なあむ

やどかり和尚の考えたこと

永平寺参拝へ

2009年05月29日 20時21分56秒 | 宿用院

明日、5月30日、宿用院檀家衆とともに永平寺に行ってまいります。

4d55acf61fe5afd2_2 大本山の参拝、もちろんそれも大きな目的ですが、もう一つの意味は、やはり、今修行中の息子への励ましがあります。

檀家衆にとっても、かわいく大事な宿用院の後継ぎであり、厳しい修行の様子を垣間見て更に信頼を深める機会でもあるので、出発前からかなり期待と緊張感を感じているようだ。

修行は本人のためであることは間違いないのですが、修行に打ち込んでいる姿は、それを目の当たりにする人をも感化する力があります。

永平寺の修行僧の姿を見て、自分にはできないけれど、その厳しい修行をしている人がいるという事実は、きっと励みになるはずです。

あの研ぎ澄まされた姿と立ち居振る舞いは、見ているだけでも心が浄められるような気がします。

息子がどんな様子なのか、それを見た檀家衆がどんな感想を持つのか、帰ったら報告します。檀家の皆様と本山参拝の機会を持つことができたことに感謝します。


境界線上の言葉 10

2009年05月24日 17時55分56秒 | 境界線上のことば

22日は私の誕生日でした。いえいえ、どうも、ありがとうございました。勝手に返事していました。

ということで、家族3人で河北の板長こと紀の代寿司へ。(ここにリンクも貼っていますので是非一度どうぞ)

ブログの話題となり、若奥様から境界線上の言葉をいただきました。

「味噌汁とおつけ(おづけ)」

H0000021319 味噌汁を「おつけ」というのは地域差があるかもしれません。最上町ではやはり腰掛けと同じような世代で(もう少し上かな)使っていました。最近聞かなくなりましたね。

東京出身の私の永平寺修行仲間が「おつけ」と言っていたのを聞いて意外に思いました。

「御付」で広辞苑に載っているので全国的な言葉だったのかもしれません。

「御御御付け(おみおつけ)」などと書いて味噌の宣伝をしていたコマーシャルが以前ありました。

「おつけ」そのものは消えていく言葉でしょうね。

さて、前回の言葉「背広」ですが、前回は時間がなくて書きませんでしたが、背広の語源にはいくつかあって、英語の「civil clothes」の「civil」が訛ったという説、ロンドンの高級洋服店「Savile Row」から売り出されたところからという説、など諸説があるようです。

日本語で「背広」と書くとどうしても上着をイメージしてしまいますね。


境界線上のことば 9

2009年05月22日 13時59分57秒 | 境界線上のことば

shunさんから

「スーツと背広」をいただきました。まいど。

68b7e17deca2bd0a しかし、スーツは上下揃いのことですし、正確には背広は上着のことだから、むしろ「ジャケットと背広」がいいかもしれません。

と、ここまで書いて、一応と思って調べてみたら、何と私の思い違い、背広とは、ズボンも含めた上下のセットのこと「スーツ」と同じでした。

「三揃え」についても書いてありましたが、三揃えはベストもつけた三点セットのこと。そういえば最近あまり見かけませんかね。ベストを別の色でコーディネイトしたりするかも。

アフガニスタンに行ったとき、多くの男性がスーツのベストを着用していたのを見た。ほとんどの男は子どもも含めて、民族衣装「シャルワールカミーズ」という上下の服を着ているのだが、その上にベストを着るというのが流行のようでした。いらなくなったベストを送ると喜ばれるかも。


境界線上の言葉 8

2009年05月21日 22時21分32秒 | 境界線上のことば

「結婚(式)とむかさり」

750197131924975c ここ数十年で全く変わってしまったものの一つに結婚式の形態があげられるだろう。

昔の結婚式、いわゆる「むかさり」は、嫁をもらう側の自宅で、親戚、集落、友人の手作りで行われた。私の従兄弟などは、昔ながらのむかさりをしたので、はっきりと覚えている。

村の入口で花嫁が車から降り、道の両側に村人が迎える中、花嫁行列をしたものだ。それが、村の仲間入りの儀式であり、披露であった。

変な話だが、その逆が葬儀の時の野辺送りだ。

私が永平寺から歩いて帰ってきたとき、村の人たちが、道に立って迎えてくれた。「むかさりを待つようだった」と言われたのを今でも覚えている。

結婚も葬儀も本人だけのものではない、村人全体の問題なのだという考えを「うっとうしい」と思うか、「大切なこと」と思うか。個人の意見が尊重されることと、村の連帯感は相容れない事柄なのかもしれない。


息子からの手紙

2009年05月17日 19時33分39秒 | 家族模様

Butuden 永平寺で修行中の息子から初めての手紙が来た。

お腹が空いていること、甘いものが死ぬほど食べたいことが書いてあった。

修行を経験した者はみんな同じ思いをするのだが、「お母さんの作ったまんじゅうの天ぷらが食べたい」などと書くものだから母親は泣いてしまう。

そんな中に、「永平寺に来て、ささいなことで涙が出るようになりました。いろいろな小さなことのありがたさを知りました」とも書いてあり、いい修行をさせてもらっているなと、うれしさも感じられた。

もう少し辛抱すれば体も慣れてきて、空腹感も落ち着いてくるので頑張ってもらいたいと願う。

月末、宿用院の団体で永平寺を参拝する予定なので、少し差し入れできるかと思う。


境界線上の言葉 7

2009年05月17日 19時16分40秒 | 境界線上のことば

久しぶりにこのコーナーです。

今日の言葉は

「トイレと便所」

J0405346 「便所」は、直接的というか、そのものズバリの臭いまでしてきそうです。消えつつある言葉のように見えますがいかがですか。

これを表す言葉はいくつかあって、「はばかり」「お手洗い」「化粧室」など。「バスルーム」などと言うと「欧米か!」と言われそうです。

禅寺では「東司(とうす)」と呼びます。

昔、伽藍の東と西にあって、「東司・東浄」と「西司・西浄」と呼ばれていたようですが、何故か東の名前だけが残ったのだとか。

「トイレ」も、長年使われ大衆化すればするほど臭いがついて消えていく運命かもしれません。

反対に、最近居酒屋などで「厠」を見かけます。時間が経って臭いが消えたということでしょうか。いつかまた、「便所」がトレンドになる日が来るのかも。


露の新治 口演会

2009年05月16日 20時44分25秒 | 宿用院

露の新治師匠口演会

6月7日(日)午後4時~

宿用院にて

「tuyunotirasi.doc」をダウンロード

先にもお知らせしましたが、再度ご案内します。

露の新治師匠は、テレビ出演もほとんどされませんから、知らない人は知らない、知る人ぞ知る落語家です。

今度松林寺集中講座に来てくれることになっている柳家さん喬師匠と二人会を催すと、チケットは即完売になるそうです。

さん喬師匠もテレビではあまりお見かけしませんが、JRの車内誌に江戸落語の代表として取り上げられるように、古典落語の名人です。

テレビに出ることと実力は一致しないのでしょうね。政治家も同じかもしれません。

露の師匠は、落語もさることながら、人権高座という分野で、抜きん出たお話を確立されています。

ただのお笑いではなく、考えさせられ、心を打つお話に、みんなが感動いたします。

この度、東北で時間が空いたということで、急遽、宿用院での口演の運びとなりました。

是非多くの方にお聴きいただきたいと思い重ねてご案内いたします。

木戸銭は1000円です。


子供の情景

2009年05月15日 21時21分29秒 | 今日のありがとう

上京した機会に、映画『子供の情景』を観た。

0006 アフガニスタンを舞台にした子供たちの姿を19歳の女性監督ハナ・ハナマフマルバフが描いた映画だ。

衝撃的な、バーミヤン大仏の破壊のシーンから映画は始まる。

6歳の少女バクタイは、ただ学校へ行って文字が読みたいという願いで、卵を売り歩き、ようやくの思いで1冊のノートを買い求めることができた。

喜んで学校へ行こうとするが、タリバーンのまねをした男の子たちに阻まれ、ノートを取り上げられてしまう。「女は学校に行かない」「神に従え」。木の枝で作った銃でしつこく追い回される。隣の家の男の子が教える「死んだふりをすれば追いかけられない、自由になりたいなら、死ぬんだ!」

破壊された大仏の前で展開されるこの物語。その原題となったのは、彼女の父であり映画監督のモフセン・マフマルバフの著書『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』。

大人たちの行為によって、子供たちに大きな暗い陰を残してしまった。それは、長い歴史のあるアフガニスタンの伝統や文化、心が大仏とともに破壊されたのだと訴えているようだ。

アフガニスタンの悲劇を、小さな少女の姿を通して訴える、心に残る映画だった。


寿命について

2009年05月13日 21時26分35秒 | ふと、考えた

経済には疎いのでよく分かりませんが、損か得かは、基準になる0に対して、それよりプラスになれば得、マイナスであれば損ということになるのでしょうか。

人の寿命でも、長生きすれば得したような、若くしてなくなれば損したような受け止め方になってしまうことがあるように思います。

その場合、何歳が基準、0となっているのでしょうか。やはり平均寿命でしょうか。あるいはそれぞれの受け止め方でしょうか。

しかし、心臓が、我々が「動け、動け」というから動いているわけでもないように、どんなに動けといっても、止まるときは止まってしまう。いつ止まってもおかしくない心臓が今動いていることはまことに不思議なことではあります。

だいたいにして、我々がこの世に生を受けたこと自体、偶然たまたまのようなものであり、そんなに立派な理由があったわけでもないでしょう。生まれるか生まれないかは、非常にあやふやな確率だったのではないか。

我々の命の基準は、生まれる以前にあったということです。

生まれたこと自体が得したことなのですよ。

生まれる以前に自分があったわけではないのだから、0から生まれたことですでにプラスであり得なのです。そのことをまず自覚しましょう。それ以上に何でもかんでも欲しがるのは欲というものです。この欲が人間を苦しめている。

何十年か生きている、それだけで充分儲けもんです。ありがたい。


境界線上の言葉 6

2009年05月12日 22時57分01秒 | 境界線上のことば

いやいや、shunさんからいろんな言葉が出されました。

「スプーンとしゃじ」そうですね。椅子の上かどうかは微妙ですね。

「くつ箱と下駄箱」そうか、今は下駄箱と言わないのか。発見。椅子の下です。

「入口とじょうぐち」、うーん、聞いたことはありますが、一般的な言葉だったのでしょうか。だとしたら椅子の上でしょうね。

色々探してみるとありますね。

私からも一つ

「ティッシュとちり紙」

J0337264 私はもちろん、充分ちり紙世代ですが、今の人たちも「ちり紙」は使うのでしょうか。それよりもちり紙は存在するのでしょうか。ちり紙とティッシュは違うものです。しかし、使う目的が同じために、ティッシュを「ちり紙」と読んでしまう世代、そう、あのゴワゴワした分厚い紙に懐かしさを感じませんか。ティッシュよりずっと使い勝手が良かったような気がします。鼻がヒリヒリするぐらいなんですか。言葉もなくなっていくんでしょうね。