恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

T氏への応答

2017年01月20日 | 日記
 あなたの言われる通り、私はこれまで、「悟り」や「涅槃」はそれが何であるか、釈尊が語っていない以上、根本的に「わからない」のだと言い続けています。

 ただ、これまで「悟り」については、事の是非はともかく、『正法眼蔵』の記述から自分なりに、「縁起的実存の自覚における主体性の生成」などと定義したり、初期経典にある釈尊の言説や行状から、彼の「悟り」は「無明の発見」のことだろうと推定したことがあります。

 ところが、「涅槃」に関しては、はっきりした自分の解釈を述べたことがありません。しかし、あなたのおっしゃる通り、この重要な言葉に何の解釈も示さないようでは、私の考えている仏教の輪郭が明確にならないというご指摘は、もっともだと思います。

 そこで、現在の自分がとりあえず定義する「涅槃」について申し上げようと思います。

 私は現在、「涅槃」を「死の受容」だと考えています。今のところ、私たちが「涅槃」を事実だとして認識し得るのは、経典中に語られる釈尊の「死」だけです。私は、いわばこの「外形的事実」(「事実」の内容は一切考えない。考えても無駄だから)を、そのまま我々の実存にスライドさせてみました。

「死」は、いつか、どこかで、「それが何だか決してわからない」出来事が勃発し、今の我々の在り方全体を不可逆的に変えてしまうことです。現時点でこれ以上のことは言えません。

 この「死」を、欲望することもなく、解決と思うこともなく、拒絶することも嫌悪することもなく、ただ「受容する」態度と行為を「涅槃」と考えたいと、私は思います。

 私が考える「死の受容」にとって重要なのは、「生き続けたい」自己と「死にたい」自己の持つ欲望を無力化することです。

 その場合、ターゲットにすべきは、「欲望」ではなく「自己」の方です。「欲望」は時と場合で転移し変化するので(「生きたい」は「死にたい」に、「死にたい」は「生きたい」に、「所有」欲と「断捨離」欲がしばしば互いに転移するように)、特定の「欲望」を消去したとしても、それは消えているのではなく別の「欲望」に転移している場合がほとんどです。ですから仏教的アイデアは、「欲望」ではなく欲望する「自己」を解体することを目指すわけです。

 では、日常的な実践としてはどうするのか。基本は二つです。

 自意識を解体する身体技法(たとえば坐禅)を習慣的に行い、「自己」の実存強度を低減する。

 同時に「自己」を「他者」に向けて切り開く。具体的には、他者との間に利害損得とは別の関係をつくり出す。その根本は、何か行動する場合に「他者」を優先することです。

 ただ「他者」の優先は、他人の要求に無条件で従うことではありません。もしそうなると、他人から支配されことと同然になり、関係が窮乏して維持できなくなります。

 大切なのは、「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」ことです。相互理解の土台はこの行動です。そして、仮にその行動から利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をするのです。

 この取り組みは、工夫の仕方によっては、自己をめぐる「縁」を豊かに深くするでしょう。それは、結果的に「なすべきことをなした」という実感になるかもしれません。これが積み重なれば、満腹の人が食事を終えるように、「死の受容」が実現する可能性があると、私はいま思っています。

 
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眉毛問答

2017年01月10日 | 日記
 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

 年頭に当たって、思いつき禅問答シリーズ。

 禅の語録には、仏法を誹謗すると眉毛が落ちてしまう、という文句が時々出てきます。

 ある禅師が、夏の修行期間の最終日に修行僧に向かって説法をしました。

「この修行期間中、君たちのために説法してきたが、私の眉毛は落ちなかったかな?」

 ある修行僧が言いました。

「泥棒も実は内心ビクビクしていますからね」

 別の修行僧がいいました。

「いま、生えてきていますよ」

 もう一人が言いました。

「ここは通しませんよ」

 私はこの問答を次のように解釈します。

 禅師が「眉毛が落ちなかったか」と言うのは、言語化できない悟りの境地を言語化するのは間違い(仏法の誹謗)だと思うか、という問いです。

 最初の修行僧の言葉は、「悟り」そのものを言葉にすることは不可能だと自覚しつつも、敢えて言語化し続けるべきだという意味でしょう。

 次の修行僧は、言語化しない限り、仏法も悟りも、それが存在することさえわからない(生えてくる)と言っているのです。

 三番目の修行僧は厳しい。確かに言わなければならないが、言ったとしてもそれが他人に通じるかはどうかは、別問題だと言っているわけです。

 ならば、語る内容の妥当性は、語る当人が何を狙って、どんな方法で語るかを吟味してから、評価されるべきでしょう。
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そこ

2016年12月30日 | 日記
そこには、言葉がやってくる。

言葉は死を連れてくる。

死は他者を連れてくる。

他者は身体を連れてくる。

そこはどこだ?


どこだ。



本年も当ブログをお読みいただきありがとうございました。
皆様の新年のご多幸を祈念申し上げます。

合掌



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意味づけの問題

2016年12月20日 | 日記
「君はこれまで、ゴータマ・ブッダが『悟り』や『涅槃』が何であるか、確たることを一切語っていない以上、結局それは『わからない』ことで、誰が何を言っても、それがブッダの『悟り』や『涅槃』と同じなのかどうかは証明できない、と繰り返し言っているな」

「そう。あとは『ブッダの悟りと同じ』と認定する手続きとシステムの『真理性』『正統性』をめぐる、ほとんど政治的な問題」

「ちょっと極端な言い方だな」

「だってそうだろ。たとえば『悟り』、あるいは経験可能とされる『涅槃』が何なのか説明される場合、不思議なことにそれは、上座部の瞑想から日本の禅にいたるまで、似たような話ばかりになる。いわく、「私」が消える、対象が無くなる、自他の区別が無くなる、思考が停止する。宇宙と一体になる。有無を超えた『無』になる、等々」

「たしかにそんな気がするな」

「ならば、そこに達する方法の違いなどに大した意味はないはずで、その強調に『真理性』『正統性』をめぐる争い以外に実質的な動機があるのか?」

「何が言いたい?」

「要するに、『悟り』や『涅槃』を経験可能な『変性意識』的状態だと言うなら、それは瞑想や坐禅でなくても、自己催眠や薬物でも作り出せる。大体、それが特定の意識状態だとすれば、ブッダが最終的に否定した『無所有処定』や『非想非非想処定』と区別できないし、区別する実質的な根拠も無い」

「では、道元禅師の『只管打坐』、あるいは『非思量』の坐禅も同じか」

「その結果として起こる心身状態は、基本的に変わらないと思う。問題はその位置づけ、あるいは意味づけだ。特定の身体技法で作り出した心身状態そのものを、『悟り』だの『涅槃』だの、超越的『真理』のごとく理念化してはならない、ということだ」

「では、道元禅師の位置づけは?」

「禅師は『非思量』を『坐禅の要術』だと言っている。要するに方法なのだ」

「だとすると、話の順序として訊くが、君は『非思量』をどう解釈しているのだ? いや、そもそも君の『非思量』体験はどんなものなのだ?」

「すでにあちこちで書いたり話しているが、かいつまんで言っておこう。僕が通常用いるやり方はこうだ。

 まず、坐禅中、意識を『見る』ことから『聴く』ことに振り替える。すると、『見る』はただ『見えている』状態になり、特定の何も『見る』ことはなくなる。このとき、聴いている音が何の音か、一切判断しない。聴くままにする。言語の作用をギリギリまで絞り込むのだ。

 次に『聴く』から皮膚感覚に意識を振り返る。すると単に『聴こえている』だけになる。聴いていることを聴く、みたいな状態だ。さらに皮膚感覚から筋肉や内臓へと、内へ内への意識を引き込んでいくと、そのうち呼吸のリズムに感覚が乗ってきて、心身全体が波動のように感じられてくる。

 この状態を暫く維持していると、眼・耳・皮膚など「外」と接する感覚からは意識が引けて、体「内」感覚に意識が向く結果、「外」と「内」が入り混じってきて、最後は様々な感覚が一緒に明滅して波打つようになる。

 そうすると、感覚としては最早「内」も「外」も同じになるから、ある時点でこの状態が臨界に達して、「外」と「内」の仕切りが決壊する。つまり『自己』と『対象』の区別が無効になる。すなわち、『自』『他』は無くなる」

「それは、要するにどんな感じだ」

「そうだな。ある種の『感覚野』、あるいは『現象領域』の現出だな」

「それが『非思量』なのか?」

「僕にとっては、そうだ」

「『悟り』でも『涅槃』でもない」

「当たり前だろ。テクニカルに作り出した心身状態にすぎない。こういう身体技法を使うと、こうなるというだけだ」

「では、君の意味付けは?」

「『自己』だの『対象』などは、言うなればこの『感覚野』あるいは『現象領域』を土台に、言語が仮設した構成物にすぎない。『非思量』はそのことを明らかにする『要術』なのだ」

「それなのに、ただの言語による人工的構成物にすぎないものを、それ自体で存在する『実体』のように錯覚するメカニズムが『無明』なのであり、私の定義では、『悟り』は『無明』の発見と解明のことだ。黙って坐ればピタリと当たるような話ではない。坐禅を土台にする極めて知的な操作だ」

「言い分はまあ、わかった。でも『感覚野』『現象領域』というのが今一つわからんな。どういうものか」

「例を出そう。僕の場合、『外』『内』が決壊した時、『ドン!』とか『バン!』という感じで、ある種の衝撃を感じて、何かの底が抜けたような重心の低下を感じることが多い。特に初期にはそうだった。

 この状態がしばらく続くと、様々な感覚が均衡して、全体が平衡状態になる。このとき、突然何か大きい音がして平衡状態を破ると、それは爆音の如く轟き、『感覚野』全体を満たしてしまう。何もかもが音。『音を聴いている』のではなく、いわば全存在が音。『存在する』という出来事が、全部その音で立ち上がってくる。

 僕は、修行僧時代の摂心(集中坐禅期間)の最中に、僧堂の屋根からの突然の落雪で経験した。落雪する音の炸裂した瞬間、どこかに吹き飛ばされたようだった」

「昔の中国の禅僧に似たような話があったな。箒で掃き飛ばした石が竹に当たってナントカ、みたいな」

「『香厳撃竹』という話だろ。あれをストレートに『悟り』話にするからいかん」

「君ならそう言うだろうな」

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どうなってるんだ!?

2016年12月10日 | 日記
 打ちすぎて効かなくなった麻薬さながら、いよいよ収拾がつかなくなりつつある金融緩和の後に、今度は博打で「経済成長」させようなどと、いつまでアブク銭をあてにしたら気が済むのだ。

 本音は一時の「景気刺激」(あるいは「なんかいいことないかな」的国威「小」発揚)であるにもかかわらず、「被災地復興」などと言い募り、邪な動機で始まったオリンピックは、今や無様な迷走を続け、もはやこの先何が起こるかわからない。その上、万博だの冬季五輪だの、どこまで能天気な昔話を蒸し返すつもりなんだ。

 すでに時代錯誤的存在となりつつある原発を再起動し、その上核廃棄物の再処理サイクルを強引に延命して、ますます問題を将来に先送りしようというのでは、見通しの暗い年金制度同様、若い世代に申し訳がないだろう。

 だいたい国内においては、少子高齢化と人口減、具体的には子育て・教育と介護・看取りの問題に政策的財政的資源を思いきって注ぎ込まない限り、活発な消費行動・生産活動は期待できない。そのために増税が必要なら政治家は情理を尽くしてそう訴え、同時に所得の再分配機能を強化する方策を立てて、人々の将来不安を解消することに注力すべきだろう。

 さらに大きな問題は、世界的な潮流にどう対峙するかである。いま、グローバル化への政治的反動が、先進各国で起こっている。しかし、基本的にグローバル化は止まらないだろう(念のために言っておくが、私はグローバル化を「支持」しているわけではない)。グローバル化で大きな不利益を被っているのは、先進国の中間層であり、恩恵を受けているのは、先進国の富裕層と今のところ低所得である発展途上国の民衆である。先進国の指導者は富裕層を無視しがたいし、人口の大半が途上国に住むことを思えば、グローバル化の推進圧力は極めて高く、保護主義的な「ブロック経済」は長く持つまい。

 ならば、最終的な問題は、グローバル化する経済を管理できるグローバルな統治システムを構築できるかどうかである。たとえば、戦国時代から徳川幕府の成立まで、あるいは幕藩体制から明治新体制への移行など、より大きな統治システムを作り出す過程での様々な軋轢、紛争、戦争の勃発を思うと、この先必要な世界的システムの構築は、もっと厳しい難産となるだろう。だったら、今から皆で知恵を出し合い、ダメージができるだけ小さくなるように工夫をすることこそ、為政者の責任である(その点、気候変動問題で条約が発効したのは、今後に希望が持てる成果であった)。

 こんなことは、私なんぞが言うまでもなく、わかりきった話ではないか。40歳以下の青年や若者たちはどうしてる? 50歳以上は全部積み残して逃げ切る気だぞ。大波を被るのは君たちになる。なぜ今、異議申し立てをしないんだ?

 このままぼんやりしていると、問題を明白に捉えていて、かつ強烈な言葉の力を持った扇動者が本当に現れ、気が付いた時には取り返しのつかない道を進んでいることになりかねないぞ。58歳の杞憂だといいけど。

 追記:ちょっと良い話を追加。首相の真珠湾訪問は英断だと思うぞ。
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反省など。

2016年11月30日 | 日記
 恐山で「坐禅と講話の会」を行いますので、よろしければご参加くださいというご案内を、今年始めに当ブログでしました。6月・8月・10月の3回、一回につき30名定員という募集です。

 この会を、私は平日に1泊2日で行ったのですが、結果は3回で30名ほどのご参加でした。やはり平日に下北半島までおいでいただくのは、大変なことなのだと、改めて感じました(坐禅指導や講話をするには、実にやりやすい人数でしたが)。にもかかわらず、全国各地からご参加いただいた方々、ありがとうございました。また、お疲れ様でした。

 実は、ずいぶん前に、かなり厳格なスケジュールで2泊3日の参禅会を行ったときは、土日など休日の募集で、定員20名が2、3日で埋まりました。その経験があったので、もっと余裕のあるスケジュールなら平日でどうかと、「実験」してみたわけです。

 しかし、実際には、わざわざお仕事の都合をつけて来ていただくことになりますから、それは容易ではないことで、ご迷惑をおかけしてしまいました。来年も開催する場合は、休日に当たるように日程を設定したいと思っています。

 もう一つ失敗したのは、まさか複数回参加する方がいらっしゃるとは思わず、講話の「ネタ」を一つしか用意しておかなかったことです。これはまったく当方の油断で、今度するときは、毎回別の話ができるようにしたいと思います(テキストを使用した方がよいかもしれませんね)。

 あと残念だと思ったのは、思った通り、20代の方の参加がなかったことです。おそらく、ご希望の方がおられたとしても、職場での立場からいって、休日を思い通りに取りにくかったでしょうし、また恐山までの交通費の負担も、若い世代には大変だったのだろうと思います。

 ちなみに、最近時々質問されるのは、「あなたに坐禅指導を受けるにはどうしたらよいのか?」ということです。

 現在私が個人的に指導している方は、日時をご予約いただいて福井の霊泉寺まで来ていただいています。恐山でも可能ですが、最大の問題は日時の調整で、ご希望の方と簡単に予定を合わすことができず、申し訳ないかぎりです。また、一か所に滞在する日数が少ないため、お一人に対する定期的な指導はかなり困難な状態です。

 私は青森・東京・福井を毎月移動しているので、それぞれの都合に合わせて使用できるようなスペースを東京にも確保できれば、それなりに指導回数を増やせるかもしれませんが、これもそう簡単に実現することではないでしょう(坐禅会なら場所を提供してくれる人はいるかもしれませんが、個人指導の場合は事情が違うと思います)。

 私は坐禅の場合個人指導を原則にしたいと考えていますので、今のところ参加自由の定期的な坐禅会を行うことは考えていません。もし今後それを行うとすれば、ご希望の方々とスケジュールやプログラムをご相談しながら、徐々に実施したいと考えています。

 なかなかよいアイデアが出ず申し訳ありませんが、とりあえず来年、恐山「坐禅と講話の会」実施が決まった場合は、また告知させていただきますので、その節はよろしくお願いいたします。
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倫理的実存

2016年11月20日 | 日記
 3.11の原発事故後、福島から自主非難を余儀なくされ、転校先の横浜で「いじめ」られた少年の手記。

「なんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」

 私が考える倫理は、この「きめた」の一言にかかっている。

 彼に深甚なる敬意を表します。
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番外:今、ちょっと所感メモ

2016年11月10日 | 日記
 次期アメリカ大統領に決まった人が、選挙期間中に言ったことを今後額面通りそのまま実行するとしたら、我が国にとっては、

・憲法9条を変えて、徴兵制や核武装を含む「自主防衛」路線に転換し、

・「戦前」回帰的ナショナリズムを強化して、現憲法が保証する「基本的人権」に制限をかけるイデオロギー装置を準備する、

 そういう勢力が台頭する可能性が大きくなるでしょう。

 しかし、その勢力は、現自公政権を含む現体制側からは出ないと思います。なぜかというと、

 現政権的「ナショナリズム」は、日米同盟と経済成長(グローバル化が基本条件)を前提としているから、次期大統領の基本方針(自国第一主義と反グローバル主義)と相反する以上、そのまま通用しないはずです。つまり、「ナショナリズム」として上半身と下半身がねじれていて、機動力が乏しいわけです。

 したがって、私が予想する「勢力」は、欧米に遅れて、かつ欧米同様に、世間の「アウトサイダー」であり、かつアジテーションの天才的才能を持つ「ポピュリスト」として、賢い人物ならゆっくりと、笑みを浮かべながら、穏やかそうに姿を現してくるのではないでしょうか(体制内人間がいきなり立場を帰る可能性もあり)。

 言論と表現の自由をなるべく高度に確保し、多様な人々の共存が社会の将来にとって本質的な利益だと考える人々には、今後漠然とではなく、具体的な発言や行動の局面で「覚悟」を決めるべきときが、戦後初めて現実的にやってきたと言えます。

 いずれにしても、ついに、自分たちの国を、自分たちでどうしたいのかを、自分たちで決する、「民主主義」の意味と力が、私たちの国で根本から試される、ある意味で絶好の機会が訪れつつあると、私は思います。

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捨てると持つ

2016年11月10日 | 日記
 いわゆる「ダイエット依存症」とボクサーの減量とは、何が違うのでしょうか?

 後者は試合への出場という目的があり、それが果たされれば終了します。つまり、減量は純然たる手段です。ところが、「依存症」は減量自体が目的なので、終わりがありません。

 私はこの「依存症的」な印象を、最近の「捨てる」ブームに持つのです。必要のなくなったものを捨てるというなら当たり前の話ですが、「捨てる技術」「断捨離」などの、捨てること自体に価値があるかのように語るフレーズを頻繁に耳にするようになり、その象徴的なイメージとして、例のスティーブ・ジョブズのほとんど何も無い部屋の写真を見せられたりすると、私はここにある錯覚を感じるのです。

 以前、「ゴミ屋敷」の記事を書きましたが、あれは言うなれば「所有依存症」です。

 しかし、よく考えてみれば、「所有」という行為の実質は、対象を「思い通りにできること」であり、ならば「思い通り」の中に「捨てる」ことが含まれます。すなわち、「捨てる」と「持つ」は同じ「所有」行為の両側面なのです。

「何でも持つ」行為そのものによって「思い通りにできる」自我をを幻想的に仮設し、自己の存在感を補強している「所有依存症」者に対して、「捨てる」行為も同じ作用を自我に与えているわけです。

 したがって、スティーブ・ジョブズのあの部屋も、実は所有の欲望を反照的に表現していると思います。つまり、彼の部屋のイメージが我々を誘惑するのは、ほとんど何もないあの状態が、反照的に「何でも入る空間」「何でも持てる場所」として現前しているからです。所有の欲望を正面ではなく背後から強烈に刺激するのです。

「思い通りにする」欲望とは「自己コントロール」の欲望であり、それはすなわち自己の実存の無根拠性を、幻想的に補填しようとするものです。

 釈尊の教えが、その最初から所有に批判的だったのは、闇雲な「禁欲」礼讃でも、ましてや「断捨離」誇示が目的だったのでもありません。その眼目は、所有行為が「自己」それ自体の実体的存在を錯覚させるメカニズムを、徹底的に暴露することにあるのです。
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発言責任

2016年10月30日 | 日記
 時々講演だの講義だのをしていますが、それらはお坊さん限定のものもあれば、一般向け(もちろんお坊さんも含む)のものもあります。

 そんとなき、話の流れで、日本の伝統的な仏教教団(檀家制度を基盤とする宗派)のゆくえ、みたいな話になるときがあります。

 そういうとき、よく話していたのは、これからの僧侶は、ゴータマ・ブッダと自分、自派の宗祖と自分、ブッダと宗祖、それぞれの関係を根底から考え直して自分の考え方を確定し、その上で教え(考え方と修行法)を語らないと「自分の言葉」を持つことは出来ず、聴衆をインスパイアできない、ということでした。

 つまり、今後の伝統教団の「布教」の成否は、僧侶それぞれが、自分に本当にブッダの教えが必要なのか、宗祖の教えのどこに共感と確信を持つのか、ブッダと宗祖の教えの核心をどう把握しているのかを、クリアに語るだけの修練にかかっているということです。

 そうして話の終わりに、「僧侶になったから住職になることもあるのであって、住職になるために僧侶になってはならない」などと、言い放っていました。

 するとある日、本来は想定していなければならなかったのに、実際には想定外のことが起こりました。私とは違う宗派の若い僧侶(住職後継者)が、講演を聞いて私の弟子になりたいと言ってきたのです。

 いわく、

「私は寺の生まれです。いま、住職である父を補佐していますが、特に強制されてそうなったのではありません。寺を継ぐように言われたこともありません。寺の息子でよいことばかりあったわけではありませんが、私は育った寺の生活が好きだったし、檀家さんにも大切にされ、ありがたかったです。

 ただ一つ、大きくなるにつれて、少しづつ萌していった不安と疑問は、父の話や書物で次第に理解できるようになった宗祖の教えに、どうしても違和感が残る、心から納得できないことでした。

 最初のころは疑問と言っても曖昧でしたから、自分の意志で父を師匠に入門し、宗門の大学に入りました。ところが、専門的に学ぶようになればなるほど、自分の思いと宗派の教えが食い違うように感じるのです。

 その頃は父も私を後継者と定め、檀家さんも大いに期待してくれていました。自分で言うのも何ですが、私は理解力はあるほうです。とりあえず疑惑は封印して、周囲の期待を背に懸命に勉強し、寺の法要や行事にも自分から進んで出ました。

 数年後卒業し、本格的に寺で活動を始めてからは、膨らむ疑惑に無理やりプレッシャーをかけながら、考えた末の理屈で気持ちに折り合いをつけて、説教もするようになりました。

 説教の評判はよかったのです。ですが、よければよいほど、私はつらくなっていきました。檀家さんには、それは熱心な信者が何人もいて、私より深く宗祖を敬愛しているのです。そういう人に対して、私は確かな信心がないまま、説教して「感心」されている。これでは自分も他人も欺いているようなものでしょう。

 ちょうどそのころ、私は、たまたま読み始めた『正法眼蔵』や道元禅師の教えに、強く強く魅かれるようになったのです。こっそり坐禅も始めました。あなたの東京の講義にも、いろいろな理由をつけて通いました。まるで『隠れキリシタン』みたいでした。

 そんな日々が続くうち、私は段々追い詰められたような気持になってきました。そしてもはや気持ちの折り合いをつけがたく、どうしたものかと思っていた矢先、あなたの今後の僧侶の在り方につての講演を聞いたのです。

 そのとき、私は自分の底が割れたような気がしました。その通りだ、このままではいけない。考え直すべきだと」

 この若者の話を聞いて、私は容易ならざることになったと思いました。

「君、家族はいるのですか?」

「はい、妻と息子が」

 ということは、もし彼が「考え直して」私の下で出家すれば、父母を見捨て、檀家さんの信頼を裏切り、妻子を危機にさらす、文字通りの「出家」になりかねません。彼は私の気配を察して、すぐに言葉を継ぎました。

「ご懸念はわかります。リスクの高さは承知の上です。そこで、お願いがあります」

 彼は真直ぐに私をみつめ、落ち着いた声でゆっくり言いました。

「私はこれからもう一度、自分が信頼するある老僧の下で、初心にかえって宗祖の教えを一から学び直します。それが何年かかるか、今はわかりません。でも、学んだ末、それでも宗祖の教えに納得することができなければ、あなたの弟子にしてください」

「わかりました。ただ、私の下で出家するには絶対の条件があります。ご両親と奥さん、そして檀家さん、少なくとも総代さんたちの了解を必ず取り付けてください。最後は私が直接皆さんにお会いして、お気持ちを確かめます。彼らを説得できないようでは、今後他人にまともな説教などできません。いいですか?」

「承知しました。お言葉に従います」

 ここまで言われれば、覚悟せざるをえません。発言の責任は、まさに私にあります。そしてそれが、齢60に近くなった者が次世代の人間に果たすべき役割でもあるのでしょう。
 

 
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