恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

話の合わせ方

2016年06月20日 | 日記
 仏教徒というからには、少なくとも、ゴータマ・ブッダが「悟っ」て「涅槃」に入ったという話を、それが現実に起ったことだと認めなければなりません。これが最低条件です。

 ここで最も困るのは、何が「悟り」で何が「涅槃」なのか、あるいは「悟った」まさにそのとき何が起きたのか、「涅槃」とはいったいどういう状態なのか(そもそもそれは「経験」の対象と言えるのか)、皆目わからないことです。どの経典にも、ブッダ自身がこれらを直接テーマとして解説した部分は見当たりません。

 しかし、そうは言っても、何しろ仏教の核心ですから、とりわけ後に仏教の「プロ」化した弟子たち(民衆からお布施もらって生活している者たち)にとっては、ただ「わかりません」では済みません。

 すると、ブッダが残したとされる言説(様々な経典)から、「悟り」「涅槃」を自分たちなりに推定して語ることになります。これらの推定はしばしば「ブッダの真意だ」と勝手に強弁されますが、要するにすべて推定ですから、その是非を「客観的に」決定する基準はどこにもありません。

 しかし、一度それなりの「悟り」「涅槃」が言説として設定されると、今度はそこに到達する方法が考案されます。目的が「わからない」のに手段だけが正当化されることはあり得ませんから、方法も結局、とりあえず設定された「悟り」「涅槃」に適合するように制作された、とりあえずのものにすぎません。

 かくして、目的たる「悟り」「涅槃」が設定され、そこに至る方法の用意もでき、ある程度の規模の支持者も集まって来るとなると、次には、人々はそれぞれの考えや体験を出来合いの目的と方法に当て嵌めて考えるようになります。この態度が昂進すれば、当て嵌まらない考えや経験を無視することになるでしょう。

 となれば、「悟りたい」人や「涅槃に入りたい」人は、「プロ」が提示する目的と手段に合致するように、無理にでも自分の考えと経験を操作するようになるはずです(いわゆる「修行」)。

 このような経過は、何も仏教の場合に限らず、およそ「真理」なるものを目指すあらゆる営為に共通でしょう(「真理」それ自体も人間には認識できないから、事情は仏教と同じ)。

 だったら、「真理」だの「悟り」だの「涅槃」だのを大っぴらに掲げて世間に打って出るような者は、まず自分の言葉で明確に「真理」「悟り」「涅槃」を定義して、あくまでそれが「自分なりの解釈による」ものだと宣言した上で、それらに到達するために有効だと自分が考える方法を提示するべきです。あとは、話を聞いた人々がどの程度納得し支持するかだけの問題になります。

 すなわち、語る者はすべて手の内を明らかにして語るべきなのであって、思わせぶりな「言葉で言い表せない真理」などという無用の長物は、一切持ち出すべきではありません。
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先々の話

2016年06月10日 | 日記
 世界最強と言われる囲碁の第一人者を打倒し、将棋のプロ棋士に勝つことは今や珍しいことではなくなり、一流大学の入試突破に肉薄しながら、小説を書くプロジェクトまで始まっているという、このところの人工知能の発達はますます加速しているように見えます。

 当ブログでも以前にこの問題について記事を書きましたが、ここでもう一度考えてみたいと思います。

 最近の人工知能の急激な進歩は、人間の振る舞いや会話に匹敵する能力を発揮する人型ロボットを出現させています。すると、我々が思うのは、この先人間の心あるいは意識を持ったロボット、つまり鉄腕アトムのようなロボットが現実になるのではないかということです。

 現在でも、非常にすぐれた会話能力を持ち、さらに学習することもできるロボットがあるのですから、「心のある」ロボットも夢ではないと考えるのも当然でしょう。

 しかし、いかに「人間らしく」ても、ロボットは「考えたり」「思ったり」「感じたり」しているのではなく、単に「プログラム」が作動しているにすぎません。そこに心や意識があるとは、とても言えません。

 ただし、問題は「ない」とも言えないことです。なぜか。

 それは、我々は「他人」に自分が持つような心や意識があるのかどうか、原理的にわからないからです。我々は他人の振る舞いや会話を自分に引き当てて、彼の意識と心の存在を「信じている」だけです(ちなみに、自分の「心」は、他人の言葉と振る舞いからコピーしたものですが)。

 だったら、事情はロボットも他人もかわりません。他人に心があると信じられるなら、「人間そっくり」のロボットに心があると考えてもおかしくありません。

 では、心や意識があるのかないのか、判断する方法はないでしょうか。

 私が思うに、意識とは自己と他者の関係それ自体を認識できることです。その認識の上で関係を操作(設定・維持・改変・解消など)する能力が現前することが、意識だと言ってもよいでしょう。

 この能力の獲得=心の発生の最もわかりやすい現象は、嘘を吐けるかどうかです。嘘は、自他の関係を認識していることを前提に、この関係を自分に有利になるように意図的に操作する、最もはっきりした行為です。関係の認識=自他の区別、意志の内在、意志に即して行動を組み立てる能力は、まさに意識の実質でしょう。

 このときもし、ロボットが嘘を吐けるようにプログラムされていたとするなら、それはプログラムに忠実に作動する「正直な」ロボットにすぎません。ということはつまり、嘘をロボットのプログラムにおいて吐かせるには、プログラムを裏切るプログラムが自動的に出現しなければならないということです。

 これは、プログラムの単なる「暴走」ではありません。「暴走」はそのプログラム自体の異常にすぎません。そうではなくて、嘘のプログラムは、プログラムの内部に突如としてメタプログラムが生じる事態なのです。そして、このメタプログラムの次にメタ・メタプログラムが継起し、無限に遡及すれば、これもまさに意識の様態です。

 では、プログラムの内部にメタ・プログラムが自動的に出現する事態は、どうしたら起き得るでしょう。おそらく、決定的に重要なのは、プログラムが「身体」を持つことです。プログラムとプログラムの外部(非プログラム)を媒介するもの(=身体)があれば、その媒介物の変質や轉換がプログラムに劇的変化をもたらすかもしれません。

 すると今度は、媒介物の変化や転換は、どういうシステムで可能になり、何がそれを促進するのか、という問題が出てきます(生物の新陳代謝、「成長」や「老衰」のごときシステムを構築できるのか)。

 だとすれば、今後、ロボットが「心」や「意識」を持つことは、そう簡単ではなく、現時点では想像もつかない先々の話ではないでしょうか。

 近い将来に人工知能が引き起こすであろう大問題は、けだし「心」云々ではありません。「自動社会」、すなわち、ほとんど人間の労働を必要としない社会が到来する可能性です。大量の機械「奴隷」に支えられた現代版「貴族社会」が出現するかもしれません。

 あらゆる生産を人工知能が担い(文化・芸術も含め、今後それが不可能とは思えない)、人間は消費と享楽する実存となる。それは一見、人間の最終的「自由」を意味すると思われるかもしれないが、実は、「生産」する機械に人間が「消費者」として隷属することでもあります。

 いったいそれは、ユートピアなのでしょうか、デストピアなのでしょうか。その判別も無意味なのでしょうか。
 
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「業」について

2016年05月30日 | 日記
 仏教に「輪廻」というアイデアは不要だが「業」は違う。「業」は「自己」の実存理解において、決定的な意味を持つ、というようなことを時々言ったり書いたりしてきたので、ここで私が「業」をどう考えているか、ざっと説明しておこうと思います。

「業」の辞書的理解を紹介しておくと、およそ次のようになります。

 サンスクリット語では「カルマン」と言い、「行為」を意味する。「業」思想とは、ある人間のある行為が彼の実存の仕方を規定し拘束することを、善因善果・悪因悪果という倫理的因果関係において理解する思考様式である。仏教では「自業自得」を主張し、その限りでは実存の「自己責任」論を採用している。多くの場合、「業」思想は「輪廻」思想と結び付けられ、過去・現在・未来の三世にわたる教説(「三時業」)として語られてきた。

 これに対して、現在の私の「業」理解を簡単に提示します。

 現在の「自己」の実存が、その時点での既知未知に関わらず、当人に責任のある行為、あるいは当人に責任のない事柄によって規定・拘束されている事実を自覚し反省して、ついに決断とともにこの事実を「自己」の実存条件として引き受けるとき、「自己」実存は「業」として認識される。すなわち、「業」とは「業」の自覚のことであり、この自覚がない限り、「業」は無意味であり、端的に「無い」。

 こう考えるならば、ある人物の「業」は徹頭徹尾、彼自身の自覚の問題なのであり、第三者が彼の「業」についてアレコレ言うこと(「君が今不幸なのは、前世の悪い行いの報いだよ」)は、極めて僭越かつ無礼であるだけでなく、ただの妄想か悪質な冗談にすぎません。言い換えれば、「自己」を「業的実存」として自覚し理解するとき以外に、「業」は存在の余地がありません。

 しかし、第三者に言われたことを、当人が「確かにそうだな」と納得するなら、それは彼の「業」の認識になります。

「業」の自覚と反省は、「自己」の実存を因果関係において理解しない限り不可能です。この場合、その理解は、「自己」が何を目的として構成されていくのかによって、根拠づけられます。

 つまり、ある行為なり事実の解釈の仕方とその意味は、「ニルヴァーナ」を目指している「自己」と「科学的真理」を知ろうとしている「自己」とでは、まったく違うものになります。

 ということは、仏教の「業」理解は、「実存」の自己理解のことであり、その意味では「自業自得」と言えるでしょう。仏教者として将来に何を志し、その志に照らして過去をどう反省し、反省の上に今いかなる決断をするか。この営為において捉えられる実存においてのみ、「業」は語られなければならないのです。

 しかしながら、私の「業」論においては、「自己」に責任のない事柄も「自己」を規定する以上、「業」として認識されます。では、その事柄とはどんなものか。

 まずは自然環境、社会秩序、宗教文化、政治体制など。そして決定的に重要なのは言語。これらのものは、「自己」の実存を根本的に拘束しますが、「自己」責任とは無関係です。そうではなくて、多くの「自己」が共同で制作したものであって、いわば「共同業」です。

 実は、この「共同業」にあたるものとして、古来仏教に「共業(ぐごう)」の概念があります。ただ、これは「器世間」、すなわち自然環境のみを意味します。私はこの概念を拡張して「共同業」を定義しています。

 以上が、私の「業」理解であり、当面はこれでやっていきます。 
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待ち人、来る!

2016年05月20日 | 日記
 某所での待ち合わせに向かうため、バスに乗り込んだ住職。車内は7、8人。天候暑からず寒からず、快晴。

 立っていることが多い住職、その日も立っていると、右斜め前に座っていたおさげ髪の女の子(小学校1、2年生くらい)が、いきなり振り向くと住職を見て、

「○○町3丁目というのは次でしょうか?」

「えっ。ああ、そうだよ、確か」

「ありがとうございました」

(礼儀正しい、いい子だな)

 バス、3丁目到着。女の子、再び、

「ありがとうございました」

「はい、さようなら」

 停留所に降り立った女の子、突然

「あれ、おじいちゃんがいない」

 女の子、住職を見上げて困惑の目。

「えっ、おじいちゃん?」

「いないの・・・」

「お迎えに来るの?」

「そう・・・」

 女の子の声、ぐっと心細そうになる。乗客の視線、住職に集まっている気配(自意識過剰か)。

「どうしよう・・・おかあさんが、おじいちゃん、来るって・・・」

 運転手から、何とかしろよと言われそうな感じ(完全に自意識過剰)。

「じゃ、オジサンと待とう」

(ああ、坊さんの見栄だよなあ。それなら、「和尚さんと待とう」と言うべきであったな)

 停留所に女の子と住職。

「すみません・・・」

「いいの、いいの。ただ、ぼくにも約束があるからなあ・・・」

(じいさん、早く来いよ! 何してんだよ!)

 名前を訊いたり学校のことを訊いたりしつつも、心配なまま15分以上経過、バス2台通過。

「あの、きみ、携帯電話持ってる?」

「うん。でも、おかあさん、いま仕事に行ってるから、通じないの」

 ちょっと涙ぐみ状態。

(あーん、泣かれたら困るよう!)

「あっ!」

「あの人、おじいちゃん?」

「うん!」

 くまのプーさん的体形のおっさん、300メートルほど彼方から、実にゆっくり接近中。

「よかったなあ」

(おい、じいさん! 全力疾走で来いよ!!)

 おじいちゃん追い抜いて、次のバス接近。

「じゃ、ぼく行くね。バイバイ」

「バイバイ!」

 本当はおじいちゃんにひとコト言いたかった住職、そのまま出発。バスの車窓には、ようやくやって来たおじいちゃんと手をつないだ女の子。

 住職がいつもの格好で出歩くと時々ある、この手の出来事。

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「自己」という分裂

2016年05月10日 | 日記
 初期仏教を示すパーリ経典には、こういう一節があります。

「自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、心の荒みなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい」(『スツタニパータ』岩波文庫)

 この文章を解釈するとき、多くの場合、「自己によって自己を観じて(それを)認めることなく」の一文における前者の「自己」を「本来の自己」「真の自己」と考え、後者の「自己」を、それ自体で存在すると錯視された実体的「自己」、すなわち「自我」と理解しています。

 つまり、「こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、心の荒みなく、疑惑のない」状態において現前する「真の自己」こそが、実体と錯覚された自我的「自己」の虚構を看破する、という趣向でしょう。

 しかし、私はそのように考えません。この一節の核心は、「自己によって自己を観じ」るという事態が不可避的に発生する、われわれの実存の構造にあります。

 これを言い換えれば、誰もが使う「私」という言葉で、他の誰でもない何者か、というよりも、否応なく現前している何事かを指示せざるを得ないという矛盾なのです。さらに言うなら、「私」という単語を意味あるものとして言うことができ、意味あるものとして聞いている、ある存在の仕方です。

 すなわち、「私」という言葉を発する行為と、その言葉で意味されようとする事柄の分裂こそが、「自己」と呼ばれる実存なのだと、私は思うのです。おそらくは、この根源的分裂の発生は言語活動の開始と同時でしょう。

「真の自己」だの「自我」だのは、実存そのものであるこの「分裂」を観念的に解消しようとする作業の結果であり、それ自体が錯覚です。

 問題は、「分裂」の解消ではありません(それは「死」か「ニルヴァーナ」でしかありえない)。そうではなくて、生きている間に我々ができることは、所詮、「分裂」の自覚と取り扱いなのです。

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何のつもりで

2016年04月30日 | 日記
「いつも思うが、君は一体どういうつもりで仏教に取り組んでいるんだ?」

「どういうつもりだとは、ご挨拶だな。何を言いたい?」

「君はいつも、自分の抱えている問題に、それも解決不能の問題にアプローチする方法として仏教を使っていると言うが、それじゃあまりに考えが狭くなあいか? いやしくも大乗仏教の徒なら自分ばかりの問題にかたよってはまずいだろう」

「すぐに人の役に立つことをしていないことは認める。しかし、僕が抱えている問題は、僕だけの問題でないことは確信している。僕のアプローチが、誰かの参考になるに違いない。そう思わなければ、坊さんとしてこれをやる意味もなかろう」

「それはそうだが、やっぱり狭い。仏教に限らず、宗教には、様々な儀礼があり、芸術的な表現あり、文化的な意味があり、社会的な救済活動もある。君が日ごろまくし立てている理屈以外に豊かに拡がる領域がある。それを無視するのか?」

「無視してはいない。その領域に関して誰かの需要があり、自分に供給する能力があるなら、自分が応じる必然性があるかぎり、そういう領域にも取り組む。ただし、それは自分のメインテーマではない。その領域は、自分の問題に直接関わらない」

「そういうやり方は聊か不誠実ではないのか?」

「どうしろと言うのだ? 全部一人でできないといけないのか? あの世の有り難いお話で聴衆を安心させて、見事な儀礼パフォーマンスで気分を盛り上げ、高度な仏像鑑賞に薀蓄を披露して、ボランティアの先頭に立たないと、まともな坊さんと言えないのか?」

「そう興奮するなよ」

「一人の坊さんにできることは限られる。何をテーマに選ぶかは、当人が決めるしかない。ならば、僕もまた、まずは自分のテーマに少ない能力を投入する。そして、異なるテーマに取り組む他の坊さんに期待するし、できる協力をする」

「それじゃあ訊くが、そういう君は時々依頼があった人と面会して話を聞き、対話しているだろう。あれは君のテーマへのアプローチにどういう意味があるんだ?」

「よく『対話』と言ってくれたな。そうだ、僕は対話している。あれは『お悩み相談』でも昨今流行の『傾聴活動』でもない。僕は自分の話が通じるかどうかを試しているんだ」

「要は実験か?」

「失礼なことを言うな。そもそも、僕は実験すべき『理論』を予め持っていない。ぼくは対話の相手が直面している『問題』を知りたい。というよりも、問題を自分にも相手にも露わにしたいのだ。次にそれが仏教の問題なのかどうか考える」

「で、仏教の問題でなければ切り捨てる」

「馬鹿を言え。問題に応じてアプローチを考える」

「そして?」

「そのアプローチに沿った言葉を語りかけ、相手の反応によって、自分の言葉がどのくらい効いているか判断する」

「それで問題が解決するのか?」

「するわけないだろう。この程度のことで解決するなら、僕に会う必要もない」

「じゃ、何をしているんだ?」

「僕はこのような言葉のやり取り、対話を繰り返して、自分と相手が共有できる、ある存在の場を開きたいのだ」

「こむずかしい話だな」

「簡単に言えば、相手に『この問題の切なさは、自分一人だけのことではない』と感じてもらいたい」

「えっ、そんなことなのか?それだけ?」

「相手にとっては、それ以上のことは起こらない」

「つまらんな」

「そうかもしれない。しかし、中にはこの対話がきっかけで、自分で何かを考えだす人がいるかもしれない。答えのない問いに耐える方法を見つけるかも知れない。いつもそう期待している」

「では、君にとってのメリットは?」

「相手に『通じる』『効く』言葉しか問題に取り組む道具として使えない事実を、こういう対話だけが僕に教え続ているんだ」
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お見舞い申し上げます。

2016年04月20日 | 日記
 いまだ終息が見通せない状況ですが、熊本県を中心とする連続地震による多くの被災者の皆様にお見舞いを申し上げ、また犠牲になられた方々のご冥福を心より祈念致します。

 三つ、いま書いておきたいと思います。

 その一。

 この先、「天罰」「神罰」「因果応報」などと言い出す者が現れてくるかもしれませんが、少なくとも私の考える限り、これらは仏教とは何の関係もありません。それらを「偶然」と論理的に区別する根拠は一切ありません(証明は不可能で、要は言い出す者の個人的「信念」の問題)。

 その二。

 16日の段階で、震源域が拡大しつつあるのがわかってなお、原発を止めようとしない政府の愚昧さに驚き。原発は「安全最優先」と言うなら、今後の展開が定かに見通せない以上、念のため地震終息までは暫時停止するなど、当たり前の「最優先」判断でしょうに。

 政府は原子力規制委員会が「大丈夫」と言うから止めないと言うのでしょうが、もし今後大惨事となれば、規制委は、自分たちは「基準」を述べただけで、実際に動かすか否かは「政治判断」だと言うでしょう。そして、電力会社は無論、政府と規制委に従ったと言うに違いありません。

 ということは、最悪の場合、近くは福島の原発事故とオリンピックの例の不始末、遠くは先の敗戦同様、誰もまともに責任ある判断をしないまま、「なんとなく」「なりゆきで」破局を迎えることになるのでしょう。

 いかに物理的な安全装置を準備しようと、制度的システムを工夫しようと、その装置とシステムを運用するのは人間です。その運用を主導する人間は、あの事故があってなお、メルダウンの判断基準の存在を5年も公表しない(あえて、隠したとは言わない)レベルの意識でしかないのです。

 その三。

 自然災害と社会情勢を直接結びつけて考えることには、大いに慎重であるべきでしょう。が、しかし、この日本列島に住むものとしては、もはや大規模自然災害を織り込み済みで我々の社会の在り様を考えざるを得ないはずです。

 ならば、その前提として、経済成長と人口増と原発とオリンピックが前提で当然で栄光であった「昭和的」時代の完全な終わりを、ここいらでしみじみと自覚した上で、被災地の「復興」と日本社会の「将来」を考えるべきでしょう。

 おそらく、カネをばらまいて株価を吹き上げ「好景気」を装う幻想は、いかに長くても、オリンピックの終わりと同時に終わるでしょう。それまで根本的な問題に目を閉じ続けるのでしょうか。

 今後相当数の移民を受け入れて多民族国家になるのか否か、たかだか電気の為に原発を使い続けるのか否か、介護と子育ての負担を皆で分かちあうシステムを再設計するのか否か。
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番外:本年予定の「坐禅と講話の会」について

2016年04月10日 | 日記
 本年(平成28年)は、3回にわたって、院代の主催による坐禅と講話の会を、1泊2日で行います。

▼期日

 第1回:6月14・15日、第2回:8月2・3日、第3回:10月11・12日

▼スケジュール

 午後2時までにご到着下さい。

 スケジュール説明後、坐禅指導。夕食後、講話。

 翌朝6時半、朝のお勤め参加。朝食後、座談会。午前10時終了。終了後、希望者には恐山僧侶による山内拝観があります。

▼お申込み

 5月1日より受付を行います。恐山寺務所または宿坊に、「坐禅と講話の会に参加希望」と必ずお伝えください。

 各回30名にて定員締め切りとさせていただきます。

▼お願い

 服装は自由ですが、坐禅を行いますので、トレパンなど、下半身を締め付けないものをご用意ください(ジーンズでの坐禅は不可)。

▼参加料

 宿坊宿泊の費用12.000円のみお願いします。

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恐山の参拝

2016年04月10日 | 恐山の参拝
 当ブログには以前、恐山参拝についての基本的情報をお伝えするコーナーがありました。あれはあったほうがよいというお声をいただいたので、今回の記事といたします。なお、ブログ右に「カテゴリー」という部分があり、そこに「恐山の参拝」という項目を追加しましたので、今後お入用の際は御覧ください。

▼開山期間と開門時間

 開山期間は毎年5月1日から10月31日まで。開門時間は午前6時から午後6時までですが、季節によって変更があります。

▼境内の参拝

 受付でいただく入山料は大人お一人500円。小中学生お一人200円。団体(20名以上)はお一人400円です。

 境内にある4つの温泉は入山者は無料でご利用いただけます。ただし、この温泉はもともと、湯治などの目的で参拝者が自由に利用する露天風呂も同然でした。現在は湯小屋があり男女の区別も設けていますが、入浴に際しての物的・人的トラブルに対して、恐山は一切責任を負いませんので、よろしくお願いいたします。

▼宿坊の利用

 宿坊ご利用は要予約。

 1泊2食付きお一人12.000円。小学生お一人6.000円(幼児無料)。団体(20名以上)はお一人10.000円です。別途入山料が必要です。

 浴衣、バスタオル、洗面タオル、歯ブラシ・歯磨きは用意しております。

 こちらは旅館やホテルではなく宿坊ですので、若干の規則があり、それに従ってお泊りいただきます。

 到着は午後5時までにお願いします(季節によって変更あり)。夕食は午後6時、消灯は午後10時。翌朝6時半に朝のお勤め(原則全員参加)があり、その後朝食。チェックアウトは午前10時です。希望の方は写経ができます。日によっては、院代の法話もあります。

▼祈祷と塔婆供養

 恐山で行う定時の祈祷・供養の法要は、午前6時半、午前11時、午後2時です。法要30分前には寺務所受付にお越しください。

 物故者の御供養をなさる場合は、戒名をお持ちになるとよろしいかと思います(俗名での供養も行います)。

▼恐山例大祭

 恐山例大祭は、毎年7月20日から24日までです。多くの方がお参りされ、世間にも広く知られる山主上山式は22日午前に行います(10時頃)。

 例大祭中の開門時間は、午前5時半から午後6時です。

 期間中の宿坊利用は、個人での宿泊の場合、男女別の相部屋をお願いすることがあります。

▼恐山秋季祭

 秋季祭は、毎年体育の日を最終日とする3日間です。開山時間と宿坊利用は、例大祭に準じます。

▼お問い合わせ

 恐山寺務所: 0175-22-3825

 恐山宿坊: 0175-22-3826


 なお、当記事へのコメントは受け付けません。
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「外」と「非」の思考

2016年03月30日 | 日記
 ゴータマ・ブッダの語った言葉を、ある程度正確に記録すると見做されているパーリ仏典(初期経典)には、こういう話が出てきます。

 往来で強盗と殺人を繰り返していたアングリマーラという大犯罪人が、釈尊に出会って改心し、弟子になります。その後のある日、彼が托鉢に出ると、ひとりの女性が異常妊娠で苦しんでいました。

 彼は急いで取って返し、ブッダに報告すると、ブッダはこういう意味のことを彼女に言えと指示します。

「自分は生まれて以来、生き物の命を奪ったことはない。その真実にかけて、あなたとお腹の子供に幸せがあるように」、と。

 これを聞いてアングリマーラは言います。

「それじゃあ、嘘を吐くことになりませんか?」

 すると、ブッダはこう答えます。

「じゃあ、『生まれて以来』のところを『聖なる生まれに生まれて以来』(つまり、出家してブッダに帰依して以来)と言い換えなさい」

 ただちに、アングリマーラは妊婦のもとに戻って、ブッダに言われた通りのことを彼女に言うと、母子ともに安らかな出産を迎えたということです。

 この話で私が興味深く思うのは、ブッダがこの場合に嘘をついても構わないと確信していたことです。アングリマーラなんぞを弟子にしておいて、うっかりして「聖なる生まれ」と言うべきところを「生まれて以来」と言ってしまったなどということは、まずありえません。ブッダは、もしアングリマーラに問い返されなければ、そのまま嘘を吐かせたに違いないと思います。まさに「嘘も方便」でしょう。

「嘘も方便」という「方法」が使えるのは、嘘を吐いた(吐かせた)当人以外は誰も非難されず不利益を被らず、なおかつ嘘を吐かれた者に嘘の不利益を圧倒する利益がもたらされる場合でしょう。

 逆に言えば、このような場合には、嘘をいくら吐いても構わない、ということになります。これは、「倫理」や「道徳」に確実な根拠を認めて「絶対視」する立場とは違います。

 さらにもうとつ、面白いエピソード。

 ある者がブッダに、「神はいますか?」と単刀直入に質問すると、ブッダはこんなふうに答えたと言うのです。

①「道理から『神はいる』と私は知る」

②「このことは、智者によって一方的に結論されるべきである」

 ①が不思議なのは、「神」をも超える「道理」があるのに、その「道理」の説明がないことです。その上で、「いる」とは言わず、「『いる』と知る」という言い方をしています。つまり、「神」の存在は人間の認識に依存するのです。だから、②に「智者」が持ち出されてくるのです。

 ところが、この「智者」の正体にも説明がありません。注目すべきは、この②の回答の後、質問者がさらに発した問いです。

「どうして最初からそう言わないのですか?」

 すると、ブッダは驚くべき回答をします。

「『神はいる』ということは、世間で声高に同意されているものだからである」

 このパーリ文日本語訳が正確で、本当にブッダがこう発言していたとするなら、「神の存在」の根拠は、①でも②でもなく、結局「世間の同意」だ、ということでしょう。

 「道理」と「智者」が何であるか説明しない以上、それが何だかわからなくてもよいわけです。ならば、「わからない」ことは根拠になりませんから、残るのは「世間の同意」だけです。

 ということは、この言葉から察するに、我々が「自己」という様式で実存する限り、「真理(神)」と「倫理」を欲望し・要請し・前提とせざるを得ないが、無常・無我・縁起の立場においては、「真理」の非真理性を自覚し、「倫理」の倫理外領域を認識した上で、両者を注意深く取り扱うべきだ、と考えられているのでしょう。
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