なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ320 熱について

2021年06月27日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第320回。6月27日、日曜日。

6月も、早や過ぎようとしています、
オリンピックの1か月前だということで騒がしくなっていますが、競技で戦う前にコロナと戦っています。
この戦いはいつまで続くのか。戦って勝てるのかどうか。
スポーツが楽しめるのは、社会の安定というフィールドの上だということが分かります。

去年今年と、こんなに体温を測ったことはありませんでしたね。
これまで体温計を手にしたのは風邪をひいた時ぐらいで、年に一度あるかないか。
それが、どこに行っても体温体温。
自分の体温が常時こんな温度なんだと知らされもしました。
しかし、体温というのは不思議だと思いませんか。
日本の外気温は寒いところではマイナス20度ぐらい、暑いときにはプラス40度にもなります。
その差は何と60度!
なのに、体温は常に1度ぐらいの間に安定して、37℃を超えると今など危険物のように見られたりします。
もちろん、衣類やエアコンなどで調整しているのですが、そればかりでなく、寒いときは震えたり暑いときは汗をかいたりして、身体自身も一定させようとしてくれているでしょう。

仏教では、物質を構成する要素として「四大」という考え方をしています。
つまり、全ての物質は、地、水、火、風の4つ要素の和合によって成り立っているという考え方です。
「地」とは、まさに大地のこと。また固形物などを指します。
「水」は、海水からはじまり液体全般を指します。
一つ飛ばして「風」は、空気などの気体。
そして「火」が、火そのものの他に気温などの「熱」を指します。
地球上に生命が存在するのは、水が氷でもなく蒸発もしないで水として存在するからで、それは、太陽からの絶妙な距離によって、また温室効果などにより、ある一定の気温に保たれているからです。まさに奇跡の星です。
これを人間の体に当てはめると、
「地」は骨や肉などの骨格を指し、「水」は血液や体液など流動するもの、「風」は呼吸、「火」は体温となります。
この4つの要素が仮に和合して命は存在するということで、「四大仮和合(しだいけわごう)」と呼びます。
なので、お寺の社会では病気のことを「四大不調」、亡くなることを「四大遠離(おんり)」と言ったりします。
縁があって四大は和合したのであり、縁が去れば四大は霧散、遠離するという考え方です。
この存在は、固体としてここに在るのではなく「縁」そのものの姿だというのです。

ミツバチは天敵のオオスズメバチを倒すのに、大勢のミツバチで囲んで蜂球の中に閉じ込め、身体を震わせて熱を出し、その熱でオオスズメバチを殺してしまうという手を使うことを映像で見ました。熱は武器にもなるのですね。
確かに、人間が50℃以上のところに長時間放置されれば死んでしまうでしょう。温度調節にも限界があります。
地球の温度が上昇しています。
1880年から2012年の間に、平均気温が0.85℃上昇しました。
わずかそれだけと言うかもしれませんが、人間の体温と同じで微妙なバランスによって維持されている生態系です。
1℃上がることは微熱ではありますが、人間だって1℃上がれば不調だと言われるでしょう。今のうちに解熱しないと高熱になって大変なことになってしまいます。

布団の中に寝ていると、自分の体温で体が温まります。自分の熱が自分を温めているんですね。ぬくぬくと気持ちがいいです。
暑くなると布団を剥いだり足を出したり、知らぬ間に温度調節をしています。
自分の熱は自分をも温めますが、近づけば他の人をも温めます。
子どもの頃、寒いときにおしくらまんじゅうをして温まった記憶が思い出されます。
岩手黒石寺の蘇民祭は、旧正月に下帯一つの男たちが蘇民袋を奪い合う奇祭で、氷点下の中で湯気が上るほどの熱気に包まれます。蜂球ならぬ人球です。
密を避けて冷え切っている人がたくさんいると思われます。
一人よりも誰かそばにいれば温まるでしょう。
背中合わせでもいいので、そばにいて温め合える社会が来ることを願います。
冷え切ってしまわないうちに。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンサンラジオ319 死にゆく私を見なさい

2021年06月20日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第319回。6月20日、日曜日。

例年6月は最も忙しい月で、松林寺では第1日曜日に集中講座、第2土曜日に大般若、24日は地蔵例大祭があり、また特派布教もこの月が一番多い期間なので出かけることが集中します。
ところが去年今年は、今年何とか大般若会を挙行しただけであとは何もありません。暇なので草むしりなどで過ごしています。
鉢の蓮と睡蓮を育てたり、そこにメダカを放したりして遊んでいます。
蓮の鉢にボーフラが湧いたので、その駆除のために漂白剤を入れてみたら、確かに一時的にボウフラは死んだのですが水がギラギラになってしまい後悔しました。蓮にも良くなかったでしょう。しかも、ボウフラは間もなく湧いてきました。
そこで、睡蓮鉢で育てていたメダカを数匹蓮の鉢に移してみるとボウフラをよく食べます。なんだ、最初からそうすればよかったじゃないか。
確かに睡蓮鉢にボウフラが湧かなかったのは大きくなる前に食べたからかもしれません。
ただ、そのメダカは去年ここで孵ったメダカなので睡蓮鉢に放した頃はまだ小さく、ボウフラが口に入るか、逆にボウフラに食べられないか?心配だったのです。いや実際に、「針子」と呼ばれる孵ったばかりのメダカはボウフラに食べられるから注意とネットに書いてあります。
なので、ここで孵ったメダカが心配なので、わざわざホームセンターから安いメダカを買ってきて試しに放してみて、大丈夫そうなのでウチのメダカを放したのでした。
試しにって、買ってきたメダカは死んでもいいのか、ということになりますが、やはり、ここで生まれてここまで育てたメダカには愛着があります。もしものことがあったらと思いました。命の選別をしてはいけませんね。

「今日確認された感染者は〇〇人、死者は〇〇人」と報道されます。
死者一人ひとりに人生があったはずなのに、人数としてのみ数えられることに違和感を感じます。
事故や災害で亡くなった場合、「亡くなられた方々」と実名で報道されるのとは違う扱いです。
感染者も、差別や偏見で排除されることがあるから実名を報じない、その延長線上に死者もあるのでしょうか。
芸能人や政治家の例外はありましたが。
自殺者の実名も報道されません。それと同じ扱いなのでしょうか。
しかし、自殺者も含めて、どんな亡くなり方をしたとしても、その人が生きた時間と事実は確かにあるのであり、亡くなり方でその人の人生そのものを否定するようなことはあってはならないと思います。
亡くなり方でその人生が色褪せることはないのですから。
誰にも知られずに、あるいは隠すようにひっそりと葬られることは寂しいことです。
お釈迦様は誕生して「唯我独尊」と発し、亡くなられるときには「涅槃図」の如くみんなに見守られて亡くなられました。
そのように、全ての命の存在が尊重されるべきであると同じく、全ての死も尊重されなければなりません。
ましてや、感染症で亡くなったのは、その人のせいではないでしょう。
なぜ隠れなければならないのか、隠さなければならないのか。
世界的なこの災難に、人類全員で立ち向かっていかなければならないとするならば、むしろ、死の事実、死の様子、その人の人生、残す言葉、願い、その家族の悲しみ痛みを共有し、それを全員が心に刻んでいかなければならないのではないか。それが立ち向かうことにつながるのではないか。
他人事として無関心を装うことによって感染は拡大される、無関心と感染は比例するのではないか、と思います。
ローマ教皇フランシスコは、
「わたしたちを今後ひどく襲う危険があるのは、無関心な利己主義というウイルスです」と言っています。

一般の葬儀においても、死の悲しみを共有することによって、自らの命を見直す機会にもなっていたでしょう。
友人の弔辞を聞いてその人生から学ぶことはあったでしょうし、遺族の挨拶から無常を感じたり、孫のお別れの言葉から家族を大切にしなければならないと気づかされたりもしたでしょう。
葬儀の案内板を見ただけで無常を観ずる人もいるのです。
家族だけで済ませた、ということでその機会は奪われることになります。
葬儀の意味の再確認をしていかないと、生きる意味の学びの場を失ってしまいます。
お釈迦様は最期に「黙って私の死にゆく姿を見なさい」と言いました。
死そのものを生きる学びとして、身をなげうって教材としたのです。
「死の窓を通して生を見る」と言った人がいます。
死を大切にすることは生を大切にすること。おろそかにしてはなりません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ318 名さえも残さず

2021年06月13日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第318回。6月13日、日曜日。

昨日土曜日は、松林寺の大般若会でした。
前の週の予定の集中講座は中止しましたが、今年の大般若は、併せて先住の13回忌と本堂屋根の工事計画のための護持会総会を開く必要がありました。
こういう状況下でどれほどの檀家衆が来てくれるのかと思いましたが、いつも通り本堂いっぱいの人が集まってくれました。みんなそろそろ集まりに出たかったのかもしれませんね。
コロナ過の中で強行した大般若祈祷会でしたので、念入りに感染の終息を祈りました。
13回忌法要には子や孫たちも参列してくれて、キチンとお勤めができました。
私の孫たちがその曾祖父と会ったことはありませんが、命のつながりを知り感じていくことは大事です。
見えなくともつながっているということを「感じる」ことが信仰心のはじまりかもしれません。
そう考えると、親と孫、ひ孫のつなぎ役として子の役割の重要性を感じます。
本堂の屋根工事は、数年前から雨漏りが広がって来ていてこれ以上の被害拡大を防ぐためには、全面的に葺き替えをする以外にない状況です。
檀家衆に割り当ての寄付をお願いしなければならないために総会をする必要がありました。こちらも無事に原案どおりの計画が承認されました。
お盆過ぎから工事にかかる予定です。

定年のある職種では、60歳定年、再雇用でも65歳退職というのが多いと思います。
特に男性の場合、どんどん自分の仕事、役割がなくなるというのは寂しいことですよね。
定年のない私ですが、最近そんな寂寞感を感じるようになりました。
仕事以外でもいろいろな役割、任務というのがあるわけですが、やはり65歳過ぎの位置づけになると、「いつまでも立場に居座っているべきではない」という思いが強くなってきました。
若い人たちが嬉々として責任ある発言をしているのを見ると特に、寂寞感と共にその思いを強くします。
社会的に責任ある立場を任されると、それはそれでやりがいを感じ、周囲が頼りにしてくれ、任されているという喜びが自負となって、椅子から離れがたくなってしまうものです。
他の役割がどんどん減っていけば尚のこと、最後の椅子には執着さえ感じてしまうかもしれません。
名誉欲というよりも、人に頼りにされたいという欲求の方が強いのじゃないでしょうか。
「年寄りは引っ込んでろ」とまでは言われないにしろ、「ゆっくりお休みください」などと言われることに寂しさを感じてしまいます。
後輩が売れていく芸人の気持ちも同じようなものでしょうか。
家族においても、自分のいないところで物事が決まっていく、自分の意見を聞いてくれないという疎外感はあると思います。
「自分はもう必要とされてないのだ、役割は終わったんだ」という自覚にも徐々に慣れていかなければなりません。
その点、農家の同級生たちなどは、「去年失敗したから今年はこうしてみる」とか「次はこれに挑戦してみるつもりだ」などと、進歩が止まりません。
定年はないし、働けばその分の収入もあり、生涯現役ということに何の疑問も感じていないでしょう。
汗水流し、真っ黒くなって体を動かし、夜の晩酌を楽しみに一日を過ごす。まことに結構な生き方だと思います。
禅的な生き方は、あるいはそういう生き方がベースになっているのかもしれません。晩酌は別として。
「本来無一物」。裸で生まれてきたのだから、手にしてきたものは手放していかなければなりません。
「虎は死して皮を残す、人は死して名を残す」。「名」とは成し遂げた業績を指しているでしょう。
浪曲では「人は一代、名は末代。なんで惜しかろ~この命」と歌います。
更に中島みゆきは「名さえも残さず、愛だけを残せ」と歌っています。
「たとえサヨナラでも、愛してる意味」。
寂寞を愛と呼べるだろうか。

何も残さず、ただ生きて、ただ死んでいく。それでいい。
残したものを訪ねるのは自分以外の誰かでいい。
生きてしまった恥ずかしさを、紅葉のように赤く照れながら散っていく。
赤く赤く染まれ。
恥ずかしさをも隠さず、裏も表も見せて散ればいい。
「日々を慰安が吹きぬけて、死んでしまうに早すぎる」。
もう少し、恥をさらして生きよう。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。




サンサンラジオ317 鳴る気があるのか

2021年06月06日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第317回。6月6日、日曜日。

6月に入りました。
ふと考えました。

仏壇の前にある鐘、「りん」と言ったりしますが、これをバイで打つときれいな音がします。
きれいな音が鳴るように作られていると言ったらいいでしょうか。
大きな口を開けて「鳴る態勢」ができています。
そこにバイが当たるのを待っていたかのように、きれいな音で鳴ってくれます。
鳴っているのは鐘そのもので、バイが当たるのはきっかけに過ぎません。
鳴る態勢とは、まずは形そのものが鳴るようにできていなければなりません。
口が開いていなかったり、いびつな形ではいい音は出ないでしょう。
そして、鐘の中が空っぽでなければ鳴りません。
たとえば、中に粘土のようなものがびっちり詰まっていれば、どんなに形がよくても全く鳴らないでしょう。
小銭などが底に入っていても、ビリビリと不快な音がしてきれいには鳴りません。
常に中を空っぽにしておく必要があります。

これを修行と悟りに当てはめるとこうなります。
自分自身を空っぽにして鳴る態勢を整えておく、というのが修行になります。
そこにきっかけがあれば、いつでも鳴るのです。それが悟りです。
音が鳴るというのは、鳴る態勢が整っていることと同じことです。
逆に言えば、鳴る態勢が整っていれば、鳴っていることと同じです。
それを「修証不二」と言います。
修行のほかに悟りはなく、悟りのほかに修行はない。
修行と悟りはひとつであるということです。
坐禅は、鐘のように鳴る態勢の相です。風に鳴り鳥語に鳴ります。
それは、頭を空っぽにする断捨離の行でもあります。

私たちは、生まれながらに鳴る性質を持っています。
生きる過程において、いろんな経験を重ね知識を蓄えて、それが鐘を重厚なものへと鍛えていくでしょう。
多少の傷も、自ら修復しながら、それがまた渋みとしていい味を出すように鍛えられていくのです。
しかし、その体が空っぽでなければ、重厚な音も渋みのある音も鳴ることはないでしょう。
経験や知識は、腹に持つものではなく、身に取り入れて体にしていくものです。
腹はいつも空っぽであるべきです。
ぷっくり膨らんだ布袋様の腹の中は、何かが詰まっているのではなく空っぽなのです。(うんうん…)
経験や知識は記憶となって蓄積されますが、それらは全て自分の身になったのであって、記憶そのものを「持つ」必要はありません。
記憶は捨てていいのです。いや、捨てるべきなのです。
身についていないものは、持っていても何の役にも立ちません。
記憶がなくとも、身についたものは鳴るのです。

別に修行と悟りというような難しい話でなくとも、一般社会でも同じことが言えます。
鳴る態勢が整っている人は、ちょっとしたきっかけですぐに鳴ります。
腹に一物がない人は特に鳴ります。
過去の記憶にとらわれ、ひがんでみたりねたんでみたり、他人と比べてみたり自分を卑下してみたり、つまらない知識で知ったかぶりをしてみたり過去の栄光を自慢してみたり、昔言われたことを思い出して腹を立ててみたりそれに言い返せなかった自分を悔しがったり。
腹にいっぱい詰まっている人は、きっかけを与えられてもなかなか鳴りません。
空っぽの人は、隣で誰かが鳴っているだけで共振、共鳴して鳴りだすものです。
また自分の音で隣の人が鳴りだしたり。そんな人が大勢集まれば、大共鳴するでしょう。
社会を良く変えていく原動力にもなります。

あなたは鳴る態勢を整えているか。
「鳴る」とは、「自分の命を輝かす」という意味で今使っています。
生まれてきてよかった、生きていてよかったと実感するために。
どこぞの本のタイトルではありませんが、「鳴る気があるのか」ということですかね。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。