なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ195 雪とストレス

2019年01月27日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第195回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

1月27日、日曜日。

最上郡内の有志青年僧侶が、毎年寒中に5回寒行托鉢を行っています。
郡内の寺院を会場を変えながら実施しているのですが、25日は松林寺地区内を回りました。
8名の若い僧侶が、鈴を鳴らして大きな声でお経を唱えながら約1時間歩きました。
生の托鉢を初めて見るという人も多く、みんな興味津々で道路に出て掌を合わせてくれました。
僧形の行の姿こそ仏心を呼び起こすものと思います。

誰ですか?
今年は暖冬だの雪が少ないだのと言ったのは。
ちょっと呑気に構えていたらどっと積もったではありませんか。
どうしてくれるの?
誰に向かって言っているんだか。
庫裡の屋根の雪が落ちなくて、茶の間の障子が開けにくくなってきました。
本堂の軒下の雪も間もなく屋根に届きそうです。
何とかしなければなりません。
自分でやるか、助っ人を頼むか。
天気を見ながら考えましょう。

さて、何をいまさらという話ですが。
何ひとつ、自分の思い通りにはならないということですね。
天気ももちろんそうですが、自分の体だとか、病気だとか、命だとかのことではなく、自分以外の人とのやりとりのことです。
自分が思っていることが相手に伝わり、それを相手が自分と同じように理解して、想定したように動いてくれる、などということは、まず無理なんだと思っていた方がいいですね。
たまさか、思い通りに動いてくれることもあるかもしれませんが、その方が珍しいというかラッキーなのであって、たまにそういうことがあって、それが当たり前なのだと思ってしまうのは錯覚です。
例えば小さなことで言えば、メールで問い合わせがあり、それに答えたのに何の返信もない、というようなことがあると、何故返信しないのだ、何を考えているんだとイラっとし、関係が悪くなってしまうようなこともあるでしょう。
しかし、それはこちらの都合であり、勝手な思い込みでもあります。
礼儀だの何だのと常識論を振りかざす前に、相手は自分の意のままには動かない、とハッキリ認識していた方がいいと思います。
自分にとっての常識と理想で、相手にそれを当てはめてみても、相手は相手の常識と都合で動いているわけで、それが必ずしも一致するものではありません。
相手が自分の思い通りに動いてくれないことでイライラしたり腹を立てたりしても、相手は何も感じていないわけで、だとすると、腹を立ててストレスを感じる自分だけが損をしているようなものです。
怒りを相手にぶつけて自分の気持ちを分からせようとしても、気持ちが分かるというよりは怒られたという事実だけが大きく伝わってしまうでしょう。
自分だけでなく相手にもストレスを感じさせ、関係がギクシャクし、更にストレスは増えていくばかりです。

相手は、何ひとつ自分の思いのままには動かない、と腹落ちしてしまえば、ストレスを軽減することができます。
思いのままにならない相手から、自分の思ったような反応が返ってくれば、それはラッキーだし喜びにも感じます。幸せ感が増えることになります。
今日は酒はよそうと思っていたのに夕方になると「まっ、いいか」などと杯を持ってしまっているあなた、自分だって自分の思い通りにならないのはお分かりのはずです。
ましてや、ひと様を自分の意のままに動かそうということはどだい無理なことなのです。
ストレスの原因は少ない方がいいですね。
雪もストレスも溜まってしまうと消すのに苦労します。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



サンサンラジオ194 そんな体形

2019年01月20日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第194回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

1月20日、日曜日。

東京の街を歩いていると、多くの人に追い抜かれます。
都会の人は田舎の人より歩き慣れているからなあ。みんな足が速いよねえ。
特に若い人は男も女もコンパスは長いし、歩幅が大きいから当然だよな。
ちょ、ちょ、ちょっとお、後ろハゲのおじさん!
私より先輩だと思しきおじさんまで追い抜くことはないんじゃない?
こっちだって、ちゃんと右足と左足を交互に前に出して頑張って歩いているんだから。
どうしてこんなおじさんおばさんにまで追い抜かれるわけ?
というか、なんで自分だけこんなに足が遅いの?
不思議だなあ。
うーん、生き方の違いか。
一歩一歩を大事に、一歩が一歩の価値を持つような歩き方をしているからなあ…。ウソ。
そんな負け惜しみをつぶやきながら歩いていました。

とかく、田舎の人は歩かない。
ちょっとの距離でも車を使います。
そのくせ、運動不足と言ってウォーキングしたりしているのです。
それでも、農家や会社勤めの人は何だかんだと気づかないうちに歩いていると思うのですが、和尚という仕事は基本座っています。
特に腰の重い私などは、一日座っていることが珍しくありません。
この場合の「座っている」は坐禅をしているという意味ではなく、単に机の前に座っているという単純な意味です。
カロリーをほとんど消費していないのに、食事は美味しく、ついつい食べ過ぎてしまいます。
その結果は、自ずと知れた結末です。
先日の法事の席で、目の前ににじり寄ってきた男性が、「血糖値を下げるいい方法を教えようか」と言いました。
「お陰様で血糖値だけは大丈夫なんですよ」と言うと、「えー、その体形で?」と珍しいものでも発見したような眼差し。
そういう体形です。
そのせいかどうか、金曜日から背中が痛くて体を動かすたびに何かにつかまっています。

先日医者の検査で肝臓の数値が悪いと言われ、「内臓脂肪を減らした方がいい、内臓脂肪は腹筋を動かすと割と簡単に減りますよ」とのことなので、「因みに、シックスパッドは効きますかね」と尋ねると、ほぼ冷笑のまま「効くんじゃないですか」と投げやりなお答え。
ネットで調べると、シックスパッドはデブには効かない、脂肪が震えるだけで筋肉まで届かない。というごもっともな情報があり、高価な買い物はやめて、1400円の腹筋ローラーにしました。
最近はさすがに色々と気を遣ってはいるのですが、それでも収支の繰越残高がオーバーしているために内部留保が累積しています。
体が重いと更に動きが悪くなり、益々増量するという悪循環です。
雪かきでもあれば少しは体を動かす必然性ができるのだが、と小雪のせいにしていたらドンと降りました。
いい運動不足解消になると思ったら、少し動いただけで息が上がり、心臓が止まってしまうのではないかと心配になるほど。
これは体に良くないと、休み休み動いています。

昨日フト頭に浮かびました。
未来には、「体調管理修正ラボ」みたなところがあり、カプセルのような中に入ると色々なセンサーか勝手に動き出し「体重ガオーバーシテイマス。調整シマス」などとAIが言って、管みたいな機械がせわしなく動いて、「終了シマシタ」とカプセルが開くと理想的な体形になっている、というような時代になるのではないかと思うんですがね。無理でしょうか。

ハイ、分かっています。
自分で体を動かすように努力します。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ193 パソコンに使われる

2019年01月13日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第193回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

1月13日、日曜日。

年末にパソコンの調子が悪くなって、一度出荷前の状態まで戻し、改めて設定をし直したりしてずいぶん時間を使いました。
パソコンを使っているというよりは、パソコンに使われていると思うことしきりでした。
もうパソコンを使わない生活というか仕事は考えられません。
かなりの部分をパソコンに頼っています。
何よりもまず、お寺の文書等事務関係はほとんどがパソコンで処理しています。
様々な案内文書、会計関係、過去帳管理、住所録、スケジュール、写真の管理等々。
寺以外でも、NGO関係、環境団体、宗門関係などの記録も入っています。
さらには、法話、講演、依頼された原稿もパソコンで書いています。
また、メール、ブログなどのネット関係ももちろんパソコンです。
それらが手元から消えるということは、自分のこれまでの仕事が全て消えてしまうかのような恐怖を感じたりします。
相手はたかがパソコンで、つまりは機械に過ぎないので、故障も不具合も起こってしまうのは当然なことです。
一旦不具合を起こしてしまうと、それを回復するまでにかなりの時間を消費し、便利な道具に頼っているツケを払わされるような感じです。
使い慣れてしまうととても便利な道具であるために依存してしまうパソコンですが、あまりに頼り切っていると、もうそれなしでは生きていけないような錯覚を起こしてしまうかもしれません。
もしパソコンに、アレやれ、コレやれと指示されたなら、その機嫌をとるために指示に従ってしまうこともあり得るのではないかと思います。

例えば若者がはまっているゲームなどです。
暇さえあればというか、暇をつくってまで没頭しているように見えます。
私も簡単なパズルゲームにはまったことがあります。今はもう飽きました。
子供だましのような単純なゲームでさえも、やり続けていくと、いや、やり続けたくなるように仕向けられているのですが、するとやがて課金を求めてくるようになります。
ここまでやってきたのだからここで止めてしまったらもったいないと思わせる手口が満載です。
ついつい一度課金をしてしまうと、それによって手にしたものの味が忘れられずにどんどんお金をつぎ込んでいくようになります。
中には、月に数十万円もつぎ込んでしまう子供もいるとか。
もう子供だましというようなレベルではありません。
ゲームをしているというよりは、ゲームに使われている、ゲームの奴隷状態になっている若者、あるいは大人が多いのではないでしょうか。
テレビのCMでゲームものが多いのは、それだけ利潤があるからでしょう。
パチンコやギャンブルであれば子供はダメというような規制がありますが、パソコンのゲームは野放しではないですか。
依存症にもなりそうですし、お金もかかるということであれば、何らギャンブルと変わりなく、しかも得るものは何もないという代物。規制しなくてもいいですかね。
しかも、気づかないうちに人生の時間をどんどん消費させられていくようなことは、重大な問題なのではないかと思います。

他人事ではありません。
自分自身、パソコンに使われているのではないかと思うことがあるのですから、気をつけなければなりません。
本当に大切なものは紙にして残せばいいし、住所録アドレスなどは生きていく上になくても支障はありません。文書も、自分で書いたものなら頭の中にあるはずだし、体験経験はパソコンには残っていません。
パソコンがなければ生きられないという思いこそが妄想であると気づいていたいと思います。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ192 現実と真実

2019年01月06日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第192回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

1月6日、日曜日。

明けましておめでとうございます。
新年早々、熊本で大きな地震があったようですが、できれば、なるべくならば、災害や事故は少なく、世界中の人々にとって穏やかな一年になるよう祈らずにはおれません。

現実に合わせて真実を曲げてはならない。
本来あるべきようになければならない。
と、思います。

自衛隊が事実上の軍隊であったとしても、それに合わせて憲法を変えるというのはおかしな話です。
憲法は、この国のありようを定めたもので、それに沿って国を動かしていかなくてはならないものでしょう。
現実に合わせて憲法を変えるというのは本末転倒と言わなければなりません。
現憲法は、戦争の猛省から強く平和を希求したのであり、「平和憲法」と言われる所以です。
その前文には、
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」とあり、更には、
「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とあります。
それが「崇高な理想」であって、その理想に向かって国づくりをしようという意思が、戦後の日本の平和をつくってきたのでしょう。
本来あるべき国のありようを定めた憲法を変えることは、現実に合わせて真実を曲げることに他ならないと思います。
変えてはならない基本的なことと、現状に合わせた運用の変化とは分けて考えなければなりません。

またお寺の話ですが、
ある会合である和尚さんが、
「毎日坐禅をしている和尚なんてこの中には一人もいない」と言いました。
現実はそうかもしれません。
あるいは朝のお経、朝課もしない和尚さんがいるかもしれません。
たとえそれが普通であり、現実であったとしても、それでいいというわけにはいきません。
現実に合わせて真実を曲げるわけにはいかないのです。
毎日すべきことはすべきであり、真実に沿って生きようと努力することが仏法の中で生きるということでしょう。

一般的なことで言えば、
「家族葬」などというよく分からない言葉に流されて、親の葬式を簡単に済まそうなどという風潮はどうかと思います。
長い人生、家族の中だけで生きてきたわけではないでしょうに。多くの人と支え合い助け合って生きてきたご縁をなかったかのように閉じるのは寂しいことです。
本人の意思よりも、親の人生を称える子どもの気持ちの問題だと思われ、親子関係が良好であれば「簡単に」済ませられることはないと思われます。
すべきことはすべきなのです。
すべきことをした上で、現実に沿って柔軟に対応していくべきです。
柔軟な対応を優先して、すべきことをしない理由にしてはなりません。
真実に向かって現実をつくっていくということですね。

ま、自分もエラそうに言えた生活をしているわけではありませんが、正月ですし、一年の計として意思表示も込めて言わせていただきました。
仏教で「真実」は「絶対の真理」という意味になります。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。