恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「無常」問答

2017年05月20日 | 日記
「君は、無常や無我は事実の問題ではなく、認識の問題でもなく、畢竟じて言語の問題だと言ったな」

「言った」

「どういう意味だ」

「この世に事実そのものなど無い。あるのは『事実として認識されたこと』だけだ。そしてその認識は言語によって構造化されている。だから、無常も無我も言語の問題だと言ったのだ」

「たとえば?」

「無常を『一切のものが一瞬も留まることなく変化すること』と解釈しても、『変化』は『変化しないもの』=実体を前提にしない限り認識できないから、あまりに幼稚な解釈にしかならない。逆に主語に当たる『一切のもの』自体が変化するなら、『すでに変化しているものが変化する』という矛盾が生じる以上、何も変化しないことになる」

「『中論』の議論だな」

「そのとおり」

「他には?」

「全てものは要素の集合なのに、凡夫はそれを認識できずに、ものそれ自体が存在するように錯覚していると説いて、無我を説明する方法があるが、これも拙劣極まりない」

「『要素』が実体として残るからだろう」

「それだけではない。その要素の認識や要素を確定する分割の手法がどうして正しいのか、その正当性の根拠が示されない。以前、悟った人の解釈だから正しいと言う馬鹿げた説を聞いたが、『悟り』それ自体を誰も説明できない以上(ブッダ自身が言及していない)、ファンタジーに過ぎない」

「それから?」

「『要素』が実体なら、それを集合させて特定の存在物に形成する『力』を持つ『本質』のごときものを想定せざるを得ない。つまり、要素分割主義も結局、実体を呼び込む議論にならざるをえない」

「だから、『中論』的言語批判で無常と無我を主張するしかない、ということか。では、唯識は?」

「認識作用の運動(転変)で認識対象と認識主体が生成するとして、全存在を認識作用から説明する唯識説は、その構造を言語が決めている(言葉による熏習の種子)」

「じゃ、言語の形而上学になるじゃない」

「ところが、言語の意味するものは、意味されるものから必ずズレる。したがってものそれ自体には決して届かない。真理にも届かない。言語はあくまでも存在を仮設し、『真理』を仮説するにすぎない。ならば、できることは、仮のものは仮のものだと、際限なく言い続けるしない」

「君の言う、言葉で言葉を裏切る、って奴か」

「もうこの辺でやめよう」

「どうして」

「この種の話題の時、コメント欄が妙に盛り上がる気がする」
コメント (449)
この記事をはてなブックマークに追加

開山しました

2017年05月10日 | 恐山の参拝
  5月1日、今年も恐山は無事開山しました。ゴールデンウィーク中は連日晴天に恵まれ、ご参拝の方々にも喜んでいただきました。写真はスタッフの石原さんが撮ってくれたものです。凪の宇曾利(山)湖に映える大尽山と、恐山周囲に自生する水芭蕉の群落です。以下、今年の開山日に私がした挨拶です。

 皆さま、開山初日から恐山にお参りいただき、感謝申し上げます。お蔭さまにて、今年も無事開山することができました。今日からまた、恐山は多くの参拝者をお迎えすることになると思います。

 今年もまた、ご旅行で立ち寄られる方が大勢いらっしゃるでしょうし、胸中に様々な想いを抱えられてお参りなさる方もおられることでしょう。今年は東日本大震災から丸6年、仏教では7回忌、熊本地震で犠牲になられた方は一周忌に当たります。ご遺族の心中はお察しするばかりです。

 もちろんそればかりではなく、大切な人と引き裂かれるようにお別れになった方々は他にも大勢いらして、数えるべくもないでしょう。

 去年、ある手紙をいただきました。

 手紙の主は中年らしきご婦人で、最近にお母様を亡くされたということでした。その母上は、ご婦人の娘さん、すなわちお孫さんを大変可愛がってくれました。その娘さんが、お婆さんの死を尋常でなく悲しむのだそうです。

 文中から察するに、娘さんには軽度の知的障害があるようでしたが、優しく素直なその娘さんは、お婆さんを恋しがって日に何度となく仏壇にあるお婆さんの写真の前で、激しく嗚咽し続けるのです。おそらく、お婆さんを思い出すたびに、いまだ記憶になりきらない生々しい悲しみが噴き出してくるのでしょう。

 次第に食まで細くなり、成り行きを心配したお母さんは、しまいには思い余って、こう考えたそうです。「恐山にでも連れていって、イタコさんにお婆さんを呼び出してもらって声を利かせれば、娘の気持ちも落ち着くのではないか?」

 はるばるやって来た恐山には、その日イタコさんはいませんでした。ああ、せっかく来たのに・・・・。そう思ったのだそうですが、とにかくあちこちのお堂や仏様にお参りしながら、境内を娘さんと二人ゆっくり巡って、最後にお守りを買って帰ったと手紙にはありました。

 不思議だったのは、行きの道中、気持ちが高ぶるのか、泣いたり大きな声を出したりしていた娘さんが、境内を歩くうちに急に静かになり、悲しげながら穏やかに仏様に手を合わせていたことだそうです。

 帰ってからも、仏壇の前でしみじみ写真を見て涙を流すことはるものの、激しく泣くこともなく、ずいぶん落ち着いたようで、

「恐山にお参りして、娘も娘なりに何かを感じ、母の死を納得したのかもしれません。そうだとすれば、本当にありがたく思っております」

 私どもも、恐山が娘さんの深い思いの幾分かをお預かりできたなら、院代として嬉しくありがたく思います。

 そして、今更ながら、恐山という場所の持つ力に感じ入った次第です。
コメント (102)
この記事をはてなブックマークに追加

対照的教訓

2017年04月30日 | 日記
▼ 男性・50代・夫婦円満の秘訣を訊かれて

「無抵抗、不服従」

▼ 女性・70代・子育てのアドバイス

「子供は小型の大人、大人は大型の子供だと思って相手をすると、間違いは少ないですよ」

▼ 男性・50代・筆者の実感

「希望が長く続くと、次第に人間は愚かになるし、絶望は極めて短い間、人間を驚くほど賢くする」

▼ 男性・60代・会社役員

「能弁は他人に対する恐怖を隠す道具になるし、無言は自分の怒りを隠す道具になるね」

▼ 女性・60代・主婦

「失敗は成功のもと、と言いますでしょ。でも、成功が失敗のもとだとわかる人はあまりいませんね。特に男には」



 
コメント (179)
この記事をはてなブックマークに追加

お詫びと訂正:坐禅と講話の会6月日程

2017年04月24日 | 恐山の参拝
すみません!

前回記事「坐禅と講和の会2017」の第1回6月の日程が間違っていました。

前回22日の記事では14・15日となっていましたが、

正しくは6月3日(土)・4日(日)の1泊2日ですまた、2日目早朝には坐禅があることも、あわせてお知らせします。

前回記事は、本日付で訂正しました。

皆様、ご迷惑をおかけ致しまして、誠に申し訳ございませんでした。

合掌

恐山院代
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

番外:坐禅と講話の会2017

2017年04月22日 | 恐山の参拝
本年(平成29年)も、院代の主催による坐禅と講話の会を、下記のとおり3回・1泊2日で行います。


▼期日

 第1回:6月3・4日、第2回:8月26・27日、第3回:10月21・22日

▼スケジュール

 午後2時までにご到着下さい。

 スケジュール説明後、坐禅指導。夕食後、講話。

 翌朝午前4時半、坐禅。その後、朝のお勤め参加。朝食後、座談会。午前10時終了。終了後、希望者には恐山僧侶による山内拝観があります。

▼お申込み

 5月1日午前9時より受付を行います。恐山寺務所または宿坊に、「坐禅と講話の会に参加希望」と必ずお伝えください。

 各回定員20名にて締め切りとさせていただきます。(電話:0175-22-3825)

▼お願い

 服装は自由ですが、坐禅を行いますので、トレパンなど、下半身を締め付けないものをご用意ください(ジーンズでの坐禅は不可)。

▼参加料

 宿坊宿泊の費用12.000円(入山料別)のみお願いします。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

無記と空

2017年04月20日 | 日記
「机が無い」という認識(言い方)が成り立つのは、机が在ることを前提にしています。そもそも全くないものを「無い」と言うことはできません。つまり無いことそれ自体は認識できず、無いことの認識はあくまでも在ることに依存しているわけです。この、いわば「無い」ことを可能にする「在る」は、当然、普通我々が言うところの「在る」とは、その「在り方」が違うでしょう。

 他方、「机が在る」という認識は、それを自分が見ている、触っているなどの経験を通じての認識であることが普通です。では、経験的に認識していないとき、すなわち見ても触ってもいないときに、「机が在る」と言えるのかと問うた場合、即座にイエスと即答できるでしょうか? 見ても触ってもいないものを、「在る」となぜ、どういう理由で言えるのかは、非常に困難な問題です。これは原理的に「在ると信じている」以上のことは言えません(さらに言えば、すべての「在る」は実際には「在ると信じている」である)。

 以上の事情を言い換えると、「机が在る」「机が無い」などと普通に言うときの、「在る」「無い」という経験的判断をする手前の、「在る」「無い」の述語のつかない「机」それ自体は在るのか無いのか、という問いになります。これは、論理的必然として、「在る」とも「無い」とも言えない、と答えることになるでしょう。

 経験的に認識できない「机」とは、いわば「形而上学的」に存在する「机」、つまり個々に認識される机を超えた「本質」としての「机」と同じ意味です。

 大乗仏教の「空」は、この「本質」としての「机」が「在るとは言えない」という認識であり、いまここに現前している机の「在り方」は、「机」として使う人間の行為に依存しているという意味で、「縁起」していると言うのだと、私は考えます(だから「無いとは言えない」)。

 すると、この「空」のアイデアの原型は、ゴータマ・ブッダの「無記」になります。世界が永遠か否か、有限か無限かなど、形而上学的問題について答えない認識論的態度を、我々の日常の判断にまで拡張すると、『中論』に展開される論理になるでしょう。

 すなわち、『中論』の「空」解釈は、ゴータマ・ブッダの「無記」思想の直系なのであり、これ以外のすべての「空」解釈は、すべてどこかに「形而上学的」思考を持ち込むことになるでしょう。
コメント (628)
この記事をはてなブックマークに追加

決メのひと言!

2017年04月10日 | 日記
 この前地方の在来線特急に乗ったら、今どき珍しい光景に出くわしました。

 出発の数分前、私の乗った車両は、スーツ姿の男性ばかり7、8人とまばらで、皆すでに眠っているか、スマホ片手に俯いていました。そこへ突然、10人以上の男女(男性は2人のみ)が駆け込んできました。

「ここ、ここ、3号車!」

 先頭集団が、振り返りざまに後続に叫んでいます。全員、おそらく70歳以上ではないかと思われる、正体不明の一団です。

 最後の一人が乗り込んだとたん、発車ベル。

「早くすわってや!」

 先頭集団の一人だった、大柄で、目立つイヤリングをした女性がリーダーらしく、指さしながら座席をテキパキ指示しています。私のすぐ前の席があっという間に一杯になりました。

「よーし!、じゃあ、次は弁当買って、これだな!」

 頭がきれいに禿げて、灰色の眉毛の太い男の人が、座るとすぐに90度腰を曲げ、足元のリュックから、驚くべきことに一升瓶と紙コップをつかみ出しました。電車の中で一升瓶を見たのは、実に中学生の頃に東京の親戚を訪ねた時以来です。当節まずお目にかからない珍事でした。

「はい、コップ回して!!」

 さらに驚いたことに、この人たちは、全員誰も断りも遠慮もせず、コップを受け取っているのです。このあたりで、車両の他のお客も気が付きだして、いささかびっくりした表情をしています。

 どうも、親戚同士ではなさそうだ。かといって、添乗員もいないし、ただのツアーグループでもない。なんの集まりなんだろう。みんな親しそうだし。

「あとは、弁当だけだな!」

 また、一升瓶の男性が言いました。

 が、しかーし!! 彼らが乗り込んでくる前、私は聞いていました。車内放送で、

「この列車にはワゴンサービスがございません。お弁当、お飲み物等は、ホームでお買い求めの上、ご乗車ください」

 と言っていたのを!!!

 どうなるんだ、この後!? すでに女性たちのバックからは、柿の種やミカン、せんべい、飴など様々な食べ物や、さらに缶ビールなどが矢継ぎ早に出現し、縦横無尽に交換が行われ、すでに酒盛りが始まっていました。

「弁当まだかな」

 弁当にこだわる一升瓶が再びひとりごちた時、車掌さんが車両に入ってきました。

「お弁当なんかの車内販売、まだですか?」

 すかさず先頭の座席の女性が訊くと、

「あ、すみません、ないんです。この列車」

「えっ、ないの!?」

「はい、すみません」

 女性はやおら立ち上がり、

「車内販売、無いって!」

「えーっ!」

 いっせいに拡がる驚愕と落胆の声。

「え~~っ! 弁当ダメなの!?」

 一升瓶のひときわ大きな怨嗟の声。

 関係ないのに、私も胸がつぶれる思いです。どうなるんだ、この人たち。特に一升瓶!

 するとその一升瓶が、いきなり右手の紙コップを頭上に高らかに突き出し、

「うーん、じゃあ、弁当買ったつもり!! かんぱーい!!!」

 この一発で、沈滞しかかったグループのテンションは、瞬時に復活しました。

「そうそう!、いいよ、いいよ、着いたら駅でお昼食べて、また飲も!」

 女性リーダーの堂々の宣言。一団はそのまま、昔懐かしい昭和の車内宴会に突入しました。

 おそるべし! 一升瓶男のひと言!!

 私他の「部外者」乗客は、たとえ不快に思った者がいたとしても、多勢に無勢、とても何か言える雰囲気ではありません。最早眠れる状態でもなく、それぞれスマホ、雑誌、窓の景色に集中する以外ありませんでした。ただし、私は終始見物することで、宴会に「参加」していました。

コメント (231)
この記事をはてなブックマークに追加

真理と常識、あるいは問題

2017年03月30日 | 日記
 思うに、「真理」は深さが、「常識」は拡がりが肝要でしょう。

「真理」は多数決で始まりません。誰かがそれを「真理だ」と強く信じれば、そのときに「真理」は成立しています。彼以外の大多数が認めなくても、その時の彼には「真理」以外の何物でもありません(無論、後日「誤りだった」ということになるかもしれませんが)。「真理」は結局「真理だと思う」強度に依存するのであって、いわば質的概念です(「それでも地球は動いている」)。

 これに対して「常識」はまさに多数決です。「常識」がそういうものである所以は、大抵の人がそう思っているということであり、量的概念だと言えましょう(昔の天動説、いまの地動説)。

「真理」は、時には「常識」に試され、抵抗され、それを突破して「常識」になる場合もあります。「時代」を動かすのは、そういう変化です(「コペルニクス的転回」)。

また、「常識」は「真理」に挑戦されれば、それを吟味し、淘汰して、最後に残ったものを新しい「常識」として受け容れるでしょう(地動説の「常識」化)。

 普通、人間の行動の「理由」や「根拠」として意識されるのは、まずこの「真理」か「常識」でしょう。自らの行動が「正しい」と確信できるのは、どちらかに依拠している時だと思います。

 ところが、仏教は「真理」を無条件に受け容れません。「絶対に正しいことがある」とは、決して言いませんし、言うべきではありません。同様に、「常識」も疑います。「常識」は、あくまでも特定の時間と場所に、一定の条件下で、暫時成立するものだと考えます(いま「常識」の地動説が「絶対正しい」根拠はない)。

 すると、この考えに忠実ならば、仏教者は「決然とした行動を、断固としてやり通す」ということは苦手かもしれません。つまり、自分の行動を無条件に「正しい」と確信し難いからです。

「真理」でも「常識」でもない、行動に踏み切る理由があるとすれば、それは「問題」です。目の前に、具体的で差し迫った「問題」が出てきたなら、自分の考えが「正しい」かどうかわからなくても、行動を起こさなければならないでしょう。

 予めそうするのが「正しい」とする「理由」も「根拠」も言えないけれど、「問題」がある以上、試行錯誤を覚悟して、とにかくそれに臨む。おそらく、多くの人たちは日々そうやって生活を営んでいるのでしょう。

「真理」や「常識」に距離を置く仏教者も、ブッダの教えを参照しつつ(経典とは、とどのつまり「参考文献」です)、同じく試行錯誤を方法として、問題に取り組むのが真っ当だろうと、私は思います。
コメント (174)
この記事をはてなブックマークに追加

色と空

2017年03月20日 | 日記
 日本でお経と言えば、突出して有名なのが般若心経でしょう。その心経の中で最も人口に膾炙しているフレーズが、「色即是空 空即是色」だと思います。

 常識的な解釈だと、「色」とは物体とか現象など、人間が経験として認識できる事象の意味であり、「空」とは、そのような事象がそれ自体として実体的に存在していないこと、換言すれば、それ自体に存在根拠を持たないまま現前していることを意味しています。大乗仏教は、そのような存在の仕方をさらに「縁起」というアイデアで説明するわけです。

 このとき、「色即是空」は、「色は即ち空である」と読み下して、およそこの世のすべての事象は、実体としてではなく、そのように存在する根拠を欠いたまま現前している、という具合に解釈できるでしょう。

 問題は、「空即是色」です。まず「空は即ち色である」と読み下すと、当然ながら「空」が主語となります。そうなると、読み手は「空」なる何ものかがある、と考えたくなります。その「空」がそのまま「色」だということになると、「空」からすべての事象が現れ出てくるように思われがちです。これをさらに、「空」は有でも無でもない、有無を超えた真理なのだなどと言い出せば、ほとんどブラフマ二ズムの語り口と変わりません。

 ここは、「空即是色」の読み方を変えるべきです。ナーガールジュナ的な「空」のアイデアにより忠実に解釈すれば、「空」は「色」に即して、あるいは「色」においてのみ考えることができる、程度に解すべきでしょう。

「空」そのものなど、あるはずがない。「空」は、仏教が事象の「在り方」を説明するアイデアなのです。事象が実体をもたないまま現前している、その現前の仕方に「即して」「おいて」「ついて」語るときにのみ有効なのであって、「空」それ自体が何なのか意味づけたとたん、実体化して形而上学的理念に転化してしまうでしょう。これは、「無常」「無我」の教えからして、厳に斥けるべき考えです。

コメント (88)
この記事をはてなブックマークに追加

番外:「揺らぎ」の要

2017年03月16日 | 日記
 このところ騒動になっているエキセントリックな幼稚園の一件で、急に脚光を浴びることになったのが「教育勅語」です。あれを園児が「合唱」する様子は、確かに見ていてあまり気持ちの良いものではありませんでした。

 しかし、「合唱」はともかく、「教育勅語」の何がいけないのかと言われれば、必ずしも即答できないでしょう。

 だから、これを「経典」や「聖書」なみに神聖視する方々は、いつの時代にも通じる「イイこと」がたくさん書いてある「立派な文書」と主張するわけです。
 
 実際「イイこと」が書いてあります。「父母ニ孝二兄弟二友二」から「国憲ヲ重シ国法二遵ヒ」辺りまでは、「何が悪い」と言われれば反論が難しいでしょう。

 私が思うに、問題は「イイこと」にあるのではなく、「イイこと」が埋め込まれている文脈にあります。この「イイこと」は「皇祖皇宗」と「国体」に規定され、そこに正当性の根拠を持つのです。

つまり、ここで書かれている「イイこと」の肯定は、そのまま文書が言う「皇祖皇宗」主権の「国体」、すなわち戦中戦前の国家体制の肯定になるでしょう。ということは、「合唱」は特定の政治信条の植え付けと言われても仕方ありません。これは現憲法下での教育方法として行き過ぎでしょう(「イイこと」部分だけを抜き読みするならともかく)。

 だいたい、部分的に「イイこと」が書いてあるから、その文書丸ごと「立派」と言うのは、「彼は不治の病に罹っていますが、心臓は正常に動いているから健康なのです」、と言うくらいナンセンスです。

「イイこと」が聖書に結びつけば神の言葉でしょうし、仏典で語られればブッダの教えです。「イイこと」には様々な文脈において語りようがあるのに、その中の一つだけを未だ批判精神がほとんどない幼児に刷り込むことは、私としては反対です。それはキリスト教だろうが仏教だろうが同じです(したがって「幼児洗礼」のアイデアは支持できない)。 

 要するに、子供に「イイこと」を説くのに、今どき何も「教育勅語」なんぞ持ち出す必要はなく(四書五経でも使えばよいのではないでしょうか)、それでもわざわざ持ち出すなら、「イイこと」とは別の「意図」があるのでしょう(「安保法制、国会通過よかったです!」的な)。

「価値観」の教育で大事なのは、それを自分で選べるようにすることだと思います。その場合、方便として、親など大人が最初の価値観を提示するのは当然ですが、いずれそれを一度相対化できるようにならないといけません。相対化した上で、改めて最初の価値観を選ぶとするなら、それがまさに「自分の」価値観になるのです。

 相対化とは、要するに鵜吞みにしないことです。鵜呑みにしないとは、批判的な意識を持ち続けることです。それは同時に、反対者の意見に寛容であることです。

 したがって、私が支持する思想・信条は、それ自身に対する外部からの批判を最大限に許容するものです(許容できないのは、暴力や差別による一方的排除)。その意味では、言論の自由(当然、批判の自由を含む)について、現憲法に一定の保証があるのに対して、少なくともかつての「勅語」体制とその支持者にそれはまったくなかったし、今後突然寛容になるとも思えません。私が「勅語」及び「勅語」体制を支持しないゆえんです。

 誰かが一定の価値観で他人を有無を言わさず縛り続けようとすることは、仏教の立場ではありません。某首相夫人が問題の幼稚園の講演で、幼稚園で植え付けられた「芯」が公立小学校に入ると「揺らぐ」と憂いて見せたようですが、「諸行無常」からすれば、揺らいで当然、揺らいで結構、揺らいでよく考えるべき、それから自分でちゃんと選んでね、という話になるでしょう。
コメント (43)
この記事をはてなブックマークに追加