今日法事のお経を読んでいて、唐突に一つの妄想が浮かんできました。
「あっ!」と言ったきり、突然に言語を失ってしまったらどうなるだろう。
お経も読めなくなるから仕事ができなくなる、話もできない。家族との会話もできない。言語そのものを失った場合は、字も書けなくなるのではないだろうか。
パソコンで文字を打つこともできない。筆談もできない。字を読むこともできなくなるだろうか。
そうなってしまったら、いったい周囲の人々とどうやってコミュニケーションをとるのだろうか。自分が伝えたいこと、してもらいたいこと、胸の中に湧き上がってくるとめどない「思い」はどのように処理すればいいのだろうか。胸が張り裂けそうな焦りと、頭が爆発するような苛立ちで、気が狂いそうになるのではないだろうか。
精神安定剤を処方されて、ドンヨリした意識で、欲求さえも抑え込まれてしまうのでしょうか。
そう考えると、人間が言語をもっているということはすごいことなんだなと考えさせられました。
実は、今思えば、父親の症状がそのようなことだったのだと思います。
父親の場合は、パーキンソン症候群の症状で、次第に言語が失われていったのですが、当初、字は読めるのだろうと思い、50音表を作ってそれを指さすように提案してみましたが、結局一度も使うことはありませんでした。おそらく読むことさえできなかったのだろうと思います。
何か言いたそうにしている時、こちらから「こうか?、ああか?」と聞いてみて、ぴったり合っていた時のホッとした喜びの表情を思い出してみると、伝えたい思いはたくさんあったのでしょう。
逆に、それが何度も何度も自分の思いと違った時は「バカ!」と起こってしまって席を外していました。「バカだけははっきり言えるんだね」と笑っていましたが、本人はどれほどつらかったのだろうかと思います。
胸にある思いをこうして伝えられることの幸せを思います。