうしようかとうんざりしているお坊さん方も多いと思います。
最上は涼しいですよ。避暑にいらっしゃい。
松林寺は相変わらず静かです。もう、3か月静かです。
お盆の間も割と楽にこなせそうです。

先日、朝坐っている時にこんな言葉が浮かんできました。
「金数えてる間に人生過ぎてしまうのは実にもったいない 金は生きるための道具であり目的じゃない」
お金は誰が発明したのでしょうか。
それまでは、必要なものを交換し合う、労働も含めていわば物々交換だったでしょう。
その後、利便性のために貝殻や金属が共通価値として物品やり取りの対価となりました。
更にその後、金銀を持っているのは盗難の危険があるので、それを預けてその証書で貨幣の代わりとしました。これが紙幣の始まりだということです。
おそらくその頃から、お金は必要なものを手に入れるための道具ではなく、お金そのものが目的化したのではないかと思われます。
持ち運びにも便利だし、いくらあっても邪魔にならないし、欲望を満たし膨らませるのには絶好の道具であったと思います。
道具が目的に変わった時から人間の価値も変わり始めたのかもしれません。

LGBT「生産性ない」発言が問題視されています。
「生産性」を言われるとお坊さんは首をすくめたくなります。
もともと出家というのは、社会から飛び出し自ら生産性を放棄した人のことです。
お釈迦様の時代から、人の施しを受けて生きてきました。
アジアの上座部仏教のお坊さんたちは、今も朝の托鉢によっていただいたもので命を支えています。
経済活動から離れたところからモノ言える人だとも言えます。
生産しないことで見えるもの、言えること、与えられるもの、存在の価値があるからでしょう。
タイのお坊さんには選挙権も被選挙権もありません。
生産性だけで見られたら、お坊さんは「役立たず」と排除されるのでしょうね。

他には、生まれたばかりの赤ん坊はかわいいばかりで生産性はないように思いますが、将来性を期待して必要な存在でしょうか。
すると、弱っていくばかりの老人は全く生産性がないように思われます。
早く排除した方が社会のためだなどと思っている若者もいるのでしょうね。その本人もやがて年をとるのにね。
障碍者の生存を必要ないとの思いで殺戮した事件もありました。
人間を生産性で見る発言が生まれること自体が、人間界の限界を迎えているのかと背筋が寒くなる思いです。
そうか、優生保護法も同じ発想から生まれたものでしょうね。
発言者は、自分は必要な人間、自分は優秀な人間と思っているのですよね。笑止千万な。
あなたには人間を選別するような権限も能力も叡智もありません。
人間の価値など人間に判断できるはずがありませんから。
自分の命さえ自分のものではないのに、他人の命に価値を付けるなどということができるはずないでしょう。
分かってますよ。彼の議員が言ったのは人間の価値ではなくLGBTの結婚についての法的な制度だということを。
しかし、「生産性」という価値判断で人を見ていることには間違いなく、それが今の社会の流れに思えてくるところが恐ろしいところです。
法的な制度に生産性という物差しを当てれば、高齢者や障碍者などいわゆる弱者を切り捨てる尺度がまかりとることになります。
「こちら側」というように自分を安全圏に置いて、「あちら側」を排除していくような、分断を醸成する傾向に危機感を覚えます。

人間は生産のための道具じゃない。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『異国』。


とめられながらも去る町ならば
ふるさとと呼ばせてもくれるだろう
ふりきることを尊びながら
旅を誘うまつりが聞こえる

二度と来るなと唾を吐く町
私がそこで生きてたことさえ
覚えもないねと町が云うなら
臨終の際にもそこは異国だ

百年してもあたしは死ねない
あたしを埋める場所などないから
百億粒の灰になってもあたし
帰り仕度をしつづける

悪口ひとつも自慢のように
ふるさとの話はあたたかい
忘れたふりを装いながらも
靴をぬぐ場所があけてある   ふるさと

しがみつくにも足さえみせない
うらみつくにも袖さえみせない
泣かれるいわれもないと云うなら
あの世も地獄もあたしには 異国だ

町はあたしを死んでも呼ばない
あたしはふるさとの話に入れない
くにはどこかときかれるたびに
まだありませんと   うつむく

百年してもあたしは死ねない
あたしを埋める場所などないから
百億粒の灰になってもあたし
帰り仕度をしつづける


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

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三ちゃんのサンデーサンサンラジオ169

2018年07月28日 09時44分59秒 | サンサンラジオ
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7月29日、日曜日です。

暇だということもあって、柚木裕子の小説を続けて2本読みました。
「孤狼の血」と「盤上の向日葵」。
どちらも話題になった作品ですが、読み応えがありました。
「孤狼の血」は映画化もされました。まだ観ていませんが、かなりのハードボイルドに仕上がっていることでしょう。
「盤上の向日葵」は柚木の一番新しい小説だと思います。
書名の通り、将棋を扱ったストーリーです。
山形在住の作家ということもあって、テレビ・新聞で大きく取り上げられていました。
二人の将棋指しの最後の勝負が初歩的な反則負けで決まるのですが、小説自体もスッキリ勝負がついた感じがなく、モヤモヤ感が残るラストでした。
それは、将棋の勝負にかけて意図的に「反則負け」のようなストーリーにしたのかどうかは分かりません。
いずれにせよ、「孤狼の血」のような仕掛けもなく、最後にアッと驚くような結末とはなりませんでした。
しかし、息もつかせずに読ませる話の展開の仕方はすごいと思います。
「ページをめくる手が止まらない」という帯のタイトルそのものだと思いました。
かなりの長編ですが、二冊とも一気に読んでしまいました。
しかし小説家というのはすごいですね。
警察内部の事情、慣習、言葉遣い、警察ならまだいいとして、ヤクザ社会の事情まで文字にするのですから、どれほどの資料を読み漁るのだろうかと感心します。
将棋にしても、生半可な取材ではリアリティがなく、その業界の人を納得させることはできないでしょう。
それぞれの社会への踏み込みの深さに驚嘆させられました。
小説家は凄い!
1人の作家に取り掛かると連続して手に取ってしまうのですが、次は「検事の本懐」をめくっています。

今週講演が二つ入っています。
30日に、曹洞宗東北管区教化センターの「教化フォーラム」が仙台であり、5回連続の第1回目が始まります。
タイトルは「生きるための修証義」です。
連続講座にしたいというセンターの意向で修証義になったのですが、きっちりまとまった形で修証義に取り組んだことはこれまでなかったので、始めるにあってはかなりの準備が必要でした。
いくつかの解説本や資料に当たり、どのように説いていくかを考えました。
大学の講義ではないので、文言の説明や解説にとらわれず、「現代社会で生きていくために修証義をどう読むか」という視点で話を進めたいと思っています。
もう一つは8月1日、「宮城県第3教区夏期大学」という講演会で、昨年に引き続いての2回目になります。
こちらは2年連続なので、昨年の話から引き継いでの内容となります。
どちらもずいぶん前から準備してきて、ひと段落が付いたので小説に手を出したというわけです。
でもなあ。
小説にも影響されやすい性格なので、講演の口調がヤクザ言葉にならないか心配です。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『萩野原』。


なつかしい野原で遊んでる夢を見ました
何がそんなにおかしいのか 笑っていました
風の吹く野原で 髪が舞い上がっても
笑いながら走ってゆく後ろ姿
振り返ると いつのまにか後ろ姿
振り返ると あの人に変わっていって
招くように急がすように笑って 消えました

萩の咲く野原は行ったことがないのに
白く揺れる野原は まるで波のようでした
その中で私はあの人を呼んでいました
思い出せば 昔一輪もらいましたね
目をさますと 暗い部屋で泣いています
知らぬ人の腕の中で泣いています
思い出せるあの人は いつも少年です

なつかしい野原は今もあるのでしょうか
いつか私が帰ってゆく白い野原は
その中に私は 住むことができるでしょうか
何も起きない頃のように 笑うでしょうか
目をさますと 暗い部屋で泣いています
知らぬ人の腕の中で泣いています
思い出せるあの人だけは いつも少年です


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
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三ちゃんのサンデーサンサンラジオ168

2018年07月22日 05時06分43秒 | サンサンラジオ
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7月21日、日曜日です。

上山の温泉に来ています。
昨晩は、家内の還暦祝いと娘と孫の誕生日祝いで家族全員集合の一泊でした。
10人中3人が7月の中旬に誕生しています。
孫二人が生まれて娘が結婚してから、母親も含めての全員集合は初めてのことになります。
お蔭で賑やかで楽しい一夜を過ごしました。豪雨災害の被災地の皆様には申し訳ない気持ちです。

いやあー、こんなことがあるものです。
実は今月、先週の土曜日14日から明後日の24日火曜日まで、寺の用事が全くありません。
法事も葬儀も何ひとつ入らず、予定表が真っ白です。
2週続けて土日に予定が入らない経験は今までなかったと思います。
5年ほど過去の予定表を遡って見ましたが、7月の予定表に無地の日は一日もありませんでした。
どうしたことでしょう。
葬儀も二カ月以上ありませんが、法事、寺参りまで皆無というのは今まで経験のないことです。
私は楽だし、しなければならない法話の原稿が進むしいいのですが、生活をキリモリする主婦にとってはなかなか厳しい状況のようです。
しかし、こればかりは営業ができるわけでもありませんし、「待つ」以外にしようがない仕事です。
「お父さん、働いて」と言われても、働く意思がないわけではないのです。
考えてみると、住職は、檀家に養われているということになるのだなあという実感です。
今後少子化で過疎が進み、絶家になる家が次々出てくるだろうことがはっきりしている田舎の町は、当然お寺の収入も減ってくることは明らかで、お寺の生活はそれに見合ったものにしなければならないということだけのことです。
お寺に見切りをつけて、生活の拠点を他所に移すということが簡単にできるものでもありません。
だいたいにして、住職家の生活のために檀家があるわけではないのですから、何が先か何が後かをしっかり考えなければなりません。
ニワトリが先か卵が先かなど、そんなのはニワトリが先に決まっています。
檀家というか、衆生にとって必要があれば住職がそこにいるのでしょうし、必要がなければいなくなるでしょう。お寺だって必要がなければなくなっていく運命です。
住職は、ただ自分の務めを黙々と務めていく以外に考える必要はありません。

とは言いながら、実際は寺に住職だけが住んでいるわけではなく、家族があり、子どもの教育や介護と、一般と変わらない生活があるわけで、本来のあるべきようにはいかないのが現実です。
半僧半俗の、自らに折り合いをつけながら生きていくしかありません。

それから、このたまたま暇な時期に浴室の改修をやりました。もちろん工事は大工さんが請け負ったのですが、目地のコーキングとペンキ塗りの状態が気に入らず、自分で修正を試みました。
楽しかったあ。クリエイティブな作業の何と楽しいことか。
やはり、お坊さんでなかったら建築業界で働きたかったと思ったことでした。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『浅い眠り』。


忘れないと誓ったあの日の夏は遠く
寄せて返す波にもあの日の風はいない
ああ二人で点したあの部屋のキャンドルは
光あふれる時代の中で
どこへはかなく消えていったのか
恋しさを聞かせてよ
惜しみなく聞かせてよ
他人じゃないなら なおさら なおさら
 浅い眠りにさすらいながら
 街はほんとは愛を呼んでいる
 浅い眠りにさすらいながら
 街はほんとは愛を呼んでいる

風の中にふるえて瞬く星のように
あやまちかもしれないと哀しく迷っていた
ああ二人気づかない 失ってみるまでは
誰が一番ほしい人なのか
何が一番つらいことなのか
恋しさはこわれもの
せつなさはこわれもの
他人じゃないなら なおさら なおさら
 浅い眠りにさすらいながら
 街はほんとは愛を呼んでいる
 浅い眠りにさすらいながら
 街はほんとは愛を呼んでいる
 浅い眠りにさすらいながら
 街はほんとは愛を呼んでいる


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
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