なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ299 寒苦ひとをやぶらず

2021年01月31日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第299回。1月31日、日曜日。

一時期好天気に恵まれて雪もだいぶ沈んだのですが、寒波到来でまた少し積もってしまいました。
明日からはもう2月に入るので、今年の冬もあと1か月というところでしょうか。
もう少し頑張りましょう。

今年事務室に掛けてあるカレンダーは、どこから来たのかイエローハットのもので、ひと月ごとに、創業者で会長の鍵山秀三郎の座右の銘が書かれています。
1月の言葉は『盥(たらい)に一滴の水』というもの。
解説には「盥に一滴の水を垂らしても、見た目に何の変化もありません。しかし、一滴分の水は確実に増えます。たとえ、増えたことを確認できなくても、私は努力することにしております。」とあります。
似たような言葉は禅語にもあったなと思いました。
『擔雪填古井(雪を担いて古井をうずむ)』雪で井戸を埋めようとする行為。
雪は井戸に投げ込まれたとたんに溶けて、埋められようもない。
無駄にも愚かにも見える行為ですが、それを粛々と黙々と行じていく。つまり坐禅修行のことを言っています。
盥の方は、一滴入れれば一滴分増えますが、雪は増えることを例えているのではありません。
「何にもならない」。その何にもならないことを愚直にやり続けることを良しとしているのが違いです。
もう一つ、若干違いますが、
『紅炉上一点雪(紅炉上、一点の雪)』というのがあります。
赤々と熱せられた炉に雪が一片舞い降ります。瞬間、雪は跡形もなく消えてしまいます。
真っ赤な炉と白い雪の光景がきれいですね。
ただこちらは、無駄な行為という意味ではありません。
坐禅している姿を炉に例え、湧いてくる妄想や雑念を雪に例えています。
坐禅になり切った時には、どんな妄想がやって来ても雪のようにたちどころに消えてしまうのだ、という例えです。
臨済禅らしい勇ましい言葉ですが、なかなかねえ、そんなにきれいにはいきません。
ボタ雪のような妄想が塊で降ってきたりして、炉の炭も負けそうな時もあります。
問題は雪ではなく、常に赤々と炉を燃やし続けているか、ということでしょう。
たゆまない行の持続こそ、「紅炉」となるのです。

道元禅師もこう教えています。
『寒苦をおづることなかれ、寒苦、いまだ人をやぶらず、寒苦、いまだ道をやぶらず。
 ただ不修をおづべし、不修、それ人をやぶり、道をやぶる。』
寒苦あるいは暑熱によって人がダメになったり修行がダメになったりするのではない。
修行僧をダメにしてしまうのは、ただ、行を怠るからだけだ。
それをすれば何になるのかとか、もっと効率のいい方法があるのではないか、などと色々理屈をこねて、結局やらない理由を探している場合も多い。
それこそ愚直に、やるべきことを淡々と行じること。
もう、理由も目的も忘れて顔を洗うように、ご飯を食べるように、怠りなくあるべきように行じていく。そのことを先達たちは伝えてきたのです。
楽して多くのものを得ようとしたり、未来を運にまかせたりするのは土台から間違いです。
仮想のものは得られるかもしれませんが、リアルな人間として自分が得られるものは、やはりリアルな体験からでしかないでしょう。
お金も所詮仮想物です。お金そのものが幸せではありません。道具に過ぎません。
大金持ちになったとしても一日に6回食事をするわけではないですよね。
腹八分目に食べて穏やかに過ごすことが健康的な生き方です。それ以上に何を求める必要がありますか。
寒い中でもやるべきことは怠らず行じていきましょう。
あなたの炉は赤々と燃えているか。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



義道 その3

2021年01月27日 05時00分00秒 | 義道
中学校時代

あまりいい思い出のない小学生時代より、中学生の頃は割と楽しかった印象がある。先生にもよるのかもしれない。2年生の時に担任だった高橋先生は好きな先生だった。美術が専攻で、絵の授業で先生からよくほめてもらった。野球部の顧問の本間先生も好きだった。
文化祭の実行委員になったのだろう。そのための準備会議に参加して先輩たちの大人びた発言にワクワクした記憶があるから1年生の時だったかもしれない。看板やポスター書き、その準備に熱中して学校で朝までやっていた記憶がある。初めての徹夜だった。その頃の中学校ではそんなことができたのだと思う。
部活は野球部だった。というより選択の余地がなかった。野球以外は陸上部とバスケット部だけだった。休み時間はもっぱらサッカーで遊んでいた。
少しずつ自我に目覚め、恋をしたりして、大人っぽくなることに胸を膨らませていた喜びが記憶にある。恥ずかしい数々の思い出は思い出さないことにして、いい時代だったことにしておこう。

ただ、高校受験の頃は父親との確執がひどくなって勉強にも集中できなくなっていた。
昭和47年(1972)、庫裡改築の落慶式に合わせて首座法戦式を行うという。和尚の段階を踏むには必ず通らなければならない関門の儀式だ。しかし、それがなぜ中学3年のこの時期なのか。しかも、高校受験の実力テストの直前だった。
首座を務めるには覚えなければならない言葉がたくさんあるのだが、受験生であることを理由にカンニング状態で済ませることにしていた。頭を剃るのも必須の形だとは知っていた。しかしそれも受験生にかこつけて伸ばしたままでやろうとしていた。親ももう何も言えない状態だった。
当日の朝、側にいて指導とお世話をしてくれる役の和尚さんからいきなり「剃るぞ」と洗面所に連れて行かれた。もう抵抗は叶わないと諦めた。お陰で形だけはそれらしい式を済ませることができた。

卒業後の進路が話題にのぼるようになって、それぞれが家業や家庭の事情、自分の希望などで進路を選択していた。農業、工業、商業、普通科高校、専門学校、職業訓練校、就職組もいた。将来の仕事を選択するのと同じ意味だった。そんなとき、同級生が「義道、お前はいいな、決まってるから」と言った。その言葉にどれほど宿命的な恨みを感じたかしれない。「それもこれも、全て父親のせいだ」と思った。
みんな自分で自分の将来を考え選択、決断しているのに、なぜ自分だけ決められているのか。いや、正確に言えば決まっていたわけではない、決まっていると思い込まされてしまっていただけだ。しかし、そのことが自分を苦しめていた。しかも、父親の仕事を見ているとどうも人が死んでからの仕事のようだ。人の不幸の時だけ必要とされる仕事などやりたいはずがない。ただ、もし自分が和尚になってこの寺を継がなければ、母親はどうなるのだろう。父親が元気なうちはいいが、病気になったり死んだりしたら、母親はこの寺に居ることができなくなるのではないか。それはかわいそうではないか、というぐらいの考えはあった。
いずれにせよ、大学には行きたいので高校は地元の進学校を目指してはいた。しかし、実力テストの成績は芳しくなく、実際の受験後の自己採点では不合格の予想の方が勝っていた。なので、合否の連絡が来る家には居たくなく、学校そばの友だちの家でうなだれていた。このまま山に行って死んでしまおうかとも考えていた。するとそこに担任の草壁先生が入って来て、いきなり握手を求められ「おめでとう!」と言う。思わずその場に泣き崩れてしまった。「家に電話したけどまだ帰って来ないというのできっとここだろうと思って来てみた」と言うのだ。先生も心配だったのに違いない。

卒業文集にこんな詩を寄せている。
 少年は裏口から旅に出る
 住み慣れた家を捨てて 母も恋人も忘れ
 誰もいない寝静まった 
 アスファルトの道路の オレンジ色の外燈の下を
 少年は肩を抱いて 走り抜けた
 ズックの足音だけが ビルの谷間に響き
 少年はリュックを背負って旅に出た
 さあ山へ、さあ海へ、草原へ、湖へ
 そして、老木になり、砂になり、草になり、清水になり
 その時、少年は
 憎しみとうらぎりにやつれた人間どもを見つけるに違いない
 心の目を失った少年は 裏口から旅に出る
よっぽど、家を出たかったに違いない。

中学最後の国語の授業の時、先生が「今日は最後なので、何でもいいから作文を書いて下さい」と言って原稿用紙を渡した。もう内申書に響くわけではないので何を書いてもよかった。その頃が父親との関係が一番煮詰まっていたのだと思う。原稿用紙に殴り書きで「もう、自分が死ぬか父親が死ぬかどっちかだ」と書いて提出した。その夜国語の先生から電話があった。作文を読んで心配してくれたのだと思う。父親が階段の下から二階に向かって「死ねるものなら死んでみろ!」と怒鳴ってきた。死んでみろと言われても死ぬ度胸もなく、関係が最悪のまま高校へと通っていった。

サンサンラジオ298 配役

2021年01月24日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第298回。1月24日、日曜日。

金曜日、最上地区の青年僧侶が松林寺を会場に寒行托鉢を修行しました。
今年は欠席が多く、4人だけでした。頭数を揃えるために私も後をついて歩きました。
この時期、最上郡内の寺院を会場に5回修行するのですが、松林寺会場は3年連続となりました。すっかり冬の風物詩となったようで、こうなると止められない感じがします。
事前に案内を回していたので大勢の方が待っていてくれました。小さな子どもたちが合掌してくれると托鉢する者の心も温かくなります。
青年僧のための修行ですが、いただいた浄財は地域の社会福祉のために寄付されます。

朝ドラの千代ではないですが、人は役が欲しいと思っていますね。
主役や脇役でなくとも、たとえ台本に名前もないその他大勢であっても、自分の出番のある役が欲しいと思っています。
その中で、目立たないように目立とうと思ったり、「いいね」と誉めてもらうような役割を演じたいと思うでしょう。
人生も同じですね。
誕生から入学くらいまでは、まさに主役です。
家族全員の注目の的で、一挙手一投足に歓喜します。
子どもを中心に生活が回っていくようなものです。
周囲の呼び名も変わります。
固有名詞ではなく、「お父さん」「お母さん」「おじいちゃん」「おばあちゃん」と代名詞で呼ばれるようになります。
兄弟があれば「お兄ちゃん」「おねえちゃん」と呼ばれます。新しい方へ新しい方へと主役が交代していきます。
学校に入り、仕事をして、結婚して子育てをして、それぞれの場面に役割がありました。
一人で何役もを演じた時もあったでしょう。大変だけど、充実した時代だったと振り返ることができます。
自分の役があることはうれしいことなのです。
それが次第に少なくなっていきます。
出番表に自分の名前が載らなくなるのです。それは寂しいことです。
「充分演じたんだから休めばいい」と言われても、休みばかりではつまりません。

先々週話をした「林住期」は、自発的に全ての配役を降りるということです。
役は社会の中の役割ですから、社会との関わりを捨てて隠遁するということは自ら出番を捨てることです。それには孤独に耐える強い意志が必要です。
問題は、それが自分の意思ではない場合です。
出番が欲しいのに配役がない。みんなの名前が載っている配役表に自分の名前だけがない。
「自分の役がない」と思ってしまうことの寂しさ。それは慣れることかもしれませんが、周囲の気遣いで解消される寂しさかもしれません。
ちょっとした作業を任せるとか、昔の話を飽かずに聞くとか、手の温もりを喜ぶとか、「自分が必要とされている、ここに居てもいいんだ」と思わせることは、周囲ができる疎外感の軽減かと思います。
年齢とともに出番がなくなるのは自然な流れですが、それは社会的な役の話です。人生の役がなくなるわけではありません。
「患者」という役があります。「介護される人」という役があります。だって、そういう役がなければそれに従事する役もなくなるわけですから配役は減ってしまいます。
いやいや、その前に「老人」という役も社会にはなくてはならない配役です。
若い者にとって、「自分もこうなるのか」と考えることによって人生を思う哲学の生きた教材となるのですから。
ある意味、老人は「老人」という役の主役でもあります。
お釈迦様は、「涅槃図」の中の主役です。大勢が見守る中に横たわっています。死を見つめています。
お釈迦様ばかりではありません。死を看取られる人は全てが主役です。みんなが見守る中心に人はいます。誕生と同じです。
葬儀の主役は喪主でも祭司者でもありません。間違いなく死者です。
それができにくい現況は真に痛恨の極みです。主役としてみんなで見送りたいと思います。
社会の役と人生の役を混同してしまうと、自分は要らない人間だと勘違いしてしまうかもしれません。
人は誕生したときから臨終の際まで、人生の主役なのです。主人公なのです。
千代だって、端役というドラマの主役を演じているではないですか。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

義道 その2

2021年01月20日 05時00分00秒 | 義道
小学校時代

松林寺の周囲は古い農村地区で、住民の9割以上が農家である。その中にあってお寺という家族はそれだけで特殊な存在であり、また母親が保母(あえて当時の呼び方を使わせてもらう)として家の外に職を持っているという点でも特殊であった。
何よりも着ているものが違っていた。農家の婦人にはそれなりに決まった姿形というものがあった。それが仲間としての制服みたいに。その中でスカートなどを穿いて出勤する母の姿は目立ったに違いない。
仲間かそうでないかで内と外を分ける世間である。面と向かっては言わないまでも、お寺の家族は一歩離れたところから眺められていた「外の存在」であったと思う。子どもたちが私を見る目もその環境の中にあった。
私の小学校の入学式の写真を見ると、ほとんどが黒い学生服を着ている男子の中にセーターなんぞを着ている。どこかの「坊ちゃん」のように浮いた存在だったろうと思う。「生意気」に見えたかもしれないし「弱虫」に見えたかもしれない。
実際に体は弱かった。青白い虚弱体質だった。低学年の頃はしょっちゅう病気をしていたし入院したりして学校を休むことも珍しくなかった。
その頃を思い出して母親は「自分が悪いんだ」とずっと後まで語っていた。おっぱいを飲んでいたころ、姑との関係が良くなくてストレスを抱えていたらしい。よく泣いて夜泣きもひどかった。心なしか痩せていっているように見えるようになって、病院に連れて行って診てもらうと、医者から「母乳が出ていないんじゃないか」と言われてショックを受けた。その帰りに薬局に寄って、瓶入りのヨーグルトを泣きながら与えると二つをペロリと食べた。「母乳が出ていないことに気づかない母親であることが情けない」と自分を責め、涙ながらに後悔の念を漏らしたことが何度かあった。大学生になってからも、「お前の背が小さいのはそのせいだ」とこぼしていたが、それは違うだろう。
それが徐々に健康体になっていたのは小学高学年になった頃からだと思う。その当時の遊びと言えば、学年が近い子どもたちが集まっての外遊びだ。寺の境内は子どもの基地のような集合場所だった。色んな年代の男子も女子もここに集まってはそれぞれの遊びに興じていた。缶ケリ、釘ウチ、メンコ、ビー玉、ソフトボール、女の子はゴムトビや石ケリなどをしていた。杉玉や紙玉の竹鉄砲、ブーメランや弓矢なども作って遊んでいた。
小学入学したかその前か、大きな男子が放った弓矢が私の額に当たったことがあった。弓は杉の枝で作り、矢は茅の先に傘の骨を短く切って刺したものだった。額に突き刺さるほどではなかったが、そのかけらが残り病院で抜いてもらったことがあった。考えてみれば命がけで遊んでいたような時代だ。
そして夏は川、冬は山でスキーが定番だった。夏休みはもちろん毎日川に行ってヤスで雑魚獲りをした。4年生の夏休み明けだったと思うが、教室で「くろんぼ大会(当時の言い方)」というのがあった。男子も女子も上半身の背中をさらして誰が一番日に焼けたかを競うという野蛮な夏休みの報告会である。その時に栄えある1位になったのが私だった。その後は病気で学校を休むということはなくなったように思う。

 松林寺ではその頃書道と算盤の塾をやっていた。毎週日曜日、父と学校の先生3人が書道と算盤に分かれて子どもたちに教えていた。午前と午後の部があって、本堂と、境内に隣接して建っていた公民館を利用して大勢の子どもたちが習いにやって来ていた。私も嫌々ながら書道を習わされていた。子供にとっては終わってからの遊びが楽しみなこともあった。
 5年生のある日曜日、塾が終わってから数人の仲間と山に栗を採りに行った。木の下で拾うばかりでなく木に登って枝を揺らして振り落としたりもした。その時、私より上に登っていた男子が振り落とした栗のイガが私の顔に当たった。それが運悪く目に刺さってしまった。目玉そのものに痛みはないがごみが入ったようにゴロゴロしていた。家に帰ってその話をすると、塾が終わって呑んでいた先生たちが心配して、「病院で診てもらった方がいい」と言ってくれた。たまたまその頃母親がむち打ち症の治療で仙台の東北大学病院に通っていて、次の日の月曜日に通院する予定になっていた。「それなら一緒に連れて行って大きなところで診てもらった方がいい」と進言してくれた。
 大学病院の眼科で診察したところ、「トゲが4本目玉に刺さっていて奥に進行している、すぐに手術をしなければ抜けなくなって失明してしまう」という話だった。緊急手術を行い何とか事なきを得た。
病院の先生からも周囲の大人たちからも「ぼんやり上を向いて落ちてくるのを見てたのか」とバカにされたが、そんなはずがない。名誉のために弁解しておくと、ボタボタ上から落ちてくるので「もうやめろよ」と上に声をかけた瞬間に顔に当たったのだった。それにしてもドンクサかったのは事実だ。
 6年生の時だと思うが、同級生の男子と教室で言い合いから取っ組み合いになったことがあった。ケンカをするような質ではなかったが、何故かそんな気分になったのかもしれない。その時に、周りで見ていた男子たちが「ヤレ!ヤレ!」と加勢をしている声が聞こえた。それが私ではなく相手の男子への応援だった。やられるべき存在だったのかもしれない。自分の味方がいないのだと知ったことがショックだった。

サンサンラジオ297 シロクマ

2021年01月17日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第297回。1月17日、日曜日。

雪がけっこう積もりました。
降った次の朝は、除雪に山門の前に1時間山門内に30分の時間がかかります。
もちろん除雪機ですが、飛ばす場所がどんどんなくなってきて大変なことになります。
更には、屋根から落ちた軒下の雪を飛ばさないとくっついてしまうので、除雪機で周囲を廻らなければなりません。
ガソリンもかなり使います。ディーゼルだとそれほど燃料を食わないと聞いていますが、ウチのはたまたまレギュラーガソリンなのですごいです。
丸1日動かすと10ℓは空になります。今季これまで100ℓは使っています。
雪の降らない所はこういう苦労が全くないんだなと思いますが、雪景色の美しさは苦労を忘れさせます。

 自分が楽に生きられる場所を求めたからといって後ろめたく思う必要はありませんよ。
 サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。
 シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。(梨木香歩)

楽だと思う場所に住めばいいですね。
雪国は大変だから雪のないところへ、いいと思います。
でも、そこが本当に楽なところか、それは別問題です。
あとは、住んだ場所でどう快適に暮らすかだと思います。
私にとっては、雪と青空のコントラストの美しさを見るだけで幸せに感じます。世の中にこの色の組み合わせ以上の美しさがあるでしょうか。
高校の山岳部時代、雪山に登った時、顧問の先生が「きれいだねーこの雪肌、吉永小百合みたいだ」と感嘆したことがありました。
吉永小百合かどうかは好みの問題として、もちろんきれいですが、その時の雪の景色が感嘆するほどきれいだったことは同感でした。
何も苦労ばかりが移住の理由にはならないと思います。
苦労以上の喜びや、居心地の良さはその人なりの受け止め方です。楽なことだけが幸せの条件ではないからです。

ブログで自伝『義道』を書き始めました。
以前に、父親の生涯をその幼名で『千代亀(ちよき)』としてまとめました。父の死後7年の時でした。
今書いておかないと父の人生の悲哀を知る人がいなくなってしまうと思って書き残しました。
分からないところを聞こうにも、当時を知る親戚も既に間に合わなかったりして、もう少し早ければと悔やんだりしました。
だとするならば、自分もいつどうなるか分からないのだし、書けるうちに書いておいた方がいいと思い立ったのでした。
去年は暇で時間はたっぷりありましたから、少しずつ書き進めてきました。
一応まとまったので細切れにUPし始めたところです。毎週水曜日の朝にUPします。
思い出しつつ書き始めて、今自分がどうしてこうしてここに生きているのか、それが分かるように思いました。
過去は思い出さない方がいい、過去など思い出したところで何の役にも立たないというのが言わば持論ですが、子孫のためと思って書いてみて、過去の自分を見つめることは今の自分を顧みることでありました。
そして、自分の傲慢さにも気づきました。
我ながら性格がよくないですね。顔がよくないのは性格から来るのでしょう。
誰からも好かれるような、性格のいい人がうらやましいです。
色々なシーンが甦って、そのたびに自己嫌悪に陥ります。だから思い出したくないのです。
暇だから過去を振り返り自己嫌悪に陥っていた若い頃を思い出し、だからねと、独り言ちしています。
自伝として、書くには書きましたが、思い出しながらも書かないで隠しているところはたくさんあります。
なので、告白文でも懺悔文でもありません。いいところだけの自己満足文です。
そんなものを読んで誰が喜ぶのかと思いますが、それでも書けば自己顕示欲で人に見せたくなり、それを我慢する忍耐力がありません。
それが傲慢なところです。
それでもよければ読んでみてください。一人の人生のストーリーとしては読めると思います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


義道 その1

2021年01月13日 05時00分00秒 | 義道
誕生

昭和31(1956)年5月22日に松林寺で生まれた。
同じ日同じ時刻に、松林寺から東に300mほど離れた大場家にも女の子が生まれた。「こっちが生まれる」「いやこっちが先だ」と産婆さんを取り合ったらしい。
不思議なことに、南隣の金田家では兄弟と甥の3人が同じ誕生日で、それが5月22日だ。年数にして15年ほどの間に距離にして500m以内に5人も同じ誕生日の人間が生まれる確率はどれほどだろう。
それがどんな奇遇なのかは別にして、その日松林寺に生まれた男子、それが私である。
お寺の長男であるということで、いずれは僧侶になることを期待してというか準備して、その際にも使える名前として「義道」と名付けられた。ただし、呼び名は「よしみち」であった。得度した際に「ぎどう」と改める算段だったはずだ。
それが、得度とは関係ないタイミングで呼び名が変わることになる。それは、母親の話によると、保育所から小学校に上がる際に、母親の先輩の保母の先生が、「後から呼び名を替えるのなら、学校に入るときに替えてしまった方がいいのではないか」というアドバイスだったらしい。
制度上、得度の年齢は10歳からと定められているので、小学校の途中で得度をした際、昨日まで「よしみち」と呼んでいたのを次の日から「ぎどう」と呼ぶのは周囲も戸惑うだろうし、本人も嫌な思いをするのではないかという配慮からだったと思う。
実際、寺院関係者からは音読みの僧名で呼ばれる人が、親戚や幼馴染からは訓読みの幼名のまま呼ばれる例は多い。そういう意味では、今私を幼名で呼ぶ人がいないというのは、僧侶としての自覚が違うように思うし、使い分けするような煩わしさを感じることはない。それはありがたいことなので、当時の樋渡先生、またそのアドバイスを受け入れてきっぱり切り替えてくれた両親に感謝をしなければならないと思う。
ただ、子どもの頃は「ぎどう」と呼ばれるのが嫌だった。変わっているし、普通ではない。大人になってから、電話で名前を名乗る時、「かんべさんですか?」「さんべです」「下のお名前は?」「ぎどうです」「それ名前ですか?」と言われたことがある。失礼な話だが、苗字も名前も変わっていると名乗るのが嫌になることがある。
実際に得度式を挙げたのは昭和39年8歳の時、本堂改築の落慶式に併せてイベントとして執り行われた。何も分からず、抵抗できる年頃でもなかった。本庁への申請は2年待って10歳の時に出された。
いずれにせよ、寺の長男として生まれたということで、宿命のごとく誰の目にも寺の跡取りであるという見られ方を押し付けられることになる。そのことが悩み多き少年時代を過ごす土台となってしまう。

この続きは、来週水曜日朝5時にUPします。

サンサンラジオ296 林住期

2021年01月10日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第296回。1月10日、日曜日。

人が死ぬのに大晦日も元旦もない、まさしくその通りとなり、3日と4日が葬儀でした。
お寺は365日、24時間営業中で、定休日はありません。
火葬場も2日から営業のようでした。
その間にも、枕経、入棺、出棺と葬儀へのお勤めは続きます。
いつもだと1日に松林寺の新年会、2日に宿用院の新年会があり、泥酔いのスタートになりますが、今年は静かに葬儀で始まりました。

コロナの感染拡大が止まりませんね。
世界中の感染ですから、逃げようがありません。
人類が試されているかのようです。
どれほど高度の技術革新、ネット環境、AIが発達しようとも、それとは全く違う次元で、原始的に人から人、あるいは動物から人へと感染っていきます。
人間はロボットではない、生物なのだと教えているかのようです。
どんどん変異を繰り返していくのがウィルスの正体だと知りました。
ワクチンは本当に効くのでしょうか。
戦争などしている場合じゃありません。武器など使わなくても人は簡単に死んでいきます。
極悲観的なことを言えば、「これが人類絶滅のはじまり」というストーリーも考えられないわけではありません。
以前にも話したことですが、地球にとって人類はがん細胞だという考え方からすれば、ウィルスは地球の免疫作用だということもできるかもしれません。
地球から敵だとみなされているならばそれも仕方ありません。
しかし、人間だって生物として自然から生まれてきたものですから、本来敵ではなかったはずです。
地球上で生き延びる選択肢は二つ。
一つは生活を人間が自然と共に生きていた時代まで戻す。日本でいえば縄文時代でしょうか。
もう一つは、人類の最大限の叡智を結集してまさに持続可能な技術と生き方を創造し、全員がそれに倣うこと。
それ以外ないでしょう。
コロナが、そのラストチャンスのきっかけを与えてくれたのだと受け止めれば、悲観することはないと思います。
このコロナを甘く見ると、世界最大の大統領だって退陣に追いやられるではありませんか。
チャンスとしてしっかり向き合った方がいいと思います。

先週、「下山の道」という生き方について少し語りました。
そこで、「林住期」という言葉が頭に浮かんできました。
五木寛之に『林住期』と『下山の思想』という本がありますがそれを読んだわけではありません。タイトルだけ知っています。
「林住期」とは、インドのバラモン教で説かれる人生の理想的な過ごし方を4つに区分した一つです。
それは「四住期」と呼ばれ、「学生期(がくしょうき)」、「家住期(かじゅうき)」、「林住期(りんじゅうき)」、「遊行期(ゆぎょうき)」の4つです。
「学生期」は青春時代の学びの時期、「家住期」は家庭を持ち妻子を養い社会のしきたりを執り行う壮年の時期、「林住期」は仕事を引退して家を出て森に住み、精神を養う老年期、「遊行期」は全てを捨てて定住せず臨終に向かう時節とされます。
「遊行期」と言っても、古代インドとは違うので、家を持たず物乞いや托鉢で暮らすことはできません。
現代の日本であれば、病院や介護施設、在宅などでお任せしきった日送りということでしょうか。
で、そこまでの間、つまり、仕事の一線から退いて死に向かうまでの一定期間を「林住期」と呼んでもいいでしょう。
その期間をどう過ごすのか。
自分自身の精神的な修行期間ととらえることもできるだろうし、また、自分の経験や知識を若い者に伝える時期ととらえることもできます。
上り坂の成長ではなく、下り坂の成長もあっていいでしょう。
所有しているものも、抱えている責任も、様々な欲も、少しずつ削ぎ落し、心身ともに身軽になって、静けさを友とする生活。
手放すことは解放されることです。自由を手にすることです。
訪ねてくる人があれば、じっくり語り、ゆっくりした時間を過ごす。
林住期には時間の使い方も静かでゆったりしているでしょう。
そんな生活を目指したくありませんか。
学生期、家住期の人々は都会の喧騒の中でもいいと思いますが、林住期は田舎に限ります。
感染も少なく、持続可能な生活が田舎の生活には近いですね。
空き家もいっぱいあります。
何もない田舎で待っています。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ295 下山の道

2021年01月03日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ、第295回。1月3日、日曜日。

まずは報道部から1週間の動きをまとめて。

28日月曜日、大掃除
31日木曜日、除夜の鐘
1日金曜日、元朝祈祷
その他法事が1件、大晦日と元旦に不幸が2件入りました。
というような1週間でした。

みなさま、あけましておめでとうございます。
昨年は新型コロナに翻弄された1年となりました。
松林寺の大般若会も集中講座も中止を余儀なくされ、寂しい年でした。
今年はワクチンもできて感染が軽減され、少しにぎやかさを取り戻すことができるよう祈ります。
我々の先祖方も、数々の苦難の時代を乗り越えてきたわけですから、我々もこの困難をしっかりと乗り越えて未来への教訓としなければなりません。
コロナ過の事象の中で悲しかったのは、やはり感染者への攻撃で、まるで犯罪者のような視線がありました。
原発の放射能被害と似た現象でした。
なので「一人目になりたくない」という圧迫が、感染そのものよりも強い恐怖を感じました。
流言飛語にまどわされず、物事を「正しく見る」ことがとても大事ですね。
正しく見るためには、偏らずに色んな人の意見を聞くべきだと思います。そして自分で判断する。
自分で考え自分で判断しないから、人の言葉に左右されて右往左往してしまいます。
自分で判断するためには、心を静かにして考えることが必要です。
朝、仏壇の前に座り、線香を真っすぐに立てて、それに合わせるように姿勢を真っすぐにする。
心と体は一如ですから、心を真っすぐにするには体を真っすぐにするのが肝要です。
そして、心の重心を下げる。
頭だけで判断しようとしても蒙昧してしまうことになります。
心を落ち着けて、水面が鎮まるように静かになれば、自然に正しい判断ができるようになるでしょう。

若い頃は、ただおかしく、その場が楽しければいいということもあります。
自分もそうでしたから、それを笑うことはできません。
大人になり落ち着いた時代になれば、喧騒から一歩離れて静かに過ごすことも楽しくなります。
世間に流されず、左右されず、自分との対話を楽しむこともできるはずです。
それぞれの時代の自分を楽しめればいいいいのです。
今年何歳という、等身大の自分を眺め、認め、愛おしみ、自分が心地いい時間を過ごしましょう。
テレビやネットなど、情報があればあるほど、まどわされることにもなりますから、情報から離れる時間も必要ですね。
最近「一人キャンプ」などがブームなのも、そういう時間の過ごし方が求められている証左かと思います。
誰かと一緒でないと不安だというのは、ある意味、子どもっぽいのかもしれません。
やがては一人死んでいくのですから、孤独を見つめ孤独に慣れていくことは、一つの終活だと言えます。
登った山はやがて下らなければなりません。
頂上からすとんと落ちる場合もあるかもしれませんが、静かに緩やかに下ることも下山のあり方です。
「人生下り坂最高」という名言もありました。
ゆっくり景色を眺めながら、楽しんで下ればいいですね。
ぼちぼちと下りに向かっていきましょう。

ある朝、朝のお勤めをしていて「お経に自分が溶けていく」という感覚がありました。
木魚を鳴らし口からお経が声として出ていくのですが、その手の動きと声と体とお経が一体となって混ざり合う、溶け合うような感覚です。
「自分」がそこにないと全ては溶け合っているのかもしれないと思いました。
たとえば坐禅の時は坐禅と溶け合う、車を運転するときには車と溶け合う。
うまく言葉にできませんがそんな感じです。
トランス状態になったことはないですが、おそらくそれとはまったく違うものです。
自分ははっきり見えてますし、心地いい感じです。
「だから何?」と言われてもそれだけのことです。
ただ、もう一度あの感覚を味わいたいと思ってお経を読みますが、それはその時一度きりで、あとはいつものように雑念だらけです。
なかなかねえ、没我の境にはなれません。雑念だらけの人生です。

今年もこんな感じで、その時その時感じたことをお送りしたいと思います。
暇なとき、思い出した時、お立ち寄りいただければ嬉しいです。

疫病終息、万民安寧、諸災消除、諸縁吉祥
今年一年、みなさまに、佳き縁がありますよう祈ります。