なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ371 自他一如

2022年06月26日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第371回。6月26日、日曜日。

6月も最終日曜日。今年の折り返しになります。
ウクライナの戦争は未だに終わりません。
23日、沖縄「慰霊の日」の報道を見て、アメリカ側の記録なのでしょう、機関銃を撃つ映像がありました。
あの銃口が狙っていたものは何だったのかと思い、胸が痛くなりました。
ウクライナでの核兵器の使用という問題で議論されたというニュースもありました。
もちろん核兵器の使用などは論外ですが、核兵器でなければいいのかという思いはずっとあります。
アメリカの銃乱射事件、機関銃でも核兵器でもないけれど、兵器は人を殺すもので、殺された人は兵器が何かに関係なく、死んでしまうのです。
自分の身を守るために人の命を奪う兵器を手にする、それに矛盾を感じない社会の精神的な麻痺を思います。
守るべきものは自他共に「命」ではないのか。
自分と他人の命を区別、選別することが誤りの根本だと思わずにはいられません。
仏教は「自他一如」を説きます。
世界は、つながった大きな一つの命であり、バラバラ別々ではないというのが仏教的な見方です。

たとえば、地球そのものが一つの体だと想像してみてください。
足の小指の先に石が当たったというだけで頭の先まで痛みを感じます。小指一つぐらいなくなっても仕方ないとは思わないでしょう。
右足が左足を踏みつければ体全体で痛みを感じます。左足が不行跡だから右足が制裁を加えたのだということに正義を感じません。
右手と左手がジャンケンして、右手が勝ってもうれしくはないし、左手が負けても悔しくはない。右と左という区別も意味がない。
体を自由に動かせることが平和であり、幸せなことだと思います。
目に見えない骨格や血液、内臓によって体全体がつながっていて、全てが関係して生命は維持されています。
何一つ無駄な細胞はなく、それぞれがそれぞれの役目を黙々と努めています。
どちらの細胞が尊いとか下品だとか、どちらの細胞がきれいだとか汚いだとか、そんな無意味な議論は成り立たないでしょう。
だってそのはずです。
元はたった一つの細胞だったのですから。
それが分裂を繰り返し、それぞれの役目に分かれて成長し、全体を形作っていく。
地球の全生命もそれと同じでしょう。
たった一つの細胞から分かれたもの同士。
なぜ争う必要があるのか、なぜ他の細胞を殺し合う必要があるのか。全く意味が分かりません。
この世界をつくったのが神という創造主ならば、人間のバカさ加減にあきれてはいないのだろうか。
それとも、ノアの箱舟のように、いっぺん全てを洗い流す意図だと言うでしょうか。
ただ、命を自他に分ける個別の存在と見ている以上、同じことを繰り返すように感じます。
信じる者だけを救うという選別もおかしいと思いますがどうなのでしょうか。

先週は穏やかな1週間を過ごしました。
24日は地蔵例祭でした。梅花講の皆さんと御詠歌をお唱えして内外の地蔵様、観音様にも供養を奉げました。
同じ日、東京から元NHKの記者が遊びにやって来て、鳴子温泉に1泊しました。
シャンティボランティア会の専門アドバイザーを務めてくれている方で、海外駐在員などを務め、現在は朝に流す海外の報道をまとめる現場におられるようで、徹夜明けのまま来られました。
NGOのあり方など熱く語り合いました。
梅雨に入り緑がより一層色濃くなってきました。
アスパラは春の収穫をそろそろ収める頃になってきました。
さくらんぼもトップシーズンを終えようとしています。
皆様それぞれの体も自然に沿って移り変わっていきます。
かといって焦る必要はありません。
自然の中の一部だと受け止めて移り変わりに身を任せればいいことです。
その中でも、楽しいこと、うれしいこと、喜びを感じることには積極的に心を費やし、命を輝かせていきましょう。
他の喜びを自らの喜びにすることで幸せを感じることはできます。
他の痛みを自らの痛みと感じて分け合うことができます。
自他一如、同苦、同悲、同痛、同喜、同楽、同安、同幸。
全ての命が安らかでありますように。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。







サンサンラジオ370 鯉も人間も

2022年06月19日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第370回。6月19日、日曜日。

先週一週間は出かけていました。
曹洞宗布教師養成所で、4泊5日の缶詰状態でした。
感染予防対策もあり、受講生は前半後半に分かれての受講でしたが、講師陣は全日程を勤めました。
布教師を目指す青年僧諸兄は、非常にまじめでストイックなまでによく勉強されます。
今年度の講本は昨年度に続き『正法眼蔵行持の巻』で、ただ読むだけでも難解なのに、そこから一文を抜き出して、一般の檀信徒に伝わるように説きほぐす法話を作成することは、それ自体なかなか骨の折れる作業です。
それをみんなの前で実演し、それに対して受講生全員と講師が綿密な講評を加え、原稿を一晩かかって修正した上で次の日再実演するというプログラムです。
最初の実演から再実演までにどれほど修正できたかが厳しく評価されます。
限られた時間での勉強は寝る間もないかもしれません。
次の日の再実演で見事に修正されると、講師陣からも高評価が得られます。
修正できることは人の意見に耳を傾ける謙虚さの現れでもあります。
しかし、自分が言いたいこと話したいことでなければ、話自体が説得力に欠け聴衆の心には響きません。
自分の伝えたいことを保持しながら、さらにブラッシュアップしていく、それがこのプロセスのねらいです。
こういう場に来なければ、自分がこれでいいと思うままに話をしてしまって、間違った教えを広めてしまうかもしれません。
自分には見えない癖や気づかない欠点があるかもしれません。そこを痛いほど真っすぐに指摘されます。そこを気づかせてもらえるのです。
檀家さんは、心で思っても和尚に言うことはないでしょう。
この混迷の世の中、衆生の迷情を救うために、しっかりと学んでいただきたいと願います。
そんなことで、とても重要な学びの場が布教師養成所だと思っています。
全国から参じた今年度37名の弁道僧が一堂に会し、切磋琢磨しながら学ぶ姿はまさに叢林です。
また、違った性質の川の水を分け隔てなく受け入れて海が海となるように、この大海は、各地各自の個性を受け入れ、乳水和合して、やがて人々を潤すことでしょう。
今年度は、同じ日程で10月と2月に二期三期と続きます。

昨日今日と、戸沢村清林寺様の慶弔会、先住様の本葬と現住様の晋山結制が勤まります。
法要の解説を頼まれていて二日間勤めます。
先住禅悦方丈様は一昨年の2月、67歳で突然遷化されました。
ちょうどその日、東根温泉で寺院の集まりがあり、参加した和尚さん方が「途中で事故があったね」と話していました。
その後次々と情報が入り、それが先住様が乗った車の事故だと判明したのです。
先住様の車がブレーキを踏まずに前の車に追突したようで、運転の途中で意識をなくしていたのだろうということでした。
先住様は、普段から法定速度を守って運転する人で、周りがイライラするほどのスピードでしたから、追突された前の車の方に大きなけががなかったことは幸いでした。
しかし、後継者、家族の方、また檀信徒には全くの突然の出来事で、何が起こったのか何をどうすればいいのか、右往左往の日々だっただろうと想像されます。
それでも、法類や教区、近隣の寺院方にアドバイスを受け支えられながら、檀信徒とも相談を重ね準備を整えて、今日を迎えることができました。
新命住職には大変な2年間だったと思いますが、きっと先住様も見守ってくださると思いますし、この苦労を肥しとして立派な住職となるよう、覚悟をもって臨んでもらいたいと願います。
先住様は、山形曹洞宗青年会の会長を務められていた時に、その事業としてカンボジアに学校建設支援を成し遂げれられました。
一緒に学校の贈呈式に参加したことを思い出します。
優しさとユーモアと熱い思いにあふれた和尚さんでした。
まだまだ、寺にとっても地域にとっても曹洞宗門にとっても必要な人でした。
あまりにも早い突然の遷化に、残念無念という他はありません。
心より眞位の増崇を祈ります。

池の鯉が3匹死にました。
金曜日朝に1匹死んでいたようで、昨日にも2匹死にました、何かの感染症かと思います。
すぐに鯉屋さんに来てもらい消毒をしてもらいました。それ以上の被害は今のところなさそうです。
生きものですから、色んな病気はあるでしょう。
体長60センチはある鯉ですから重さもあります。
鯉屋さんは「餌のやりすぎかもしれない」と。
鯉も人間も食べ過ぎには注意しなければなりません。万病の元です。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ369 未来を照らす灯台

2022年06月12日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第369回。6月12日、日曜日。

昨日は恒例の松林寺大般若祈祷会でした。
特に今年は、ウクライナ戦争の早期終息とコロナ感染症の早期終息を祈りました。
昨年同様、今年も終わってからの飲食は中止とし弁当のお持ち帰りとなりました。
酒を酌み交わしながらお寺のことや地域のこと、将来のことや愚痴や悩みも吐き出して語り合うことを楽しみにしています。
それができないのは、私としては目的の半分しか果たしていない感じです。
来年こそはと楽しみにしています。

8日水曜日、9月のシャンティ東北のイベントの打ち合わせに山元町徳本寺様にお邪魔した後に、同町の震災遺構中浜小学校に行ってきました。
あの日、上空からの映像で次々津波に飲み込まれていくイチゴのハウスが目に焼き付いています。
広く長い海岸線で、温暖な気候を活かしてイチゴ栽培が盛んな土地でした。
地震発生時間、低学年の児童は授業が終わりグランドで家族の迎えが来るのを待っていました。
今までに経験したことのないような大きな地震で、ラジオでは津波の予想が流れていました。
はじめは6~8m、10分後には到達しているところもあるという報道でした。
小学校から高台まで避難するのに20分かかります。到底間に合わないと思いました。
グランドにいる子どもたち、迎えに来た家族に、校長は「校舎に入れ」と叫びました。
高いところのない平野では、一番高いところが二階建ての学校の屋上でした。
そのうち、津波の予想は10mに修正されました。
校舎の1階の高さが約4m、2階の天井までで8m、そして、この校舎を建てる時住民の要望で設計段階から2mかさ上げされていたことを知っていました。
さらに海岸から400m離れているのでその分をざっと計算して、屋上で何とか10mの津波に耐えられるのではないかと思いました。
校長は、全校児童、教職員、近所の住民、全部を屋上に上げて、最後に自分が階段を上りました。
「この階段を上ってしまったら、助かって下りる以外、下りることはないのだ」と覚悟したことを鮮明に覚えています。
屋上には物置に使っていた片屋根のスペースがありました。
子どもたちはそこに入れて津波の様子を見せませんでした。
津波は2階の天井まで達していました。
一部は屋上まで駆け上がり倉庫の中にも侵入してきました。
先生たちは子どもたちを机の上に登らせて守ろうとしました。
そして、そこで90名は一晩過ごすことになります。
たまたま懐中電灯を持っていた人があり、それを天井に照らして過ごしました。
とても寒い夜でした。
学芸会の道具や行事に使った道具をコンクリートの上に敷いて、励まし合って過ごしました。
何度も襲ってくる余震と寒さに震えながら、子どもたちはどんな思いでこの夜を過ごしたでしょうか。
夜が明けて、津波が引いた校庭には奇跡的に瓦礫が残らず、救助に来たヘリコプターが着陸することができました。

震災後、私はここを何度も訪れ、そのまま放置された校舎を胸を痛めながら眺めていました。
心無い若者が廃墟探検のような遊びに使っているという噂を耳にしたこともあります。
令和2年9月、構想から6年を経て「震災遺構中浜小学校」として公開されました。
その時の時計が止まったままの状態で現実を今に突き付けてきます。
あの時ここにいた子どもたち、大人たちばかりでなく、卒業生、地域の人々の思いが、声が、聞こえてきそうです。
幸い、ここにいた90名は誰一人命を落とすことはありませんでした。
色んな偶然や奇跡が重なったのかもしれません。
津波が来た時のことを考えて校舎を2mかさ上げして欲しいという住民の要望がなかったら。屋上に倉庫がなかったら。津波到達が下校の後だったら。
津波が押し寄せたこの地区は、今人が住めない土地になってしまいました。居住区域ではなくなったのです。
そこにぽっかり浮かんだ島のように、この遺構は震災記録の目印になるでしょう。
未来を照らす灯台になるかもしれません。

校庭には日時計の丘がつくられ、「3月11日の日時計」と名付けられています。
3月11日の地震発生時間に影が指す場所に、流れ着いた石が置かれ、その日その時の太陽の位置を知ることができます。
それも含めて、『被災したままの状態で見学者の立ち入りを伴う公開を法的に可能とした遺構保存の手法』、
『住民や教職員、専門家らとの意見交換を重ねながら共同で整備したプロセス』、
『見学者が時の流れを感じながら震災について考える「日時計モニュメント」等による統合的なデザイン』などが高く評価され、2020年のグッドデザイン賞に選ばれています。
是非一度訪ねてみてください。ガイドの方が生の記憶を丁寧に説明してくれます。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ368 人間は生きもの

2022年06月05日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第368回。6月5日、日曜日。

6月となりました。
日々時は過ぎていきます。
過ぎるというよりも、時に乗って自分が運ばれていくという方が正確ですかね。
自分は動かず、時間だけが過ぎ去っていくわけではないですからね。
時間そのものが自分です。

月末の30・31日は、2年ぶりの特派布教師協議会でした。
感染対策で色々な制限はありましたが、学びの多い集まりでした。
その講師の一人、シャンティ国際ボランティア会専門アドバイザーの大菅俊幸氏が講演で紹介された、中村桂子著『科学者が人間であること』という新書を早速求め読み始めたところです。
生命誌研修者の立場から見た近代社会のありようとその問題点はとても興味のあるものでした。
文章がとても読みやすく、私の頭にもすらすらと入ってくるので楽に読めます。
本書のテーマである「人間は生きものであり、自然の中にある」という視点が貫かれています。
その中で、「便利さ」についてこう書いてあります。
「近代文明の『便利さ』『豊かさ』は物が支えてくれるものであり、物を手に入れるためのお金が豊かさの象徴になりました。便利さとは、速くできること、手が抜けること、思い通りになることであり・・・(しかしそれは)いずれも生きものには合いません。生きるということは時間を紡ぐことであり、時間を飛ばすことはまったく無意味、むしろ生きることの否定になるからです。」
映画を早送りで観たりするのは、生きることの否定になるかもしれません。
読み始めたばかりですがとても面白そうです。お勧めします。

また、東京一極集中にも触れ、「一極集中社会は、生物が生きる場としては、大きな問題を抱えています。生物とは本来『多様』なものであるのに、この社会は均一性を求めるからです」と述べています。
「均一性を求める」ということは、「個性を認めない」ということでもあります。
特にコロナ後に「同調圧力」という言葉がクローズアップされました。
周囲と同じ行動をしない人は攻撃の対象になる、というようなことです。
「あの人変わってるね」と後ろ指をさされ、無視され、排除されるというようなこともそうでしょう。
みんな変わっていて、同じ人など誰一人いないのに、仲間外れを探して攻撃する。それが、多様性を認めない社会なのです。
なので、周囲をうかがい、人の目を気にし、仲間外れにならないようにびくびくしながら生きていく、それは生き辛いですね。
生物は生活環境と密接に関わり、その環境に適用するように「進化」してきたのですから、環境が変われば生物そのもののあり様が違うわけで、東北と関東の人間が「変わって」いることが当たり前なのです。
その変わっていることを認められない社会が東京一極集中の問題点だというわけです。
もちろん、同調圧力は地方にもあります。
ただし、顔のわかる地方においては、致命的な攻撃に至るまではまずないと思います。
一部においてはグループを作り仲間外れはあったとしても、他方においてはその人ともそれなりにつき合っていく。全否定のように、存在そのものを認めないという人はいないですね。幅があるというか、グレーゾーンが準備されているように思います。

周囲の顔色をうかがうのは自分に自信がないからでしょうか。
人の意見に左右され、風に流される浮き草のように、風向きによってあっちに行ったりこっちに行ったり、結局は定まるところがありません。
しっかりと大地に足をつけて自分の足で立たなければなりません。
自分で考え、自分で決断する経験を積まなければなりません。
自分で決断して失敗したとき、その失敗から学ぶのが人間です。失敗から学び、そこから成功へのカギを見つけ、立ち直ることで自信になります。
失敗を避けて通ろうとすることは、学びのチャンスを放棄するということです。それはもったいないことです。
自分の人生の決断を他人に委ねてはなりません。人の意見を聞くことに慣れてしまうと聞かないと不安になり、何一つ自分では決められなくなります。他人依存症です。
人の意見に左右される前に、しっかりと自分と向き合い、自分の考え、自分の決断をまとめ、覚悟をもって決断を実行していく、その経験が自立の自信となるはずです。
自分を見つめる時間を持ちましょう。

大菅氏は、次のように説いていました。
「仏教は、苦しみや悲しみを取り除くことを教えているというより、苦しみや悲しみにしっかり向き合うことを通して、自分の中から智慧や慈悲という素晴らしい宝ものを掘り起こすことを教えているのではないか。」
とても示唆のある言葉でした。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。