なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ173

2018年08月26日 05時15分31秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

8月26日、日曜日です。

最近、話したい書きたい気持ちが募ってます。
もしかして、死期が近いのか、単なるいつもの思いつきなのか。
自覚症状はありませんが。まあ、その時はそうなったで、「そういえば最近ずいぶん語っていたね」と思ってくれればいいです。
頭燃を払うように、語りたいときには語らしてもらいましょう。

修証義講話の準備をしていて懺悔について少し考えました。
もともと「懺悔」という言葉は仏教が中国に渡ってできた言葉です。インドのサンマという音を漢字にあてて「懺摩」としました。その意味が「過去の過ちを悔い改める」ということで漢訳すれば「悔過」になります。
そして、音の懺摩の「懺」と意味の悔過の「悔」を合わせて「懺悔」の文字ができました。
ですから、これはあくまで「ザンゲ」と濁らずに、「サンゲ」と読むべきです。
キリスト教が日本に入って来て、その意味にそのまま「懺悔」の言葉をあてたのでしょう。
その時からかどうかは定かではありませんが、いつの間にか「ザンゲ」の読み方が一般的となり、パソコンの変換で「ザンゲ」でないとこの文字が出てきません。残念なことです。
それはどうでもいいのですが。

「懺悔」の文字が日本全国に翻ったったのは、終戦直後の「一億総懺悔」という標語でしょう。
これは戦争責任を国民に押しつけるもので、結局誰も責任をとらない体質の最悪の事例です。
しかも、この言葉を使った当時の東久邇宮首相の「懺悔」の内容は、「敗戦を天皇陛下に謝罪しよう」という呼びかけでした。
開戦も終戦も天皇を利用し、政治家も軍部も責任をとらないまま今日まで来てしまいました。
平成天皇陛下が在位中、積極的に激戦地を訪ねて慰霊を行ったり、終戦記念日に「深い反省」を述べられたり、多くの被災地に足を運ばれたりするのも、昭和天皇から背負った贖罪で国民に懺悔されてきたのではなかったかと思うところです。
当に懺悔は、自らの心からにじみ出るもので、誰かに強制したりさせられたりするものではありません。
平成天皇の行動を見るとき、日本人の代表として首相より上の存在があることに救いを感じたりします。
在位最後のお言葉として、日本人のあり方を一言諫言していただいたらいいのに、と思います。
それに比べて。

福島第一原発事故の責任は一体誰がとるのでしょうか。
津波が想定されていなかったわけではありません。
津波の到達予想の高さを、経済的な側からの算出で想定していたにすぎません。
その責任は誰にあるのでしょうか。
自然には勝てないなどと言って、責任を自然のせいにすることも目くらましです。
地震と津波の規模が想定できなかったとしても、しているのですが、原発は人間が作ったものです。「絶対安全」と嘯くなら、こんな大事故になる津波を想定できなかった責任は誰にあるのでしょうか。
よもや、これも国民に押しつけて「一億総懺悔」しようなどと言うつもりではないですよね。賠償金を電気料金に付加しているのであれば結局そういうことか。

明確な責任をとらずにうやむやの中で意識が薄れていくのを待つ、それがこの国民の特徴のようですね。
でも、外国のように、元大統領であろうが悪いとなれば徹底的につぶすというやり方に、何となく違和感を感じたりするのは、責任問題をうやむやにしても仕方がないと思っている、日本人的な心の現われなのでしょうか。
うやむやに言葉にしない文化が「忖度」を生みました。国の不祥事も結局はうやむやのまま。
それはもしかして、日本国民の宗教観と関わりがあるのか、と思います。
絶対神を立てずに八百万の神をあがめ、ありがたい存在であれば神でも仏でも無条件にとりあえず手を合わす。
心が広いというか、和を以て貴しとなすというか、節操がないというか。
でもそれは、最後はトップがハラを切り自ら責任をとるということが暗黙の了解として約束されていたからではないですか。
そういう侍的な精神構造なしに責任をうやむやにすることは、この国をダメにしてしまうように思われてなりません。
懺悔がなければ、いくらリセットしても同じ過ちを繰り返すばかりです。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



三ちゃんのサンデーサンサンラジオ172

2018年08月19日 04時24分07秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

8月19日、日曜日です。

このサンサンラジオは、和尚さん方も耳にしてくれていると思うので敢えてお話します。
先日、「墓じまいの金銭トラブル」という報道がありました。
「墓じまい」は、後継者のいない墓を永代供養などの共同墓に改葬して、先祖代々の墓を取り壊すという事例です。
金銭トラブルは、墓地を寺に返す際に寺から請求される金額が高額であることによるトラブルです。
記事では、その金額が数百万円にのぼるケースもあると紹介しながら、、檀家をやめる「離檀」の際の「手切れ金」のような請求は、今後檀家が減っていく寺院の事情を考えれば、金額は別にして分かる気がするとある程度の理解を示していました。
人口が減り、特に田舎においては急速に激減していくことは明らかなことで、当然寺の檀家も減り、墓地を守る人もいなくなるのは明白です。
今ある檀家の数が減っても寺の収入を減らさないために色々方策を考えるのだと思いますが、高額な離檀料や一件あたりのお布施の額を上げてみたりと、現状維持のための方策がむしろ、長期的に将来的な寺院離れにつながらないかと危惧しているところです。
寺院側から檀家への対価としては、死者に対する納得と宗教的な安堵感を与えることでしょうから、金銭の問題はそれを阻害する最も大きな原因になりうると思っています。

岩手の正法寺住職の盛田正孝老師は、以前ある研修会でこんな話をされました。
和尚にとって「読む・書く・話す」がキチンとできればそれほど問題にはならない、と。
「読む」は、お経の読み方で、聞いて心が洗われるような、ありがたいと感じるお経が読めているか。
「書く」は、塔婆や位牌を、拝む対象としてキチンと書いているか。
「話す」は、法話として、納得されるようなお話ができているか。
この三つのどれかではなく、三つがキチンとできているかが和尚としての条件だということでした。
葬儀や法事を勤めるときは、まさにこの三つが試されるときでもあり、最大の布教の場であると言えます。
まずお経。亡くなった方を称え、慰労と感謝の心を込めて読経することで、遺族に安心感を与えることができるでしょう。歌と同じく声を鍛えて心に響かせなければなりません。
そして書く。位牌や塔婆は仏として掌を合わす対象ですから、拝みたくなるような字でなければなりません。キチンと丁寧に書く必要があります。
最後に話す。普段仏教に関心がない人でも、家族が亡くなった時には、和尚の話も聞いてみようと思うもの。その期待に応えて、心に染みる話を分かりやすく話さなければなりません。

住職の使命は檀家を自分の信者にすることです。
その場として、葬儀や法事は最大の機会です。
それなのに、聞きづらいお経を読み、幼稚な字を書き、何の話もしないで場を離れるようでは、せっかくの機会をみすみす無駄にすることになるし、あまつさえ、お布施の金額で信頼を失うようなことでは、実にもったいないことです。
逆宣伝というか、逆布教と言わざるを得ません。

人口減少は和尚一人では何ともしがたいことですが、それに輪をかけるように自ら檀家離れに拍車をかけるようなことでは、長年続いてきた寺院の歴史に傷をつけ、歴代の住職方の努力を踏みにじることになります。
三つのうちで自分が不得意だと思うものがあれば、頑張って身につけるように努力すればいいだけです。
世の中のプロと呼ばれる人々で不断の研鑽と努力を重ねていない人はいないでしょう。
和尚も僧職としてのプロならば、日々努力することは当然の責務です。
数百年の歴史を踏まえて数百年の未来を見据えるならば、今和尚がすべきことは和尚らしく生きること、それ以外にありません。
読む、書く、話すを基本として、更に朝課・坐禅を行じていれば自信にもなるし、お経の鍛錬にもなります。
作務は禅寺のお家芸。いつ行ってもきれいな境内伽藍は雄弁な布教です。
何もできないというならば、せめて頭をきれいに剃り上げることはできるでしょう。
僧職のプロ意識と覚悟をもって生きる姿こそ、未来に続く布教であり檀家減少の方策と考えます。
目先の私的なことで檀家を離れさせるようなことがあってはなりません。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ171

2018年08月12日 04時35分55秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

8月12日、日曜日です。

先日は豪雨のニュースが全国的に流れ、方々から心配のお伺いをいただきました。
国道や県道、町道、農道などが土砂崩れ、冠水によって通行止めとなり、避難指示が出て、床上床下浸水が数件、温泉の水上がり、田畑の冠水、崩壊などありましたが、それでも記録的な短時間豪雨という割には他地区のような甚大な被害にはならなかったようです。
「ここは災害がなくていいね」というのが挨拶のような町でしたが、そんな所はこの国にはないのだと思い知らされたことでした。
ご心配いただいた皆様、ありがとうございました。

雨が降れば雨を恨み、降らなければ太陽を恨み、自分の環境、地域の問題、町や国の批判など、文句ばっかり言って暮らす人がいます。
口から出てくるのは、愚痴ばかり。
愚痴は相手をつまらなくし笑顔を失うので、聞いていて全くおもしろくありません。
愚痴は、相手もそして自分をもマイナスに引き込んでしまいます。
なにがその人をそうさせるのでしょうか。
その一つは、今を生きていないことにあると思います。
過去にとらわれて今を嘆いたり、未来を心配して悲観したり、今の自分を生きていないからです。
もう一つは、他人と比較するからでしょう。
誰かと比べて自分が低く見えたり足りないと思ったりして腹を立ててしまうのです。
「自分の今」だけを見つめて、今何がベストなのかを徹底的に考えれば、過去にとらわれたり未来に迷ったり、誰かと比べたりの苦しみを感じることはないでしょう。
みんなが貧乏で大変な時には貧乏はさほどの苦しみではありません。自分だけが貧乏に取り残されると思うことが苦しみなのです。比べるところから感じる苦しみです。
もちろん生活の大変さはあります。しかし、その上に比べることでの苦しさまで味わう必要はありません。

小さく古い家に住んでいたとします。
そこで生活をする中で、少しでも快適に過ごせるように、家の中をきれいに掃除をして、今あるものを使って小奇麗に飾り付けをしてみたり、「今を楽しむ」工夫をしている人がいます。
同じように、自分の住む環境、町を、今ある中でどのように快適に楽しく過ごせるかを考え、少しずつ改善していくことはできるはずです。
家が小さくて古いことを嘆いてみたり愚痴を言ってみたりしたところで何の喜びも得られません。
豪邸に住みながら、埃だらけで物置のような中で暮らしている人もいます。
快適な暮らしと楽しい生活は自ら作っていく以外にありません。
ああ、ごみの中の方が快適な人はそのままどうぞ。

今の足下を見つめ、その中でできること、その中で感じる喜びを、一つずつ工夫することに専念していきましょう。
現状から目をそらし紛らわすために享楽に耽ったり、一攫千金をねらってギャンブルに走ったりするのは向かっている方向が逆行していると言わざるを得ません。
足下の、一歩ずつを着実に改善していけば、やがてそれなりの結果が出るだろうし、周囲からも認められ状況は好転していくに違いないと思います。
結果を求めて今を我慢するのではなく、今そのものを楽しみにする生き方をするということです。
たとえ理想とするような結果にならなくても、今を見つめて生きた行為は、自らを認め自ら納得できる生き方になるはずです。
一歩一歩が手段ではなく、一歩一歩を目的とする歩き方、「自分の今」を生きることが禅的な生き方と言えます。
生きていることそのものを、楽しもうじゃありませんか。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ170

2018年08月03日 14時12分15秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

8月5日、日曜日です。

もう8月です。お盆ですよ。
こんなに暑いのにどうしようかとうんざりしているお坊さん方も多いと思います。
最上は涼しいですよ。避暑にいらっしゃい。
松林寺は相変わらず静かです。もう、3か月静かです。
お盆の間も割と楽にこなせそうです。

先日、朝坐っている時にこんな言葉が浮かんできました。
「金数えてる間に人生過ぎてしまうのは実にもったいない 金は生きるための道具であり目的じゃない」
お金は誰が発明したのでしょうか。
それまでは、必要なものを交換し合う、労働も含めていわば物々交換だったでしょう。
その後、利便性のために貝殻や金属が共通価値として物品やり取りの対価となりました。
更にその後、金銀を持っているのは盗難の危険があるので、それを預けてその証書で貨幣の代わりとしました。これが紙幣の始まりだということです。
おそらくその頃から、お金は必要なものを手に入れるための道具ではなく、お金そのものが目的化したのではないかと思われます。
持ち運びにも便利だし、いくらあっても邪魔にならないし、欲望を満たし膨らませるのには絶好の道具であったと思います。
道具が目的に変わった時から人間の価値も変わり始めたのかもしれません。

LGBT「生産性ない」発言が問題視されています。
「生産性」を言われるとお坊さんは首をすくめたくなります。
もともと出家というのは、社会から飛び出し自ら生産性を放棄した人のことです。
お釈迦様の時代から、人の施しを受けて生きてきました。
アジアの上座部仏教のお坊さんたちは、今も朝の托鉢によっていただいたもので命を支えています。
経済活動から離れたところからモノ言える人だとも言えます。
生産しないことで見えるもの、言えること、与えられるもの、存在の価値があるからでしょう。
タイのお坊さんには選挙権も被選挙権もありません。
生産性だけで見られたら、お坊さんは「役立たず」と排除されるのでしょうね。

他には、生まれたばかりの赤ん坊はかわいいばかりで生産性はないように思いますが、将来性を期待して必要な存在でしょうか。
すると、弱っていくばかりの老人は全く生産性がないように思われます。
早く排除した方が社会のためだなどと思っている若者もいるのでしょうね。その本人もやがて年をとるのにね。
障碍者の生存を必要ないとの思いで殺戮した事件もありました。
人間を生産性で見る発言が生まれること自体が、人間界の限界を迎えているのかと背筋が寒くなる思いです。
そうか、優生保護法も同じ発想から生まれたものでしょうね。
発言者は、自分は必要な人間、自分は優秀な人間と思っているのですよね。笑止千万な。
あなたには人間を選別するような権限も能力も叡智もありません。
人間の価値など人間に判断できるはずがありませんから。
自分の命さえ自分のものではないのに、他人の命に価値を付けるなどということができるはずないでしょう。
分かってますよ。彼の議員が言ったのは人間の価値ではなくLGBTの結婚についての法的な制度だということを。
しかし、「生産性」という価値判断で人を見ていることには間違いなく、それが今の社会の流れに思えてくるところが恐ろしいところです。
法的な制度に生産性という物差しを当てれば、高齢者や障碍者などいわゆる弱者を切り捨てる尺度がまかりとることになります。
「こちら側」というように自分を安全圏に置いて、「あちら側」を排除していくような、分断を醸成する傾向に危機感を覚えます。

人間は生産のための道具じゃない。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。