なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ109

2017年05月28日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

5月28日日曜日。
えー、もう5月最終日曜日です。
今週は東京からお送りします。

しつこいようですが、60歳寿命予測で生きてきた私、昨年無事に?満60歳を何事もなく迎え、うれしいのやら、なんだーとちょっとがっかりする気持ちがあったり、大騒ぎした割には別に大きな変化もなく過ごしました。
その後ちょっと考えて、60歳寿命というのは、60歳までに死ぬということもあるけど、年齢60歳の時に死ぬということも含まれるのではないか。
だとすると、満61歳の誕生日までは60歳なわけで…。
ということで、今年5月22日まではその可能性もあると、ちょっと緊張していましたが、それも何事もなく過ぎてしまいました。
ということで、本当に本格的な60代到来です。60代、結構気に入ってます。

色と日本語について少し考えていました。
元々の日本の色に対する概念というものは「明るい」と「暗い」という2種類から始まっていて、それが色の名前となり「あか」と「くろ」になりました。
太陽の光と、光がなくなった暗闇との対比から生まれたものでしょう。
火が燃える色も「あか」となりました。
明るいという意味では「夜がしらじら明けてくる」というように「しろ」もその意味になりますが、そちらは「明らか」の意味が強く、「しるし」という意味からよばれた言葉のようです。
「白日の下にさらす」とか、「白黒をはっきりさせる」という意味です。
そして、その中間の色として「あお」が生まれました。
語源としては「藍色」からの説や「空を仰ぐ」からという説もあるようです。
いずれにせよ「青」は、白や赤と黒の間のあいまいな存在として位置づけられました。
例えば「青二才」や「青春」のように、未完成な、未熟な存在として使われたのです。
青い実が赤くなり完熟することからそうなったのでしょうか。
「君は青いね」と言われると小ばかにされたような気分になります。
明け方、太陽が昇る前の空気は青と表現してもいいと思いますね。黒から白への途中です。
この青には、古来「みどり」も含まれました。
今でも、「青葉」「青菜」「青梅」というように、青が緑を指していることを何の違和感もなく私たちは使っています。
青信号もよく見れば緑です。
あいまいな青の反対の色が黒と赤です。
「素人(しろうと)」に対する「玄人(くろうと)」や、はっきりしたという意味で「真っ赤なウソ」「赤貧(せきひん)」などがあります。

この、「しろ」「くろ」「あか」「あお」が日本古来の色の始まりだということです。
この4つだけが、「白々」「黒々」「赤々」「青々」と形容詞になる色で、それ以外の色、例えば「黄々」とはならないということのようですよ。
そこから始まって、日本には400種以上の色の名前があるとされます。
白が究極の「明るい」であり、黒が究極の「暗い」。
その両極の間に、様々な色の表現が日本語によって作られてきました。「和色」と言うらしいです。
その中から日本らしい色を拾ってみましょう。

白百合色(しらゆりいろ)、月白(げっぱく)、花紺青(はなこんじょう)、群青(ぐんじょう)、浅黄色(あさぎいろ)、亜麻色(あまいろ)、鶯色(うぐいすいろ)、女郎花(おみなえし)、山吹色(やまぶきいろ)、韓紅(からくれない)、江戸紫(えどむらさき)、京紫(きょうむらさき)、藤紫(ふじむらさき)、玉虫色(たまむしいろ)、朱鷺色(ときいろ)、利休茶(りきゅうちゃ)、濡羽色(ぬればいろ)、漆黒(しっこく)

色の区別だけではなく、微妙な色の見分け、表現の豊かさに芸術性を感じます。
その中から自分の色というのを決めるのもいいかもしれませんね。
因みに私は、瑠璃色(るりいろ)が好きですね。
http://irocore.com/


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ108

2017年05月21日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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5月21日日曜日です。

広島に来ています。
昨日は毎年招かれている呉の神応院さんの講話会でした。
昨日の講話のテーマが「四無量心」。
そのために四無量心を学んできて、先週お話をしましたが、途中まででしたので今回はその続きをお話しさせていただきます。
ちょっと面倒くさいですよね。
私もこういう話は得意ではないのですが、せっかく少し勉強しましたのでもう少し聴いてもらいたいと思います。

さて、先週は、仏教の瞑想に「止観」があり、止の瞑想の途中まででした。
止の瞑想の段階は9段階あるとされています。
先のアーラーラ・カーラーマ仙人が到達したのはその5段階目である「空無辺処」まで、ウッダカ・ラーマプッタ仙人が到達したのは8段階目である「非想非非想処」までだったと経典にはあるようです。
お釈迦様はさらに上がある、それが「想受滅」だと説かれました。
これはもう、心も体も活動を休止して、飲食、排泄、呼吸さえほとんど止まった仮死状態に近い境地で、完全に悟った阿羅漢しか達することのできない段階だそうです。
しかし、止の瞑想は、瞑想に入っている間だけの心の状態で、瞑想から離れれば元の心の状態に戻ってしまうもの。
だからお釈迦様は、これらの禅定を「現世で楽しむだけのものだ、執着するな」と説かれているようです。

一方、止の瞑想に対して観の瞑想は、お釈迦様オリジナルの瞑想だとされ、これは、自分の身心や外界の現象をすべて常に絶え間なく変化している、いわゆる無常であると観察する瞑想です。
こちらは止の瞑想と違って、瞑想から離れても心が元に戻ることがなく、いつも平静でいることができ、悟りに至る瞑想だというのです。
それでもお釈迦様は、止の瞑想も正しく学べば悟りへの早道になるので利用するようにと指導マニュアルを作られたということです。
ここまでが、初期仏教から説かれている四無量心の周辺の教えです。

さて次に、大乗の教えでは四無量心をどう説いているのかを見ていきたいと思います。
四無量心の「無量」の意味は、極まりない無上の幸せを求め、与えるという意味と、無量の生きとし生けるものを対象にするという利他の意味があるので、大乗の立場でも四無量心は説かれます。
大乗の教えの前までは、四無量心はいわゆる瞑想の一部とされ、心を集中させる対象とされてきました。
無量の生きとし生けるものの幸せを念ずることを対象としていても、心で念ずるだけでいいのか、というのが大乗的な発想になります。
大乗の特長は、自分ばかりでなく、他の苦しみを救うことに主眼を置いたところにあるわけですから、四無量心も大乗では他者を救うために具体的な行動を起こすことが強調されるのです。
しかし、何をすればいいのかという具体的な行動についてまでは説かれていません。
推論すれば、そこから「布施」「愛語」「利行」「同事」が説かれる四摂法という菩薩行へと導かれるのかもしれません。
その前に、慈悲喜捨という利他の心の具体的な行動化を学んでみたいと思っています。
神応院さんの講話会で、来年はそのあたりに迫ってみたいと考えているところです。

いやあ、頭を使いましたね。
普段使わない頭の分野を使うので疲れます。
冬から、ちらちらと資料を漁ってはいたのですが、論理的な考え方が苦手なのでなかなか手につかず避けてきました。
期限が迫ってきて、仕方なく資料をまとめたところです。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



©遠藤浩信エンドーフォト

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ107

2017年05月14日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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5月14日日曜日です。

ここのところずーっと、四無量心を学んでいます。
学んでいると言っても独学ですが。
四無量心とは、「慈」「悲」「喜」「捨」の4つの無量の心のことです。
阿含経の中に出てくる、初期仏教からの教えです。
しかし、曹洞宗ではほとんど説かれません。
というか、まともに勉強していない私が知らなかっただけかもしれませんが。
道元禅師の『正法眼蔵』にも文言として出てきません。
それを知るようになったのは、ボランティア活動に関わってからです。
他宗のお坊さんとのつきあいや、タイやカンボジアのお坊さんのお話の端々にこの言葉が出てきたと思います。
また、カンボジアのアンコール遺跡、アンコール・トムの中にあるバイヨン寺院のいわゆる「観音四面像」は、石に掘られた四面の観音様のお顔の塔ですが、その4つのお顔はこの四無量心の4つを表していると聞いたことがありました。

今回、必要があって学んでいるのですが、なかなか手強いです。
お釈迦様の時代の教えなので、元々はもちろんインドのお経の言葉サンスクリット語で説かれています。
それぞれ、「マイトリー」「カルナー」「ムディター」「ウペークシャー」の4つです。
マイトリーは、好意や友情という意味で、自他共に楽を与えようという思いのことです。
カルナーは、同情・憐愍の意味で、自他の苦を除こうとする思い。
ムディターは、喜びで、自他の幸福を喜ぶ思い。
ウペークシャーは、中立・平等で、親疎、怨親問わず平等であろうとする思いのことです。
それが中国に伝えられて、それぞれ「慈」「悲」「喜」「捨」の漢字が充てられました。
現在、「慈悲」「喜捨」と二字熟語で語られるのが普通ですが、元はこの4つの心から生まれたもののようです。

それで、ややこしいのはこれからなのですが、面倒くさいですが聴いてくださいね。
インドではお釈迦様の以前から瞑想ということが盛んに行われていたようです。
お釈迦様が城を出て、いわば出家して直ぐに向かったのが森で修行を続ける仙人の下で、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二人だとされています。
そこで行われていたのは、心を研ぎ澄ます瞑想で、禅定(ぜんじょう)と呼ばれます。
それに何段階かあり、お釈迦様はすぐに二人の仙人の段階に達したようです。
なので二人のいわば師匠は、お釈迦様の凄さに驚いて、それはそうでしょう、自分が苦労して何年もかかって達した境地にあっさりと至ったわけですから。
そして、「私と一緒に弟子たちを指導してくれないか」と懇願されました。
しかしお釈迦様は、二人の思想家の達した境地の上に更にまだ上の境地があるとして、二人の下を去って苦行に入ったのでした。

仏教の瞑想には、止観(しかん)という方法論が説かれています。
止の瞑想と観の瞑想に分けられます。
止の瞑想はお釈迦様以前から行われていた瞑想方法で、心を静めて対象に集中し、心のとらわれから開放されていくプロセスが用意されています。
その際、心を集中していくべき対象が40種類と限定されていて、その中の一つに「四無量心」があるというわけです。

というところで時間が来てしまいました。
ややこしくて済みませんが、途中ですのでまた来週続きをやらせていただきます。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ106

2017年05月07日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

5月7日、連休も今日までですね。
この連休いかがお過ごしだったでしょうか。
法事には、兄弟、親戚大勢でお参りされる家が多く、連休中賑やかに過ごされたことと拝察しました。
「もう、仏事ぐらいしか顔を合わせる機会がないから」と言われるのも、もっともなことだろうと聞いていました。
故郷は誰にとっても懐かしい場所であり、帰りたい場所であっても、両親が亡くなったりすると、何も用事がないのにフラリと実家に帰ることがままならないことも分かります。
法事が、帰るきっかけを作ってくれたのなら、それはありがたいことですね。

前にも話したかもしれませんが、6年前の震災後、「絆」という言葉がずいぶん使われました。
普段は一人ひとり自分の力で生きているように思っていても、大きな災害の前にはまことに儚い、頼りない存在であったことに気づかされ、「人は一人では生きていけない」という当たり前の事実を思い知らされたのでした。
誰かの力を借り、誰かと手をつながなければ災害を乗り越えていけない、その思いを言葉にしたのが「絆」であったと思います。
そして、そのつながりは、災害が起きてからよりも普段から作っておくべきだ、という教えにもなったと思います。

震災の次の年の正月、気仙沼の漁師さんたちとの新年会がありました。
酒を酌み交わしながら、漁師さんがこう言いました。
「和尚、絆という字は糸偏に半分の半と書くけど、その意味知っているか?」
「いや、知らない」と答えると、「それはな」と教えてくれました。
「人間の命なんていうものは、とても弱くて頼りないものなんだよ。譬えて言うと半分しかない糸のようなものなんだ。だから、誰かと撚り合わさって生きていかないとだめだという意味なんだよ」と。
字の成り立ちが本当にそういう意味なのかどうかは知りませんが、いつもロープを扱っている漁師さんに言われると、何となくそれらしく、真実味を感じたのでした。
いつ切れてもおかしくないような儚い存在の命。
誰かと撚り合わさることで強くなる。2本が3本と、撚り合わせる糸が多いほどより強くなるでしょう。

糸と同じように、人生は織物のようだと言われます。
経糸(たていと)と横糸が織りなされてそれぞれの人生模様、景色が出来上がります。
その場合、経糸は命のつながりであり、横糸は社会のつながりと言うことができると思います。
この地球上に生命が誕生して以来一度も途切れたことのない命の糸。それが今ここに存在している私たちの命です。
この経糸に織り込まれていくのが社会とのつながりの横の糸。
家族のつながりから始まり、親戚、地域、学校、友達、仕事と、様々な横糸と出会い、織り込みながら人生を織り上げていきます。
我々は、知らず知らずのうちに、しかし確実に、誰もが糸を撚り合わせながら、人生を織り上げてきたのです。
たった一人で生きてきた人はいません。
そのことを、時々確認することは必要かもしれません。
それが最もいいのは法事だと、私は思います。

今私がここにあるのは、過去からの命のつながり、経糸であることを、仏壇に手を合わせながら確認することができるでしょう。
また、法事に集まって来られた親戚の皆さん、皆さんとのつながりによって生きてきたんだなあと横糸を確認することもできるでしょう。
縦と横のつながりによって強く生きることができるのだとすれば、まさに法事は、同時にそれを確認するいい機会だと思っているのです。
個々の単位で遊びに出かけるのも連休の過ごし方だと思いますが、連続した休みを利用して故郷に帰り、縦横の絆を確認しておくこともいい過ごし方だと思います。
この春の連休は今日で終わってしまいますが、次の機会には是非にと思います。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。