なあむ

やどかり和尚の考えたこと

原発の決断

2012年07月22日 20時52分30秒 | ふと、考えた

原発再稼働の議論は、結局のところ原発を0にするか少しでも動かすかの選択でしょう。何%という問題ではないですね。

福島第一の事故によって我々が知り得たのは、「安全」という謳い文句のウソでした。「絶対」などと形容詞を付けた分だけその不信感は更に高まったと言わなければなりません。

「安全」という言葉がウソである以上、今後、その言葉の上に成り立っている原子力発電の「安全性」は全く信用ならないということは明らかです。

日本の事故を受けて、ほとんど地震のないドイツが原発0を目指すことを決めたのに、多くの活断層の上に乗っかっているその当事国が、事故の原因も究明されず、被害者が全く救済されないうちに、この期に及んで再稼働させるなどという暴挙は正気の沙汰では考えられません。

再稼働の理由は電力不足ということです。しかし、火力発電を止めての再稼働ですから、理由は違うところにあるのでしょう。温暖化の問題と燃料費の問題という理由もあるのでしょうが、それでも、今この時期に原発を、また動かす、という決断を、あまりにも簡単に、一人の政治家の軽い「決断」に委ねてはいけないでしょう。

今この国は、世界に先駆けての大きな判断を迫られているのだと思います。

福島県全土、また周辺地域の人々の苦しみは、その判断を迫られるきっかけとして充分過ぎるほどの惨状です。

なぜそのことに目が行かないのが、なぜそのことに考えが及ばないのか。想像力が鈍すぎます。

さて、その決断とは何でしょうか。

本当に電気がないと生きられないでしょうか。

「今更電気のない生活など考えられない、原始時代に戻れと言うのか」。

原始時代というのは大げさで、日本の田舎の庶民の生活に電気が普及したのは昭和になってからでしょうか。たかだか100年そこそこのことでしょう。

それでも、原始時代に戻ってしまうように思ってしまうほど、我々は電気にどっぷり依存した生活をしてきました。

しかし、原発0を主張している人も、「電気0」を主張しているわけではありませんね。

お陰様で、原発を使わなくてもある程度の電気は造れるということが、色々な分野の開発で分かってきています。

そこで決断ですが、一つは、福島のような苦しみの人を二度と出さない。今の福島の人々の苦しみを決して無駄にしない。安全の確保できない原発は、もうやめよう。そのことで生活が少し不便になるとしてもそれでもいい、という選択。

そうしてもう一つは、誰かが「安全」と言うのを信じて、どれ程の割合かは別にして原発を使っていく。多少のリスクはあっても今の便利な生活は決して変えたくない、という選択。

どちらを決断するのか。これは二者択一です。中間はありません。

その時に頭に置いていなければならないのは、未来の世界です。未来の人々がどのような世界に生きることを幸せと感じるか。その想像力を働かせなければなりません。

残念ながら、振興国はこれからどんどん原発を造るようです。一つの原発の事故は世界に影響を及ぼしますから、ゆゆしき問題です。だからといって、日本まで対抗して原発の危険を抱え込む必要はないでしょう。他の国と比べて格段に地震の可能性が高いのですから。

そして、広島、長崎を経験した被爆国日本が、世界に先駆けて核廃絶を訴えたように、この度の大きな事故を経験した日本が、世界に先駆けて原発廃絶を実現する使命を負っていると言うべきでしょう。

でもですね、実はどうも、原発推進の陰には核保有という隠された理由がありそうですね。中国などの核保有国への抑止のために、原発を残し、核技術の温存が必要と考えている人がいるようなのです。

どうですか、日本が他国から核攻撃を受けないために核を保有する必要があるでしょうか。そのために原発を動かし続けることがこの国の未来のためなのでしょうか。

皆さんはどう考えますか。


大震災131 神様知恵をください

2012年07月17日 15時00分23秒 | 東日本大震災

7月14日の朝日新聞「声」欄に掲載された記事です。

声の主は東京都武蔵村山市の小学生(9歳)の藤澤凛々子さん。

「この前、ギリシャ神話を読みました。人間に火を与えた神プロメテウスに、全能の神ゼウスが言いました。『人間は無知で、何が幸せで何が不幸かわからないからだめだ』

私はずっと人間は他の動物よりかしこいと思っていました。火を使い、便利で幸せな生活を送っているのは人間だけだからです。

でも、大い原発が再稼働したというニュースに、ゼウスの言う通り人間は無知なのかもと思いました。福島第一原発事こは、まだ終わっていません。放しゃ能で大変な事になってしまうのに、この夏の電力や快てきな生活を優先したのです。大い原発は幸せな未来につながるのでしょうか。私が大人になるまでに日本も地球もだめになってしまうのではないかと心配です。

神様、どうか私に目先の事だけでなく未来の事まで考えて何が幸せで何が不幸なのかわかる知恵をください。その知恵で人も他の動物も幸せにくらせるようにしたいです。おねがいします。」

9歳の女の子が神様に願うこと、それが、「目先の事だけでなく未来の事まで考えて何が幸せで何が不幸なのかわかる知恵をください」という叡智だということに感動します。

この国の未来を生きるのは、間違いなく、今現在の若者子どもたちで、その人たちがどんな未来にしたいのか、その意志決定はその人たちに任せるべきだと思うのです。

原発を稼働しないと電気が足りなくなるのであれば(あるとしても)、そのように説明して、原発による快適さを選ぶのか、それとも多少不便でも安全な生活を選ぶのか。未来を生きる人たちが選ぶべきだと思うのです。

未来のないお年寄りたちが、それまでの常識だけで未来を決めることは慎むべきでしょう。

もし、国民投票を行うなら、必ず子どもたちにも投票してもらいたいと思います。

決して子どもたちは無知ではない。

凛々子ちゃんのように、何がもっとも必要なのかをちゃんと知っています。

私も祈りましょう。

「神様仏様、どうか、政治家に、目先の事だけでなく未来の事まで考えて何が幸せで何が不幸なのかわかる知恵を授けて下さい」

「どうか、私に、どの政治家が未来の日本のため、世界のために役立つ政治家なのか、見分ける力をください」


日本人と行列

2012年07月15日 06時34分46秒 | ふと、考えた

昨日東京での法事の席で、震災直後の避難所で行列に並んで支援物資を受け取っていた光景の話題になりました。

赴任でしばらくドイツに暮らしていた夫妻の話では、ドイツでも他のヨーロッパの国でも行列というのを見たことがない、とのこと。

中国を初めアジア各国もそうだし、おそらくは南米などもそうだろうという話になりました。

ということは、行列は日本固有の光景なのか。

海外の震災報道では、「ありえない」という感歎の声とともに、日本人の人間性を高く評価されたようですが、それはもしかしたら、日本人の道徳的性格もさりながら、日本人は「行列が好き」という特異性もあるのかと思いました。

何を待っているのか知らないけれど行列があればとりあえず並んでみる、などという笑い話のような事実があるほど、日本人は行列が好きなようだ。

みんながいいというものはいいのだろう。行列の長いラーメン屋ほど旨いに違いない。行列に並ばないと損をするかもしれない。あれだけ待ってありつけたのだからこれは旨いと思いこむ。

それは、価値判断を大衆に依存する、個の未成熟という側面であるかもしれません。

それは、マスコミを無防備に信じてしまう、あるいは利用されてしまうという問題もはらんでいることでしょう。風評被害や差別の温床でもあり得ます。

かといって、個の成熟が、我が儘勝手、他を顧みない自己主張になってしまっては元も子もありません。

日本人の道徳的な性格は失わずに、もう少し個の成熟があればいいのではないか。特に政治家を選ぶ上ではそのように思います。

行列を、道徳的という一面だけを見て評価することによって、個の成熟を抑えることにならないよう注意しなければなりません。


縦と横の絆

2012年07月15日 06時34分07秒 | ふと、考えた

「絆」という文字は「糸」が「半分」と書いて、一人ひとりの力は非常に弱く、頼りなく、儚いものだから、他の糸と撚り合わなければ生きていけないという意味なのだ、と今年の正月気仙沼の漁師さんから聞いた話を、法事の席などで時折しているのですが。

昨日もその話をしていながら気がつきました。

これまでは、撚り合わせていく「つながり」を家族とか社会とか、横の関係ばかりについて話をしてきましたが、先祖から子孫までという縦のつながりもあるはずではないか、と気づいたのです。

つまり、社会的なつながりを横軸とすれば、命のつながりを縦軸とする二次元的な「絆」が必要なのだろうということです。

縦糸と横糸が織りなされて人生が形成されるのであれば、横糸ばかりのつながりを強化しても人生が強靱になることはないでしょう。

先祖からいただいたものを強く意識し、また子孫への継承も強く意識することで、しっかりした人生が織りなされるに違いありません。

仏壇を祀り、掌を合わせることの意義も「絆」と意識したいものです。

縦横のつながりが希薄になってしまっているからこそ、災害によって気づかされる「人間にとって最も大切なもの」。

その気づきを一過性のブームに終わらせてはならないでしょう。まさか、「絆」が流行語大賞になったりしないように、気づいたものは継続していかなければなりません。


想い出の使い方

2012年07月10日 22時22分56秒 | ふと、考えた

「想い出」の唯一の効能は、人生の最期に、もう不可逆的な状態だと自ら覚った時に、楽しかった記憶を、繰り返し繰り返し反芻することで、穏やかにその時を迎えることができる、ということではないか。

人間は未来に希望を持てないことで絶望するのでしょう。

しかし、「未来は定まっていない以上、全ての絶望は、勘違いだ」との言葉があるように、まだ時間があるのに絶望してしまうのは早合点というものでしょう。

会社が倒産しようと、恋人と別れようと、重い病気に罹ろうと、残りの時間があるのなら、絶望するのはまだ早い、最後まで希望を持ち続けていかなければなりません。

が、しかし、人間には、どうにもならない、最期の最期の時間がやってくる。

もう元に戻ることはあり得ない、誰かと会話することも、手を握ることもできなくなったその時、残されているのはわずかな時間だと理解するに充分な状況のその時。

それは、数日、あるいは数時間かもしれない。

人間に残された、死を迎える恐怖から解放される力、それは、楽しかったことを思い出すことなのではないか、とふと思ったのです。

それ以外の時は、想い出なんか、時間つぶしにしかならない。過去の栄光を思い出すことで、未来が色あせて見えてしまうことにもなりかねません。

どんな時にも、過去を振り返えらず、残された未来を見つめて生きるべきでしょう。

楽しい想い出は、最期の時にとっておくのがよろしい。


神応院、仏教講話会

2012年07月08日 12時18分29秒 | 今日のありがとう

昨日の夜は、広島、呉の神応院仏教講話会でした。

ここ数年お招きいただいています。

神応院さんの講話会は歴史が古く、戦後間もなく始められて、現在も月に一度のペースで開かれています。

その講師陣がすごい。

今年の年間スケジュールによれば、3月奈良薬師寺大谷徹奘師、大阪大学名誉教授大村英昭先生、4月駒澤大学教授池田魯参先生、5月京都一灯園石川洋先生、6月愛知専門尼僧堂青山俊董老師、9月前駒澤大学総長奈良康明先生、10月群馬県佐藤達全先生、11月駒澤大学教授角田泰隆先生、12月駒澤大学名誉教授佐々木宏幹先生などなど、当代超一流の先生方が講演され、しかもそのほとんどが長い期間に亘り、連続の講義をされています。

そのほかに、ざぶとんコンサート、花祭り、アジア祭り、お月見会など、催しがあります。

何と!つい先日のアジア祭りでは、さん喬師匠が高座を勤められたとか、ご縁を感じます。

そんな中に入って私はというと、7月がボランティア月間という位置づけで、その枠での講演ということになっています。

一流の先生方と肩を並べられるわけもなく、自分の目で見てきた経験してきたことを話す以外にありません。

昨年に引き続き、東日本大震災関連の話をさせていただきました。広島は被爆地でもあり、福島の問題も、関心を持って聴いていただけたと思います。

ありがたいことに「来年もよろしく」と言われています。

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タオルののりしろ

2012年07月04日 22時55分37秒 | ふと、考えた

「松林寺と宿用院、普段はどっちにいるんですか?」

よく聞かれます。

「普段ですか・・・、用事によって、あっち行ったりこっち行ったり、どっちにもいないときも・・・」

うーん、考えてみると、「普段」というのがないかもしれません。

決まったところで起きて、仕事して、決まったところで寝る、ということを「普段」というのでしょうが、ここ最近は、3割が松林寺、3割が宿用院、そして4割がどちらにもいない、という感じです。

毎日が、その場その場で生きています。

6月29日は、松本で、長野県仏教会の大会があり、やなせななさん早坂文明さんと3人で出演してきました。20120629_110112

もちろんメインはななさんのコンサートですが、その前座として3人で鼎談というかトークショーをやりました。もうすっかり「チームドラえもん」です。

被災地の話、支縁の話、そして福島の話、限られた時間でしたが思っていたことは伝えられたと思います。

その後のコンサートは、いつものように涙を拭きながらのいいコンサートでした。

みなさん感動されていました。

何度聴いても、また聴きたいと思う不思議な力を持っています。

昨年新庄支局にいた朝日新聞の記者が諏訪支局に転勤になっていて、おいしい酒ケーキをお土産に訪ねてくれました。

そんなことで、タオルのご縁はまだまだつながっています。

短いタオルの足りない部分が見えないのりしろとなって人々をつないでいくんだ、と感じています。

55000枚も足りなくなりそうで、また追加の必要がありそうです。