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やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ414 トンネル

2023年04月30日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第414回。令和5年4月30日、日曜日。

4月最終日となりました。
明日からは5月。私の一番好きな月、季節です。
5月生まれの皆さんに、一足お先におめでとうを申し上げます。

先日25日は新潟、直江津に出かけました。
普段はスマホでeチケットとSuicaを利用して出かけるのですが、領収書が必要なため、駅の窓口でチケットを購入しました。
窓口で、ネットの乗換案内で調べた乗換手順を示してみると、色々調べて、乗車券を「鳴子温泉駅から高崎駅」と「高崎駅から鳴子温泉駅」というルートで取ってくれました。
地図が頭に浮かばず、そのまま言われるままに、古川駅から大宮乗り換えで北陸新幹線上越妙高駅へ。そこからえちごトキめき鉄道はねうまラインに乗り換えて直江津まで。
帰りは、直江津駅から北越急行ほくほく線経由で越後湯沢駅、上越新幹線乗り換えで大宮経由古川駅というルートでした。
帰ってから調べてみると、鳴子温泉駅から高崎駅は、一筆書きの「の」の字のようなルートで、上越新幹線上の高崎を経由したことになるのでした。
直江津は、富山県に近い長い新潟県の南端の街で、北陸新幹線が開業するまでは、ほくほく線を経由して東京から金沢に行く最短ルートの途中駅でした。
今は、北陸新幹線の上越妙高駅から15分ほどで到着することができます。
ただ、連絡時間の関係で、帰りの乗り換え案内は別ルートを選択したようでした。

ほくほく線は、昨年十日町まで行った時に、越後湯沢から乗りました。トンネルが多いという印象を受けましたが、今回全線を乗ってみて、さらに十日町から犀潟までの間にもトンネルがたくさんあることを知りました。
調べてみると、北越急行ほくほく線は南魚沼市六日町駅から上越市犀潟駅までの約60㎞で、その間の何と67.8%がトンネルだとのこと。
確かに、乗った印象では、ほとんどがトンネルの中を走り、途中切れたところに駅があるという感じでした。
中でも美佐島駅はトンネルの中にあり、ホームが何と地下10mにあるのでした。
美佐島駅がある赤倉トンネルは、これまた何と、上越新幹線の塩沢トンネルと立体交差になっていて、その間隔が1mもないとのこと。驚きの連続です。
さらにネットの情報を見ていくと、この路線の開設計画は戦後まもなく始まりましたが、どのルートを通るかで「北越北線」案と「北越南線」案の対立が激しく、「南北戦争」と呼ばれていたとのこと。
結局北線案が採択され、「ほくほく線」の名称につながりました。
紆余曲折がありながら、昭和43年に着工され、開業したのは平成9年のことです。実に29年の年月を要しました。
これだけのトンネルを掘るのですから、難工事だったことが容易に想像されます。ただ、豪雪地帯を走る路線であるため、トンネルはその対策としては有効だったのだろうと思われます。
また、路線の中に踏切が2か所しかないということも驚きです。それだけトンネルと高架線の路線なのです。
北陸新幹線が開業するまでは、ここを金沢行きの特急「はくたか」が時速160㎞で走っていました。利用者もたくさんあったようです。
今は各駅停車の普通列車のみが走っており、私が9時3分直江津駅発に乗った時には乗客が2両に二人だけでした。
長年かけて苦労して開業したこの路線が、今や営業的にトンネルの中を走っているのではないかと、将来を想像して暗い気持ちになりました。

他人事ではありません。
我が陸羽東線も最赤字路線らしく、近い将来廃止になるのではないかと心配されています。
時代の流れと共に移動交通手段も変わり、人口が減少し、赤字を抱えたまま存続し続けるのは困難なことでしょう。
鉄道にかけた当時の夢と希望、工事に携わった多くの人々の苦労、景色や音や匂いと共にある思い出も消えてなくなるのは寂しい限りですが、それも一時代のアルバムとなるのであれば仕方のないことです。
今は夢のような空中移動が、間もなく実現するのかもしれません。
そうなれば、陸上を走ることすら時代遅れになるということでしょうか。「昔トンネルというのがあってね」というような。
「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」というような情緒はなくなるわけですね。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンデーサンライズ413 八正道

2023年04月23日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第413回。令和5年4月23日、日曜日。

木の芽が出てきました。
と言っても、当地で「木の芽」と呼ぶのは山椒の芽ではなく、色々な木の新芽を総称してそう呼びます。
代表的なものはアケビで、それはそろそろ終わりです。その後に出てきたのがハシノメで、朝の散歩の途中にあるので毎日のように摘んできています。
タラノメ、コシアブラ、ウコギなども好まれる木の芽ですね。
考えてみれば、春の山菜はどれも、コゴミ、ワラビ、ゼンマイ、シオデ、アイコ、クワダイ、タケノコなどなど、植物の新芽なわけで、厳しい冬を乗り越えて顔を出した瑞々しい命をいただく、この上ない贅沢だと思っています。
冬の間に眠っていた体を目覚めさせるために、多少苦みやエグミのある味が、山の動物も含めて必要とされるのだということです。

17日、6月の講演の打ち合わせで八戸へ。
青森県第2の人口の漁港の街。豊富な海産物が水揚げされ昔から賑わってきました。
市仏教会は宗派を超えて和合していて、毎年大規模に花まつり法要を開催してきました。
今年4年ぶりの本格開催で呼ばれています。
間を取り持ってくれた和尚さんと久しぶりの再会をし、地元の美味しいお酒も頂戴しました。
19日は仙台で東北管区の布教師協議会でした。
こちらもお仲間の和尚さんたちと一献傾けましたが、連日の疲れもあっておとなしく休みました。
今月はこれで4回目の外出でしたが、まだもう1回あります。
3月4月は葬儀も多く、都合10件を勤めました。
「忙しい」と口にするのは恥ずかしいことという認識があり、負けを認めることのように思い込んでいるので意地でも言いません。
だいたいにして、多くの用事があろうが特に何もすることが無かろうが、一日の時間は24時間と決まっており、ほとんど同じ回数の心臓の動きと呼吸を繰り返しているので、この時間をどう過ごしたかの違いだけです。
自分だけ速度の違う時間を過ごしたわけではありませんし、多くの時間を生きたわけではありません。
バタバタ動いているから偉いわけでもなく、人気があるわけでもありません。
自分の時間を、心臓の動き、呼吸のリズム、足の運びの速度に合わせて、無理をせずに使っていけばいいでしょう。
私は寝るのが好きなので、夜8時には寝て朝4時過ぎに目が覚めます。しっかり8時間は寝ます。
他人の時間を使うことはできません。他人と比べることでもありません。
自分の時間の使い方が、命の使い方です。
そして、自分の務めをきちんと勤めることを第一としなければなりません。

お釈迦様の言葉をまとめた『法句経』に次のような一節があります。

他人を利すること 多かるとも
このことのゆえに おのれのつとめに 怠るなかれ
おのれのつとめをしり そのつとめにこそ 専心なれ


おのれのつとめに励む上で、行動の判断基準として心にとめておかなければならないのは、お釈迦様が示された正しい生き方「八正道」です。
それは次の八つです。

1,正見ー正しく見る、先入観で色付けして見ない。
2,正思惟ー正しく見て、正しく考え判断する。
3,正語ー正しく考えて、相手に対して適切な言葉を使う。
4,正業ー正しい判断で、正しい行いをする。
5,正命ー正しい行いによって、正しく生活する。
6,正精進ー正しく生活できるよう正しく努力する。
7,正念ー正しい祈りを持つ。全ての人が幸せであるように。
8,正定ー正しい姿勢で座り、心を静かに保つ。そうすれば、正しく見、正しい判断ができる。

このように、八正道はそれぞれ一つが八つあるのではなく、八つがつながり連動しているものです。
「正しさ」とは、誰にとっても幸せであることと言ってもいいでしょう。
そんなことは理想論だ、世の中は勝つか負けるかだと一蹴する人もいるでしょうね。
そのどちらの立場に立つのか、それが仏教徒かそうでないかの分かれ目なように思います。
現実は理想とは違う、全ての人が幸せなどなり得ようがない、と思う人の側に立つ人は仏教的ではありません。
現実ではなく、理想として目指すものを見つめて、そのための努力を続ける人の側に立つ人、それを仏教徒あるいは仏教的だと言いたいと思います。
「衆生無辺誓願度(この世に苦しむ人々は数限りなくいるが、一人残らず救うことを誓願する)」が仏教徒の願いだからです。
そういう意味では「誰一人取り残さない」も仏教的だと、私は受け止めます。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ412 親の葬式

2023年04月16日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第412回。令和5年4月16日、日曜日。

松林寺の枝垂桜が満開となり、遅ればせながら最上にも春爛漫の季節がやってきました。
桜が咲けば種蒔きの季節となっていて、周囲の農家もその準備に追われています。
我等が酒米「出羽燦燦」も昨日種蒔きをして、来月20日ごろに田植えとなる段取りです。
数量は昨年同様、約2400㎏の収量を目指します。
2年目の酒の味も大変好評で、多くの方にリピートで飲んでいただいています。

さて、4月に入り慌ただしく色々な用事が動き出しています。
今年は法話も以前のように予定に入って来ています。
次々埋まっていく日程表に、この3年間は楽だったんだなあと惜しむような気持ちがない訳ではありません。
感染症もさほど気にしないようになったということでしょうか、これまで規制されていた火葬場の人数制限がなくなり、先日、地元の自宅葬では大勢の親戚が集まり、終わってのお斎は座敷いっぱいの人が、大声で飲んでは食べていました。
97歳のお婆ちゃんということもあり、葬式かお祭りか分からないような賑やかさでした。
コロナ前に一気に戻ったような懐かしさを感じました。
これが田舎の儀式であり、良さでもあると思います。
感染対策を理由にして、積極的に家族葬を選択するのは如何なものかと歯がゆい思いをしていました。
人は家族だけで生きてきたわけではありません。親戚や地元、友人や仲間と共に、時には助け合い、時には支え合いながら生きてきました。
亡くなる本人が何か挨拶できるならば、きっとお世話になった人々一人ひとりに感謝の言葉を述べたいに違いないと思います。
その気持ちを汲んで、その場を設定するのが遺族の務めでしょう。
親の葬式を「家族で済ませました」というような、物事を処理するようなことでは相済まぬことと思うところです。

テレビコマーシャルで、「80歳からでも入れる保険」というような内容でよく言われるのは「子どもたちに迷惑をかけたくないでしょ」というフレーズ。
よくないですね。親の側がそう考えるべきだという誘導が社会の意識をつくっていくことになりかねません。
親の葬式を迷惑だと捉える社会はおかしいです。もちろん、この場合は「お金を遺さないと迷惑をかける」という意味ですが。
少し前の葬式の際も、「父親が何にも遺してなかったから」と費用について嘆いていました。
遺産があろうがなかろうが、親の葬式を勤めるのは子どもの務めですよね。
それほどお世話になってきたのだから、当然のことです。
自分の葬儀代を自分で遺しておかないと安心して死ねないというのでは、親はかわいそうです。コマーシャルの弊害です。
田舎では、そのために地域での「悔やみ」の慣わしがあったものでしょう。
あそこからはもらっているから返さなければならない、というある意味保険のような慣わしで、生前に出していた香典は自分の時に返ってくる、それで葬式を出す仕組みだった訳です。
家族葬というのは、その仕組みを壊すことでもあります。

「野辺送り」という慣習がありました。
その言い方は土葬時代の名残りかと思いますが、墓までの葬列を野辺で見送る慣習です。
村の仲間をみんなで見送る、という別れの儀式でした。逆に「むかさり」は、花嫁をみんなで迎える入村の儀式でした。
村に迷惑をかけた「村八分」の制裁があっても、二分だけはつき合いをした、それが火事と葬式。
葬式は、個人、家族の儀式ではなく、村の行事だったのです。
都会では無理にしろ、田舎であればこそ、そんな土着的なつき合いを田舎の特徴、良さとして残していきたいと思うところです。
感染対策がゆるくなり始めた今元に戻そうと努力しなければ、地域のつながりを断ち切る事例が既成事実となってしまいます。
そんなうっとうしい田舎のつき合いが嫌ならば、どうぞ都会に出てください。
田舎には都会の良いものはありません。逆に都会には田舎の良さがないでしょう。
どんな理由にしろ、今生きている所でこれからも生きていくならば、無いものを求めて悲観するのではなく、あるものを享受してそれを喜びとしなければ、楽しい人生を送ることはできません。
今、ここ、を自分の足で立つ、生きる、その覚悟から人生の喜びは生まれると、私は思っています。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



サンデーサンライズ411 悩みから生まれた仏教

2023年04月09日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第411回。令和5年4月9日、日曜日。

8日はお釈迦様のお誕生日、降誕会でした。
松林寺では、参拝者が花を1本ずつ持ってきてお参りすることにしているので、まだ花のない4月ではなく、月遅れの5月8日に花まつりを勤めています。
今年は全国的に開花が早く、桜の名所では慌てて出店の準備を始めているようです。
雪国の当地も早や梅やこぶしが咲き、枝垂れ桜の蕾も赤くなってきたので間もなく開花するものと思われます。

お釈迦様はおよそ2500年前、今はネパールの国になるルンビニーというところで生まれました。
2016年のネパール地震の後、シャンティの調査で現地を訪れた時にルンビニーにも足を延ばし、「生まれたのはここです」と、その場所を案内されたことがありました。
母親の名前が冠されたマヤ・デヴィという寺院の施設で、四角い建物の中の順路を行くと「ここだ」という印があり、下を眺めるとレンガのような石畳が見えました。
出産時期を迎えたマヤ婦人は、里帰りの途中で産気づき、沐浴した後、優曇華の木の枝につかまったまま男児を出産されたとされています。それがこの場所だという訳です。
その傍に大きな菩提樹があり、それを囲むように地元の仏教僧の姿をした人々が座っていました。
我々が近づくと急に読経のようなものが始まり、それに促されるように菩提樹の根元にひざまずき、線香を供え合掌しました。
寄進するのをせかされるような雰囲気に嫌気がさし、立ち去りました。
その周囲には、各国の仏教寺院が建ち、まるで万国仏教博覧会のパビリオンのようでした。
世界の仏教徒や観光の人々がやって来る、仏教の聖地の一つなのです。

そこから西へ車で1時間ほど走った所に、カピラバストゥーという場所があり、そこの遺跡がお釈迦様が住んでいたカピラ城跡だとされていました。
お釈迦様はこの城の王子として生まれ、青年期に悩み、城を出て修行の生活に入ります。

若き王子シッダールタは、ある日東の門から出て初めて老人を見ます。髪の毛が白く、腰が曲がり、シミと皴だらけの姿を見て従者に尋ねます「この人は何だ」。従者は答えます「この人々は老人です。人は歳を重ねるとみんなこのような姿になるのです」。
南の門を出て初めて病人を見ます。やせ細り、体を曲げて呻き苦しんでいます。「この人は何だ」。従者は答えます「この人々は病人です。人は誰しも体調を崩しこのような姿になるのです」。
西の門を出て初めて死人を見ます。皮膚は黒くなり、目を見開き、口を開けたままピクリとも動きません。「これは人なのか」。従者は言います「人はやがて必ず死んで、このような姿になるのです」と。
そして、北の門から出た時に、初めて沙門(修行僧)を見ます。その清々しい姿にうたれ、あの者のようになりたいと出家することを望むようになります。
「四門出遊」という有名な物語です。


少年の頃から悩み多いシッダールタは、王様が与えてくれる快楽によっても悩みを解消することができず、妃を迎え、我が子の懐妊を知っていよいよ出家することになります。
「我が子が誕生してしまったら出家できなくなる」との思いから、懐妊が出家の背中を押したという説があります。
なので、その子の名前を「ラーフラ(障碍)」と名付けたとも言われます。

カピラ城の遺跡に立ち、東のゲートからジャングルの方に目をやりました。
「ここで悩み、ここから城を出たのか」。
シッダールタが悩んだ同じ場所に立つことができたことは、私にとって、生まれた場所を見るよりも感激でした。
生まれによってお釈迦様が誕生したのではありません。
仏教が生まれたのはお釈迦様の悩みからだと思うところです。
悩んだことのない人には他人の悩みを慮ることなどできないでしょう。
なので、悩み苦しむ人にとっての救いが仏の教えにはあります。
痛い思いをしたとき、その痛みを解消する方法を考えます。
その方法を教えてくれるのがお医者さん、ですから、お釈迦様を「大医王」の異名で呼んだりします。
だからこそ2500年この教えが伝えられてきたのです。
お寺は、開業医という意味合いをもっていたでしょう。
和尚さんは、患者の症状をよく診て薬を処方するお医者さんでもあったはずです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンデーサンライズ410 シャンティを退任

2023年04月02日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ
三ちゃんのサンデーサンライズ。第410回。令和5年4月2日、日曜日。

4月に入りました。
クリスマスローズやクロッカスは咲きましたが、木花はまだですね。
三寒四温で、まだ霜が降りる日があります。
ようやく雪囲い外しを始めました。境内も春の装いを取り戻します。

3月は別れの季節で、それぞれに離任や退任があったことでしょう。
28日、シャンティボランティア会の総会があり、私の副会長退任が正式に決まりました。
総会後の懇親会で、各国事務所からのビデオメッセージとプレゼントが贈られ、気恥ずかしい思いでした。
長年の思い出を振り返り、役員から離れることに寂寞の情を感じない訳ではありません。
しかし、後進に道を譲ることも先を歩いた者の務めでしょう。
力強い新たな足取りで、けもの道をかき分けて行って欲しいと願います。

思えばこの会との出会いは43年前に遡ります。
カンボジア難民が大量にタイ側に流出した1979(昭和54)年、日本でも大きなニュースとなりました。
その次の年、曹洞宗は同じアジアの仏教徒の苦難を見て見ぬふりすることはできないとして、教団では初めて救援団体「曹洞宗東南アジア難民救援会議(JSRC)」を結成し難民支援活動を開始することを決めました。
若い僧侶のボランティア募集の案内に応募してカンボジア難民キャンプに赴いたのがその年の8月です。
初めて出会う「難民」に衝撃を受け、この苦難の現実の中に身を置き、苦しむ生身の人間に寄り添い、共に考え、共に行動する、それも和尚の役目なのだと気づいた時、そういう仕事ならやってみたいと、初めて自発的に和尚になりたいと思いました。
和尚は人が死んでからの仕事だと思い込み、お寺に生まれたことを不幸な星の下に生まれたと宿命を恨んできたのです。
なので、私は難民キャンプで出家したと思っています。

2か月間の現地赴任から帰国した次の年、JSRCが活動を停止するということになり、それではその活動を引き継ぐ団体を作ろうという動きを始め、81年12月に「曹洞宗ボランティア会(SVA)」が結成されました。
82年2月、事務所を五反田のマンションの一室に決め、私の部屋の家財、机、椅子、電話、冷蔵庫、本棚など使えるものは全て事務所に運び、私は永平寺に修行に向かいました。
次の年、修行を終えて山形まで歩いて帰ろうと決めた時、ボランティア仲間から「何悠長なこと言ってるんだ、永平寺の門前に車を横付けするから真っすぐ東京に来い」と電話が入りました。
修行を終えたら事務所に行くと約束はしていましたが「これだけはやらせて」とお願いして行脚させてもらったのでした。
松林寺に着いたのが83年4月11日、少し休んで東京に出たのが5月3日でした。
五反田の事務所では、学生のボランティアが数名事務所に出入りし、退職ボランティアOBのおじいさんが経理を担当してくれていました。
山口にいた事務局長の指示で、会員募集など組織の基盤づくりをしていました。
そのワンルームの事務所は、2年も経たないうちに手狭となり、事務所移転の必要が出てきました。
理事の紹介で巣鴨のマンションに移ることになり、引っ越し作業を終えて84年8月、私は山形に帰りました。
両親の辛抱も限界に達していました。
そこからしばらくはSVAとの関係が希薄になります。

寺で大きな事業があり、それに先立って結婚もしました。宿用院の住職にもなりました。
布教の勉強を始めて数年して、縁あって永平寺の講師に就任しました。
1996(平成8)年その勤めを終えて寺に帰った時、東京の事務所を手伝ってくれないかという連絡がありました。
週に何日か顔を出す程度でしたが、「参事」とか「参与」とかいろいろな役職名をいただいたと思います。
2000年、社団法人化を果たし団体名を「社団法人シャンティ国際ボランティア会」と改称しました。
その祝賀会の会場から、専務理事有馬実成師が、病気の悪化により真っすぐに病院に向かいました。
それを受け、祝賀会の途中で主だったメンバーが集まり、後任をどうするという相談になりました。
実はその役を望んでいた人がいたのですが、その人が専務理事になると会がおかしな方向に行ってしまうという周囲の懸念から、当て馬として私が押し上げられてしまったのです。
絶大な先任者の後任を、その能力もない人間が任される苦痛は並大抵のものではありませんでした。
針のむしろに座らされるような5年間でした。結局何も成し遂げることはできませんでした。
その間、父のパーキンソンの症状が次第に進行していきました。
「もう限界なんだ」とおぼつかない言葉で泣かれたことがありました。
それでも後任を据えるまでは途中で投げ出すこともできず、父と檀家に詫びながら、何とか期間まで勤めました。
人生においても、この時期が一番辛かったと思い起こされます。
専務理事退任後、常務理事を2年勤め、2007年に副会長に就任しました。
そして今年2023年まで、実に長い道のりでした。

海外の言葉もできない、ボランティアとは何かも知らない、組織に身を置いたこともない、ただの若僧が、寺への反発だけでボランティア活動に参加しました。
しかし結果的にそれが、和尚として生きる覚悟を決める原点となりました。
この活動にかかわることが和尚としてのアイデンティティでした。和尚として人間として、この会に育てていただきました。
その気持ちと覚悟はこれからも変わらないので、一会員としてかかわっていくことになります。

長くなりましたが、43年という人生の3分の2を投入した組織への区切りとして思いの丈の一部を語らせていただきました。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。