花巻の教場から紫波まで送っていただく途中で宮澤賢治記念館に連れて行っていただきました。
10数年ぶりの二度目の訪問です。
そのときに初めて読んだ「永訣の朝」に感動し、複写を購入し、家で何度か読み返しては涙を流してきました。
またここで読みたいと思い、前に立ち止まりました。
この詩は、賢治の二つ歳下の妹とし子(トシ)が24歳で亡くなる直前、賢治に(あめゆじゅとてちてけんじゃ)と頼む内容です。
今日のうちに遠くに行ってしまうだろう妹が、ひどい熱にあえぎながら、兄に「雨雪をとってきてくれろ」と頼むのです。
賢治は、この世の最期の食べ物を自分に託されたと、兄妹が幼いころよりご飯をいただいてきたじゅんさい模様の茶碗をつかみ、まがった鉄砲玉のように外に飛び出し、松の枝に降り積もった霙雪を気が狂ったように掬い集めるのでした。
そして思うのです。
とし子は、自分が亡くなった後、あにさんが、最期に精一杯妹に尽くしたという思いを残すことで、後悔せずに明るく生きられるのではないか、と思って自分に頼んだのだと。
人のために尽くすことで人は救われる。そのことを知って頼んだ妹に、賢治は菩薩の姿を見ていたのではなかったろうか。
また、賢治も、妹の頼みを気が狂ったように果たすことで、依頼したとし子を喜ばせようとした、「あにさんに頼んでよかった」ととし子も救われたに違いない。
利行は一法なり、あまねく自他を利するなり(道元禅師)
人は人を救うことによって自他共に救われる。他の幸せを願う行為が自らに幸せを感じさせる。他を傷つければ自らが傷つき、人を不幸にする行為によって不幸に陥る。
人間とはそういう生き物なのでしょう。
ボランティア活動に赴いた人々が口々に述べる感想は「被災地で救われたのは我々の方でした」。それはその通りなのだと思います。
究極的に他のためは自分のためであり、真実自分のためであることは、そのまま他のためになることだと思います。
昆虫が花の蜜を採るとき、これが花の受粉のための行為になるのだと考えることはないでしょう。
意識するかどうかは別にして、自他の自我を越えた行為が自他共に救われる道だということです。
今年度の特派のテーマが「利行」であるので、「永訣の朝」にめぐり合えたことは、必然だったのかも知れません。