恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「遠さ」の功徳

2017年02月20日 | 日記
 私と同世代のある男性は、サラリーマンをしながら、目の不自由な父親とずっと暮らしてきました。彼は一人っ子で、母親は8年前になくなり、転居を繰り返した父親には、いわゆる親戚付き合いがほとんどなく、結果的にこの二人世帯は孤立に近い状態だったと思われます。

 数年前からは、認知障害とまでは言わなくても、父親の記憶や判断には曖昧さが目立つようになり、90歳を過ぎた最近では耳がほとんど聴こえない状態だそうです。

 しかも、おそらくは現在よりもずっと露骨できびしかったであろう、若いころの視覚障碍者への差別的扱いのせいか、他人に対する深い猜疑心が身についてしまって、息子である彼の世話しか受け付けないのだそうです。施設入所とまではいかなくても、デイサービスや自宅でのケアなど、公的その他の様々な介護サービスを部分的にでも利用したいと思っても、彼らをまったく受け付けず、「他人の世話にはならない!」「息子が親の面倒を見るのは当たり前だ!」の一点張りだそうです。

 耳の聴こえが悪くなってからは、意志の疎通がいっそう難しくなり、会社に出勤しているとき以外はほとんどつきっきりでいないと、父親は感情が不安定になり、まだ立って歩けるだけに、いつ何をするかわからない怖さがあると、彼は言いました。

「頑張ったんですが、もう限界です。そんなことを思ってはいけないんですが、死んでほしいと思うときも。最近は怖くてニュースが見られません。介護がらみの殺人事件が報じられると、自分もしてしまいそうで」

「限界も限界、その状態、もう危険ですよ。殺人などはともかく、あなたが倒れたら父上もアウト、共倒れでしょう」

「職場でも顔つきが変わってきていると言われてます。持病も悪化してきましたし」

 そう言いながら、彼は父親の死を非常に怖れていました。両親から十分な愛情を注がれて育ち、ずっと独身の彼には、いまや唯一の身内である父親は単に大切なだけではなく、矛盾するようですが、この苦しい生活の支えでもあるのです。ですから、私が「もう限界」だと言っても

「でも、父親がどうしても嫌がることを無理強いするのは、あまりに可哀そうで」

 すでに自治体の福祉関係の人や父親の主治医なども、二人の苦境を心配して、何度も足を運びサービスを受けるように説得しているようなのですが、状況は好転していません。

 話を聞き終えて、私は問題が父親である以上に、「可哀そうで」と言う彼にあると考えました。今や彼は濃密な父親との関係に支配されて、窒息寸前なのです。私は断言しました。

「ダメです。可哀そうでも、第三者を入れなさい。デイサービスなど利用して、あなた自身が一人になれる時間を必ず作るべきです。それができなければ、早晩お二人は共倒れです」

「わかっているんですが・・・」

「それだけではダメです。父親には自分の苦しさをもう一度正直に話して、了解されなくても物理的にデイサービスの場所に連れていくべきです。そして、移動先の世話を受け入れなくても、職員に事情を話して、半日くらいは滞在させてもらうのです」

「やはり、そうすべきでしょうか」

「どうしても必要です。これは、何より父上のためです。父上に深い愛情を持つ貴方が、その愛情のとおりに暖かく父上に接するには、休息の時間が是非とも必要です。父上が平穏な最期を迎えるためには、それこそ貴方が今しなければならないことなのです」

 おそらく、私が言ったようなことは、彼自身が十分承知で、周囲からは何度も助言されたことでしょう。しかし、自分自身の考えや、あまりに近い関係の人からの助言、あるいは助言して当たり前の人からの意見は、往々にして有効ではありません。

 そのような人がそういうことを言うのは、立場上(つまり、利害関係や役割関係において)当然のことで、自分たちの「特殊な事情」を考慮した上での「客観的」意見には聞こえないからです。
 
 私のような「見ず知らず」の言い分が時として効くのは、関係が「遠い」からです。その「遠さ」が、自分の置かれた「特殊な事情」の困難を「客観的」に彼に認識させる機会となるのでしょう。生きていると、「親身」ではないアドバイスが役に立つときもあるのです。

 以後、彼は近況の連絡をしてくれます。

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時間と言語

2017年02月10日 | 日記
ゴータマ・ブッダの言葉を伝えるとされる初期経典に、次のような趣旨の話があります。

<言葉には「かつて存在した」「いま存在している」「これから存在するだろう」というように、過去・現在・未来の時制がある。このことは、立派な修行者はみな承認していることである。
 しかるに、無因論者(因果律を認めない者)・非行為論者(「業」を説かない者)・虚無論者(偶然主義者)らは、この時制を否定して当たり前なのに、そうしない。世間から時制を否定する者だと非難されるからである>

 この話が面白いのは、我々が意識する時間の秩序と因果律(「原因ー結果」概念)の相関性を明瞭に述べているからです。このとき、私が思うに、過去・現在・未来の時制が成立しているから、因果律を設定できるのではありません。

 自らの体験を、因果律で秩序づけるから、そこに前後関係が創発され、過去・現在・未来と一方向に「流れる」、線形イメージの「時間」が現象するのです。つまり、「流れる」線形時間は、言語が構成するわけです。

 ということは、言語の作用を減殺すれば、「流れる」「時間」は消失するでしょう。すると、どうなるか。

 けだし、『正法眼蔵』「有時」の巻はこう言います。過去・現在・未来という秩序を持つ「時間」は解体され、感覚される事象がいかなる方向性も持たずにただ持続し・遷移し続ける「而今(しきん・にこん)」が現成します。そして遷移し続ける「而今」の運動は「経歴(きょうりゃく)」と呼ばれます。

 このとき、事象がその「上」や「中」に展開する「流れる」「時間」それ自体の存在は否定されて、事象と「而今」は区別できない状態になります。この状態が「有時(うじ)」です。

「時間」ではなく「而今」、「流れる」のではなく「経歴する」。その時、我々は「存在している」と言うよりも、「有時している」のです。
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若し、仮に

2017年01月30日 | 日記
 若し、仮に、先日アメリカ合衆国大統領になった人物が、実に度外れたナルシストで、法外な自己顕示欲の持ち主であり、大統領職とその権力は、そういう自分を高度に満足させる道具に過ぎず、特に政治的理念や政治家的志しを持っているわけでもないとしたら、彼についてどんなことが考えられるでしょう。

 ナルシシズムも自己顕示欲も、他者の視線が不可欠の条件であり、しかも圧倒的に必要です。つまり、恒常的に他者の賞賛と支持と肯定を動員しなければなりません(だからこそ、批判には大人げないくらい過敏に反応して、「逆切れ」的反撃に出る)。ということは、彼は「独善的」な人ではないということです。「独善的」な人は、他人の評判をほとんど気にしません。

 このとき、大多数の賞賛を動員できる装置(独裁体制など)が用意できれば結構ですが、そうでなければ、民主主義的制度下の選挙において、圧倒的大多数の支持の獲得は極めて困難です。また、同時に、そのような圧倒的支持は、あればそれに越したことはありませんが、なくても構いません。

 必要なのは、反対勢力と同じくらいの規模の支持を確保することです。それが確保できれば、最低限、反対勢力に勝てなくても、負けません。そして、自分は支持者の中に引きこもり、反対者を攻撃し続ければ、支持者の賞賛と熱狂は高まり、ナルシシズムと自己顕示欲の満足は十分可能でしょう。

 その場合、支持者の中には、必ず「有力者」を調達しておかなければなりません。支持の「量」で反対者を圧倒しきれなければ、「質」で圧力を高めるのです。

 世間において「有力者」とは、まず「金持ち」であり、さらには「暴力」を管理する地位にいるものです。新大統領が、支持の「量」をミドルクラスの白人から得て、閣僚や幹部に金持ちと軍人を揃えて「質」を強化しているのは、その意味で理に叶う行動です(この「量」と「質」の捩じれが将来大きな摩擦を起こす可能性大)。

 となると、彼の政治的行動が「先の読めない」ほど不安定なのは、当然でしょう。要は、ナルシズムと自己顕示欲からの行動なのですから、それを満足させるために、とにかく支持者に「ウケる」政策を場当たり的に乱発するだけです(そのとき「ウケ」れば、実現可能性は低くてもよい)。そこに一貫した「国家経営」「外交戦略」の政治的構想などあるはずもないでしょう。

 彼の「アメリカ第一」は、要するに「支持者第一」で、大統領選時点で、未だにある程度大きなボリュームを持つ白人ミドルクラスに不満が鬱積していることを敏感に察知して、自分の支持者に取り込むことにしたわけです。あのとき、自分への大量の支持の調達が、ヒスパニック系をはじめとする移民からの方が簡単だと彼が考えていたなら、おそらく「自由貿易」と「多文化共生」こそが「アメリカ第一」の意味だと主張したでしょう。

 彼は、イデオロギーで自分を正当化する従来の「独裁者」とはタイプが違います。また、政治的な立場として「ポピュリスト」なのでもありません。そうではなく、道元禅師の言葉で言うと、要するに「吾我名利」むき出しの人、に私には見えます。

 もしそうだとすれば、これは危険です。「吾我名利」の人は、「独裁者」同様、自分が他者との関係において存在することを根本的なところで理解できません。つまり、「無明」の人です。この人が暴走すれば、個人なら本人だけの厄災ですむかもしれませんが、一国の指導者となれば、「独裁国家」の末路のごとく、国ごと災難に遭うかもしれません(いや、アメリカの場合は世界の災難か)。

 大概の場合、「吾我名利」の人は、多くの他人を巻き込む(つまり、支持者の多くを失うような)大失敗をしない限り、反省をしません。また、支持者が反省を許しません。ただし、ナルシストは、ちょっとした失敗を追及されても気分を害し、思い通りにならないことが数回続いたりすると、いきなりそれまで手掛けていた仕事を投げ出すことがあります。

 いずれにしろ困ったことですが、政治的、あるいは道義的な説得が効く相手ではなく、自分と支持者の損得だけが問題ですから、当面は取り引き相手にしかなりません。彼が「ディール」的手法で政治をするのは当然で、「国民」を見ているのではなく、「支持者」だけを見ているのです(彼が「ディール」で政治をしようとするのは、実業家だからではない。「吾我名利」の人だから、これほどあからさまな「ディール」を臆面もなく政治に持ち込めるのである)。

 ただ、決して間違ってはならないのは、「吾我名利」の人は仏教的見方からすれば「愚者」でしょうが、世間的には必ずしも愚かな人ではないということです。まさに「デイール」においては、極めてすぐれた頭脳の持ち主であることが多いのです。だから、災難も大きくなるわけです。

 そうは思いたくありませんが、ワイマール体制がナチズムを生んだように、アメリカ民主主義が「吾我名利」大統領を生んだのだとすれば、あまりに悲しい話です。

 今は私の考えが見当外れであることを願うのみです。
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T氏への応答

2017年01月20日 | 日記
 あなたの言われる通り、私はこれまで、「悟り」や「涅槃」はそれが何であるか、釈尊が語っていない以上、根本的に「わからない」のだと言い続けています。

 ただ、これまで「悟り」については、事の是非はともかく、『正法眼蔵』の記述から自分なりに、「縁起的実存の自覚における主体性の生成」などと定義したり、初期経典にある釈尊の言説や行状から、彼の「悟り」は「無明の発見」のことだろうと推定したことがあります。

 ところが、「涅槃」に関しては、はっきりした自分の解釈を述べたことがありません。しかし、あなたのおっしゃる通り、この重要な言葉に何の解釈も示さないようでは、私の考えている仏教の輪郭が明確にならないというご指摘は、もっともだと思います。

 そこで、現在の自分がとりあえず定義する「涅槃」について申し上げようと思います。

 私は現在、「涅槃」を「死の受容」だと考えています。今のところ、私たちが「涅槃」を事実だとして認識し得るのは、経典中に語られる釈尊の「死」だけです。私は、いわばこの「外形的事実」(「事実」の内容は一切考えない。考えても無駄だから)を、そのまま我々の実存にスライドさせてみました。

「死」は、いつか、どこかで、「それが何だか決してわからない」出来事が勃発し、今の我々の在り方全体を不可逆的に変えてしまうことです。現時点でこれ以上のことは言えません。

 この「死」を、欲望することもなく、解決と思うこともなく、拒絶することも嫌悪することもなく、ただ「受容する」態度と行為を「涅槃」と考えたいと、私は思います。

 私が考える「死の受容」にとって重要なのは、「生き続けたい」自己と「死にたい」自己の持つ欲望を無力化することです。

 その場合、ターゲットにすべきは、「欲望」ではなく「自己」の方です。「欲望」は時と場合で転移し変化するので(「生きたい」は「死にたい」に、「死にたい」は「生きたい」に、「所有」欲と「断捨離」欲がしばしば互いに転移するように)、特定の「欲望」を消去したとしても、それは消えているのではなく別の「欲望」に転移している場合がほとんどです。ですから仏教的アイデアは、「欲望」ではなく欲望する「自己」を解体することを目指すわけです。

 では、日常的な実践としてはどうするのか。基本は二つです。

 自意識を解体する身体技法(たとえば坐禅)を習慣的に行い、「自己」の実存強度を低減する。

 同時に「自己」を「他者」に向けて切り開く。具体的には、他者との間に利害損得とは別の関係をつくり出す。その根本は、何か行動する場合に「他者」を優先することです。

 ただ「他者」の優先は、他人の要求に無条件で従うことではありません。もしそうなると、他人から支配されことと同然になり、関係が窮乏して維持できなくなります。

 大切なのは、「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」ことです。相互理解の土台はこの行動です。そして、仮にその行動から利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をするのです。

 この取り組みは、工夫の仕方によっては、自己をめぐる「縁」を豊かに深くするでしょう。それは、結果的に「なすべきことをなした」という実感になるかもしれません。これが積み重なれば、満腹の人が食事を終えるように、「死の受容」が実現する可能性があると、私はいま思っています。

 
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眉毛問答

2017年01月10日 | 日記
 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

 年頭に当たって、思いつき禅問答シリーズ。

 禅の語録には、仏法を誹謗すると眉毛が落ちてしまう、という文句が時々出てきます。

 ある禅師が、夏の修行期間の最終日に修行僧に向かって説法をしました。

「この修行期間中、君たちのために説法してきたが、私の眉毛は落ちなかったかな?」

 ある修行僧が言いました。

「泥棒も実は内心ビクビクしていますからね」

 別の修行僧がいいました。

「いま、生えてきていますよ」

 もう一人が言いました。

「ここは通しませんよ」

 私はこの問答を次のように解釈します。

 禅師が「眉毛が落ちなかったか」と言うのは、言語化できない悟りの境地を言語化するのは間違い(仏法の誹謗)だと思うか、という問いです。

 最初の修行僧の言葉は、「悟り」そのものを言葉にすることは不可能だと自覚しつつも、敢えて言語化し続けるべきだという意味でしょう。

 次の修行僧は、言語化しない限り、仏法も悟りも、それが存在することさえわからない(生えてくる)と言っているのです。

 三番目の修行僧は厳しい。確かに言わなければならないが、言ったとしてもそれが他人に通じるかはどうかは、別問題だと言っているわけです。

 ならば、語る内容の妥当性は、語る当人が何を狙って、どんな方法で語るかを吟味してから、評価されるべきでしょう。
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そこ

2016年12月30日 | 日記
そこには、言葉がやってくる。

言葉は死を連れてくる。

死は他者を連れてくる。

他者は身体を連れてくる。

そこはどこだ?


どこだ。



本年も当ブログをお読みいただきありがとうございました。
皆様の新年のご多幸を祈念申し上げます。

合掌



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意味づけの問題

2016年12月20日 | 日記
「君はこれまで、ゴータマ・ブッダが『悟り』や『涅槃』が何であるか、確たることを一切語っていない以上、結局それは『わからない』ことで、誰が何を言っても、それがブッダの『悟り』や『涅槃』と同じなのかどうかは証明できない、と繰り返し言っているな」

「そう。あとは『ブッダの悟りと同じ』と認定する手続きとシステムの『真理性』『正統性』をめぐる、ほとんど政治的な問題」

「ちょっと極端な言い方だな」

「だってそうだろ。たとえば『悟り』、あるいは経験可能とされる『涅槃』が何なのか説明される場合、不思議なことにそれは、上座部の瞑想から日本の禅にいたるまで、似たような話ばかりになる。いわく、「私」が消える、対象が無くなる、自他の区別が無くなる、思考が停止する。宇宙と一体になる。有無を超えた『無』になる、等々」

「たしかにそんな気がするな」

「ならば、そこに達する方法の違いなどに大した意味はないはずで、その強調に『真理性』『正統性』をめぐる争い以外に実質的な動機があるのか?」

「何が言いたい?」

「要するに、『悟り』や『涅槃』を経験可能な『変性意識』的状態だと言うなら、それは瞑想や坐禅でなくても、自己催眠や薬物でも作り出せる。大体、それが特定の意識状態だとすれば、ブッダが最終的に否定した『無所有処定』や『非想非非想処定』と区別できないし、区別する実質的な根拠も無い」

「では、道元禅師の『只管打坐』、あるいは『非思量』の坐禅も同じか」

「その結果として起こる心身状態は、基本的に変わらないと思う。問題はその位置づけ、あるいは意味づけだ。特定の身体技法で作り出した心身状態そのものを、『悟り』だの『涅槃』だの、超越的『真理』のごとく理念化してはならない、ということだ」

「では、道元禅師の位置づけは?」

「禅師は『非思量』を『坐禅の要術』だと言っている。要するに方法なのだ」

「だとすると、話の順序として訊くが、君は『非思量』をどう解釈しているのだ? いや、そもそも君の『非思量』体験はどんなものなのだ?」

「すでにあちこちで書いたり話しているが、かいつまんで言っておこう。僕が通常用いるやり方はこうだ。

 まず、坐禅中、意識を『見る』ことから『聴く』ことに振り替える。すると、『見る』はただ『見えている』状態になり、特定の何も『見る』ことはなくなる。このとき、聴いている音が何の音か、一切判断しない。聴くままにする。言語の作用をギリギリまで絞り込むのだ。

 次に『聴く』から皮膚感覚に意識を振り返る。すると単に『聴こえている』だけになる。聴いていることを聴く、みたいな状態だ。さらに皮膚感覚から筋肉や内臓へと、内へ内への意識を引き込んでいくと、そのうち呼吸のリズムに感覚が乗ってきて、心身全体が波動のように感じられてくる。

 この状態を暫く維持していると、眼・耳・皮膚など「外」と接する感覚からは意識が引けて、体「内」感覚に意識が向く結果、「外」と「内」が入り混じってきて、最後は様々な感覚が一緒に明滅して波打つようになる。

 そうすると、感覚としては最早「内」も「外」も同じになるから、ある時点でこの状態が臨界に達して、「外」と「内」の仕切りが決壊する。つまり『自己』と『対象』の区別が無効になる。すなわち、『自』『他』は無くなる」

「それは、要するにどんな感じだ」

「そうだな。ある種の『感覚野』、あるいは『現象領域』の現出だな」

「それが『非思量』なのか?」

「僕にとっては、そうだ」

「『悟り』でも『涅槃』でもない」

「当たり前だろ。テクニカルに作り出した心身状態にすぎない。こういう身体技法を使うと、こうなるというだけだ」

「では、君の意味付けは?」

「『自己』だの『対象』などは、言うなればこの『感覚野』あるいは『現象領域』を土台に、言語が仮設した構成物にすぎない。『非思量』はそのことを明らかにする『要術』なのだ」

「それなのに、ただの言語による人工的構成物にすぎないものを、それ自体で存在する『実体』のように錯覚するメカニズムが『無明』なのであり、私の定義では、『悟り』は『無明』の発見と解明のことだ。黙って坐ればピタリと当たるような話ではない。坐禅を土台にする極めて知的な操作だ」

「言い分はまあ、わかった。でも『感覚野』『現象領域』というのが今一つわからんな。どういうものか」

「例を出そう。僕の場合、『外』『内』が決壊した時、『ドン!』とか『バン!』という感じで、ある種の衝撃を感じて、何かの底が抜けたような重心の低下を感じることが多い。特に初期にはそうだった。

 この状態がしばらく続くと、様々な感覚が均衡して、全体が平衡状態になる。このとき、突然何か大きい音がして平衡状態を破ると、それは爆音の如く轟き、『感覚野』全体を満たしてしまう。何もかもが音。『音を聴いている』のではなく、いわば全存在が音。『存在する』という出来事が、全部その音で立ち上がってくる。

 僕は、修行僧時代の摂心(集中坐禅期間)の最中に、僧堂の屋根からの突然の落雪で経験した。落雪する音の炸裂した瞬間、どこかに吹き飛ばされたようだった」

「昔の中国の禅僧に似たような話があったな。箒で掃き飛ばした石が竹に当たってナントカ、みたいな」

「『香厳撃竹』という話だろ。あれをストレートに『悟り』話にするからいかん」

「君ならそう言うだろうな」

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どうなってるんだ!?

2016年12月10日 | 日記
 打ちすぎて効かなくなった麻薬さながら、いよいよ収拾がつかなくなりつつある金融緩和の後に、今度は博打で「経済成長」させようなどと、いつまでアブク銭をあてにしたら気が済むのだ。

 本音は一時の「景気刺激」(あるいは「なんかいいことないかな」的国威「小」発揚)であるにもかかわらず、「被災地復興」などと言い募り、邪な動機で始まったオリンピックは、今や無様な迷走を続け、もはやこの先何が起こるかわからない。その上、万博だの冬季五輪だの、どこまで能天気な昔話を蒸し返すつもりなんだ。

 すでに時代錯誤的存在となりつつある原発を再起動し、その上核廃棄物の再処理サイクルを強引に延命して、ますます問題を将来に先送りしようというのでは、見通しの暗い年金制度同様、若い世代に申し訳がないだろう。

 だいたい国内においては、少子高齢化と人口減、具体的には子育て・教育と介護・看取りの問題に政策的財政的資源を思いきって注ぎ込まない限り、活発な消費行動・生産活動は期待できない。そのために増税が必要なら政治家は情理を尽くしてそう訴え、同時に所得の再分配機能を強化する方策を立てて、人々の将来不安を解消することに注力すべきだろう。

 さらに大きな問題は、世界的な潮流にどう対峙するかである。いま、グローバル化への政治的反動が、先進各国で起こっている。しかし、基本的にグローバル化は止まらないだろう(念のために言っておくが、私はグローバル化を「支持」しているわけではない)。グローバル化で大きな不利益を被っているのは、先進国の中間層であり、恩恵を受けているのは、先進国の富裕層と今のところ低所得である発展途上国の民衆である。先進国の指導者は富裕層を無視しがたいし、人口の大半が途上国に住むことを思えば、グローバル化の推進圧力は極めて高く、保護主義的な「ブロック経済」は長く持つまい。

 ならば、最終的な問題は、グローバル化する経済を管理できるグローバルな統治システムを構築できるかどうかである。たとえば、戦国時代から徳川幕府の成立まで、あるいは幕藩体制から明治新体制への移行など、より大きな統治システムを作り出す過程での様々な軋轢、紛争、戦争の勃発を思うと、この先必要な世界的システムの構築は、もっと厳しい難産となるだろう。だったら、今から皆で知恵を出し合い、ダメージができるだけ小さくなるように工夫をすることこそ、為政者の責任である(その点、気候変動問題で条約が発効したのは、今後に希望が持てる成果であった)。

 こんなことは、私なんぞが言うまでもなく、わかりきった話ではないか。40歳以下の青年や若者たちはどうしてる? 50歳以上は全部積み残して逃げ切る気だぞ。大波を被るのは君たちになる。なぜ今、異議申し立てをしないんだ?

 このままぼんやりしていると、問題を明白に捉えていて、かつ強烈な言葉の力を持った扇動者が本当に現れ、気が付いた時には取り返しのつかない道を進んでいることになりかねないぞ。58歳の杞憂だといいけど。

 追記:ちょっと良い話を追加。首相の真珠湾訪問は英断だと思うぞ。
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反省など。

2016年11月30日 | 日記
 恐山で「坐禅と講話の会」を行いますので、よろしければご参加くださいというご案内を、今年始めに当ブログでしました。6月・8月・10月の3回、一回につき30名定員という募集です。

 この会を、私は平日に1泊2日で行ったのですが、結果は3回で30名ほどのご参加でした。やはり平日に下北半島までおいでいただくのは、大変なことなのだと、改めて感じました(坐禅指導や講話をするには、実にやりやすい人数でしたが)。にもかかわらず、全国各地からご参加いただいた方々、ありがとうございました。また、お疲れ様でした。

 実は、ずいぶん前に、かなり厳格なスケジュールで2泊3日の参禅会を行ったときは、土日など休日の募集で、定員20名が2、3日で埋まりました。その経験があったので、もっと余裕のあるスケジュールなら平日でどうかと、「実験」してみたわけです。

 しかし、実際には、わざわざお仕事の都合をつけて来ていただくことになりますから、それは容易ではないことで、ご迷惑をおかけしてしまいました。来年も開催する場合は、休日に当たるように日程を設定したいと思っています。

 もう一つ失敗したのは、まさか複数回参加する方がいらっしゃるとは思わず、講話の「ネタ」を一つしか用意しておかなかったことです。これはまったく当方の油断で、今度するときは、毎回別の話ができるようにしたいと思います(テキストを使用した方がよいかもしれませんね)。

 あと残念だと思ったのは、思った通り、20代の方の参加がなかったことです。おそらく、ご希望の方がおられたとしても、職場での立場からいって、休日を思い通りに取りにくかったでしょうし、また恐山までの交通費の負担も、若い世代には大変だったのだろうと思います。

 ちなみに、最近時々質問されるのは、「あなたに坐禅指導を受けるにはどうしたらよいのか?」ということです。

 現在私が個人的に指導している方は、日時をご予約いただいて福井の霊泉寺まで来ていただいています。恐山でも可能ですが、最大の問題は日時の調整で、ご希望の方と簡単に予定を合わすことができず、申し訳ないかぎりです。また、一か所に滞在する日数が少ないため、お一人に対する定期的な指導はかなり困難な状態です。

 私は青森・東京・福井を毎月移動しているので、それぞれの都合に合わせて使用できるようなスペースを東京にも確保できれば、それなりに指導回数を増やせるかもしれませんが、これもそう簡単に実現することではないでしょう(坐禅会なら場所を提供してくれる人はいるかもしれませんが、個人指導の場合は事情が違うと思います)。

 私は坐禅の場合個人指導を原則にしたいと考えていますので、今のところ参加自由の定期的な坐禅会を行うことは考えていません。もし今後それを行うとすれば、ご希望の方々とスケジュールやプログラムをご相談しながら、徐々に実施したいと考えています。

 なかなかよいアイデアが出ず申し訳ありませんが、とりあえず来年、恐山「坐禅と講話の会」実施が決まった場合は、また告知させていただきますので、その節はよろしくお願いいたします。
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倫理的実存

2016年11月20日 | 日記
 3.11の原発事故後、福島から自主非難を余儀なくされ、転校先の横浜で「いじめ」られた少年の手記。

「なんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」

 私が考える倫理は、この「きめた」の一言にかかっている。

 彼に深甚なる敬意を表します。
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