なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ303 権力

2021年02月28日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第303回。2月28日、日曜日。

もう2月の最終日となりました。
寒い日が続きましたがいかがお過ごしですか。

「権力」という意味は、人を支配し服従させる力ですから、それを使うのは人間として好ましいことではありません。
人間の権力というものは猿山のボスの時代から引き継いだものでしょうか。
人が人を支配しない、つまり権力のない、必要のない社会というのは人間社会にはあり得ないのでしょうか。
軍事政権も共産主義政権も、権力によって民衆を支配するという意味では同じでしょう。
ミャンマーもタイも、武力によって政権を奪うというようなことは時代錯誤のように思いますが、それを覆す力がない民衆は従わざるを得なくなります。
中国や北朝鮮の共産主義政権では粛清や拘束などの恐怖によって国民を服従させているのでしょうか。
今のロシアのイデオロギーが何と呼ばれるのか分かりませんが、共産主義からは脱却したのでしょう。しかし、プーチンという強大な権力者によって反体制派は徹底的につぶされているように思います。自由にものが言えないというのは健全ではありません。
では自由主義陣営の雄アメリカはどうかと言えば、トランプという駄々っ子のような人間がトップになったとたんに、その権力を振りかざしてわがまま勝手にふるまってしまいました。こちらは経済という餌を武器に、商取引のように民衆を支配をしてきたのではないでしょうか。
こうやって見ると、問題なのはイデオロギーや軍政という枠組みではなく、権力そのものではないかと思われます。
では日本という国はどうでしょうか。
どうも他の国をとやかく言えるような状態ではなさそうです。御代官様の時代と変わらないのような、それこそ時代遅れの賄賂や癒着の政治が見えないところで粛々と行われているようです。
政治家に対する不信がこれほど高まっている時代もないのではないかと思われます。
官僚は自分のポストの確保でしょうか。忖度というつまりは取引で成り立っているような感じです。
いずれにせよ、権力を私物化しているのではないかと思わざるを得ません。

権力が人を支配するのは国レベルだけではありません。
民間企業や教育機関、各種団体組織の中でも自分の意思を他人から曲げさせられるような権力構造はあるでしょう。
もっと小さな範囲では、家族の中でも支配、服従させられる構造があると思われます。
人が人を支配する。怖いことです。
上下関係がなければ秩序が保てない。それは分かります。
命令系統、指示系統がはっきりしていないと混乱してしまうことにもなります。
しかし、その上下関係は役割上の混乱を引き起こさないための関係であり、人格の上下関係ではないはずです。
たとえば、会社での上下でいえば、昨日まで上司だった人が定年退職後に部下だった人の部下になる、つまり立場が逆転してしまうことはよくあるわけで、役割上の関係を人格の問題に混同してしまうことで不幸を感じてしまうことになるでしょう。
必要なのは人格としての互いのリスペクトで、それさえ忘れなければ立場が逆転しようが不幸を感じることはないはずです。
永平寺などの修行道場でもありますよ。
修行道場の序列は一日でも早く入った者が上という決まりですから、新人修行僧は1年上の修行僧の顔も見れないという状況から始まります。年齢の上下も全く関係ありません。
上の者の中には権力を手にしたかのように錯覚して傍若無人に下の者を蹂躙するというような者もいます。
そのような人は、人格まで支配するような言動で下の者に当たります。リスペクトなど微塵も感じられません。
しかし、上の者も下の者もいずれ道場を去って社会の一員となるのです。
その時に、あの人は自分をどのように見ていてどのように接したのかはその後生涯にわたって印象として残ります。恐ろしいことです。
人を支配してはいけません。役割と人格は区別しなければなりません。

今トランプさんはどのような心持でいるでしょうか。何かに怯えていないでしょうか。
プーチンさんも軍事政権のトップの人も、自分が下野したときの怖さを感じているのではないでしょうか。
人を支配した者は、自分が支配されることを恐怖に感じるのではないかと思うのです。
猿山のボスも力によってその座を奪われた後はみじめですよね。
人間はいつまでも猿と同じではいけません。
リスペクト、お互いに敬意をもって接していくのが猿と違う人間の関係でなければなりません。
それは、家庭内でも組織の中でも国の間でも同じです。
敬い合い、拝み合う社会を目指しましょう。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



義道 その7

2021年02月24日 05時00分00秒 | 義道
難民キャンプ時代

昭和55年(1980)8月4日、初めての海外としてタイに着いた。カンボジア国境近くのサケオ難民キャンプに入り、初めて難民と呼ばれる人々と出会った。というよりも、当初、その人たちを見ていいのだろうかと躊躇した。もちろん見物に来たわけではないが、「見世物じゃない」と思われないだろうか。ここに来る資格が自分にあるのだろうかと自問しながら恐る恐る近づいて行った。当時、このキャンプの他にもいくつかの難民キャンプがあり、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統治の下約20~30万人のカンボジア人が難民として収容されていた。住居は仮設の竹とニッパヤシでできたものと木材とスレートでできたものがあった。住民にとっては竹とニッパヤシの方が涼しく好まれていた。
JSRCの活動は移動図書館だった。そんなものが難民支援になるのかと思った。カンボジアのポル・ポト政権の3年8か月は徹底した教育破壊を行い、教育を受けた知識人は見つけ次第殺され、「焚書政策」で全ての印刷物が焼き払われた。眼鏡をかけているのは教育を受けた証拠だということで殺され、眼鏡をはずしても耳の弦の跡だけで殺された。時計をしているのはブルジョアだと殺され、時計を捨てても日焼けの跡だけで殺された。
難民キャンプに仮設の学校ができ、読み書きの勉強も始まっていた。しかし、教科書も本も何もない環境で、子どもたちが文字を覚えてもそれが何の役に立つのか、読む本がなければ学ぶ意味が見いだせない。そんな学校へ日本の絵本にカンボジアの言葉クメール語の訳文を張り付けた図書を持ち込み子どもたちに見せた。子どもたちの目が輝いた。初めて見るきれいな絵、扉を開くとそこに書いてある文字が読める。夢中で読む声は「まるで蚕が桑の葉を食べるようだ」と、その時視察に訪れた無著成恭先生が感嘆の声を漏らした。人は食糧のみを食べて生きるのではなかった。文字を食べ、教育を糧として生きていくのが人間だった。移動図書館が難民支援になるのかという私の疑問は実に浅はかな思慮だった。
こんなことがあった。絵本を読む時間の後にお楽しみもあったらいいということでゲームやマジックを行った。山口から参加した老僧はマジックが得意だった。初めて見るマジックショーに子どもたちは驚きと戸惑いをもってながめていた。おもちゃのピストルを撃つと風船が破れトランプが飛び出すというマジックを行ったとき、子供も大人も蜘蛛の子を散らすように逃げた。彼らは、本物のピストルしか見たことがなかったのだ。
ただ生きているだけの難民にとって、子どもたちが笑顔で歓声をあげることは、それを見る大人にとっても生きる希望をもたらすものだった。それが移動図書館のねらいだった。

しばらくして、クリスチャンの日本人女性が難民の住居に住み込んでいることを知り、その縁でトン・バン一家と知り合いになった。
トン・バンお父さんニャン・サンお母さん、ハッチ、ホッチ、モッチ、マーチの兄弟姉妹、里子のブン・ラーという7人が狭い仮設の家で生きていた。毎日のように顔を出し、友達のようになっていた。
2か月が経つ頃、「今晩夕食を食べに来ないか」と誘われた。「え、難民の家で食事?」「お断りするのも失礼なのかな」ということで出かけた。正直おいしいとは思えなかったが何とか食べた。食事が終わってお母さんが「この子たちの上に兄と姉がいたが殺されてしまった。だから今日からお前は私の子どもだよ」と言ってくれた。以来、「お父さん」「お母さん」と呼んで家族としてつき合ってきた。やがて家族は難民として日本にやって来たが、お父さんもお母さんも日本で亡くなりお骨の一部は松林寺に安置してある。ホッチ、モッチ、マーチは今も日本に住んで「お兄さん」と慕ってくれる。

難民キャンプに来て、和尚の仕事が死んでからの役目ではないとはっきり気がついた。今現実の世界で苦しむ人々の傍に寄り添い、共に悩み共に考え共に問題解決の道を探す、それも和尚の仕事だったんだ。そういう仕事ならばやってみたいと、初めて自覚的に和尚になろうと思った。私が本当に出家したのは難民キャンプだった、と今思う。
難民キャンプから帰ってからも、ボランティア仲間が集まり日本でできる支援活動を始めていた。それは日本にやってきたカンボジア難民のためのカンボジア語の図書館活動だった。図書カードを作りそれを翻訳して郵送で貸し出すというシステムだった。その図書館を置いたのは、原宿のアパートの一室で、そこは、団体の会長である松永然道師のお弟子さんアン・サージェント慈芳さんが借りている部屋だった。アメリカ女性の慈芳さんは、航空機ボーイング社の元部長で、現在全ての飛行機に搭載されているブラックボックスを開発したというすごい人だった。松永師が開教師でアメリカにいた時に坐禅に来て、そのまま出家し師僧について日本までやってきた。その空き部屋のドアに、手書きの看板「曹洞宗ボランティア会」を張り付けて事務所としていた。
曹洞宗教団が立ち上げた難民支援団体は2年を待たずに活動の停止を決めた。ボランティアの仲間たちは、そこに難民が居るのにやめるわけにはいかない。教団がやめるならば自分たちだけで活動を引き継げないだろうかと上馬の私のアパートで相談した。有馬実成師とボランティアOB・OGたちが集まって話し合った結果、昭和56(1981)年12月正式に「曹洞宗ボランティア会」の設立を見た。57年(1982)2月、その事務所を五反田に探し、私のアパートにあった電話、机、スタンド、本棚、冷蔵庫など家財道具のほとんどをそこに運んで永平寺に行った。研修所での3年が過ぎ、いよいよ修行に行かなければならないこととなった。それを拒む理由はもうなかった。どうせ行くなら、一番厳しいと言われる永平寺しかないと思っていた。

サンサンラジオ302 心は雪か水か

2021年02月21日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第302回。2月21日、日曜日。

この1週間でまた雪がけっこう積もりました。
飛ばした雪が壁のようになって参道が立山黒部アルペンルートのようになってきました。
これ以上はもう無理です。
庫裡の裏まで回って軒下の除雪が今季5回目です。使用ガソリンが200ℓに達しました。
これを手作業でやるのは、一人ではとてもとても無理なので機械のおかげです。
強力な電気除雪機でもない限り、化石燃料に頼る以外ありません。
そうか、電気自動車があるんだからできないこともないのか、和同製作所、あるいは日産、作らないですかね。
積もった雪の断面を見ると、その時降った雪がミルフィーユ状態になってタイムカプセルのようです。
この時はみぞれのような雪だった。この日は黄砂が降ったんだ。という具合に。

「心を入れ替えて頑張ります」と言う。
心は入れ替えることができるのでしょうか。
心臓は臓器移植で他人のものと入れ替えることができると思います。
しかし、心臓を入れ替えても心を入れ替えたことにはならないし、入れ替えられないでしょう。
過去の心をなかったことにはできません。
パソコンとは違うのですから、消去も再起動もましてや出荷前の状態に戻すことは無理です。
いや、昨日の心の状態までも戻せないでしょう。
上書きしても元の文字は消えずに残ったままです。
心は日々雪のように積み重なっていくのです。
永遠に積み重なっていくばかりです。
雪は消えますが、心は消せません。

心を入れ替えるとは、昨日までとは違う心を積み重ねていくことなのではないか。
汚れた雪はそのままに、その上に汚れていない雪を重ねていくのです。
表面はきれいに見えて、掘ってみると汚れた雪があらわになる、それは仕方ありません。過去は消せないのですから。
でも、汚れていない雪をどんどん重ねていけば、ちょっとやそっと掘ったからってなかなか汚れた雪までは到達できなくなるでしょう。
心を入れ替えるというのは、今日からどんな雪を積もらせるか、ということでしょう。
逆に言えば、過去は消さなくてもそのままでいいのです。
仕方ない、それは背負っていく以外ありません。
蝸牛(かたつむり)のように「過去を背負って歩く」と、そのように覚悟を決めた時から心は好転していくでしょう。
それが心を入れ替えるターニングポイントだと言えるかもしれませんね。

ここで疑問。
心は雪のように「固体」なのか、液体ではないのか。
昨日までの心と今日の心は混然一体と混ざり合うものではないのか、と。
前説はどうも、無理くり雪と結びつけたキライがあります。
汚れたプールの水に少しばかりきれいな水を注入しても一気にきれいにはならない。そう言えないこともありません。
それでも、諦めずにきれいな水を入れ続けること。それ以外に汚れを薄める方法はないでしょう。
こう考えたらどうですかね。
心を静かに保つと、澱が底に沈んで上は澄んでくる。ちょうどどぶろくのように。
そこにきれいな水を入れたなら澄んだ水を保てる。
怒りも憎しみも邪悪な心も嫌な思い出も、澱として底に沈めておく。
なくなりはしないけど、心の表面は澄んだ状態でいられる。決して撹拌しない。
どぶろくは澱も混ぜた方が旨いけどね。
何かの拍子に澱が湧き上がってくることもあるけれど、知らんぷりして放っておけばやがて沈んでいくでしょう。
心を鎮めるには坐禅がいいです。

今年の大般若会も集中講座も決行することに心を決めました。
私が心を決めても状況によってどうなるかは分かりません。
でも、「やる」という意志の下で考える姿勢をとりたいと思います。
そろそろ顔をあげて、前向きなファイティングポーズをとろうと思うのです。
感染に気をつけながらやれる方法はあるでしょう。
方針を決めて動きながら考える。それが私のやり方です。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

義道 その6

2021年02月17日 05時00分00秒 | 義道
教化研修所時代

正月山形に帰ると、親に曹洞宗教化研修所の入所案内を見せてみた。「何?ここに入りたいって?ようやく大学が終わって帰ってくると思っていたのに、あと3年?それは無理だ」。予想していた反応だった。どうせそうだと思っていた。大学を卒業したら永平寺かどこかに修行に行って、帰ったら役場にでも勤めて、土日にお寺の仕事をする、そういう運命なのだろう。
つぎの朝、母親から呼び止められた。「お前本当にそこに行きたいのか?」と改めて聞かれた。「昨日一晩、父ちゃんとしゃべって、お前が初めて自分から勉強したいと言った。何とかならないだろうか相談した。試験があるなら、受かるかどうか受けるだけ受けてみればどうだ」と言う。それならばと、それから少し頑張って受験した。
何とか合格してその入所許可書が実家に送られてきた。それを見た父親から連絡がきた。「これは何だ?教化研修所は分かったが『海外開教コース』とは何だ。お前そこを終わったら海外に行くつもりじゃないだろうな?そんなことを許可した覚えはない。そんなことなら辞めてさっさと帰って来い!」という剣幕だった。
そこで、教研の主事に相談した「せっかく合格させてもらったのですが、海外開教コースはダメだというので辞めさせてもらいます」。「そうかそれは残念だな。海外コースが誰も居なかったので期待していたんだけどな。じゃあ他のどのコースにする?」。「え、他のコースでもいいんですか?」ということで、一般コースに入れてもらった。

大学後半から教研に入ったころは悩み多い時代だった。過去の自分の言動を顧みて自己嫌悪に落ち込む毎日だった。その原因は何かと考えた自分の答えは「暇だから」だった。暇だから色んなことを考えて落ち込むんだ。暇な時間をなくしてしまえば悩む時間も無くなるだろう、それが答えだった。なので、教研に入ってからは、とにかく予定表の余白を埋めることに必死だった。幸い教研には、様々な情報が集まってきて、希望すれば色んな活動に参加できた。大学の日曜講座坐禅会、BBS(非行少年の更生を目的にしたボランティア活動)、仏教伝道協会友の会事務局、老人ホーム慰問伝道等々、そして難民支援活動。真っ黒く書き込まれたスケジュール帳を眺めては安心していた。いつの間にか悩むことも少なくなっていた。

教研の入所者は通常1年に5名程度だが、前年の研修生が3名ということもあってか我々の同期は8名(入所は9名だったが1名すぐに辞めてしまった)だった。先輩も同期も個性的な人たちばかりで大いに刺激を受けた。中には「この人本当にお坊さんだろうか」というような人もいて、自分も居心地がよかった。
カリキュラムは理論と実践ということで、講義や共同研究、発表があり、その他に老人ホーム慰問伝道や坐禅会の実施、本山研修や合宿、布教師養成所などもあった。

教研2年目にカンボジア難民問題が大きくクローズアップされた。曹洞宗は「同じアジアの仏教徒の苦しみを座視することはできない」と、募金を集め「曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC)」という組織を作ってボランティアを募集した。全国の青年僧侶や宗門大学の学生に参加を呼びかけ、教研にも募集が届いた。「夏休みを利用して行く者はいないか」と誘われ、すぐに手を挙げた。元々、ここに入ろうと思ったのは海外で活躍してみたいと思ったからで、そういう機会があるならば是非行ってみたいと思った。当初1か月間ということで夏休みを利用してという話だったが、直前になって現地から「1か月間ボランティアはもう必要ない。最低2か月いてくれる人でなければダメだ」という連絡が来た。それを主事の中野先生に相談すると「1か月という予定で行って、現地から帰れませんと言われれば仕方ないよね」と言われた。「なるほど、分かりました。1か月行ってきます」。

サンサンラジオ301 涅槃と断捨離

2021年02月14日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第301回。2月14日、日曜日。

大きな地震でしたが皆さん大丈夫でしょうか。
まだ詳細の状況は見えてきません。無事を祈ります。津波がなかったことが幸いです。

「断捨離」というと、思い切って物を整理する捨てるというような片付け術として使われていますが、もともとはヨガの「断行、捨行、離行」に起源があるようですね。
つまり、「断行」外からの情報を断つ、「捨行」不要なものを捨てる、「離行」執着から離れる、という意味のようです。
坐禅中の心の中は常に妄想が浮かび上がってきますが、それを追いかけるとついつい思索に入ったりします。ひらめきやアイデアが浮かんできたり、言葉や文章を考えたりしてしまいます。
それは坐禅としてはいい状態ではありません。
浮かんでは消える泡のように、思いがサラサラと流れている方が頭の中が軽くすっきりしています。
それで、最近それは「断捨離」だなと思います。
音や映像のような情報を環境的に遮断する。
悩みや心配事、思い出を捨てる。
思索やストーリーから離れる。
坐禅中に「断捨離」という言葉を想念すれば一瞬妄想は消えます。
鼻端に意識を寄せ、呼吸を意識すれば尚、妄想から離れることができます。
しかし長続きしません。すぐに妄想は次から次へと湧いてきます。
するとまた「断捨離」を想念することを繰り返します。
坐禅中の今この時間は、全てを忘れて何も考えなくてもいい時間なのだ。悩みや心配もこの時間は捨ててもいいんだ、と思えば楽になると思います。
「なんであんなことをしたんだろう」「どうしてあんなことを言ってしまったのか」。
悔やんでもどうにもならない過ぎ去った嫌な思いが浮かんできても、今だけは離れてもいいと思えば緊張が解けるのではないでしょうか。深呼吸できると思います。

明日2月15日は、お釈迦様入滅の「涅槃会」です。
「涅槃」は、インドの言葉を漢字に当て字をしたもので、「ニルバーナ」のことです。
「ニルバーナ」とは、炎が吹き消えた状態を指し、煩悩が消えた悟りのことを言います。
その涅槃には「有余涅槃」と「無余涅槃」の二つあるとされ、「有余涅槃」は肉体はありながら、煩悩の炎が全て消え去ったいわゆる悟りの状態。しかし、肉体があるうちは肉体的な根本欲求が消えていないということで、お釈迦様の生前のお悟りは「有余涅槃」となります。
それに対して「無余涅槃」は、肉体も滅んだ状態でこちらが完全な涅槃だとされます。
そこから、お釈迦様の入滅を身心ともに滅した完全なニルバーナというこで、単に「涅槃」と呼ぶようになりました。

ということで、生きている間は完全なニルバーナにはなれません。
一瞬煩悩から離れたと感じても、すぐに炎は立ち上がります。
命の炎は燃え続けているのですから仕方ありません。
なので断捨離し続けなければならないのです。
部屋の物も、一旦思い切って捨てたとしてもすぐにまたゴチャゴチャしてくるでしょ。
断捨離は思い切ることではなく、継続することなのです。

さて涅槃会。
お釈迦様は主役として涅槃図に描かれています。
しかし、これは全ての人々を代表として描かれていると言えるでしょう。
全ての人は生まれながらにして自分の人生の主役に任じられています。
お釈迦様は誕生してすぐに七歩歩き、天地を指して「天上天下唯我独尊」と言われたと。
それは、全ての人が生まれながらに唯一無二の存在である、つまり主役であるとの宣言です。
人は、みんなが笑顔で迎える中、自分は泣きながら生まれます。主役の誕生です。
そして死にゆくとき、みんなが涙を流して見送る中、主役は笑顔で退場したいですね。
それが逆だと大変です。
生まれる時にみんなが泣いて、旅立つときにみんなから笑われたのでは悲しいです。

 涅槃の図 みな泣いていて あたたかし (阿部月山子)
(これは正岡子規の句だと何かで読んだ気がしていましたが、山形在住の俳人月山子の句だと今知りました)

みんなに泣いてもらえるような生き方をしなければなりません。
誕生から涅槃まで主役を演じきらなければなりません。
みんなが泣いてくれる中を、堂々と笑ってお別れできるような生き方をしましょう。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



義道 その5

2021年02月10日 05時00分00秒 | 義道
大学時代

大学にはお寺の徒弟のための寮があった。寮費も安いしそこに行く気はないかと父親に聞かれた。当然そんなところに行く気はなかった。頭を丸めて学生服を着てお坊さんと一緒に生活するなどまっぴらだった。東京に行くのならアパートでの一人暮らし以外に考えられなかった。駒澤大学に行きたいのではない、親から離れて誰も知らないところで自由に暮らしたかっただけなのだ。
入学したての頃、親の印鑑をもらう必要のある書類があって封書で送った。すぐに送り返してもらいたくて公衆電話から電話した。「はいはい」と出たのは母親だった。「俺だ」と言うと、「お前かー」と言うなり涙声になっている。「お前な、手紙をよこすなら、なんで何か一言でも書いてよこさないんだ。父ちゃんは封筒の表と裏を何度もながめていたぞ」。
上京して初めて送った封書だった。電話のある生活ではない。ご飯食べているのか。大学はどうなのか。ちゃんと一人暮らしできているのだろうか。心配していたところに届いた初めての手紙。そこに入っていたのはペラッと一枚書類だけだった。今なら当時の親の気持ちが分かる。しかし、その時は、慮るということのできない親不孝だった。

仏教学部禅学科はほとんどがお寺の息子で、寮生も多く、色のついた服を着てパーマをかけている学生は見事に浮いていた。おそらく誰もお寺の息子だとは思わなかったろう。それでよかった。ほとんど誰とも話をしなかった。ただ、選択した第二外国語のフランス語の授業で後ろの学生服と二言三言会話を交わした。前期試験の成績を見せ合った。わずかに私の方が点数が良かった。ところがそれは最初の一瞬だけで、その後はその差が末広がりに開いていって、彼は大学を首席で卒業し、卒業式の答辞を述べ、現在駒澤大学の人気教授になっている。
頭を丸めた友だちは一人もつくらず、もっぱらサークル活動の仲間と遊んでいた。入ったサークルは広告研究会だった。クリエイティブな活動に関心があった。伝統のある文化部らしく、理論班、調査班、アート班、コピー班に分かれていて、その中のアート班に入った。広告作品のデザインを担当するグループだ。文字も全部手書きするので、面相筆を使ってレタリングなどをやっていた。どこをターゲットにしてどういうコンセプトで、という広告制作のノウハウにワクワクしていた。
しかし、何が気に入らなかったのか忘れてしまったが1年でやめてしまった。2年目バイトしながらぶらぶらしていると、同じく広研をやめた3人が新しいサークルを作らないかと誘いに来た。4人で構想を練り「駒沢オリジナルソサエティー」というサークルを作り2・3・4年と遊んだ。
バイトもした。1年から3年の夏休みは千葉の岩井海岸で牛乳屋のバイトをした。林間学校にやって来る小学生に浜まで牛乳を配達するのと、海の家の冷蔵庫の商品補充だった。歳末の時期はお歳暮配達、ロシアレストランのウエイター、小料理屋の洗い場など、遊ぶ金欲しさに色々やった。

4年生になると卒論を書くためのゼミを選択しなければならない。周りの噂を聞いて簡単に単位をくれるらしいという理由で皆川ゼミを選択した。ゼミの内容は現代の布教を考える「教化学」。同じ理由で選択した学生が教室にあふれ、ゼミとも呼べない状況だった。
11月だったか、教化研修所が毎年この時期に教化学大会というのを開催していた。何故か皆川教授から「君、出席してみないか」と誘われ、何故か行く気になった。ぼさぼさ頭を七三に分けて、一張羅のブレザーにネクタイを締めて、緊張して大会の教場に行った。二日間にわたって教授陣や研究者、研修生が次々と発表を行う。同じく聴講に来た女性が「今年は素晴らしい顔ぶれですね」と声をかけてきた。「はあ」と言ったが講師の誰一人も知らなかった。
今回は特別講義があるという。「講師、ヨーロッパ海外開教師弟子丸泰仙老師」。名前も開教師という肩書も聞いたことがなかった。しかし、老師が壇上に上がるときのオーラのようなものは強く感じた。「何だこの人は!」と目が釘付けになった。弟子丸老師は、坐禅の坐蒲一つを抱えて単身フランスに渡り、言葉も分からないので演壇上で90分黙って坐禅した。その姿に心惹かれた人が次から次へと訪ねて来て、ヨーロッパ禅センターの礎を築いたという伝説の人だった。
「何?この人」「開教師って何?」と関心をもって資料を読んでみると、曹洞宗教化研修所には海外開教コースというのがあるらしいということを知った。そこに入ればあの人のようになれるのだろうか。住職の仕事が死んだ人を相手にするだけではなく、仏教が伝わっていないところへ布教に行くというのはダイナミックではないか、とワクワクしてきた。

サンサンラジオ300 浪曲米寿の母

2021年02月07日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。2月7日、日曜日。
パンパカパーン!記念の300回目でーす!

いやー、続きましたね。毎週で5年以上ですか。我ながらよく続いたと思います。
これからも毎週日曜日の朝、ぼちぼちと何か語っていきたいと思いますので覗いてみてくれたらうれしいです。

実は今日は、母親の誕生日で、満87歳になります。
計画としては、家族でどこかに出かけ米寿のお祝いをしようかと話をしていました。
厳密に言えば、数え年と誕生日は関係がありませんが、まあそれはそれとして。
ちょうど1年前に風呂で溺れ、その後から少しずつ認知症が進んできました。
今思えば、溺れたのも認知の症状からだったかもしれません。
誘われればどこにでも出かけていく、前向きで明るい性格の母でしたが、次第に笑顔が消え言葉も出てこなくなりました。
それでも孫やひ孫たちが集まれば何とかなると思っていました。
ところが、12月24日、ずるずると崩れるように廊下で倒れ、カミさんと二人がかりで抱き起し病院まで連れて行きました。
玄関から車まで背負ったのですが、
 「軽そうで 母を背負いてそのあまり 重きにあえぎ三歩歩めず」
というような感じでした。
体重40㎏もないのですが力の抜けた体は予想以上に重いのです。
そして経過観察のための入院となりました。
病院では家族でも面会ができず、洗濯物を届けるだけでした。
それから1か月、先月28日に隣接する老健施設に移り、3月末までの短期入所となりました。
その後は、できるかどうか自宅で介護してみようかと思っています。
月曜日、ガラス越しに面会ということになり玄関先で顔を見てきました。
「誰だか分かる?」の問いかけに、はじめ、「息子の嫁」は分かるのに息子と娘は分からないようでした。
少しすると思い出したようでしたがそんな風になってしまいました。
一昨日も施設から電話があり、「口の中から何か出ていたので見たら補聴器を舐めていました」と。飴と間違えたのでしょう。
アルツハイマー型認知症ということで、これからも進行して回復することはないと思われます。
計画していた米寿のお祝いも、春になって帰って来てからということにしました。

恩師からレコードをいただきました。『浪曲 御伝記 道元禅師・瑩山禅師』。
LP版の5枚組で、10人の浪曲師によってA面B面合わせてそれぞれの伝記が5話ずつ収録されています。
作は木村学司、口演は大好きな春日井梅鶯の他、浪速家辰造、広沢虎造、東家浦太郎、天中軒雲月などなど、当時の人気浪曲師が担当しています。
内容も素晴らしいし、芸能としても十分楽しめるものとなっています。
木村学司は、浪曲作家、劇作家で、NHK専属作家を経て、晩年「宗教レコード制作本部」を立ち上げ、この他、日蓮、親鸞、法然などの伝記を浪曲に仕立てています。
昭和47年発売当時の価格が1万円ですから、消費者物価が4倍として今の価格で4万円ほどで販売されていたことになります。
しかし、こんなものがあったということすら知りませんでした。
浪曲が斜陽であることは否めませんが、こんないいものの存在すら知られていないのは実にもったいないと思いますし、残していきたいと思います。
浪曲の起源は仏教のお経を節をつけて読む声明(しょうみょう)にあるとされ、その後「祭文語り」「説教節」「節談説教」「阿呆陀羅経」などに変化したものの影響を受けて大道芸となり発展しました。
「祭文」という言葉は今でもお寺の行事に残り、祖師の業績を称える四六駢儷体(しろくべんれいたい)などの文章として法要の中で読まれます。つまり、もともと祖師方の一代記などを語って布教したものが大衆芸能に溶け込んでいったものなのです。
それが今の形にまとまったのは明治初期で、大正から昭和の最盛期には浪曲師が3000人もいたほど隆盛しましたが、戦後次第に下火となりました。
私が浪曲に関心を持ったのはいつだったのかきっかけは何だったのかはっきり覚えていませんが、カセットテープの時代に聞き始め、今でもNHKのらじるらじるで「浪曲十八番」を聴いています。
落語や講談のように語りだけではなく、演歌のように歌だけでもない。語りと歌と演じ分け、いわば総合芸能ともいえるものが浪曲なのです。
題材としては戦国軍記物、忠臣蔵、次郎長や国定忠治の任侠物、佐渡情話などの人情物、「歌入り観音経」など仏教系のものもあります。
いずれにせよ「泣かせる」話がほとんどだといってもいいでしょう。
道元禅師、瑩山禅師の御伝記の中にも泣かせる部分があり、そこはやはり浪曲なのです。
いやー、いいものをいただきました。
レコードプレーヤーはとっくの昔に処分していたので安物を買いました。
300回、米寿、山あり谷あり。
「山より高き父の恩~、海より深き母の恩、知るこそ道のはじめなれ~」
浪花節だよ人生は。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



義道 その4

2021年02月03日 05時00分00秒 | 義道
高校時代

 高校は中学よりも楽しかった。父親と顔を合わす時間が少ないだけ楽だったのかもしれない。
 選択科目は美術を選び、部活は山岳部に入った。旧制中学のバンカラ気風が残る高校で、下駄で通学する生徒が多かった。
 山岳部で1か月ほど経った頃体育の授業でサッカーをやった。体育の村上先生は国体でサッカーの山形県代表選手だった人。授業終了後、先生からサッカー部に来ないかと誘われた。「腰がしっかりしている」というようなことを言っていた。誘ってもらったのはうれしいが、せっかく山岳部に入って楽しさも感じていたのでどうしようか迷っていた。すると、村上先生とその先輩である中学担任の草壁先生が家にやって来た。二人してサッカー部に入れという。親は、山岳部に入ったことを心配していたので、もろ手を挙げて賛成に回った。そこまで言われればと、山岳部に未練を残しながら転部することにした。
山岳部の部長に相談すると何故か「その方がいい」と言う。一抹の寂しさはあったがスパイクを買ってサッカー部の門を叩いた。しかし、部内の空気は山岳部とはまるで違っていた。先輩後輩の上下関係がはっきりしていて、言葉遣いも態度もガツガツして、競争の世界だと思った。それが高校の運動部なのだとは思うが、自分には遊び部のようなゆるゆるの山岳部が合っていると感じ始めた。悩んだ末、1週間で山岳部に戻させてもらった。
 山岳部では毎月のように神室山系に登り、夏冬の合宿にも行った。2年生後半からはリーダー、部長を務め、国体予選にも参加した。その山岳部の仲間で副部長だった荒井利弥君が平成19年9月17日51歳で亡くなったのはショックだった。もう一つ残念だったのは、1年生の時、3年生の先輩が部室でタバコを吸っていたのが見つかり、夏合宿の朝日連峰縦走が中止になったことだった。一つ上の先輩は激怒していた。

 入学直後、先輩から「何月生まれだ」と聞かれた。「5月です」と言うと「春組か」と言う。この高校は、生まれ月によって運動会の組分けが決まっていた。3から5月が春組、6から8月が夏組、9から11月が秋組、12から2月が冬組という具合に。当然組の人数が違う、平等ではないのだ。優勝するのはたいがい人数が多い春か夏と決まっている。3学年の時、戦後初めて冬組が単独3位になった。そのことで優勝した春組よりも大喜びをしていた。学校の先生も全員が生れ月によって組分けされていて、その出番もあった。先生たちは何故か冬組が多かった。
これはその当時の話なので時効として話をすれば、単独3位を喜んだ冬組の先生たちが、春組の陣地部屋にやって来て「ありがとう!」と酒を置いていった。当然先生方も生徒たちも飲んでいた。今では信じられないことだが、そんな気風だった。3年のクラスマッチの時も、早々に全部負けてしまって教室で飲んでいた。酒に酔ったまま汽車で帰った生徒が他校の先生から見つけられ、学校に注意があった。次の日先生が教室で放った言葉がおかしい「お前ら、見つかるな」。
 文化祭でも飲んだ。クラスで模擬店をやって、おでんを販売した。許可の条件は材料費だけの売り上げにして儲けてはダメだということだった。その条件を飲んで販売したがちゃんと二重帳簿を付けていて、浮かした金で打ち上げをした。とにかく酒を飲む高校だった。
新庄北高は2学年から理系と文系に分かれて、そのクラスはそのまま3学年に持ち上がる仕組みだった。4組の担任の丹先生がまたよかった。今考えれば20代のまだ若い先生で、みんな兄のように慕っていた。
3年の夏休み直前、校舎が新築移転することになり、教室の机と椅子は自分たちで運ぶということだった。自分の分をそれぞれに運ぶクラスもあったが、我が4組は全員が一団となって旗を先頭に20分程の行程を行進した。旧教室の前の廊下には中庭向けの大時計が据え付けてあった。いつからか止まっていて動かない時計ではあるが、このメモリアルの時計は我々の責任で新校舎に運ぶ使命がある、と勝手に決め込んで、大風呂敷に包んで私が担いで運んだ。そのクラスの仲間は50年近く経った今も時折顔を合わせる仲として続いている。

大学はどうせ駒澤大学仏教学部だからと、甘く考えていた。その頃の駒澤大学は「日、東、駒、専」と一括りに呼ばれた二流?三流?大学で、中でも仏教学部は合格ラインが低かった。受験勉強も適当に構えていた。学校を理由もなく友だちと早退して、汽車の中でウィスキーのポケット瓶をあおりながら帰ったこともあった。
ただ、宿命と思っていたことに抗ってみたいという気持ちも湧いてきていた。駒澤大学仏教学部でなければどうなのだろうかと。駒澤大学以外の大学で親を納得させるには二流三流大学ではダメだ、せめて六大学でなければ、ということで、全国模試の合格ラインで某大学の文学部であれば頑張れば入れなくはなさそうだ。そう思いついてから慌てて受験勉強を始めた。受験の数か月前だったと思う。一応は受けた。受かってからどうするか考えようと思っていた。考える必要はなかった。見事に落ちた。結局駒澤大学仏教学部以外に行きようはなかった。それでもまだ抵抗したい気持ちが残っていた。
いよいよ明日は上京だという時に、頭にパーマをかけて行こうと思った。どんくさい田舎者だと思われないように精いっぱい都会風にして行こうと思った。母親に町で一番モダンなパーマ屋はどこだと聞いてそこへ行った。行く前に男性パーマができるかと電話で確かめるとできると言う。店に行くと「どんな髪型にしたいのか」と聞く。当然「野口五郎のように」と答えた。「分かった」と言う。分かったというからにはできるのだと思っていた。クルクル巻いたり臭い液体をかけたり洗ったりして「できました」と言う。鏡を見て顔が青冷めた。鏡に映ったのは、野口五郎ではなく、どう見ても天地真理だった。
その晩家族で最後の食事をした。姉が「お前もこれでようやく決心したんだな」と言う。それに対して「いや、和尚の道しかないかどうかを探しに行くんだ」と、まだ抵抗していた。
次の日、天地真理のまま東京に向かった。