なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ350 ロングブレス

2022年01月30日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第350回。1月30日、日曜日。

昨日は「お寺カフェin松林寺」として津軽三味線の全国チャンピオン渋谷幸平さんのライブ演奏でした。
主催は最上町ハッピーサポーター推進協議会。
津軽三味線を生で目の前で聴けるのは贅沢なことです。コロナの影響で少人数の20数名で堪能しました。

地酒完成の余韻が、まだ残っています。
祝う会も終わってから新聞の取材が二社入ったりしていました。
ニュースという性格上、新しいことには食いつかなければならない使命なのでしょう。
私の方も、ドクターストップで思いっきり飲めないためによけいにいつまでも尾を引いているような、終わった感じがなくてだらだらしています。
21日の一般発売から5日間で600本が完売となりました。
当初、660㎏の米でできる酒は900本ほどと予測されていましたが、最終的には720mlで1058本できました。
先行予約販売の400本も5日ほどで予約がいっぱいになりましたが、すごい売れ行きだと驚いています。
なぜこんなに売れたのか、分析が難しいところです。
この評価を来年以降にもつなげていきたいと思います。
東京の甥っ子の店に送ったところ、利き酒師と酒diplomaの資格を持っている従業員小林清一氏が酒の評価を送ってくれました。
「吟醸王国山形らしい美味しい純米吟醸酒だったと思います!程よい吟醸香と甘すぎず辛すぎず酸味強すぎずで味のバランス良くて、雑味もなくてキレイな、日本酒初心者もいける飲みやすい、出羽燦々を使った日本酒らしい純米吟醸酒だったんじゃないかと思います!」
と、高評価のプロのお墨付きでした。

少し前に昼のテレビの情報番組で、ロングブレスを紹介したのを観ました。
いわば呼吸法なのですが、ダイエットや腰痛、肩こりにも効果があるということで今注目されているようです。
チラ見した感じでは、吐く息に意識するということのようです。
解説として、鼻から息を吸って口から吐くというのは、外気を鼻から吸うことで鼻腔のすぐ上にある脳を外気で冷やすことになり、口から吐くことで体内の熱を脳にあてずに外に出す、という意味があり、精神を安定させので寝る前にやると安眠の効果があるとのこと。
確かに「冷静」という言葉通り、脳を冷やすことで心を落ち着けることになるように思います。
これは坐禅に使えるなと思いました。
いや、坐禅の呼吸として、同じように鼻から吸って口から吐く、吸うことよりも吐くことに意識して、まず全てを吐き切る、と教えているので、使えるというよりも、改めて試してみようと思ったことです。
実際に坐禅のはじめに、呼吸の際ロングブレスのやり方を意識してみると、意外なことに気づきました。
腹の底の空気まで全て吐き切ろうとすると、背筋が伸びるのです。
腹をへこませようとすると同時に腰を前に突き出すようになるので、その上の背骨も次第に上に伸びて後頭部を突き上げるように意識されるのです。自然、顎が引かれて理想的な坐禅の姿勢になります。
そうか、調身と調息は一つだったんだ、これまで「姿勢が調うと呼吸も調う」と思っていましたが、その逆も言えるんだ、と気づいたことでした。
何だ今さら、これまでどんな坐禅してきたんだと、お師家さんに笑われると思いますが、自分の気づきは自分でしか気づけないのでいいのです。気づけたことに素直にうれしく思います。

「心肺停止」という言い方は、言葉通り心臓と肺の機能が停止したことを指し、ほぼ死亡を意味します。
心臓は、自分の意思で止めたり動かしたり、早くしたり遅くしたりはできませんが、呼吸はある程度できるのですね。
病院の検査で「はい息を大きく吸ってそのまま止める」などと言われればその通りにできます。
「息をひそめる」「息を殺す」などとも言います。
心臓と違って、止めたり動かしたり、大きくしたり小さくしたりができるのが呼吸です。
もちろん限度があります。自分で息を止めて自殺できた人はいません。
自分の意思では抗えない力で心臓は動き呼吸は続けられているのです。
その呼吸を、わずかではあるけれど自分でコントロールすることで、身体と心に変化を与えることができるのだとすれば、試してみたらどうかと思います。

馬頭観音東善院の住職が祝う会の乾杯の音頭で「山高く水長し」の言葉を紹介してくれました。聖人の高い徳が後世まで長く伝わることを例えた言葉ですが、山と水と、にかけてますます発展することを祈ってくれたものです。
「山と水と、」も息長くロングブレスで続けていきたいと願っています。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



サンサンラジオ349 山と水と、完成

2022年01月23日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第348回。1月23日、日曜日。

もう日曜日か。
毎朝の雪かき。
葬儀。
寒行托鉢。
そして、地酒の完成を祝う会、などがあり、今週もあっという間に過ぎてしまいました。
コロナ過の中、祝う会は何とか開催できました。
みんなで乾杯することを夢見てこの日を迎えました。
一昨年7月、「自分たちで地酒を造りたい夢を語る会 準備会」の初会合の呼びかけ文にはこう書きました。

夢に向かって語り合う時、男どもは熱くなり、元気が湧いてくることだろう。
そして、夢が実現し、自らが造った酒で乾杯するときの喜びは、想像するだけで今から胸が張り裂けそうだ。


それが実現したのです。
今までになかったものを生み出す喜び、まさに生みの喜びは苦しみより大きいですね。今回は何の苦しみもありませんでしたが。
その準備をするのも好きです。
みんなが喜び感動する姿を想像しながら準備をしていくのはこの上なく楽しい時間です。
当日は、感染防止で参加制限がかかった人がいたり、除雪作業で都合がつかなかったり、アクシデントがあったり、身内の不幸があったりと、急遽欠席の人もいましたが、50名弱の皆さんが集まりました。
開会あいさつ、祝辞、酒造り経過報告があり、気仙沼の清涼院さんに相撲甚句を歌っていただきました。
その歌詞は私が書きました。
相撲甚句「最上の地酒」 

ハアー ドスコイ ドスコイ
最上の地酒を
甚句によめばヨー
奥羽山脈 分水嶺
水は清らか 山深し
ピュアな水で 育てられ
米は酒米 出羽燦燦
水と米とに 恵まれた
人と夢との 語らいで
最上のパワーが 結集し
完成しました 夢の酒
山紫水明 最上の
その名も「山と水と、」なり
完成披露の お祝いで
ここにおいでの 皆様と
心ゆくまで 盃を
あげてお祝い 致しますヨー
ハアー ドスコイ ドスコイ


そして、銘柄「山と水と、」のラベルの文字を揮毫してくれた東善院住職の音頭で乾杯!
テーマソング三浦賢道君の生歌と作曲者柴田敬君のギター生演奏。
町内のバンドのミニコンサートと続きました。
酒の評価はとても良かったです。
生酒と火入れ酒と2種類あって、好みで分かれますが生の方が旨いという人が多かったです。私も生が旨いと思いました。
本当に水が流れるようにスーッと入っていく旨さです。
経過報告をしてくれた和田酒造の茂樹社長が、「私の蔵でこの味が出たことはない。やはり米と水が違うからですね」と語ってくれました。
これはまさに、地酒誕生の証明のような言葉です。
参加者はみんな幸せそうな顔でその味を堪能していました。
その後、二次会三次会と流れて行ったことは言うまでもありません。

ただ一つ残念だったのは、最上の地酒を創る会の代表、我が同級生の奥山勝明君が、前日母親が亡くなったために出席できなかったことです。
私の次に楽しみにしていて、居たら共に大いに喜びを分かち合っただろうに、残念でした。
彼は松林寺の檀家総代でもあるので、次の日、しっかりお見送りをさせていただきました。
親交の深い俳人の黛まどかさんから生花と弔電が届いていました。

山眠るごとくに眠り給ひけり まどか
山も水も母待つやうに春を待ち まどか


会員から「代表にも飲ませたい」と、祝う会の後、通夜の家に残った酒を届けてくれました。
集まっていた親戚がその酒を味わったようです。口々に旨いと言っていました。
その中の1本が味がうすかったと。
飲んでも飲んでも酒の味がせず、「これは水だ」と気づいたと。
実はその1本は、事前の写真撮影のためにサンプルとして取り寄せた瓶に水を詰めて撮影したものだったのです。
それも酒に混ざって届けられたようでした。
「旨い水だった」と言っていましたが、何せ「山と水と、」だけに、旨かったに違いありません。
届けられたのは酒ばかりでなく「酒と水と、」だったというオチでした。
酒はテレビのニュースで何度も取り上げられたこともあり、大変好評で約1000本がほぼ完売状態です。
今年手に入らなかった方には宣伝ばかりで大変申し訳ありません。
来年は倍増する予定ですのでそれまでお待ちください。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
よろしかったら以下もご覧ください。

ニュース
相撲甚句
テーマソング

サンサンラジオ348 読経とシナプス

2022年01月16日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第348回。1月16日、日曜日。

大雪ですね。そろそろ除雪機で飛ばす所がなくなりそうです。
今日は小正月。「仏様の正月」などと言ったりもして、寺参りに来られます。
昨晩はおさいど(お柴灯)で集落ごとやそれぞれの家でわらなどを焚いてつとめます。
お寺では一日早く14日に行うのが習わしでしたが、強風のため昨日に、小さいながらわらを組んでお焚き上げしました。お札やお守り、位牌などを供養して焚き上げます。
私が子どもの頃、昭和30年代はそれはそれは大きな催事でした。
裏の田んぼに村中からわらを集め、高さ3~4mほどの塔を作り、村中の老若男女が集まって賑やかに行ったものです。
他に冬の楽しみもなかったし、若い男女がワクワクしながら集まる、盆踊りのような意味合いもあったかもしれません。
いつの頃からか、テレビが普及した頃と重なるのか、次第に人が集まらなくなり、各戸ごとになっていったものと思われます。
多くの行事において、楽しみが集団から個人へと移っていく流れは止められそうにありませんが、逆に新たな楽しみの形を作っていくこともできるだろうと思います。
この町が「何もない」と言いますが、それはそれで結構なことだと受けてみたらどうだろうと思います。
何もないから新たなことを生み出すこともできるし、伝統を今からここから作っていくということもできるでしょう。
「何もない」は「何でもできる」「何でも始められる」ことだと受け止めたいと思います。
20日には地酒誕生を祝う、発表祝賀会が開催されます。これを一つの伝統にしていきたいと思っています。

転倒、後頭部強打から明日で二七日となります。
今のところ目立った症状は出ていませんが、しいて言うならお経を間違いやすくなりました。
転倒以前からその兆候はあって、父親と同じパーキンソンの症候が出始めたのかと感じていました。
その進行を転倒がブースター作用したかもしれないと懸念しています。
毎日読んでいるお経が、途中飛んだり、同じところを繰り返したり、いつの間にか別のお経になっていたりという回数が多くなりました。
聞いている檀家の人には分からないだろうと甘えてはいけません。
大本山總持寺の副貫首だった鶴岡大山善宝寺住職の斉藤信義老師は、「お経を間違えてはお釈迦様に申し訳ない」と常に経本を持って読誦しておられました。その姿勢に学ばなければならないと思います。
父親も、症状が進行してからは何十年も持ったことのないはずの経本を見ながらお経を読んでいました。それでも読めなくなって孫である私の息子を伴って葬式に行ったりしていました。その頃、私は全く役に立ちませんでした。

話はズレますが、お経を読む頭の中というのは不思議だなと思います。
お経の途中でカネを打つところがあるのですが、決まったところで打つためにはその前の時点でバイを持ち上げて準備しなければなりません。しかし、どこまでいったら持ち上げてなどと意識したことはなく、そこに近づくと自然にその準備ができているのです。
一体誰がそうしているのでしょう。
長いお経も、繰り返し読んでいると暗誦できるようになります。
お経を全部覚えているというよりも、一つの文言が次の文言を連れてくる、芋づる式に出てくるという感じでしょうか。
PCやスマホの文字変換で次の語を予測するようなものです。
シナプスが次から次へとつながって次の語を口から出すということが起こっているのだと思います。
なので、頭の中でお経を思い出しながら読んでいるのではないのです。
いちいち思い出してお経を読もうと思ったらきっと間に合いません。
「途中で間違えるのではないか」などと頭をよぎった時には、間違えないようにすることでかえってその言語にとらわれて間違うことがあります。
むしろ、何か別のことを考えながらお経を読んでいる方がスムーズに最後まで読み切ることができたりします。
意識とは別の作業として、バックグラウンドでシナプスが働いているのだと思います。
それがこのところ、ちょっと別のことを考えただけで途切れてお経がつながらなくなるという傾向にあるのです。
意識がバックグラウンドに作用してしまうということでしょうか。
父親のパーキンソンの兆候が始まったのは67歳頃だと思われるので、私にとって間もなくのことです。ブースター効果が強ければさらに早いかもしれません。
なので、楽しむ時間もそんなに残されていない可能性があります。
今のうち、ここから、という思いで日々を生きていきます。
皆さんもそうですよ。楽しみたいと思っても体がいうことを聞いてくれない時がやって来るのですから。今のうちです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンサンラジオ347 閻魔大王の前で

2022年01月09日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第347回。1月9日、日曜日。

2週間前の写真と比べてずいぶん積もりました。
除雪機のガソリンは60ℓ使用。例年200ℓ程使うのでまだこれからということですね。

4日、毎年正月の行事で、三朝祈祷したお札を地元の集落に1軒1軒配って歩くことになっています。
約100軒を回りますが、その途中、道路から少し下る家の坂で転倒しました。
除雪機できれいに除雪した後に積もった雪で滑りやすい状態だったようです。
一瞬で仰向けに倒れ、後頭部をしたたか打ちつけました。
毛糸の帽子はかぶっていましたが薄手のもので、ほとんどクッションの役目は果たしていなかったでしょう。
少し時間がかかりましたが何とか立ち上がり、続きを歩き出しました。
その途中、今自分がどこを歩いているのか、いつも回っている家が見たことのないような、記憶が飛んだ感じがありました。
それもわずかな時間で、その後記憶も戻って何とか全部を歩き終えて寺に戻りました。
一緒に歩いてくれた方と昼を食べていて、何軒か行った記憶がない家があると思いました。
「あそこの家は?」と聞くと「行った」「あそこは?」「行った、行かない家はないよ」との答え。
やはり記憶が飛んでいるんだと思いました。
ただ、カミさんに言わせると、その前から記憶は怪しいので、そのせいかどうかは判明しませんが。

そんな出来事をFacebookに投稿すると、多くの人が心配のコメント寄せてくれました。
その中にはゾッとするような具体的な前例の情報がいくつもあり、みんな口々に「病院に行った方がいい」とアドバイスしてくれました。
それは、頭を強打したその時は何ともないと思っても、時間が経ってからいろんな症状が現れて、手術をしたとか亡くなったとかという例で、具体的なだけに恐ろしくなりました。
皆さん威すつもりはなく、心配してくれてのコメントですが、同じような例はたくさんあるようです。
ということで、アドバイスを聞いて、7日脳神経科の専門病院に診察に行ってきました。
すぐにMRIの検査と頭蓋骨のレントゲンを撮ってくれ、診察を受けました。
画像での所見では今のところ脳内に出血は見られず異常はありませんでしたが、やはり、皆さんに心配していただいたように、1~3か月後に症状が現れる硬膜下血腫の恐れはあるので、長期の経過観察と、1か月後の再検査を受けるようにとのことでした。
早めに異常が見つかれば薬で対応することもできるが、出血が広がってからだと手術の必要もあるとのこと。
手のしびれや言語などに気をつけておくようにと言われました。
まるで、初七日から7回閻魔様の審判を受けて行き先が決まる中陰忌のような感じです。
四十九日忌の頃にはどちらに行くか決まるでしょうか。あるいは百カ日頃か。
閻魔大王の前で審判されるつもりで行動に気をつけ功徳を積みたいと思います。
 功徳海中一滴もまた譲ることなかれ
 善根山上一塵もまた積むべきか

実はもう一つあります。
年末、かかりつけ医院での定期検査で、肝臓の数値が芳しくなく、アルコールがドクターストップになりました。
更に、体重を5キロ減らしなさいとの指示。
身長からの平均体重を20キロ以上オーバーしている現状なので当然のことなのですが、これがなかなかね。
「65歳になると自然に痩せますよ」と以前にある方から言われたことを心から信じて何の対策もせず欲求にまかせて生きてきました。
どうも自然には痩せない体質のようです。
脳の先生にもアルコールは良くないと言われたので、いずれにせよしばらくは禁酒を余儀なくされることになりました。
酒を酌み交わしながら語り合うことをこよなく愛してきましたが、酒を呑まないでつき合うことができるかも実験してみなければなりません。
「その時はその時」などという無謀な剛毅さは歳と共に失せました。
1年半がかりで夢を形にしてきた地酒も間もなく完成し、祝う会が目前に控えていますが、味見程度にとどめておきましょう。
大虎というほどでもありませんでしたが、百カ日までは年老いた猫のように静かにしていようと思います。
新春から色々ありますが、まあ、今年はそういう年になりそうです。それが「65歳」の意味だったのかもしれません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



サンサンラジオ346 共喜のさた

2022年01月02日 04時23分40秒 | サンサンラジオ

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第346回。1月2日、日曜日。

新年あけましておめでとうございます。
2022年、令和4年が、皆様にとりまして充実した一年でありますよう心よりお祈り申し上げます。
年末から大雪となりまして、除夜の鐘、元朝祈祷と除雪の繰り返しで年が明けました。
コロナ過も丸2年が経ち、新しい日常に慣れつつあり、新しい発見もないわけではありませんが、仕事を失い貧困生活に苦しむ人々にとっては、やはり早く収まって、仕事の見つかる日常が一日も早く戻ることを切に願っているに違いありません。
ただこれが、長引くというよりは、これが日常として今後も続くということであるのならば、戻ること以外の選択肢を考えていかなければならないかもしれません。
自然災害の多発が地球温暖化の影響によるものであり、人間の生活そのものを見直す必要があるという事実を突き付けられたように、世界的な感染症が現代の人間に対する何らかの警鐘であるのならば、謙虚に我が身に引き当てて足元を見つめ直すきっかけにしなければならないと思います。
そうでなければ、この感染症により命を落とした方々、その家族、そして、日夜格闘し続ける医療従事者の方々に対して真に申し訳けないと思うところです。

「成長と分配の好循環」というのが現政権の看板のようですが、果たして今後、経済の「成長」など見込めるものでしょうか。
人口が減少し続けていく状況、しかも高齢化によってその割合として働き手が減少していくという現状では、この国全体の収入が減っていくことは当然のことであり、それは当然税収が減るということでもあり、それが分かり切っている未来に成長などあり得ないと思うのですが。
更にコロナ過が長引いて、支援策がかさんでくれば、それは未来に借金を増やしていくばかりで、借金を抱えたまま成長しろというのは未来を担う子どもたちに酷というものでしょう。
やはりここはもう、成長ではない生き方、成長しなくても幸せに生きる「生き方の改革」を目指していくのがいいように思います。
最上町などは、自然に恵まれているというか、自然しかない町ですが、その自然を最大限活かし、自然の中から必要なものを生み出す生き方、明治時代頃までは実際にそのように生きてきたわけで、まさに資源の地産地消を目指すべきだと思います。
たとえば電気、町の公共施設だけで年間2億円ほどの電気を買っています。それなのに、町でできた太陽光などの電気は企業の利益として町外に持ち出されています。
電気を造る能力があるのに町外の企業に持って行かれ、そして町外から買っているのです。実にもったいないと思います。
電気を造る能力は、森林や水資源もあります。家畜の堆肥、温泉熱、風もあります。
それらが電気となります。明治時代とは違います。明治に帰れと言っているのでもありません。
地産地消は、「ここに生きる」ことを喜ぶということです。生きる喜びを自分で作り出すということです。
生きる喜びを作り出すのに特に成長は必要ありません。お金より必要なのは「生きる喜び」です。
経済の「分配」よりも喜びの「共有」です。
限られた分母を分け合う、奪い合うのではなく、限りあるものを喜びとして共有していくのです。共有することが喜びでもあります。
それが「生き方改革」だろうと思います。

コロナ過の2年の間に、もがみ地域新電力立ち上げを一歩前に進めてきました。
地産の喜びを共有する地酒の製造を始めました。
地域の宝を再発見する花の鶴楯を創るプロジェクトをスタートしました。
それらはみな、ここに生きる「喜びの創造」です。
成長というならば「共感、共喜」の成長です。
やるならば「共喜のさたでないと」いけません。古いな。

今年も、楽しくなければ生きてる甲斐がない、という生き方を目指します。
「共喜」してくれる方を求めて生きていきます。
求めていないと出会えません。
求めていないと出会っても気づきません。
求めていないと発見がありません。
求めていないと発見の喜びを感じることができません。
自らの生き方を求めていきましょう。
自らの喜びを自ら作っていきましょう。
コロナ過を楽しく生きてやれ。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。