なあむ

やどかり和尚の考えたこと

伊豆 風邪 初孫

2014年11月25日 16時52分14秒 | ふと、考えた
風邪をひきました。珍しく38.8℃まで熱が上がりました。
熱が出るとつらいです。体の置き所がないという感じでした。

11月9日から15日まで特派布教巡回で伊豆半島を回りました。
温泉と豪華食事で贅沢な思いをさせていただきました。

その出かける直前に、背中に寒気を感じることがあって、風邪になったらマズイと思い気をつけていました。
列車を乗り継いで下田までの6時間あまり、毛糸の帽子にマスク、マフラーを巻いて、ほっかいろを貼り、コートの襟を立てて、ピクリとも動かず座っていました。
かなり危険な人物に見えたでしょう。
そのお陰なのか、初日からのお勤めは無事に進んでいきました。
最終日二日前の宿は冷泉が売りらしく、1時間ぐらい浸かるのがよい、という効能書き。せっかくだからと、試してみた。本当の冷泉は水と変わらず、これはとても無理だと、2番目の冷泉に。ぬるいけど大丈夫そう、と45分浸かってみた。期待したように内からポカポカとはいかず、その後熱いお湯に入っても、サウナに入っても解消されませんでした。
山形に帰った途端、喉の痛み、咳、痰、そして発熱と本格的な風邪となりました。

18日から、自殺防止ネットワークの研修会、SVAの用事、永平寺修行仲間の会合があり上京の予定でしたがすべてキャンセル。

今日も完全には治らず、医者に行って薬を変えてもらいました。10日にも及ぶ風邪などこれまで経験がなく、体の衰えというべきか。
たまに体を休めてよかったのでは、などという人がいますが、あれはウソですね。本当に病気の時は、体そのものがつらいわけですから、休むというような悠長な状態ではありません。

風邪をきっかけに睡眠時無呼吸の症状も悪化し、こちらの治療も考えています。

そうそう、初孫が生まれました。11月8日無事に出産。女の子です。
翌朝、病室でチラッと見てすぐに出かけたので、その後まだ対面していません。風邪をうつすといけないので。


杣寺に嫁して―矢口セツ子句集―

2014年11月03日 09時46分56秒 | ふと、考えた
前回の記事『紅葉の意味』の最後に付け加えた句「燃えて散る さだめも 深山紅葉かな」の作者は矢口セツ子さん。
今年3月に88歳で他界された、真室川町大沢長泉寺ご住職のご母堂でした。
60歳過ぎから始められたという句作は、才能が開花したと云うべきか、数々の受賞歴を連ねておられます。
ご逝去の知らせでお邪魔した際、ご遺体の祭壇に

  杣(そま)寺に 嫁して悔いなし 吾亦紅(われもこう)

の句を拝見してから、その句に惹かれ、是非他の句も拝読したいと願っていました。
この度、長泉寺方丈様より手作りの句集を頂戴し全句を拝読したところです。
1050余の句はどれも名句ばかりと拝読しましたが、その中でも私の心に響いた数句を紹介したいと思います。

  息子いて 嫁いて孫いて 注連(しめ)飾る

  注がれて 鋼(はがね)びかりの 甘茶仏

  子はいつか 住職たりし 竹の秋

  聞き流す ことも一芸 ところてん

  逆らわぬ ことも手の内 いぼむしり

  引き際の 今がしおどき 夏つばめ

  ひとことの 言えぬはがゆさ 蜆貝

  言い切って 心むなしき 秋の風

  丸き背を 丸め直して 草むしる

  何なくも 曾孫七人 菊根分け

  小春日の あればみちのく 捨てられず

  ぐち聞くも 介護のひとつ 窓は雪

そして、東日本大震災を詠んだと思われる句

  追悼の 黙祷ながし 春の海

等々、心に残る句を数多く遺されました。

お元気な頃は、毎日本堂の拭き掃除と草むしりの日課であったと伺いました。
お若い頃に詠まれたという和歌があります。

  老いるまで 拭かせたまえと 願いつつ 今日も御堂の 床を拭きぬく

田舎の寺にはこのような、名も知れぬ、しかし自分のつとめを果たしきった寺族様方がいらっしゃいます。そのような方々によって寺は維持されてきました。
セツ子様を代表として、感謝の気持ちでいっぱいです。





紅葉の意味

2014年11月01日 21時52分07秒 | ふと、考えた
木の葉が、散る前に赤や黄色に色づき、人間に「美しい」と感じさせる意味は何なのでしょうか。
そんなことを最近考えています。
緑鮮やかに生まれて、枯れ落ちる、云わば死ぬ間際に色を変える意味。
いわゆる常緑樹、椿や松のように、緑のまま落ちる葉もあるわけですが、それはそれでもいいわけで、あえて色変えて落ちるのは、そこにどんな使命を帯びているというのか、そんなことを考えることはないでしょうか。
紅葉は本当に美しいと思います。
体に必要な要素を「食べたい」と思ったり、「旨い」と思ったりするのだとすれば、同じように、人間が「美しい」と思うのにもそれなりの意味があるように思うのです。
そのために色を変えるわけではないでしょうが、自然の現象を「美しい」と感じるにはそれなりの意味があるのではないでしょうか。
新緑を美しいと感じるのは分かります。新たな命の誕生ですから、希望を感じ明るい未来を連想させるのでしょう。
いろいろ考えられることはあると思います。
たとえば、命の終わりというのは、誰にとっても、どんな命であっても寂しくつらいものでしょう。
高齢に至って亡くなる場合は、病気の苦しみや老醜などという言葉を使われるように、美しさとは対極に位置するような状態も覚悟しなければなりません。
しかし、すべての命の最期が醜いわけではない、最期を美しく飾る紅葉のような存在もある、人間にだってそういう見方ができるではないか、という救いになるためだろうか。
すべての命の最期が寂しい存在であれば救いがないように思うのです。
あるいは、冬の、色のない世界に入る前に、寂しさの前に、一時心を喜ばせ、温かい思いで冬を乗り越えようとするものか。
確かにそう考えれば、厳しい冬のない、いわゆる常夏の国には美しい紅葉の季節がないように思います。
忍耐に対するご褒美の先渡しのようなものでしょうか。
いずれにせよ、我々はこの一瞬の美しさを求めて旅をしたり、名所に足を運んだりします。それがきっと何かの意味を持っているはずです。
春には花を愛で、秋には紅葉を愛でる。それが人生にとって必要な、正しい過ごし方に違いありません。

 燃えて散る さだめも 深山紅葉かな  矢口セツ子