恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

色と空

2017年03月20日 | 日記
 日本でお経と言えば、突出して有名なのが般若心経でしょう。その心経の中で最も人口に膾炙しているフレーズが、「色即是空 空即是色」だと思います。

 常識的な解釈だと、「色」とは物体とか現象など、人間が経験として認識できる事象の意味であり、「空」とは、そのような事象がそれ自体として実体的に存在していないこと、換言すれば、それ自体に存在根拠を持たないまま現前していることを意味しています。大乗仏教は、そのような存在の仕方をさらに「縁起」というアイデアで説明するわけです。

 このとき、「色即是空」は、「色は即ち空である」と読み下して、およそこの世のすべての事象は、実体としてではなく、そのように存在する根拠を欠いたまま現前している、という具合に解釈できるでしょう。

 問題は、「空即是色」です。まず「空は即ち色である」と読み下すと、当然ながら「空」が主語となります。そうなると、読み手は「空」なる何ものかがある、と考えたくなります。その「空」がそのまま「色」だということになると、「空」からすべての事象が現れ出てくるように思われがちです。これをさらに、「空」は有でも無でもない、有無を超えた真理なのだなどと言い出せば、ほとんどブラフマ二ズムの語り口と変わりません。

 ここは、「空即是色」の読み方を変えるべきです。ナーガールジュナ的な「空」のアイデアにより忠実に解釈すれば、「空」は「色」に即して、あるいは「色」においてのみ考えることができる、程度に解すべきでしょう。

「空」そのものなど、あるはずがない。「空」は、仏教が事象の「在り方」を説明するアイデアなのです。事象が実体をもたないまま現前している、その現前の仕方に「即して」「おいて」「ついて」語るときにのみ有効なのであって、「空」それ自体が何なのか意味づけたとたん、実体化して形而上学的理念に転化してしまうでしょう。これは、「無常」「無我」の教えからして、厳に斥けるべき考えです。

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番外:「揺らぎ」の要

2017年03月16日 | 日記
 このところ騒動になっているエキセントリックな幼稚園の一件で、急に脚光を浴びることになったのが「教育勅語」です。あれを園児が「合唱」する様子は、確かに見ていてあまり気持ちの良いものではありませんでした。

 しかし、「合唱」はともかく、「教育勅語」の何がいけないのかと言われれば、必ずしも即答できないでしょう。

 だから、これを「経典」や「聖書」なみに神聖視する方々は、いつの時代にも通じる「イイこと」がたくさん書いてある「立派な文書」と主張するわけです。
 
 実際「イイこと」が書いてあります。「父母ニ孝二兄弟二友二」から「国憲ヲ重シ国法二遵ヒ」辺りまでは、「何が悪い」と言われれば反論が難しいでしょう。

 私が思うに、問題は「イイこと」にあるのではなく、「イイこと」が埋め込まれている文脈にあります。この「イイこと」は「皇祖皇宗」と「国体」に規定され、そこに正当性の根拠を持つのです。

つまり、ここで書かれている「イイこと」の肯定は、そのまま文書が言う「皇祖皇宗」主権の「国体」、すなわち戦中戦前の国家体制の肯定になるでしょう。ということは、「合唱」は特定の政治信条の植え付けと言われても仕方ありません。これは現憲法下での教育方法として行き過ぎでしょう(「イイこと」部分だけを抜き読みするならともかく)。

 だいたい、部分的に「イイこと」が書いてあるから、その文書丸ごと「立派」と言うのは、「彼は不治の病に罹っていますが、心臓は正常に動いているから健康なのです」、と言うくらいナンセンスです。

「イイこと」が聖書に結びつけば神の言葉でしょうし、仏典で語られればブッダの教えです。「イイこと」には様々な文脈において語りようがあるのに、その中の一つだけを未だ批判精神がほとんどない幼児に刷り込むことは、私としては反対です。それはキリスト教だろうが仏教だろうが同じです(したがって「幼児洗礼」のアイデアは支持できない)。 

 要するに、子供に「イイこと」を説くのに、今どき何も「教育勅語」なんぞ持ち出す必要はなく(四書五経でも使えばよいのではないでしょうか)、それでもわざわざ持ち出すなら、「イイこと」とは別の「意図」があるのでしょう(「安保法制、国会通過よかったです!」的な)。

「価値観」の教育で大事なのは、それを自分で選べるようにすることだと思います。その場合、方便として、親など大人が最初の価値観を提示するのは当然ですが、いずれそれを一度相対化できるようにならないといけません。相対化した上で、改めて最初の価値観を選ぶとするなら、それがまさに「自分の」価値観になるのです。

 相対化とは、要するに鵜吞みにしないことです。鵜呑みにしないとは、批判的な意識を持ち続けることです。それは同時に、反対者の意見に寛容であることです。

 したがって、私が支持する思想・信条は、それ自身に対する外部からの批判を最大限に許容するものです(許容できないのは、暴力や差別による一方的排除)。その意味では、言論の自由(当然、批判の自由を含む)について、現憲法に一定の保証があるのに対して、少なくともかつての「勅語」体制とその支持者にそれはまったくなかったし、今後突然寛容になるとも思えません。私が「勅語」及び「勅語」体制を支持しないゆえんです。

 誰かが一定の価値観で他人を有無を言わさず縛り続けようとすることは、仏教の立場ではありません。某首相夫人が問題の幼稚園の講演で、幼稚園で植え付けられた「芯」が公立小学校に入ると「揺らぐ」と憂いて見せたようですが、「諸行無常」からすれば、揺らいで当然、揺らいで結構、揺らいでよく考えるべき、それから自分でちゃんと選んでね、という話になるでしょう。
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震災6年

2017年03月10日 | 日記
 熊本市に講演に行ってきました。熊本県への訪問は4回目くらいだと思いますが、昨年の地震後では初めてです。来月には地震から丸1年になります。

 空港から市内に向かう途中に被災者の仮設住宅エリアがありました。ここの皆さんが全員仮設住宅を出られるのはいつ頃になるのだろうかと思うと、いまだ多くの人が仮設住宅に住む東日本大震災の被災者の方々のことも考えずにはいられませんでした。

 大きな被害を受けた熊本城も、タクシーの運転手さんが気を利かせてくれて、車の中から見せてくれました。

 あちこちがシートで覆われ、崩れた石垣の石があちこちに並び、崩れたままの石垣も何か所か見えました。目の当たりにした被害は深刻そのものでした。

 実は、私は小学生の頃、源平・戦国時代の歴史マニアで、当時はほぼ日本中のお城を暗記していました(「日本の名城」みたいな本を丸暗記)。そして、当時発売されていた城のプラモデルシリーズを全部持っていました。

 好きだったのは、やはり姫路城と、そしてこの熊本城でした。白鷺と呼ばれる姫路城の優美さと、熊本城の凛々しく威厳のある立ち姿は、別格の美しさだと思っていました。

 特に、被災前に訪れたときに見た熊本城の石垣は、比類のない結構の美でした。絶妙のカーブでせりあがる石垣の曲線はほとんど音楽的で、そのまま上の天守閣に抜けて複雑に組みあがり、まるで重厚な交響曲を聴くようでした。

 思うに、この名城の30年とも言われる復興が果たされない限り、熊本の人々の気持ちは真底から晴れることなく、安心できないのではないでしょうか。

 東日本大震災はもう6年が過ぎます。犠牲者と遺族にとっては七回忌です。

 私が最近懸念しているのは、恐山にお参りに来ていただく被災者の方々が、ほとんど震災のことを話さなくなっていることです。最初の3年くらいは、かなりの方が地震体験や、大切な人を亡くした悲しみを自ら話してくれました。

 気持ちが落ち着いて、話す必要がないなら、大変嬉しく思うのですが、実際は違うと私は思っています。少ない数ではあるけれど、まだ深い悲しみと整理できない気持ちを吐露する方がいるからです。

 私は、ダメージから回復している人が多くなったのだとは思いません。むしろ月日が経つうち、いまさら他人に自分の悲しみを話せないと諦めて、ダメージを心の深いところに封じ込めている人が大勢いるのだろうと思います。生々しい悲しみが、プレッシャーをかけられて、心の深いところにマグマのように溜まっているのではないか、そう感じるのです。

 特に被災当時すでに中高年に達していた男性が心配です。彼らは往々にして、耐える以外にダメージの処理の仕方を知りません。

「泣き言を言わない」「弱音を吐くな」「考えても仕方がない」」「男はメソメソするな」

 そうあるべきだと思い、実際にそうしてきた人たちが、私は心配です。穴をあけないとプレッシャーは減らず、外気に触れないとマグマは固まりません。その負担がいずれ体や生活を蝕むのではないか。

 彼らがどこかに、泣き言を言い、弱音を吐き、考えたいだけ考え、メソメソできる場所を見つけられることを、私は願っています。

 それこそが、最初の、最も大切な「弔い」なのです。

 
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恩人逝去

2017年03月01日 | 日記
 それなりの年月を経るうちに、若い人達を指導したり育成するような立場に何度か立ってみて、よく思うことは、人にはタイプが二つあるということです。

 タイプの一つは、放し飼いが似合うタイプです。指導者は守るべき大きな枠だけ示して、あとは本人の好きなようにやらせると、彼はそれこそ実力以上に頑張るわけです。

 もう一つは、リードをつけておくほうが伸びるタイプです。指導者は本人を身近に置き、本人は指導者の側近となり、上司が行動するのに支障がないよう配慮したり補佐しつつ、自分なりに経験を積み、多くを学んで実力をつけ、やがて大成していくタイプです。

 私は完全に前者の「放し飼い」タイプです。「任せるからお前の好きなようにやれ」と言われると非常に張り切り、任せてくれた人に恥をかかせてはいけないと、妙な忠誠心まで持つようになります。

 ただ、私の経験から、「任せるから好きなようにやれ」と言って、文字通り実行する指導者は非常に稀です。「任せる」とは、任せた相手の仕事の出来に自分が責任を持つということです。

 ところが、任せると言った指導者は往々にして、その責任を回避します。あるいは、責任をとることが嫌なのか、仕事の途中で「好きなように」させてくれず、つまらない介入をしてくるのです。結局、「任せる」には度量が必要だということです。

 「リード」型の場合は、上司の指示責任は誰の目にも明らかで、多くは部下も一蓮托生ですから、この「責任」問題はそれほど顕在化しません。

 これまで生きてきて、「放し飼い」型の私に、「君に任せるから好きなようにやれ」と言って、本当にその通り私に任せた人物は3人しかいません。父親と師匠と修行道場時代の上司です。

 父親は、私が出家すると言い出したとき、泣いて反対する母親を、「男一匹決めたことだ。柱に縛ってもおけんだろ」と説得してくれました。

 師匠は、道場で「好きなように」やっていた私を心配した人が、「いいかげん自粛させろ」と忠告してきたときに、「あいつにはあいつのやり方がある。黙ってやらせてやるのがオレの役目だ」と言ってくれたそうです。

 上司は、出会ったその日に開口一番、言いました。「直哉さん。私はこの道場のことをよく知りません。ですから、内部で行う仕事はすべて君に任せます。ただ、君の決定で行ったことは後日報告してください。私が責任をとるためです」

 何年か後、「どっちが上司かわかりませんな」と傍から言われると、「いいんだよ、お互い楽なんだから」と笑っていたそうです。

 上司は一昨日亡くなりました。これで私の「恩人」は3人とも、二度と会えない人となりました。私のように愚かな者は、もはや報いることができなくなって初めて、受けた恩の大きさをつくづく実感するのでしょう。
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「遠さ」の功徳

2017年02月20日 | 日記
 私と同世代のある男性は、サラリーマンをしながら、目の不自由な父親とずっと暮らしてきました。彼は一人っ子で、母親は8年前になくなり、転居を繰り返した父親には、いわゆる親戚付き合いがほとんどなく、結果的にこの二人世帯は孤立に近い状態だったと思われます。

 数年前からは、認知障害とまでは言わなくても、父親の記憶や判断には曖昧さが目立つようになり、90歳を過ぎた最近では耳がほとんど聴こえない状態だそうです。

 しかも、おそらくは現在よりもずっと露骨できびしかったであろう、若いころの視覚障碍者への差別的扱いのせいか、他人に対する深い猜疑心が身についてしまって、息子である彼の世話しか受け付けないのだそうです。施設入所とまではいかなくても、デイサービスや自宅でのケアなど、公的その他の様々な介護サービスを部分的にでも利用したいと思っても、彼らをまったく受け付けず、「他人の世話にはならない!」「息子が親の面倒を見るのは当たり前だ!」の一点張りだそうです。

 耳の聴こえが悪くなってからは、意志の疎通がいっそう難しくなり、会社に出勤しているとき以外はほとんどつきっきりでいないと、父親は感情が不安定になり、まだ立って歩けるだけに、いつ何をするかわからない怖さがあると、彼は言いました。

「頑張ったんですが、もう限界です。そんなことを思ってはいけないんですが、死んでほしいと思うときも。最近は怖くてニュースが見られません。介護がらみの殺人事件が報じられると、自分もしてしまいそうで」

「限界も限界、その状態、もう危険ですよ。殺人などはともかく、あなたが倒れたら父上もアウト、共倒れでしょう」

「職場でも顔つきが変わってきていると言われてます。持病も悪化してきましたし」

 そう言いながら、彼は父親の死を非常に怖れていました。両親から十分な愛情を注がれて育ち、ずっと独身の彼には、いまや唯一の身内である父親は単に大切なだけではなく、矛盾するようですが、この苦しい生活の支えでもあるのです。ですから、私が「もう限界」だと言っても

「でも、父親がどうしても嫌がることを無理強いするのは、あまりに可哀そうで」

 すでに自治体の福祉関係の人や父親の主治医なども、二人の苦境を心配して、何度も足を運びサービスを受けるように説得しているようなのですが、状況は好転していません。

 話を聞き終えて、私は問題が父親である以上に、「可哀そうで」と言う彼にあると考えました。今や彼は濃密な父親との関係に支配されて、窒息寸前なのです。私は断言しました。

「ダメです。可哀そうでも、第三者を入れなさい。デイサービスなど利用して、あなた自身が一人になれる時間を必ず作るべきです。それができなければ、早晩お二人は共倒れです」

「わかっているんですが・・・」

「それだけではダメです。父親には自分の苦しさをもう一度正直に話して、了解されなくても物理的にデイサービスの場所に連れていくべきです。そして、移動先の世話を受け入れなくても、職員に事情を話して、半日くらいは滞在させてもらうのです」

「やはり、そうすべきでしょうか」

「どうしても必要です。これは、何より父上のためです。父上に深い愛情を持つ貴方が、その愛情のとおりに暖かく父上に接するには、休息の時間が是非とも必要です。父上が平穏な最期を迎えるためには、それこそ貴方が今しなければならないことなのです」

 おそらく、私が言ったようなことは、彼自身が十分承知で、周囲からは何度も助言されたことでしょう。しかし、自分自身の考えや、あまりに近い関係の人からの助言、あるいは助言して当たり前の人からの意見は、往々にして有効ではありません。

 そのような人がそういうことを言うのは、立場上(つまり、利害関係や役割関係において)当然のことで、自分たちの「特殊な事情」を考慮した上での「客観的」意見には聞こえないからです。
 
 私のような「見ず知らず」の言い分が時として効くのは、関係が「遠い」からです。その「遠さ」が、自分の置かれた「特殊な事情」の困難を「客観的」に彼に認識させる機会となるのでしょう。生きていると、「親身」ではないアドバイスが役に立つときもあるのです。

 以後、彼は近況の連絡をしてくれます。

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時間と言語

2017年02月10日 | 日記
ゴータマ・ブッダの言葉を伝えるとされる初期経典に、次のような趣旨の話があります。

<言葉には「かつて存在した」「いま存在している」「これから存在するだろう」というように、過去・現在・未来の時制がある。このことは、立派な修行者はみな承認していることである。
 しかるに、無因論者(因果律を認めない者)・非行為論者(「業」を説かない者)・虚無論者(偶然主義者)らは、この時制を否定して当たり前なのに、そうしない。世間から時制を否定する者だと非難されるからである>

 この話が面白いのは、我々が意識する時間の秩序と因果律(「原因ー結果」概念)の相関性を明瞭に述べているからです。このとき、私が思うに、過去・現在・未来の時制が成立しているから、因果律を設定できるのではありません。

 自らの体験を、因果律で秩序づけるから、そこに前後関係が創発され、過去・現在・未来と一方向に「流れる」、線形イメージの「時間」が現象するのです。つまり、「流れる」線形時間は、言語が構成するわけです。

 ということは、言語の作用を減殺すれば、「流れる」「時間」は消失するでしょう。すると、どうなるか。

 けだし、『正法眼蔵』「有時」の巻はこう言います。過去・現在・未来という秩序を持つ「時間」は解体され、感覚される事象がいかなる方向性も持たずにただ持続し・遷移し続ける「而今(しきん・にこん)」が現成します。そして遷移し続ける「而今」の運動は「経歴(きょうりゃく)」と呼ばれます。

 このとき、事象がその「上」や「中」に展開する「流れる」「時間」それ自体の存在は否定されて、事象と「而今」は区別できない状態になります。この状態が「有時(うじ)」です。

「時間」ではなく「而今」、「流れる」のではなく「経歴する」。その時、我々は「存在している」と言うよりも、「有時している」のです。
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若し、仮に

2017年01月30日 | 日記
 若し、仮に、先日アメリカ合衆国大統領になった人物が、実に度外れたナルシストで、法外な自己顕示欲の持ち主であり、大統領職とその権力は、そういう自分を高度に満足させる道具に過ぎず、特に政治的理念や政治家的志しを持っているわけでもないとしたら、彼についてどんなことが考えられるでしょう。

 ナルシシズムも自己顕示欲も、他者の視線が不可欠の条件であり、しかも圧倒的に必要です。つまり、恒常的に他者の賞賛と支持と肯定を動員しなければなりません(だからこそ、批判には大人げないくらい過敏に反応して、「逆切れ」的反撃に出る)。ということは、彼は「独善的」な人ではないということです。「独善的」な人は、他人の評判をほとんど気にしません。

 このとき、大多数の賞賛を動員できる装置(独裁体制など)が用意できれば結構ですが、そうでなければ、民主主義的制度下の選挙において、圧倒的大多数の支持の獲得は極めて困難です。また、同時に、そのような圧倒的支持は、あればそれに越したことはありませんが、なくても構いません。

 必要なのは、反対勢力と同じくらいの規模の支持を確保することです。それが確保できれば、最低限、反対勢力に勝てなくても、負けません。そして、自分は支持者の中に引きこもり、反対者を攻撃し続ければ、支持者の賞賛と熱狂は高まり、ナルシシズムと自己顕示欲の満足は十分可能でしょう。

 その場合、支持者の中には、必ず「有力者」を調達しておかなければなりません。支持の「量」で反対者を圧倒しきれなければ、「質」で圧力を高めるのです。

 世間において「有力者」とは、まず「金持ち」であり、さらには「暴力」を管理する地位にいるものです。新大統領が、支持の「量」をミドルクラスの白人から得て、閣僚や幹部に金持ちと軍人を揃えて「質」を強化しているのは、その意味で理に叶う行動です(この「量」と「質」の捩じれが将来大きな摩擦を起こす可能性大)。

 となると、彼の政治的行動が「先の読めない」ほど不安定なのは、当然でしょう。要は、ナルシズムと自己顕示欲からの行動なのですから、それを満足させるために、とにかく支持者に「ウケる」政策を場当たり的に乱発するだけです(そのとき「ウケ」れば、実現可能性は低くてもよい)。そこに一貫した「国家経営」「外交戦略」の政治的構想などあるはずもないでしょう。

 彼の「アメリカ第一」は、要するに「支持者第一」で、大統領選時点で、未だにある程度大きなボリュームを持つ白人ミドルクラスに不満が鬱積していることを敏感に察知して、自分の支持者に取り込むことにしたわけです。あのとき、自分への大量の支持の調達が、ヒスパニック系をはじめとする移民からの方が簡単だと彼が考えていたなら、おそらく「自由貿易」と「多文化共生」こそが「アメリカ第一」の意味だと主張したでしょう。

 彼は、イデオロギーで自分を正当化する従来の「独裁者」とはタイプが違います。また、政治的な立場として「ポピュリスト」なのでもありません。そうではなく、道元禅師の言葉で言うと、要するに「吾我名利」むき出しの人、に私には見えます。

 もしそうだとすれば、これは危険です。「吾我名利」の人は、「独裁者」同様、自分が他者との関係において存在することを根本的なところで理解できません。つまり、「無明」の人です。この人が暴走すれば、個人なら本人だけの厄災ですむかもしれませんが、一国の指導者となれば、「独裁国家」の末路のごとく、国ごと災難に遭うかもしれません(いや、アメリカの場合は世界の災難か)。

 大概の場合、「吾我名利」の人は、多くの他人を巻き込む(つまり、支持者の多くを失うような)大失敗をしない限り、反省をしません。また、支持者が反省を許しません。ただし、ナルシストは、ちょっとした失敗を追及されても気分を害し、思い通りにならないことが数回続いたりすると、いきなりそれまで手掛けていた仕事を投げ出すことがあります。

 いずれにしろ困ったことですが、政治的、あるいは道義的な説得が効く相手ではなく、自分と支持者の損得だけが問題ですから、当面は取り引き相手にしかなりません。彼が「ディール」的手法で政治をするのは当然で、「国民」を見ているのではなく、「支持者」だけを見ているのです(彼が「ディール」で政治をしようとするのは、実業家だからではない。「吾我名利」の人だから、これほどあからさまな「ディール」を臆面もなく政治に持ち込めるのである)。

 ただ、決して間違ってはならないのは、「吾我名利」の人は仏教的見方からすれば「愚者」でしょうが、世間的には必ずしも愚かな人ではないということです。まさに「デイール」においては、極めてすぐれた頭脳の持ち主であることが多いのです。だから、災難も大きくなるわけです。

 そうは思いたくありませんが、ワイマール体制がナチズムを生んだように、アメリカ民主主義が「吾我名利」大統領を生んだのだとすれば、あまりに悲しい話です。

 今は私の考えが見当外れであることを願うのみです。
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T氏への応答

2017年01月20日 | 日記
 あなたの言われる通り、私はこれまで、「悟り」や「涅槃」はそれが何であるか、釈尊が語っていない以上、根本的に「わからない」のだと言い続けています。

 ただ、これまで「悟り」については、事の是非はともかく、『正法眼蔵』の記述から自分なりに、「縁起的実存の自覚における主体性の生成」などと定義したり、初期経典にある釈尊の言説や行状から、彼の「悟り」は「無明の発見」のことだろうと推定したことがあります。

 ところが、「涅槃」に関しては、はっきりした自分の解釈を述べたことがありません。しかし、あなたのおっしゃる通り、この重要な言葉に何の解釈も示さないようでは、私の考えている仏教の輪郭が明確にならないというご指摘は、もっともだと思います。

 そこで、現在の自分がとりあえず定義する「涅槃」について申し上げようと思います。

 私は現在、「涅槃」を「死の受容」だと考えています。今のところ、私たちが「涅槃」を事実だとして認識し得るのは、経典中に語られる釈尊の「死」だけです。私は、いわばこの「外形的事実」(「事実」の内容は一切考えない。考えても無駄だから)を、そのまま我々の実存にスライドさせてみました。

「死」は、いつか、どこかで、「それが何だか決してわからない」出来事が勃発し、今の我々の在り方全体を不可逆的に変えてしまうことです。現時点でこれ以上のことは言えません。

 この「死」を、欲望することもなく、解決と思うこともなく、拒絶することも嫌悪することもなく、ただ「受容する」態度と行為を「涅槃」と考えたいと、私は思います。

 私が考える「死の受容」にとって重要なのは、「生き続けたい」自己と「死にたい」自己の持つ欲望を無力化することです。

 その場合、ターゲットにすべきは、「欲望」ではなく「自己」の方です。「欲望」は時と場合で転移し変化するので(「生きたい」は「死にたい」に、「死にたい」は「生きたい」に、「所有」欲と「断捨離」欲がしばしば互いに転移するように)、特定の「欲望」を消去したとしても、それは消えているのではなく別の「欲望」に転移している場合がほとんどです。ですから仏教的アイデアは、「欲望」ではなく欲望する「自己」を解体することを目指すわけです。

 では、日常的な実践としてはどうするのか。基本は二つです。

 自意識を解体する身体技法(たとえば坐禅)を習慣的に行い、「自己」の実存強度を低減する。

 同時に「自己」を「他者」に向けて切り開く。具体的には、他者との間に利害損得とは別の関係をつくり出す。その根本は、何か行動する場合に「他者」を優先することです。

 ただ「他者」の優先は、他人の要求に無条件で従うことではありません。もしそうなると、他人から支配されことと同然になり、関係が窮乏して維持できなくなります。

 大切なのは、「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」ことです。相互理解の土台はこの行動です。そして、仮にその行動から利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をするのです。

 この取り組みは、工夫の仕方によっては、自己をめぐる「縁」を豊かに深くするでしょう。それは、結果的に「なすべきことをなした」という実感になるかもしれません。これが積み重なれば、満腹の人が食事を終えるように、「死の受容」が実現する可能性があると、私はいま思っています。

 
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眉毛問答

2017年01月10日 | 日記
 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

 年頭に当たって、思いつき禅問答シリーズ。

 禅の語録には、仏法を誹謗すると眉毛が落ちてしまう、という文句が時々出てきます。

 ある禅師が、夏の修行期間の最終日に修行僧に向かって説法をしました。

「この修行期間中、君たちのために説法してきたが、私の眉毛は落ちなかったかな?」

 ある修行僧が言いました。

「泥棒も実は内心ビクビクしていますからね」

 別の修行僧がいいました。

「いま、生えてきていますよ」

 もう一人が言いました。

「ここは通しませんよ」

 私はこの問答を次のように解釈します。

 禅師が「眉毛が落ちなかったか」と言うのは、言語化できない悟りの境地を言語化するのは間違い(仏法の誹謗)だと思うか、という問いです。

 最初の修行僧の言葉は、「悟り」そのものを言葉にすることは不可能だと自覚しつつも、敢えて言語化し続けるべきだという意味でしょう。

 次の修行僧は、言語化しない限り、仏法も悟りも、それが存在することさえわからない(生えてくる)と言っているのです。

 三番目の修行僧は厳しい。確かに言わなければならないが、言ったとしてもそれが他人に通じるかはどうかは、別問題だと言っているわけです。

 ならば、語る内容の妥当性は、語る当人が何を狙って、どんな方法で語るかを吟味してから、評価されるべきでしょう。
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そこ

2016年12月30日 | 日記
そこには、言葉がやってくる。

言葉は死を連れてくる。

死は他者を連れてくる。

他者は身体を連れてくる。

そこはどこだ?


どこだ。



本年も当ブログをお読みいただきありがとうございました。
皆様の新年のご多幸を祈念申し上げます。

合掌



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