なあむ

やどかり和尚の考えたこと

アイヌ語と地名17 歌

2014年03月25日 10時10分13秒 | アイヌ語と地名

宮城県南三陸町、歌津。

東日本大震災で壊滅的な被害があった地です。

「歌」のつく地名は北海道、東北をはじめ、それ以外の地でも見られる地名ですが、その元は砂浜を意味する「オタ」にあるようです。

「オタ」に漢字があてれるときに、「オ」と「ウ」の発音が近いために、「歌」があてられた場合が多いとのことです。

北海道には多く見られ、歌志内、小樽、「石狩挽歌」に歌われたオタモイも砂浜の入江のからの地名のようです。

東北各地にも「歌」は点在し、「歌の沢」は、宮城県作並、福島県会津美里町、秋田県由利本荘市にもあります。

宮城県松島町には「歌の入」、岩手県室根町には「歌戸」、新潟県糸魚川市には「歌」そのものがあります。

北海道、東北以外の地名で「歌」がついている場合、必ずしもアイヌ語系とは言えないかもしれませんが、海岸や川岸などの地名であれば、砂浜である「オタ」語源かもしれません。


アイヌ語と地名16 トヨマ

2014年03月25日 09時33分25秒 | アイヌ語と地名

宮城県気仙沼市に「登米沢(トヨマザワ)」があります。

同じ宮城県に「登米」がありますが、この場合「登米市登米町」は(トメ市トヨマ町)と読みます。

岩手県山田町に「豊間根(トヨマネ)」があり、福島県いわき市には「豊間(トヨマ)」が、青森県五戸町には「豊間内」があります。

そこで、同じような言葉であり、豊間根、豊間内となればアイヌ語系なのではないかと思って気になっていました。

豊間内が豊間根となり、豊間沢は「ナイ(川)」が「沢」に日本語化したものと考えられます。

では「トヨマ」とは何か。見つけました。

山田秀三の『アイヌ語地名の研究1』によれば、「トヨマナイ」は(土・ある・川)で、大体は食用にした目の細かい土のある沢、という意味になるようです。

古代の人々は、ミネラル分補給のために土を食べていたので、良質の土のある沢は珍重されたものと思われます。

それらの土地は後に豊かな収穫の土地ともなり、豊かな漢字があてられてきたものでしょう。

ずっと気になっていた疑問が一つ解決してすっきりしました。


シャンティな世界

2014年03月11日 20時40分22秒 | ふと、考えた

やられたらやり返す。やられる前にやる。やられないように強く見せる。

どれも平和だとは思えません。

真の平和は、力の均衡ではなく、戦う意志がないということでしょう。

こちらに戦う意志がなければ、むやみに攻めてくることはない、と私は思ってます。

古代や近代まではあったでしょう。しかし、現代、未来において攻めるというのは鍔迫り合い(つばぜりあい)ではなく、遠隔兵器です。言わば飛び道具。

徐々に攻めるのではなく一気に殲滅させるでしょう。

しかし、現代の国際社会で無防備な国を攻撃すれば、他の国から自国が攻められることになるのは明白ですから、自国以外の全ての国を攻撃するようなつもりでなければ成功しないでしょう。

ましてや核兵器などを使用すれば、相手国のみならず自国を含めて全世界が取り返しがつかないことになることも分かっていますから、あれは全く無意味な兵器だといわざるを得ません。

それでも核兵器を持ちたくなるのは、攻められないように強いところを見せておきたいという虚勢なのだと思います。あるいは怖がらせて何か奪いたいのか。チンピラか。

この国も、いつでも核兵器を作れるように原発を動かして技術者を確保しておく、というのが原発問題の根底にあるようですね。

危険な国だと認識されれば、他の国に攻撃をする口実を与えてしまうことになるかもしれません。

繰り返し、平和は力の均衡によって保たれる状態をいうのではなく、お互いに戦わない意志を信じ合うことだと思います。

理想?そうです理想です。

理想に向かって生きていくのが生きる価値というものでしょう。

相手がある。そうですね。懐に匕首(あいくち)を飲んで笑顔を見せても見透かされるでしょう。

徹底した非暴力、非戦の意志をまず自らが持つことから始めるべきだと考えます。

甘いですか?でも、

戦争をしたいと思う人だけが戦争を語るのです。

ああ、いつからこの国は戦争を語る人が増えたのか。

「シャンティ」、サンスクリット語で、「平和」を意味しますが、それは他との関係においての平和というよりも、自らの心の中の平和、静けさを意味します。

自らの心の静けさをもってこの世界を平和な世界にしていく、というのが仏教的なアプローチと言えます。

シャンティな人が増えることを望みます。

そんな世界がきっと来ると信じる人が増えることを望みます。

全ての世界、全ての人々が平和で穏やかに生きられる日が来ると信じて生きます。


富国強兵

2014年03月01日 22時27分09秒 | ふと、考えた

今の政権を言い表すならば「富国強兵」内閣とでも言いたくなるような雰囲気です。

経済成長と共に、強い国を目指す。

それのどこが悪いのか、と言われれば冷笑するしかありませんが。

「強い」という概念は相対的なもので、「弱い」ものを作らなければ強くはなれません。

「国」が強いと言うためには、他の国を弱い存在にしなければなりません。

「どちらも強くてよかったね」とはいかないのが国の問題です。

さて、日本ですが、強いのでしょうか、弱いのでしょうか。どの国より。

強くなりたい、と言う限りは弱いと思っているということでしょうか。どの国より。

アメリカより強いとは思っていないでしょうし。かといってアメリカより強くなりたいとも思っていないのではないでしょうか。

だとすれば対象国は。

オリンピックのメダル数、日本は何番目、どの国と比べましたか。

スポーツの強さならいいですよね。大いにがんばってもらいたい。

周辺国にとって、日本は強い国なのでしょうか、弱い国なのでしょうか。

日本の周辺国は多く過去に日本の支配下にありました。

支配されたのは弱いからで、支配した国は強い国だったのでしょう。

支配した側とされた側、された国民はした国民をどう見ているのでしょうか。

「強い国」は、「怖い国」「恐ろしい国民」と映っても仕方ないことだと思われます。

さらに、過去に支配した側は、された側によってその記憶が喚起され、喧伝や教育によってその行状が未来に引き継がれていきます。

誇張されたり、捏造されたりするようなことであれば、それは事実をはっきりしなければならないと思います。

しかし、支配した側はされた側に対して、あくまでも謙虚であるべきだと思います。

「謙虚」を「自虐」と解釈してはなりません。

いじめを、受ける側の問題としてはいけないように、国も支配した側の問題として考える必要があると思われます。

なのに今の日本は、富国強兵論のイメージを国民に浸透させ、以前の他を支配していた時の感覚を取り戻そうとしているかのような流れに見えます。

「強さ」の主張によって平和を保とうとする考えは、20世紀までの古く間違った考えと気づきたいと思います。

どこの国の民族も、その「人」に会えば、「人間はみな同じ」と実感するに違いありません。カンボジアでもアフガニスタンでもそう思いました。

親、兄弟、家族がいて、同じく赤い血が流れ、傷つけば血が吹き出し、悲しみには胸が張り裂け、体を震わせて涙を流す。全く同じ「人」なのだと気づきます。

なのになぜ「国」という塊になると顔が見えなくなり、人という感覚が鈍り、見下したり、恐れたり、傷つけることにも抵抗を感じなくなってしまうのでしょうか。

中島みゆきは歌います。

「見知らぬ人の痛みも  見知らぬ人の祈りも 気がかりにはならないだろう  見知らぬ人のことならば」

それは、人の顔を見ようとしないからだ、と。

「ならば見知れ」

自ら見ようとしなさい。顔を思い浮かべなさい。想像しなさい。と歌うのです。

富国強兵の心になることを非常に危惧します。

強さよりも謙虚さを望みます。

疑惑よりも信頼を望みます。

冷たさよりも暖かさを望みます。

悲しみよりも楽しさを望みます。

涙よりも笑いを望みます。

軍隊よりも家族を大切に思います。