なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ440 白駒の隙

2023年10月29日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第440回。令和5年10月29日、日曜日。

先週と今週の土日、2週続けて河北町の寺院の晋山結制退董式です。
先住地という関係でどちらも随喜させていただきます。
先週の清龍寺さんは法要解説という配役だったので、2日間フル出動でした。
日曜日の夕方、清龍寺さんが終わってから上京、5日間の缶詰め状態で布教師養成所でした。
今回も、布教師を目指す若き僧たちに強烈な刺激を受けて濃密な時間を過ごしました。
普段緩やかに活動する脳みそを、休みなく全速力で活動させなければならない5日間はある意味苦行です。
しかし、疲れた脳に意外にも爽やかさが残っているから不思議です。
春と秋だけがあればいいなどと甘えた脳みそも、時折酷使することで再活動を始めるのでしょうか。
休火山が刺激を受けて再びマグマを燃やすような感じですかね。
もう少しで噴火しそうですが、おそらく、ポッと一瞬噴煙を上げただけですぐ眠りに入ってしまうと思われます。
せめて死火山にならないように、時折は刺激を与えていかないといけません。
今日はこれから永昌寺さんの法要です。
今度は、法要解説を息子が務めるらしく、私はほとんど座っていればいいという配役なので、かっこよく座ってみたいと思います。

不思議なことがありました。
毎日このブログの訪問者数、閲覧ページ数が表示されるのですが、毎週ほとんどが日曜日にドンと増えて土曜日まで徐々に下降していくという傾向です。
それはそうです、こうやって毎週日曜日の朝にUPしているのですから、気にかけていてくれる人は日曜日に訪問してくれるものでしょう。
そして、その数もほぼ一定していて、日曜日の訪問者がだいたい160から190人ぐらいで推移してきていました。
ところが先週の日曜日、その数がなんと410人に跳ね上がっていたのです。
どうしたのでしょう。
さらに驚いたのは次の月曜日、目を疑いました。なんと643人。さらに増えているのです。
え、何があったの?急に。こんな数見たことない。その理由がわからないので少し気味悪くなりました。
布教師養成所で、所員から「いつもブログ読んでいます」と言われてうれしかったのですが、その何人かが読んでくれたとしても急に4倍5倍に増えるわけではないでしょう。
有名な誰かがシェアしてくれたりするとドンと跳ね上がることはありますが、そのような情報もありませんし、その時でもこんな数にはなりませんでした。
こちら側で変化があったことと言えば、「タイトルアイデア室」というカテゴリーを新設したことぐらいです。
それが理由でしょうか。それがそんなに集客に影響するものでしょうか。
不思議です。
誰か理由が分かる人がいたら教えて欲しいです。
まー、おそらく来週にはいつも通りの数に戻るのだと思いますが。

留守している間に山に雪が降り、銀杏の実が落ち始めました。
秋を味わういとまもなく、冬に突入してしまったでしょうか。
扇風機を仕舞ってからストーブを出すまでに1か月もありませんでした。
「秋の陽はつるべ落とし」と言ったりしますが、秋そのものが「白駒(はっく)の隙(げき)を過ぐるが如し」白い馬が走り過ぎるのを壁の隙間から見るようなもの、あっという間の人生をたとえた言葉ですが、この秋がまさにこれでした。
今、人生の秋を過ごしている者にとっては焦りを感じます。
この秋を、ゆっくりのんびり、足を長く伸ばして過ごしたいのに、もう目の前に閻魔大王の姿が見え隠れしてきたような感じです。
今回の養成所で学んだお釈迦様の言葉をまとめた「ウダーナヴァルガ(感興のことば)」に次の一句がありました。

熟した果実がいつも落ちるおそれがあるように、生まれた人はいつでも死ぬおそれがある(第1章11)

熟した果実はいつでも落ちる。熟していなくても風が吹けば落ちる。

冬よ、もう少しゆっくり来ておくれ。
雪よ、風よ、もう少し待っておくれ。
葉が落ちて景色がよく見えるようになった。
色づいた山や、刈り取られた田んぼ、子どもたちが遊ぶのを
もう少し眺めていたいんだ。
ぶらぶらとぶら下がって
この実も、もう少し甘くなるから。
もう少しでいい、もう少しで。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。




サンデーサンライズ439 無礼なる妻

2023年10月22日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第439回。令和5年10月22日、日曜日。

暴力の連鎖がこれ以上広がらないことを切に祈ります。
それぞれの紛争には、それぞれに当事者の都合、歴史的、地域的、民族的、経済的、政治的な、そしてタイミングがあるのでしょう。
それは当事者以外に分からない事情かもしれません。
どんな事情があるにしろ、暴力によって他を傷つける行為が許されるわけではありません。
暴力は暴力の連鎖を生み、江戸時代の火事のようにあちこちに飛び火して収拾がつかなくなる状況に陥ることを危惧します。
いくら「落ち着いて」「冷静に」と呼びかけても、一度火がついた民衆の心を鎮めることはそうたやすくはないでしょう。
アフガニスタン・ミャンマーの軍事クーデター、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとハマスの戦闘、力によって相手をねじ伏せようとする行動には必ず抵抗があり、報讐が報讐を生み際限なく続いてしまいます。
そんな状況に仏教は何ができるのかを考えると、無力感を覚えます。
仏教の唱える平和は、あくまで一人ひとりの心に呼びかけるもので、枠組みとしての平和ではありません。
力による解決を否定するとは言っても、今現に紛争の中にある人々に武器を置くことを説くことは至難の業と思われます。
だからと言って、仏教的平和を希求することをあきらめたり、周囲の流れに乗って戦争もやむなしなどと賛成論に回ったり、自分をごまかすことがあってはなりません。
まず自ら常に頭を軽くして、逃げず、目を背けず、正しく見、正しく聞いて、正しい判断をしていかなければなりません。

このブログの管理画面に、ページ毎の閲覧数というのが表示されるのですが、時折、記憶に薄いタイトルがあり、何を書いたのだろうと読んでみることがあります。
そして、へえ、そんなこと書いたんだ、なかなかいいこと書いているじゃないかと自分で感心したりします。
先日読み返した次の記事もその一つです。

タイトル『橋本夢道』(2009年1月20日 カテゴリー「今日のありがとう」)

朝のNHK連続テレビ小説をBS2でご覧の方も多いことだろう。実は私もその一人。その後の番組も続けてご覧の方も多いのでは・・・。

以前は四国八十八ヵ所巡礼のプログラムだったが、最近は『私の一冊、日本の百冊』という番組になっている。ついつい見ているうちに興味が湧いてきて、こちらも連続してみている。

各界の著名な人々が、それぞれ「自分の一冊」を紹介していくという内容だ。本との出会いも人との出会いのように、人生にとって大きな転換をもたらすことがある。自分も読んで感銘を受けた本の紹介がされたりすると「うん、うん」と共感しながら見ている。また、まだ読んでいない本には読んでみたい衝動に駆られる。

先日の放送で紹介されたのは、俳人金子兜太さんが選んだ「橋本夢道句集『無禮なる妻』」だった。

この番組ではじめて橋本夢道という人を知ったのだが、夢道は戦中戦後の貧しい時代を生きた俳人で、心から戦争を憎み嫌い、いわれなき投獄という目に遭いながら、貧しさの中で必死に生き、妻を愛し、貧しさを笑い飛ばすような自由律の俳句をよんだ人だ。

その中で紹介された一句。

  世の中や 金も欲しいが 一度大声で 笑いたい

確かに生きるのにお金は必要だ。それは、生きるのに必要なのであって、それ以上のものではないはず。しかし、どこまでが必要な分なのかが不明瞭となり、その範囲がとてつもなく大きく広がり、際限なく求め続けてしまった結果、かえって苦しみを増しているのが現代社会なのだろう。

大声で笑い飛ばしてしまえるぐらいの範囲で止めておかないと、生きていて決して楽しくない人生になってしまう。大声で笑っても腹がふくれるわけでもないどころか、かえって減ってしまうだろう。だけど、腹が減っても楽しく生きられる方がいい。

  無礼なる妻よ 毎日 馬鹿げたものを食わしむ

  妻よ おまえはなぜ こんなにかわいんだろうね

誰も貧乏が怖い訳じゃない。みんなが貧乏であれば何も怖くない。みんなが腹一杯食べているのに自分だけ食べられないという孤独感と、どんどん離れていって取り残されるという社会の格差が怖いのだ。

貧乏であることを笑ってしまえるようになれたらいいね。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

因みに、カテゴリーを新設しました。「タイトルアイデア室」。
ある明け方、まどろいの中で、連想ゲームのような流れで「恋の裁ちばさみ」というフレーズが浮かんできました。
これは少女漫画のタイトルになるのではないか、もてないと思っていながら惚れやすいファッションデザイナーが、恋に破れる度奇想天外なファッションを思いつく。キーワードは大きな裁ちばさみをふるう「シャキーン!」。
自分の思いを裁ち切る裁ちばさみ。
前後裁断。過去も未来も裁ち切って今を生きる。
そんな内容のタイトルにいいんじゃないか。
そう言えば、これまでもそんな思いつきのアイデアがいくつかあったなと、カテゴリーにしてみました。

タイトルアイデア室 忘れ米

2023年10月19日 07時22分12秒 | タイトルアイデア室
アイデア5

期日 2016年2月

タイトル 『忘れ米(まい)』

ジャンル 東日本大震災支援プロジェクト

主旨 同級生の農家が、震災を忘れないために何ができるかを考えた。
   農家である自分ができることとして、米を使ったものはないか。
   3.11に因み311ℊ入りの米を311袋作り、それを食べてもらって思い出してもらう。
   そういうアイデアの相談を受けて、タイトルを付けた。

タイトルアイデア室 漁師のハンモック

2023年10月19日 07時15分20秒 | タイトルアイデア室
アイデア4

期日 2011年7月

タイトル 『漁師のハンモック』

ジャンル 東日本大震災支援プロジェクト

主旨 津波で漁船を流された漁師が、網を編む技術を使ってハンモックを試作。
   その広報と販売を担当。
   プロジェクト名を『漁師のハンモック』として広報すると大きな反響を呼んだ。
   結果として1000枚のハンモックを販売した。 

タイトルアイデア室 恋の裁ちばさみ

2023年10月17日 04時46分19秒 | タイトルアイデア室
アイデア3

期日 2023年10月17日

タイトル 『恋の裁ちばさみ』

ジャンル 少女漫画タイトル

主人公 自分はもてないと思っている服飾デザイナー
    独身、メガネ
    惚れやすく、すぐに妄想の世界に入っていく
    妄想が消えた時、その喪失感を製作のエネルギーに替えて奇想天外な作品を作り上げる

キーワード 大裁ちばさみ「シャキーン!」
      それは自身の心を裁ち切る転換の儀式
      前後裁断
      今を生きる

このアイデア差し上げます。

タイトルアイデア室 百楽

2023年10月17日 04時38分41秒 | タイトルアイデア室
アイデア2

タイトル 『百楽』

期日 2020年7月

ジャンル 日本酒の銘柄

主旨 古来より「酒は百薬の長」と云う
   適量の酒は、どんな薬よりも勝れている、という意味
   効能的な意味の前に、酒はたくさんの「楽」をもたらす
   一日の疲れを癒す、心を開放する、友を連れてくる、夢を語る、歌が出る
   その中心に酒がある
   酒は百楽の長

タイトルアイデア室 まけない!タオル

2023年10月17日 04時29分51秒 | タイトルアイデア室
アイデア1

タイトル 『まけない!タオル』

期日 2011年4月3日

ジャンル タオルデザイン

デザイン 青地に白抜きの文字『まけない!』
     青い空に白い雲

主旨 東日本大震災支援
   首にも頭にも巻けない短いサイズのタオル
   震災に負けない
   人はおかしいから笑うだけではない、笑うことでポジティブになれる
   クスッと笑えるユーモアがあれば
   青い空は、被災地もそれ以外もつながっている
   空に浮かぶ白い雲を希望として共に目指していく


サンデーサンライズ438 一周忌の母

2023年10月15日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第438回。令和5年10月15日、日曜日。

12日は母の命日でした。
亡くなってしまうと本当に早いですね。
1周忌法要は、家族の都合に合わせて9日に勤めました。
本寺様に導師をお願いし、家族、親戚に集まってもらい懇ろに勤めることができました。
母が亡くなるのと相前後してひ孫が3人産まれ計6人になり、全員参列できました。
会席もとても賑やかで、その様子を見て母は、きっと目を細めて喜んでくれていたと感じました。

あれは本当に突然のことでした。
お盆前、出産のために長女が里帰りしてきて、間もなく次女も出産里帰りの予定でしたので、お盆もあるから大変だということで、寝たきりの母を施設にお願いすることになりました。
ひ孫の顔を見るのを楽しみに、孫に見送られ手を振って入所したのでした。
8月末、長女が無事に出産し、退院して顔を見せにいく予定をしていました。
ところが、ちょうどその時、施設内でコロナ感染が発生し、面会ができなくなりました。
9月中旬に次女の子どもも生まれ、面会できる日を待っていました。
10月12日午後、施設から電話がありました。
「具合が悪くなって病院に運んだのですぐに来てください」と。
病院に駆け付けると、緊急治療室前で施設の職員とケアマネジャーが沈痛な顔をして待っていました。
「午後の見回りをしたときに呼吸をしていなくて、すぐにここに運んだ。今心臓マッサージをしている」とのことでした。
「心臓マッサージ」と聞いて、心肺停止になったんだと悟りました。
以前肺炎に罹って入院したときに、「ひどくなると呼吸が止まることがある、その時に心臓マッサージを施すかどうかを事前に聞いておきたい、施せばこの年齢だから肋骨は折れるし、肺炎が悪化しているので呼吸が戻っても回復することは難しい」と判断を求められ、「しなくても結構です」と答えていたのでした。
それが今、同意もなく蘇生をしているということは緊急のことであり、最後の手段なのだろうと理解できました。
間もなく医師が顔を見せ、「20分蘇生を試みましたが未だ呼吸は戻りません、これ以上続けても回復の可能性は低く、たとえ回復したとしても元の状態に戻ることはないと思われます。処置を終わらせてもいいでしょうか」という、家族へ同意を求めるというか、最期の通告でした。
長男として、その判断の責任は自分が負わなければならないことであることは納得できます。
「はい」という一言が母の命の停止ボタンを押すことになりますが、それ以外の選択肢がないことも分かりました。
電話をもらってから15分ほどの出来事です。
施設の職員は深々と頭を下げ謝罪を口にしました。
しかし、おそらくは昼ご飯を食べ、昼寝をしたまま逝ったのでしょうから、誰の責任でもありません。
もう少し早く気がついていたとしても、眠りから揺り起こされて機嫌が悪くなったかもしれません。
きれいな顔をしていたので、昼寝のままの旅立ちだったのだろうと受け止めました。

思えばその2週間ほど前に、大変良くしてくれたケアマネさんから電話があったのです。
「施設に様子を見に行くと、非常に調子が良くてとてもよくしゃべるので、話をしてもらおうと電話しました」。
カミさんと出産したばかりの娘が電話に出ました。
生まれたひ孫の名前が「照(てる)」だと聞いて、「じいさん(義照)の名前つけだのか、うまくつけだな」と喜んだと。
あの時は何だったのでしょうか。
ここ半年ほどは言葉を発することもほとんどなく、表情を作ることも難しくなってきていました。寝たきりの介護ベッドから車椅子に移し、食事を口に運んでもその途中に寝てしまうこともしばしばで、脳の萎縮が進行していることは明らかでした。
それが、突然スイッチでも入ったように脳が活性することもあるのですね。ひ孫のパワーだったかもしれません。
そんな思い出を遺し母は、あっけなく逝ってしまいました。
集まってくれたみんなの心に温かいものを遺してくれたことは間違いありません。
葬儀に会葬くださった方がその時のことを詠まれた短歌が山形新聞の文芸欄に載りました。

 最高の母と述べたる喪主の謝辞 小春日和の葬静かに終わる(結城伸子)

このブログの場で身内のことを語るのは控えたいと思っていますが2週続けてそのようなことになってしまいました。
個人的なことで相済みません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンデーサンライズ437 十和田湖は

2023年10月08日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第437回。令和5年10月8日、日曜日。

10月に入り急に冷え込んできました。
春秋がなくなり冬と夏の二季になるなどという予測をする人もいますが、このように暑さから一気に寒さに転じたりすると本当にそうなるのではないかと恐ろしさを感じます。
四季のある日本がこの国らしい情緒や文化、習慣を培ってきたのは間違いなく、あいまいともとれる態度や表現も四季の移ろいから生まれた性質なのでしょう。
暑さと寒さだけの激烈な表現はこの国らしくないと思います。
私のような春と秋だけあればいいと思う人間には真に残酷な予想と言わねばなりません。本当に。

3日火曜日から5日木曜日まで、八幡平と十和田湖に遊んできました。
7月に布教巡回で秋田を回った時、小坂町のお寺で八幡平のふけの湯の女将に出会い、話の中で、「牧野富太郎が泊まったことがある、その時に山の食材を供したところ、様々な食材にそれぞれの名前があるが総称はないと言うと、『山菜』と名付けたらどうかと言ってくれた、『山菜』の名付け親は牧野博士なのだ」というような話を聞いて行ってみたくなったのでした。
「蒸(ふけ)の湯」は、八幡平の山懐にある一軒宿で、野天風呂が有名な温泉場でした。
ちょうど着いた時、湯めぐりツアーなのか観光バスからぞろぞろと客が降りたところでした。添乗員が「ここから3日間は貴金属を奥にしまっておいてください、4時出発でーす」などと呼びかけていました。
確かに、野天の湯に行ってみると、恐山のようにあちこちでブクブクと温泉が噴き出て硫黄の匂いが立ちこめています。金や銀は黒くなってしまうことでしょう。
硫黄泉は、湯から上がって服を着てからもしばらく硫黄の匂いが立ちのぼって来て、この感じが好きです。
この周辺には、大深温泉、後生掛温泉、玉川温泉、志張温泉など、一軒宿の温泉が多く点在していて、あちこちで同じような光景が見られるようです。次はどこの温泉に行こうかと思いを巡らしました。

次の日、そこから北上して十和田湖へ。
カミさんの十和子という名前の由来でもある十和田湖には一緒に行ってみたいと思っていたところでした。
小坂町の方から十和田湖を目指す途中にある発荷峠は展望の名所で、多くの観光客が訪れるようでした。
ちょうどこの日は風もなく天気も良く穏やかだったので、湖がきれいに見えました。
ねらいは紅葉の八幡平と十和田湖でしたが、今年は暑かったせいか色づきが遅いようで、まだまだ紅葉とは程遠い状態でした。
八幡平アスピーテライン、樹海ラインの道中は樹々の中を進む山道で「これが紅葉だったら」と残念に思いましたが、それでも緑の木漏れ日をいっぱい浴びながらの癒されるドライブでした。
十和田湖ではシンボルの乙女の像を見て遊覧船に乗りました。きれいで静かな湖面はまさに遊覧というにふさわしい時間でした。
その船内アナウンスで「トワダはアイヌ語由来で・・・」と言っていたのを聞きそびれて、帰ってから調べてみると「トー」は湖「ワタラ」が岩というところから来た名とのこと。
十和田湖をこよなく愛した詩人佐藤春夫が「山は富士、湖水は十和田、広い世界に一つづつ」と謳い、湖畔に建つ高村光太郎作の乙女の像の建立にも佐藤春夫が深くかかわっていたと知りました。多くの人が愛した湖であることが頷けます。
この湖は噴火の後にできたカルデラ湖で、どこからも川の流入がなく、湖底から湧き出る湧き水だけなので透明度が高いのだそうです。ここから流れ出る川が奥入瀬渓流となります。
十和子が生まれる頃、その祖母が十和田湖を旅しその美しさを語ったことからその名がつけられたとのこと。よほど美しかったのでしょう。
湖は、その頃のまま今も変わらずきれいでした。

もう一つ楽しみにしていたのは「十和田バラ焼き」。
鉄板の上に敷かれた玉ねぎの上に牛バラ肉が並べられています。特製のタレがかかっていて蒸気が出てきたらよく混ぜて食べてとのこと。
奥入瀬渓流を下ったところにある「上高地」という小さな食堂なのですが、朝鮮半島と思しき会話が店中に充満しています。そのためのメニューも準備されています。焼肉はそちらの国の方が本場でしょうにと思いながら、こんな田舎の小さな店に海を越えてやって来るんだなと、最近のSNSの力に改めて驚きました。

特に周年記念ではありませんでしたが、夫婦の小旅行は穏やかに楽しく過ごせました。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンデーサンライズ436 洗面と洗顔

2023年10月01日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第436回。令和5年10月1日、日曜日。

10月に入りました。
猛暑が長く続いた季節もようやく通常に戻ったようです。
高温障害が心配されましたが、酒米の出来は悪くないようで、今年も旨い酒が仕込めると思います。
最上の地酒「山と水と、」は本当に評判がよくて、秋までもたずに売り切ってしまいました。
次年度増産したいのですが、既に米の量は決まっていて来正月の酒も今年と同じ量になります。
その次の種籾は間もなく申し込みが締め切りとなりますので、どうするか協議することになっています。

9月29日は道元禅師のご命日でした。
瑩山禅師のご命日は旧暦の8月15日で、それを新暦に直すと9月29日になることから、曹洞宗ではこの日を「両祖」の「御征忌(ごしょうき)」と定めています。
道元禅師の教えは、いわば「生活禅」で、日日の生活、生き方を仏の行いにすることで、仏が今ここに現成するという教えです。
その教えを、書物においても、行為においても示され、師匠から弟子師匠から弟子へと代々伝えられてきました。
道元禅師の最も著名な書物は95巻にも及ぶ『正法眼蔵』ですが、その中には、生活そのものの細かな作法についての著述が含まれていて、その代表的なものは「洗面」の巻、「洗浄」の巻です。
文字通り、顔を洗うための意義と作法、お手洗いを使う時の意義と作法が細かく述べられています。
他にも、食事係の心得、食事の作法についても細かに示されていますが、そんな宗教者は他にないということです。
その教えは行為として広く長く伝えられてきました。
「洗面」の巻にはこうあります。
「天竺国・震旦国では皆洗面するが嚼楊枝(歯磨き)をしない。日本国は歯磨きはするけれども洗面はしない。一得一失なり。いま洗面と嚼楊枝ともに護持せん。仏祖の照臨なり。」
道元禅師の鎌倉時代、日本では歯磨きはするけれど顔を洗うことはなかった。一方修行に渡った中国ではみんな顔を洗うけど歯は磨かなかった。
朝の洗面は汚れを洗うのではなく、身心を浄めるのである。身心を浄めるのは国土を浄め仏道を浄めるのである。
身心を浄めてから、天を拝し、父母を拝し、師匠を拝し、三宝を拝するのである。
つまり、日本においてはじめて朝の洗面を習慣にしたのは道元禅師です。
その教えを、瑩山禅師、その弟子たちが代々身をもって実行しこの国の津々浦々に伝えて750年が経ちます。
今、それを始めたのが誰かは知らなくても、この国の人が当たり前の習慣として行っている、そのことがとても素晴らしいことだと思います。

ところが、その洗面の習慣が崩れてきていると感じます。
おそらくは、食後の歯磨きが習慣になって来てから、食べてから歯を磨く、ついでに顔を洗うと変わってきたのだと推測しています。
それは合理的なのでしょう。
しかし、洗面は身心を浄めるのだから、身心を浄めてから仏壇に手を合わせる、身心を浄めてから食事をいただくという順序であり、単に食後の汚れた顔を洗うのではないのです。
食べてから顔を洗うのだったら猫でもやります。
食事をいただく前に身を浄めるのが人間らしい、就中仏教徒の行いと言えましょう。

そんな話を法話でしていましたが、先日それを聞いていた和尚さんが、「最近は『洗面』ではなく『洗顔』と言いますよね。洗面であれば外面も内面も洗うと捉えることができますが、洗顔では単に顔を洗うだけになってしまうのでしょうね」と言われました。
なるほど!確かに。世間では最近、洗面ではなく、洗顔と言っているように思います。
その言葉からは単に顔を洗うという意味しか受け取れません。
洗面の「面」は「つら」で顔のことですが、「内面」心を含んでいる意味にも受け取ることができます。
確かにそうかもしれません。
洗面から洗顔への変換が洗面の意味の喪失にもつながっているのかもしれませんね。

いずれにせよ、道元禅師が伝え、750年続いてきた朝の洗面という行持が、我々の世代で途絶え次代に伝えていけないとしたら、何と情けない、かたじけないことと思います。
行為によって心が伝えられていく、行為によって仏が現れる、行為そのものを仏と呼ぶ、その道元禅師の教えが一つ社会から消えることは、大きな恒星が一つ隕ちるほどの出来事かと思います。
両祖の前に額づき、自らのふがいなさを懺謝しなければなりません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。