なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ191 欲とお坊さん

2018年12月30日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第191。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

12月30日、日曜日。

今年も残すところあと二日です。
新年を迎える準備は整ったでしょうか。
松林寺では、歳徳善神をお祀りして何とか形は出来上がりました。
あとは除夜の鐘を撞くばかりです。
お寺の正月は三ケ日の三朝祈祷から始まりますが、松林寺では元日に、宿用院では二日に合同祈祷と新年会があります。穏やかな年でありますように祈ります。

 多く持っていない人が貧しいのではなく
 多く欲しがる人が貧しいのだ

という言葉はスペインの諺だと知りました。
物の多い少ないではなく、欲の多い少ないが「貧しさ」と「豊かさ」を決めるのだ、という教えです。
もっとも、欲の問題ではなく、「絶対貧困」という必要最低限の生活水準に至らない貧しさもあり、満足な食事を摂れない子どもたちがこの国にもいることですから、貧しさを個人的な欲の問題にすり替えることは危険である、ということは指摘しておかなければなりません。
基本的な欲は誰にもあるものですが、人によって多い少ない、強い弱いということがありますね。
色々な人を見ていると、確かに、欲の強い人だなあと思う人と、欲のない人だなあと思う人がいますよね。
その違いの原因は何でしょうか。
育った環境によるもの?
「物がない時代で、兄弟が多かったから」と自分の欲を解説する人がいます。
だとすれば後天的なものですかね。
でも、たっぷりとお金と物がある家庭で育ったと思われる人にも欲が強い人はいます。
難民キャンプの中で食べ物を分け合っていた子どももいました。
生まれつきの性格?
親譲りとか、DNAとかでしょうか。
だとすれば、それは生涯変わらないかもしれませんし、子孫にまで遺伝するように思われます。
果たしてどうでしょうか。
欲が多いというのは、いつも飢餓状態のようなもので、どこまでいっても満ち足りたということを感じられないわけですから、ある意味かわいそうな感じです。
むしろ、欲の少ない人は、物がなくても楽に生きられるように思います。

一般社会ではいろんな人がいていいのですが、お坊さんの世界では、この欲というのが最もふさわしくない煩悩だと最近思います。
お寺を取り巻くトラブルの多くは金銭関係ですが、それだけ、一般社会はお坊さんの「お金臭さ」を嫌っているということでしょう。
会社の社長さんが欲が強いというのはさほど問題にされません。むしろ、「やり手だ」などと評価されるかもしれません。
でも、お布施をたくさん要求するお坊さんを誰もやり手だとは言わないでしょう。
欲は少ない方がお坊さんとしてふさわしいと思われているのだと思います。
欲の強さが、本人の意思とは違うところで備わったものであるならば、その人は、残念ながらお坊さんにはむかないのかもしれません。
金銭ばかりではありません。出世欲や性欲も少ない方がお坊さんらしいと言えるでしょう。
強い欲がありながら、それを抑えるのが修行と思われるかもしれませんが、どうしてどうして、それはなかなか厳しいと思います。
激しい欲と戦いながら、だからこそ厳しい修行に身を投じたお坊さんもかつては居たかと思いますが、現代はほとんどが寺の息子、仕方なくお坊さんになる前に、「自分は欲が強いからお坊さんにむかない」と見切りをつけた方が誰のためにもいいかもしれません。
一般社会では、欲の強さが成功の鍵となるかもしれないのですから。
年の終りにまた謗言を吐いてしまいました。自重、自重。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。






サンサンラジオ190 前後裁断

2018年12月23日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第190回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

12月23日、日曜日。

昨日は冬至でした。小豆かぼちゃを食べてゆず湯に入りました。
太陽の寿命が極まる日「一陽来復」。
今日からどんどん日が長くなると考えると希望を感じます。

今年1年間色々なところへ出かけました。
タイには結局3回行きました。国境を越えてカンボジアへ、ミャンマー難民キャンプにも行きました。
国内では、広島、栃木、新潟、岡山、長崎、京都、永平寺、總持寺などなど。
あちこち行ったから何だということではありません。
「お忙しいですね」などと言われることはありますが、誰にとっても一日は24時間であり、一年は365日と決まっています。
「忙しい」というのは、次々に用事があるということですが、どれほど用事が続いても、24時間365日が短くなったり長くなったり、減ったり増えたりするわけではありません。
決められた時間をどう過ごすのかだけの問題です。
ただ、今という時間を精いっぱい過ごすためには、過去を引きずらないということは大事かと思います。
昨日の残像が残っていると、今日という日に重なってハッキリと見えなくなるかもしれません。
昨日は昨日で裁断して、今日に向かう。今日が終われば今日で裁断する。
それを「前後裁断」と言います。
「前後」ですから、未来、明日のことも裁断するのですが、それはそれほど問題ないかもしれません。
やはり、過去にとらわれる方が影響が大きいように思います。
前後裁断といっても、今日がよければそれでいいというような、刹那的な過ごし方を勧めているわけではありません。
昨日の反省から今日を修正するということは必要ですし、明日に向かって今日準備しておくということももちろん必要です。「修正」と「準備」は今日の用事です。
「反省」だけにとどまって「修正」することを怠ることや、「準備」と言いながら考えてばかりいることを、今を生きていないというのでしょう。
過去から未来につながる「今」を怠らず、為すべきことをなす、ということでしょうね。
だとすれば、どんなに用事が連続している人も、何も用事がない人も、今日をどう過ごすのかということでは何ら変わらないということです。
何か、バタバタ動いていると仕事をしているような、何かの役に立っているような気になりますが、そんなことで左右されてはなりません。
同じことの繰り返しの毎日であっても、今日を充実して過ごせればいいことであって、それが劣っていることでもつまらないことでもないでしょう。比べるものではないのですから。
ベッドの上で寝たきりになることが人生の最後の過ごし方であるならば、それすらも「こんなものか」と受け止めてみたらいかがかと思います。
もちろん、今そんな状態にないのだから勝手なことを言うなと叱られるかもしれませんが、だけど、これまで生きて寝たきりの生活をされたたくさんの方々はみんな同じような思いでいたわけで、自分もそうなったなら、先人たちと同じ思いを味わいながら生きてみたいと思うのです。
その時にならなければ分からない思い、その時でなければ語れないこともあるでしょう。いや、たとえ語れなくても、その姿をさらすことによって、体で何かを伝えられるはず。
見ようと思わなければ見えません。聞こうと思わなければ聞こえてきません。
今日何を見ることができるのか。何を聞くことができるのか。
まずは今日。まずは今。
日めくりの残りはあと9枚です。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



サンサンラジオ189 愛おしいもの

2018年12月16日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第189回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

12月16日、日曜日。

雪は積もりましたがまだまださほどのことはありません。
除雪が楽な程度に降ってくれればと望んでしまいますが、天には届かない願いでしょう。

コーサラ国のパッセナーディ王がマッリカー夫人に聞きました
「そなたにとって最も愛おしいものは何か」。
夫人はしばらく考えてから答えました
「王様、それは私自身です」と。
夫人は王様に尋ねました
「王様にとっては何ですか」。
王様は考えてから答えました
「それは私も私自身だ」と。
高楼から国の人々を眺めながら、「自分は王として万民を第一に愛おしむべきではないのか」と思い、夫人は「私は、妃として最も王様を愛おしむべきではないか」と考えました。
そしてその疑問を、心から帰依するお釈迦様に尋ねることにしました。
するとお釈迦様はこう言いました
「その思いは正しい。人は自分より愛おしいものを見つけることはない」と。
そしてこう付け加えました
「だから、自分の愛おしさを知る者は、他を害してはならない」と。

誰にとっても、最も愛おしいのは自分自身です。
でもそれは人間ばかりではなく動物にとっても同じなのではないか。
人間が動物と違うのは、自分にとって自分自身が最も愛おしいと「知り」、だからこそ、同じように他の命も傷つけてはならないと「分かる」ことなのでしょう。
自分がかわいいだけで止まってしまえば動物と変わらないことです。
近年の日本人の動向をみていると、「自分かわいさだけ」ではないのかと思われてなりません。
社会で生きていくためには、時には、自分かわいさをを抑えて我慢しなければならないことも起こってきます。
自分の思いと相手を慮る気持ちで揺れて、悩んで、苦しんでしまうのも人間故であり、それでこそ人間というものなのだと思うところです。
動物と違って、人間として「知り」「分かる」ことによって、自分が嫌なことは相手も嫌なはずだと感じ、人の痛みを「痛いだろう」と想像することもできるはず。
なのに、赤の他人ではなく自分の親や我が子の痛みすらも感じることができないのではないかと思われる事例があまりにも多いと思いませんか?
また、批判を恐れずに言えば、独りの方が楽だという理由で結婚しない人が増えてきているように思いますが、命の継続のためには個人的な要望や煩わしさよりも優先すべきことがあるのではないかと思ってしまいます。
親子の関係は社会の基本ですから、そこが崩れれば社会全体が崩れることになるでしょう。

人間性が弱くなってきているのですか。
「人間は他の動物とは違う」と自覚しながら生きなければ人間らしく生きられないということでしょうか。
自国ファーストという方向性は自分ファーストに向かうかもしれません。経済第一という流れが自分第一に向かうようにも思います。
いずれにせよ、その方向が人間から離れて動物に近くなっていくことを誘発するのだとすれば恐ろしいことです。国の施策が人間らしさを奪うことになるかもしれないからです。

お釈迦様がおっしゃった「己の愛しさを知る者は、他を害するなかれ」という教えは、人間が人間として存在する証明のような教えだったのかもしれません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ188 雪が積もっても

2018年12月09日 04時42分10秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第188回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

12月9日、日曜日。

昨日8日は成道会、お釈迦様お悟りの日でした。
檀家の方々と坐禅をして法要を勤めました。

そしてついに、雪が積もりました。
来るべきものが来たというところでしょうか。
でも、積もってしまえばそれはそれで腹が決まることでもあります。
雪国に住む者がそれ以外の人々より勝れているところがあるとすれば、この覚悟を決める決断の強さではないかと思うところです。
雪が積もるまでは、今年の雪はどうなのか、降ったらどうしようと気を揉むことはあっても、降ってしまえば、腹が決まり、その中でどう生きるかと気持ちを切り替えることができるように思います。
雪のために無駄な苦労をしているだけではなく、その中で生きることによって、知らず知らず身につけてきた能力もきっとあるはずです。
それが忍耐力と諦観、意識を切り替えることのできる力だと思うのです。
他所の人からは、どうしてそんな大変なところで生きているんだろうと思われるかもしれませんが、それが単に使命感やあきらめだけではなく、そこに住まなければ分からない、得られないことがあるからなのですよ。

6日木曜日の朝刊に気になる記事がありました。
「国民全体で『おわび』合意」(山形新聞)
旧優生保護法下の強制不妊手術による被害者救済法案に盛り込む文言として、反省とおわびの主体を「国」ではなく、「われわれ」として国民全体による謝罪と位置付ける、と。
またか、と背筋が寒くなりました。
国のねらいは、各地で起こっている被害者による訴訟への責任逃れということでしょうか。
以前にもここで話しましたが、敗戦の際の「一億総懺悔」から福島原発事故にいたるまで、国も政治家も誰一人責任をとろうとせず、「われわれ」という表現で国民全体に責任を押し付ける体制がまた繰り返されることになります。
記事では、それを決めた国会議員の発言として「国の責任を否定するわけではないが、旧法は国民の代表である国会議員の全会一致で成立した。主体は広く『われわれ』とするのが妥当だ」と述べたと。
その当時の国会が全会一致だから、責任の主体が国民全体にあるという論法が理解できない。
その当時の国や国会議員が間違っていたのかもしれないとは思わないのだろうか。
選挙で選ばれた国民の代表が決めたから国民全体の意見というのも無理があります。
選挙には反対票もあったはず、全会一致であっても国民全体とは言えません。
最近で言えば、これまで数々の重要法案が強行採決されましたが、世論の意見が多数ではない法律も決まってしまいました。
自分たちが決めた法律は自分たちが責任をとらなければならないでしょう。
世論にも耳を貸さずに決めたことを国民全体に責任を押しつけてしまうことがあるとすれば、それは責任逃れという以外にありません。
過去のことであっても、過ちを過ちと認めるところから以外に反省も改善も望めません。
国の過ちを国民の過ちに転嫁することで、被害者に対する痛みを感じる力は弱まり、反省の意識も弱まります。分母が大きくなってしまうからです。
そして、国民の国への信頼が薄れていきます。
まあ確かに、そんな国会議員を選んでしまったのは国民の過ちではあります。

雪が積もっても過ちを覆い隠すことはできません。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ187 十二月

2018年12月02日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第187回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

12月2日、日曜日。

12月ですね。
今年ももう間もなく終わり…などとのんきなことを言っているのは、来年というものが必ず来ると思っているからですね。そんな保証は誰にもないのに。
年賀状を書いたり、来年の予定表に書き込んでみたり、寿命がまた一年短くなるばかりなのにのんきなものです。
明日をも知れぬ我が身、とりあえずは今年最後の1カ月、精いっぱい生きてみましょう。

クリスマスというのは一体誰のためにあるのか、と言ったりするのは年老いた証拠ですか。
その意味も分からない赤子のうちから、やれツリーだのやれケーキだのプレゼントだのと。
親の自己満足のために、頑是ない子どもにバカ騒ぎを植え付けてしまって、終いには親はクルシミマスだなどと自嘲している親のなんと多いことか。
喜んでいるのは子どもと経済界だけですよね。大きい子どもも含めて。
だいたいにして、クリスチャンでもなく、教会のミサに行くわけでもなく、ただのバカ騒ぎではキリスト信者にも失礼な気がするし、みんなの流れにただ流されて踊らされているだけでは、大丈夫か?と言いたくなります。
ハロウィンというのもひどかったねえ。
人ごみにもまれてどこに行くのかも分からずに流されるのは、何も考えずに行き先も人任せにした方が楽なのかも知れませんが、それでホントにいいのか?
ネットの書き込みの無責任さは、その他大勢の中の一人という、自分をごみのように扱ってしまうことにはならないのか?などと考えてしまいます。
ハロウィンにはかぼちゃを食べるのかなどと、ボーっと考えていた人もいたようですが、それは日本古来の冬至の行事なので22日に楽しみましょう。
クリスマスも元々ヨーロッパの冬至?一年で一番日が短い日の行事から始まったという説があるようです。
太陽の力が尽きて、次の日から生まれ変わるということで、洋の東西を問わず来復を祈ったことでしょう。
かぼちゃを食べたりゆず湯に入ったり、大騒ぎをせず、静かにその日を迎えるというのが日本らしい日々の過ごし方のように思います。

少し腰を落ち着けて静かに座ってみたらどうでしょう。
常に何かを考えていなければならないということもありません。
頭に上った血を下げるように、頭を軽く、心の重心を下に下げていき、どっしりと座ります。
そのためには、お尻の下に座布団などを敷き、あるいは椅子に座って、背筋を伸ばして胸を開くことが大事です。
そうすると、お腹で呼吸がしやすくなります。
頭の運転を止め、深い呼吸ができると、頭や体全体に新鮮な酸素が運ばれて楽になり、益々心は落ち着いてきます。
そういう状態を腰がすわる、腹がすわる、肝がすわると言います。
小さなものごとにはとらわれず、何をすべきかの正確な判断ができるようになります。
今の日本人に足りないのは、そんな静かな時間かもしれません。
心の落ち着きもなく、ただバカ騒ぎをするばかりでは本当にバカになってしまいます。

ひとと比べず、ひとに流されず、日々の生活に価値を見出す一日一日。
「日日是好日」とはそんな生き方のことでしょう。
年末も正月も、一日が一日の価値をもつ生き方をしていきましょう。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

写真:©エンドウフォト遠藤浩信