なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ74

2016年09月25日 05時37分52秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。
60歳を超えてから恐いものがなくなったと感じています。
それまでは、「若僧が何エラそうに言ってるんだ」と揶揄されそうで、そう言われないように周囲を気にしながら、少し身を引いていたように思います。
恐いものがなくなった、という話をいろんな会合で披露していると、何人かから言われました「何言ってるんですか三部さん、前からそうだったじゃないですか」とあっさり。
あれ?そうですか?そんなことはないと思うんだけど。
謙虚に生きてきたつもりですが。
ある方は真面目な顔で「若いころから態度がでかいので失敗しないかと心配してました。気をつけてください」と。
え?マジで?いやー、そうですかねぇ。
ところが先日、寺参りに来た高校同級生の女性が「あのころ三部はおとなしくてかわいかったよね」って。
ほらね、そうでしょう。だから言ったでしょ。実はそうなんですよ。
かわいいヤツ。
そこまではよかったのですが、その後が良くなかった。
「いつからそうなったの」。
えーっ、変わらないと思うんですけどー。
ということで、60過ぎて恐いものがなくなったんだということで。
これからもガンガン行きます。
冗談はこれくらいにして。

先日JETOみやぎという団体から荷物が送られてきました。
何だろうと開けてみると、立派なクリスタルの楯が入っていました。
今年の2月、まけない!タオルプロジェクトから、震災孤児への生活費支援活動を行っているJETOみやぎさんへ、支縁金500万円を贈呈させていただきました。
そのことに対する感謝の意味であったようです。
それと共に、60名の子どもたちからのメッセージが同封されていました。
「おとなになったらママのはかをなおしたいです」(10歳女子)というメッセージには泣きました。
他にも「中学校になっても部活、勉強がんばる。お母さんがいなくても、朝練、夕練ガンバルぞ」(12歳男子)
「支援して頂きありがとうございます。いつか私の料理を食べて頂けたら幸せに思います」(17歳女子)
「5年間で変わったことと、変わらないことは、良いことなのか、悪いことなのか、今でもよくわからない」(16歳男子)
「ご支援いただきありがとうございました!いただいたお金は部活動や学校で使わせていただきたいと思っています。まけないタオルプロジェクトのみなさんもまだまだ寒いのでお体に気をつけて活動がんばってください!」(17歳男子)
「キャッチフレーズにユーモアを感じ、とても温かいプロジェクトだと分かりました。両親を亡くし、周りの友達とは違う環境ですが、友達も理解してくれました。暗い過去も、三部住職、やなせさん、友達などと一緒に立ち向かい、負けない人生にしたいです。こうなったのも自分の宿命だと思っているので、震災のことを伝えていける大人になりたいです」(17歳男子)
などなど、率直な言葉たちに、胸が熱くなりました。
あれから5年半、今日も厳しい現実の中で精一杯生きている子どもたち。
どうか困難を乗り越えて、いつか静かに体験を語れるような、大人になってもらいたいと、心から切に切に願っています。
子どもたちには、一人ひとりに返信を書くつもりです。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


孤独に耐える力

2016年09月23日 18時22分47秒 | ふと、考えた
京都で一人食事をしながら考えた。
人は孤独にどのように耐えているのだろうか。
今手にしているスマホがなかったらどうだろう。テレビがなかったらどうだろう。本も雑誌も新聞もなかったらどうだろう。
そういう設定そのものがあり得ない時代なのかも知れない。
しかし、今現在、病院や介護施設で一人孤独に耐えている老人がいることも事実だろう。
それが、今の若者に耐えられるのだろうか。いや、私に耐えられることなのだろうか。
電車に乗っている間、電車を待っている間、何かの合間、何もしないで、自分以外の情報と接触せずに過ごしている人を、ほとんど見たことがない。
今の老人たちの多くは、携帯もスマホも手にすることなく年老いた人たちではなかったか。あっても電話だけか。
一人になることも、退屈な時も、少なからずあったことだろう。
外部の情報がなかった時、彼らはどのように時を過ごしてきたのか。何を考えてきたのか。
過去を振り返る。自分のことを強く考える。誰かのことを強く思う。未来のことを考える。
そのようにして過ごしてきたのだろうか。

しかし、それが全て理想的なことだとは思わない。考え過ぎて固定観念にとらわれたり、相手の意思とは違う答えを、勝手に決め込んでしまう過ちもあるだろう。
しかし、全くその経験がない人間が、ある日突然情報遮断の事態に陥った時のパニック状態を想像してみる。
耐えられるのだろうか。
山や電波の届かない地に身を置いて、あるいは自ら通信機器や情報を放棄して、自然に身を任せるような、そんな経験は訓練になるだろうか。坐禅はそうかもしれない。

秋葉原で車を暴走させて無差別に殺傷した事件があった。
彼は、情報端末を手にしていながら孤独を感じていた。
人混みの中にいながら孤独に耐えられなかった。

結局、人間は孤独である。
最期の最期は誰も助けてくれない。
ただ一人、孤独に耐えるしかない。
その力は具わっているか。
時間を「自分の中で処理する」力。
「人は一人では生きていけない」と言う。
「生きていく」にはその通りだが、「生きる」のは独りだ。

何かを「読む」より、何かを「書く」方が訓練にはいいように思う。
日記でも自伝でも。
この文章を書きながらそう思った。

さあ、自分が孤独である事実を認識し、それに耐える力を身につけよう。
暇な時間を機器を頼らずに過ごしてみよう。
機器を使いながら、自分に呼びかける。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ73

2016年09月18日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。
秋彼岸ですね。
実は今朝早く浜松まで出かけて彼岸会法要のお話を頼まれています。
ボランティア団体の古い仲間の和尚さんで、半月ほど前に来てくれと頼まれて、断り切れず、彼岸会直前の土日にも関わらず出かけることにいたしました。
こうなったら、せっかくだから、ウナギを食べて酒を飲んでやる、と意気込んでいます。

それはそれとして、パラリンピック、凄いですね。
先週も言いましたが、これまでこんなにちゃんとテレビで放送したことはなかったのじゃないでしょうか。
知らないことがいっぱいでした。
もうこれは、障碍がありながらも頑張っているスポーツ、などではないですね。
障害を言い訳にするような競技ではないし、まったく別の競技だと思いました。
お涙頂戴だとか、温かい声援を、などという生易しいものではありません。
競技に対する姿勢は、オリンピックの選手と全く変わらない真剣勝負です。
四肢切断や視覚障碍だけではなく、脳性麻痺や知的障碍のクラスもあり障碍の程度により細かくクラス分けされているということを初めて知りました。
今回それを知ったのはテレビを見たからで、これまでも報道はあったのかもしれませんが、やはり映像として見ないと、その内容や、選手の真剣さ、喜びや悲しみを感じることはないでしょうね。
それぞれの協議がパラリンピックの競技として成り立っているということは、それぞれに細かいルールが決められいて、世界選手権などもあるようですから、ルールの共通認識も世界中に通じているわけでしょう。
審判やサポートする側も慣れていないとできないわけですし、そんな風に障碍者スポーツが行われていること自体知らないことでした。

放送されるのはいいことですね。
知らないから偏見を持ったり、見下げたりすることもあるのでしょうから、よく見てよく知ることは相手を理解する第一歩だと思います。
4年後には東京でも行われるわけですから、もっともっとテレビに露出して関心を高めてほしいと願います。
それでもおそらくは、パラリンピックは見たくない、という人もいるのだろうなあと思いながらテレビを観ています。
四肢切断や脳性麻痺の人の姿を見たくないという人がいることも事実だと思います。
いわば、普通の人の中で、普通の感覚で生きていたい、変な人とは関わりたくないと思う人もいるに違いないと思うのです。
その感覚は分からないわけではないのですが、でもそれは、ただ慣れていないだけなのではないでしょうか。
自分と違う人を排除し、関わりたくないという感覚、そういう感覚をお持ちの人は、おそらく障碍者だけではなく、外国人や肌の色、宗教の違いなどにも同じような排他的な感情を持つ人だと思います。
民族の優位性などの問題ではなく、ただ慣れていないだけ。
傍にいても見ようとせず、触れようとしない、そうやって過ごしていくのでしょう。
確かにそれでも生活には困らない、何ら不都合はないかもしれません。
しかし、おそらくそれは、人間の豊かさに欠けることと思います。
他の違いを認められないのは、自分の閉鎖性にあるからです。
自己の解放こそが自由であり、自己閉鎖は不自由です。
不自由な心では楽しむことにも限界を作ってしまいます。

自己を開放するために、違いを知り、その上で同じであることに気づき、共感していく。
そうありたいと願います。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ72

2016年09月11日 05時24分24秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。
さて、前回お話ししましたように、先週1週間は特派布教で長野県を巡回して、昨日の夜帰ってきました。
北信と言われる、長野県の北部の方面ですね。
6教区6カ寺回りましたが、どの寺もキチンとしてました。
開講式、特派布教、人権学習、教区護持会総会、懇親会と、半日一杯の日程で、集まってこられる各寺院の役員さん方も、背広にネクタイ、輪袈裟をかけた方がほとんどでした。
残暑厳しい中でしたが、台風、雨の影響もなく、何とか務めさせていただきました。

珍しいところでは、懇親会の中身ですね。
主催者挨拶、乾杯と進むのは普通ですが、締めの儀式が独特です。
「北信流」と呼ばれる流儀があります。
まず、提案者から「これより布教師老師と、主催いただきました教区長さま、護持会長さまにお杯を差し上げたいと思いますがいかがでしょうか」と発議されます。
万雷の拍手。
杯を受ける方に杯を差し上げる方が指名されます。
その方たちが杯ととっくりを持って前に進み、ただ飲むのかと思いきや、「おサカナは」となります。
この場合のお肴は歌のことです。
謡曲や詩吟が多いようですが、最近は演歌や歌謡曲なども歌われるとか。
まず1杯飲んで1曲終わってまた1杯。
次は主客が逆転し、杯をいただいた方が、今度は会場主側に同じように杯を差し上げます。
これが北進流と呼ばれる儀式でした。
この北信流、北部の方では葬式や法事の席でも行われるようで、「もう4、5人集まればやります」とのことでした。
おもしろいですね。
杯はもちろん日本酒ですので、これほど酒の振る舞われる地域は他にないのじゃないかと思いました。
元々北新流は松代藩に始まった儀式だそうで、いつまでもずるずると酒を呑んでいるのをやめさせるために倹約の意味から始まったと聞きました。
その地方に、その地独特の文化や習慣があるはいいですね。
できれば長く伝えていただきたいと思いました。

最終日の昨日の会場は長野市内でした。
車で迎えに来てくれた若い和尚さんから「だいぶ山に登りますよ」と言われましたが、こちらも山育ちですから驚くこともあるまいと思っていました。
甘かったですね。
凄いのですよ、何と標高800メートル!
長野市の市街地が400メートルぐらいあるそうですが、さらにそこから400メートル上るのでした。
集落の一番上に位置するその伽藍はまことに壮大で、立派なお寺さんでした。
臥雲院さま、まさに雲の上に横たうような、天空の寺院でした。
その伽藍が一昨年の地震で壁という壁に亀裂が入り、梁が落ち、「もう再建はダメかと思った」ほどだったようですが、「今日の会場を引き受けることを目標に頑張って修復しました」と方丈様が仰ってくれました。
お世話になりました。本当にありがとうございました。

さて、パラリンピックが始まりましたね。
前回の大会でこんなにテレビ放映がありましたっけ?
少し観ただけですが、知らないことがいっぱいあるなあと感じました。
テレビででも放映されない限り、その内容は知らないまま過ごすことになるでしょう。
ハンディキャップをもった人たちのことをもっと知っていかないと偏見はなくならないでしょう。
スポーツを通して知っていくということはとてもいいことだと思います。
もっともっと報道してくれることを望みます。


それではまた来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ71

2016年09月03日 17時42分34秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。
9月第一日曜日の朝です。
先週は、史上初めて東北地方への台風上陸があり、大きな被害をもたらしました。
気候が変わってきていることを痛感します。
東北や北海道に台風の被害が及ぶなどということは、近年まであまり聞いたことがありませんでした。
雨の降り方も大きく変化しています。
これまでの基準が無意味になるほどに異常な降り方をしています。
堤防なども、これまでの基準で造られていますので、役に立たなくなるケースも出てきています。

これも気候の変化のせいだと思いますが、野生動物の生存範囲が北上しています。
イノシシや鹿、猿などの被害は西日本では多く見られましたが、山形ではここ最近の事です。
冬の気温が高いため、これまで越冬できなかった動物も生きられるようになったとか。
松食い虫やナラ枯れなど、昆虫の生態も気候変動により北上しています。
全部が温暖化の影響だとは言えないのかもしれませんが、少なくともその原因に人間の生活形態が関わっていることは間違いないと思います。

地球上のすべての生きものは、たった一つの細胞から分かれて姿形を変えて生き続けてきたもので、共生というよりは、大きな一つの命であるとも言えます。
たとえて言えば我々の体です。
人間の命は母親の卵子つまりは一つの細胞から始まるのであり、一つの細胞が分裂を繰り返し、成人で約60兆個、最近では37兆個と言われているようですが、の細胞に分かれて存在しているのが我々人間の体です。

地球上の生物も、小さく考えれば一人の人間の体のように一つの細胞から生れて分かれたものと言えるはずです。
だから、他の動物も昆虫も微生物も、我々の命の一部なのだと考えるべきです。
一つの種の絶滅は必ず全体の命の変化に関わっていくでしょう。
人間同士が争っている間に地球全体の命が傷ついていくでしょう。

人間は地球上におけるがん細胞だと言った人がいます。
宿主の中で成長し、やがては宿主そのものを殺し、がん細胞も死滅する。
自分の成長が自分の命を縮めていることに気づかない。
人間もそんな存在だというのです。
今がん細胞はどこまで成長したのでしょうか。
ステージはいくつ?
余命はどれほど?
早く気がつけば間に合うかもしれないのに、もう手遅れなのでしょうか。
愚かな細胞、人間。

今日から1週間長野県の特派布教巡回に出かけます。
来週はその様子などをお話しできると思います。