三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第328回。8月29日、日曜日。
松林寺では、本堂屋根の葺き替え工事がスタートしました。約2か月の工期です。
パラリンピックが始まり、高校野球は今日が決勝です。系列校同士の決勝というのはどうなのかとは思いますが。
高校球児の名前を見ていると、何と読むのか読み方が分からない名前が珍しくないことに驚きます。
概して、訓読みではなく音読みの名前が多くなったと思います。
そんな中で、同じ名前が多くあるなと思ってメンバー紹介欄を見てみると、確かに「塁」という名前の選手が6人いました、49校の中で6名が同じ漢字の名前というのは確率的に多いと思うのですがどうでしょう。さらに「塁陽」君もいました。
今の子どもの名前はほとんどが親がつけるのだと思いますが、その漢字から推察して、お父さんが野球をやっていて、息子にも野球選手になってもらいたい、できれば甲子園にも出場してもらいたい、そんな願いが込められているのではないかと思いました。
そんな親の願いも空しく、野球選手になれなかった、あるいは興味がなかった塁君も、もちろんいたと思います。
自分の名前に親の願いが込められれていると知った時のその子の思いはどうだっただろうかと想像します。
その気になった子どももいれば、「親の夢を子どもに押し付けるな」「親の言いなりにはならない」と反発した子どももあったかもしれません。
でも、と思います。
多くの親は、「自分のやりたい道を選びなさい」と自分の子どもに言うでしょう。確かに、子どものころから一芸に秀でていて、三度の飯よりも好きというものを見つけた天才肌の、藤井聡太二冠のような子どももいるでしょう。でもそれは極々稀な存在で、ほとんどの子どもは親にそう言われても、自分が何をしたいのか、何になりたいのか、何が好きなのかもよく分からず、そのことが分からないことがダメな人間でもあるかのように、自分を卑下してしまうこともあるのではないでしょうか。
そんな時、親がつけた名前によって、その道が決められているかのように思い込んで進むのも、決して不幸ではないのではないかと思ったりします。
嫌々親のせいにしながらも、進路を見定めることができることは、ある意味楽な生き方かもしれません。
自分の進路が宿命のように決められていると思い込んだことが、私の青春時代にとっての苦しみでしたが、中学3年の時に進路に悩む同級生が「お前は決まってるからいいな」と言った言葉は本当だったのかもしれないと思いもします。その時は、どれほど傷つけられたかと思いましたが。
いわゆる「家業」というものがあり、長男はそれを継ぐものだという時代の締め付けは不幸だと思っていましたが、もしかしたらそうも言い切れないと思ったことでした。
塁君が、その名前故に野球選手の道を歩み、そのために充実した青春時代を歩むことができたとしたら、それはそれで親も子も幸せと言っていいのかもしれません。
先週話をしたアフガニスタン情勢は、日々刻々と変わっています。
飛行機にしがみついても脱出することを望む人々の危機感の理由を思います。
国際機関の現地職員に対するタリバンの対応が未だ読めないため、当会の現地事務所職員の安全確保に苦慮しています。東京事務所では毎晩夜中までその対応に追われています。
タリバンの標的になる可能性の高い複数の職員の国外退避を模索し、自衛隊機への登場許可が出た直後に、カブール空港の近くで自爆テロが起こりました。今後の退避の可否は全く読めなくなりました。
こんな状況の中でも、現地職員は、混乱で飢えている人々への食糧支援ができないか模索しています。子どもたちの教育支援活動を何とか継続できないかと願い出てもいます。20年続けてきた活動は着実にアフガニスタンの人々の心に根づいています。
そんな人々を見捨てることはできません。
誰の命も、粗末に扱われていい命はありません。
自分に近いか遠いかで命に対する尊卑を測ってはなりません。
知らなければ知ろうとすればいいし、分かり切れないならば想像力を働かせる以外ありません。
どんなに遠くに住んでいても、自分の友人や知り合いならばその身の安全を心配するでしょう。
お釈迦様は、全ての命を我が子と見ました。
命の選別をしない、それがお釈迦様の心です。
命の尊卑を測るのは、自分の中の差別の心です。
お釈迦様の心に近づきたいと思います。それが仏教徒の願いだと心得ます。
毎朝の散歩先の観音様にアフガニスタンの人々の安全を祈ります。
どうかこれ以上、誰の命も危険にさらされませんように。
命の危険におびえて眠れない夜を過ごすことがありませんように。
すべての命が幸せでありますように。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
松林寺では、本堂屋根の葺き替え工事がスタートしました。約2か月の工期です。
パラリンピックが始まり、高校野球は今日が決勝です。系列校同士の決勝というのはどうなのかとは思いますが。
高校球児の名前を見ていると、何と読むのか読み方が分からない名前が珍しくないことに驚きます。
概して、訓読みではなく音読みの名前が多くなったと思います。
そんな中で、同じ名前が多くあるなと思ってメンバー紹介欄を見てみると、確かに「塁」という名前の選手が6人いました、49校の中で6名が同じ漢字の名前というのは確率的に多いと思うのですがどうでしょう。さらに「塁陽」君もいました。
今の子どもの名前はほとんどが親がつけるのだと思いますが、その漢字から推察して、お父さんが野球をやっていて、息子にも野球選手になってもらいたい、できれば甲子園にも出場してもらいたい、そんな願いが込められているのではないかと思いました。
そんな親の願いも空しく、野球選手になれなかった、あるいは興味がなかった塁君も、もちろんいたと思います。
自分の名前に親の願いが込められれていると知った時のその子の思いはどうだっただろうかと想像します。
その気になった子どももいれば、「親の夢を子どもに押し付けるな」「親の言いなりにはならない」と反発した子どももあったかもしれません。
でも、と思います。
多くの親は、「自分のやりたい道を選びなさい」と自分の子どもに言うでしょう。確かに、子どものころから一芸に秀でていて、三度の飯よりも好きというものを見つけた天才肌の、藤井聡太二冠のような子どももいるでしょう。でもそれは極々稀な存在で、ほとんどの子どもは親にそう言われても、自分が何をしたいのか、何になりたいのか、何が好きなのかもよく分からず、そのことが分からないことがダメな人間でもあるかのように、自分を卑下してしまうこともあるのではないでしょうか。
そんな時、親がつけた名前によって、その道が決められているかのように思い込んで進むのも、決して不幸ではないのではないかと思ったりします。
嫌々親のせいにしながらも、進路を見定めることができることは、ある意味楽な生き方かもしれません。
自分の進路が宿命のように決められていると思い込んだことが、私の青春時代にとっての苦しみでしたが、中学3年の時に進路に悩む同級生が「お前は決まってるからいいな」と言った言葉は本当だったのかもしれないと思いもします。その時は、どれほど傷つけられたかと思いましたが。
いわゆる「家業」というものがあり、長男はそれを継ぐものだという時代の締め付けは不幸だと思っていましたが、もしかしたらそうも言い切れないと思ったことでした。
塁君が、その名前故に野球選手の道を歩み、そのために充実した青春時代を歩むことができたとしたら、それはそれで親も子も幸せと言っていいのかもしれません。
先週話をしたアフガニスタン情勢は、日々刻々と変わっています。
飛行機にしがみついても脱出することを望む人々の危機感の理由を思います。
国際機関の現地職員に対するタリバンの対応が未だ読めないため、当会の現地事務所職員の安全確保に苦慮しています。東京事務所では毎晩夜中までその対応に追われています。
タリバンの標的になる可能性の高い複数の職員の国外退避を模索し、自衛隊機への登場許可が出た直後に、カブール空港の近くで自爆テロが起こりました。今後の退避の可否は全く読めなくなりました。
こんな状況の中でも、現地職員は、混乱で飢えている人々への食糧支援ができないか模索しています。子どもたちの教育支援活動を何とか継続できないかと願い出てもいます。20年続けてきた活動は着実にアフガニスタンの人々の心に根づいています。
そんな人々を見捨てることはできません。
誰の命も、粗末に扱われていい命はありません。
自分に近いか遠いかで命に対する尊卑を測ってはなりません。
知らなければ知ろうとすればいいし、分かり切れないならば想像力を働かせる以外ありません。
どんなに遠くに住んでいても、自分の友人や知り合いならばその身の安全を心配するでしょう。
お釈迦様は、全ての命を我が子と見ました。
命の選別をしない、それがお釈迦様の心です。
命の尊卑を測るのは、自分の中の差別の心です。
お釈迦様の心に近づきたいと思います。それが仏教徒の願いだと心得ます。
毎朝の散歩先の観音様にアフガニスタンの人々の安全を祈ります。
どうかこれ以上、誰の命も危険にさらされませんように。
命の危険におびえて眠れない夜を過ごすことがありませんように。
すべての命が幸せでありますように。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。