なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その16(最終回)

2021年04月28日 05時00分00秒 | 義道
忘れ得ぬ人々

誕生からこれまで生きてきた中で出会った人々は数えきれない。その中でも私が強く影響を受けた忘れられない人々も数多い。
家族親族は別として、小学校から教化研修所までの先生方。同級生。僧侶としての羅針盤であり娘の名付け親でもある恩師遠藤長悦師。師には仏教の親近感と温かみを学んだ。
ボランティア会の有馬実成師、松永然道師、両師には生きた仏教を学んだ。野村、八木沢、手束、佐藤各氏。カンボジアのトン・バン家族。永平寺役寮時代の本庄、西田、南の各同志。宿用院檀家の愛すべき人々。和田みさ子さんはじめ河北町環境を考える会のメンバー。まけないタオルのやなせさん、早坂師。兄弟の契りを結んだ清凉院三浦光雄師。そして中島みゆきさん。
鬼籍に入った方も多い。その誰一人がいなくても私はなかった。私という人間はこれらの縁によってできていた。いや、この縁そのものを三部義道と名付けてもいい。
仏教との出会いも大きかった。縁によって寺に生まれ、そのことで悩み、父を恨み反抗もしてきたが、それは仏の掌の上でのことだった。仏の縁の中に生まれたのだった。
和尚でなければ難民キャンプにも行かないし、永平寺にも行くわけがない。和尚でなければ三部義道はない。もし生まれたのがお寺でなければ進みたい道は明確にあった。建築設計士。それがだめなら大工、看板屋、ペンキ屋という順で希望があった。しかし、それはお寺を継がなければならない反発からの希望だったかもしれないし、もしそうなったとしても、そこに義道はいなかっただろう。義道は、和尚への反発によって和尚となった。
仮定やタラレバの話は結局は存在しない。今ここに在る人間だけが私なのだ。これまで出会った縁に感謝などしない。感謝するほど他人事ではない。私自身のことなのだから。

あとがき

自分という存在がいつ消えていくのか自分には全く分からない。徐々に消えていくならその準備もできるかもしれないが、一瞬のうちであることも十分にあり得る。だとするならば、できるうちに自分の生涯を記録しておきたいと思った。父の生涯については『千代亀』に書いた。子孫にその人生を残したいと思った。それなら自分のこともと考えた。
幸か不幸か令和2~3年はコロナ過において時間がたっぷりとれた。ので、つらつらと思い出しながら振り返ってみた。
20代のころから、自分が死ぬのは60歳だろうと想定していた。それ自体若気の至りだったと思うがその誕生日が近づいた頃はそれなりに緊張した。自分の想定に自分が縛られる自己暗示のようなものだった。その日を何ということもなく通過して、次の想定をしようとも考えたがバカらしくなってやめた。
「生死を生死にまかす」と道元禅師も言っている。元々自分にどうすることもできない命をどうにかできるように考えるのは愚かだ。ただ、準備だけはできる。「浜までは海女も蓑着る時雨かな」で、どうせ死ぬからと言って今日のいのちを粗末にするのは更に愚かだ。今日の生き方が明日を生むのだ。今日が最期の日だとすれば自分で納得のできる今日の生き方でなければならない。
ということで、その日の準備のためにこれを書いておいた。その時に、書いておけばよかったと悔恨を残すことのないように。これで終わるかもしれないし、さらに書き足すかもしれない。
振り返って、ここまでは、プラスマイナス比較して楽しい人生だった。人生を楽しいと振り返ることができるのは、社会的な時代背景にもよるだろうし、家族に突然の事故や深刻な病気など大きな悲劇がなかったことにもよるだろう。それはお陰様である。素直にありがたいと思う。
松林寺の内仏壇には過去帳が祀ってあって、毎日繰っては掌を合わせている。父親の先祖の二戸新七家、母親の両親、十和子の両親の他、これまでお世話になった上述した方々の戒名、さらには阪神淡路大震災、東日本大震災の物故者精霊もその日に記入してある。私に生ある限りその諸精霊と共に生きたいと思う。
もう「なぜここに居る」などとは考えない。居るべくして居るのであり、なぜ生まれたのかなどはどうでもいい。元々命は何一つ選べない。生まれる時代も社会環境も、親も親の職業も兄弟も、自分の顔も体も性格さえも選べない。学校も先生も同級生も自分では選べない。老いて髪の毛が白くなるのか抜けるのかも選べない。更には選ばないのに病気や災難はやって来る。そして死ぬことが、生まれることを選べないように選べない。生老病死何一つ選べない。選べない命をどう引き受けるのか、引き受けた命をどう使うのか、その覚悟だけが問われている。
毎朝顔を洗うように、なすべきことをなす。そこに「なぜ」と疑問を差し挟む意味はない。
今を生きる、ここを生きる。(了)

サンサンラジオ311 我が家の宗教

2021年04月25日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第311回。4月25日、日曜日。

先週は最上にも遅い春がやってきて、枝垂れ桜が満開になりました。
しかし、花の命は短くて昨日には散り始めました。花見酒をする間もないほどでした。

20日火曜日、「最上の地酒を創る会」の全体会を開き、値段設定、先行予約販売、瓶のラベルについて検討しました。
その様子がテレビの取材を受け、22日に放送されました。
テレビ局はさくらんぼテレビで、芽出し、種蒔きから映像に収め、今後、田植え、稲刈り、酒造りまで追いかけるとのこと。記録として、また広報の上でも願ってもないことです。
22日の放送の後、各方面から感想が寄せられ、皆さんいい評価でした。こうなると飲んでみたくなりますよね。酒が足りなくなるのではないかと心配です。先行予約販売は11月下旬からです。もうしばらくお待ちください。

松林寺の檀家に、毎日仏壇の前でお経を読んでいるという男性は少なからずいます。
もう鬼籍に入りましたが、観音経までそらんじていた人も何人かいました。
法事の際に、修証義まで読んで経本を回収したのに、後ろから一緒に観音経を読む声が聞こえてきて焦った記憶があります。
そのお父さんが亡くなり、その後、息子が朝のお勤めを引き継いでいる家があります。
父生前中はテレがあるのか、そんなそぶりも見られなかったのに、亡くしてからいろいろ考えるのだと思います。
寺に来てのお参りの時、経本を配っても誰一人声を出して読まない家もあれば、みんなで読む家もあります。
普段仏壇の前でお経を読む人がいるかいないかの違いかなと思います。
「親が拝めば子も拝む」と言うように、やはり後を継ぐというのは背中を見せるということなのだと思います。

1,親が拝まないので子も拝まない。
2,親が拝むから子も拝む。
3,親が拝むけど子は拝まない。
4,親は拝まないけど子は拝む。
これが多いパターンの順序かもしれません。
しかし、その家でお経を読み始めたのはいつなのか、誰からなのか。
親が読まなかったのに、読み始めた子がいたはずだと思います。
親を引き継ぐことは多いとしても、親もしなかったことをし始める子がいることも確かです。
自分から我が家の習慣を作っていく、そんな気構えの親が増えてほしいですね。
朝起きたら顔を洗う。家族と顔を合わせたら「おはよう」を言う。食事の前に仏壇に手を合わせる。食べる前に「いただきます」を言う。はきものはキチンとそろえる。
そんな習慣ができている家庭はきっと仲がいいと思います。それは「我が家の宗教」です。
宗教は家の外にあるのではありません。家の中の示し、それが宗教です。無宗教というのは家の中に示しがないということです。
親の役目は背中で見せること。善くも悪くも子どもは見た通りに育ちます。
この国の将来を憂い、政治や学校の批判をする前に、我が家の宗教を見直しキチンと整えましょう。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


013山形もがみCHその13酒蔵のない町に地酒を

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義道 その15

2021年04月21日 05時00分00秒 | 義道
東日本大震災

私が生きた時代の社会的に大きな出来事は、東京オリンピックや大阪万博、阪神淡路大震災などが挙げられる。しかし、その規模と衝撃から言って、平成23年(2011)3月11日発災の東日本大震災が、私にとって最も大きな出来事だったのは間違いない。
津波は画面で映像を見るだけでも魂が凍るような怖さを感じたが、実際にその場にいて、あるいは飲み込まれてしまった人の恐怖は、体験者以外の人間にはとてもとても分かり得ない。さらには原発事故の惨劇はこの国がかつて経験したことのない重大事故だった。
4日後の3月15日に被災地に入り、真っ先に知り合いの気仙沼市清凉院さんに向かった。以来、岩手から福島まで、右往左往しながらできることを考えてきた。その中で大きかったのは、「まけないタオル」プロジェクトと「漁師のハンモック」だ。
避難所を回りながら感じたどんよりとした暗さ。家も家族も仕事も財産も全て持って行かれた人々が暗くなるのは当然だが、暗いままでいるとますます落ち込んで立ち上がれなくなってしまうのではないか、何か元気になる方法はないかと考えていた。被災地から山形へ戻る車を運転しながら、「みなさん負けないで」という思いと、頭に「巻いていたタオル」が結びついて『まけないタオル』というフレーズが頭の中で鳴り響いた。4月3日のことだ。
頭にも首にも巻けない短いタオルで元気づけることはできないか。人はおかしいから笑うだけでなく、笑うことで明るくなり元気になることもあるはずだ。「なんだダジャレか」とクスッとしてくれればいい。その思いつきをブログに書いた。そして誰かタオル業者を知らないかと呼びかけた。すると真っ先に連絡をくれたのが、シンガーソングライターで歌う尼さんのやなせななさんだった。「親戚にタオル業者がいる、紹介しましょうか」。そこからプロジェクトが動き出した。
被災者の数は50万人、全員に配りたいけどとりあえずは1万枚。製作費用はどうするか、タオルを被災地に届ける活動を支援する募金を呼び掛けて、募金してくれた人にもタオルを一枚さしあげる、被災地の中と外で同じタオルを握ってこの震災に立ち向かう、という構想が固まってきた。
タオルを発注した後、宮城県山元町で寺を流された早坂文明さんからメールが来た。「まけないタオルって何をしたいのかはじめ分からなかったけど、ようやく分かってきた。そういうことなら歌で呼びかけた方が分かりやすいと思って歌詞を書いてみた。庭を掃除しながら30分でできた。誰かに曲を付けてもらって」。タオル発想から1か月後の5月3日だった。
作曲といえばシンガーソングライターのやなせさんだろうと、その日の内に依頼した。「私時間がかかるんですよね。長いときは2・3か月」。それなら無理か。他に誰かと思っていた次の日の朝「曲できました。私が書かなければ誰かが書くでしょう。それは嫌だと思って一晩かかって書きました、聴いてください」。電話口で『まけないタオル』が流れた。歌が完成するまで30分と一晩。物語が生まれる時はこういうものかと思った。
それからタオルと歌を持ってやなせさんと被災地を届けて回った。彼女は被災地の外でも歌うたびに「まけないタオル」を呼びかけた。結果として作って配ったタオルの枚数は85,000枚に上り、支援金額は3,700万円に達した。タオルの製作費と経費を除いた資金は、親を失った震災孤児への支援などに使わせてもらった。

気仙沼にボランティアに来ていたアメリカ人の女性が船を流された漁師の仕事として、網を編む技術を使ってハンモックを作って売ったらどうかという発案をした。それはおもしろいと飛びついたが、なかなかアイデアが動きとして展開しなかった。当時まだ気仙沼は電話も不通でFAXが使えなかった。そこで事務局を引き受け松林寺がFAXの受付となり「漁師のハンモック」と銘打って広報した。テレビやラジオで何度も流れた。結果として一枚10,000円で1,000枚売れた。1,000万円の仕事を作ったことになる。どちらも現場において生まれたアイデアだった。

まけないタオルを始めようとしたとき、中央の人から「冗談言ってる場合じゃないでしょ」と批判を受けた。それは現場を見ないでその空気を感じないでの印象に違いない。冗談を言っているつもりは毛頭なかった。何とかして元気になってもらいたいという現場での歯ぎしりするような直感から生まれたものだった。
震災後真っ先に訪れた清凉院さんは以前からの知り合いだったが、それから数えきれないほど訪ね、抱き合って涙を流し、酒を酌み交わし、兄弟とまで呼ぶようになった。震災がもたらした大きな結縁だった。

サンサンラジオ310 母の帰宅

2021年04月18日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第310回。4月18日、日曜日。

14日水曜日、母親が老健施設から帰宅しました。
在宅介護が始まります。
昨年12月24日、力なく滑るように倒れ、町立病院に運びそのまま入院しました。
脳が委縮していてアルツハイマー型認知症という診断が下されました。
病院に寝ていても何の対処もできないため、1月28日老健施設への入所となりました。
ただし、長期入所のベッドは空いていないので短期ならばという条件で3月末までの入所をお願いしました。
入院以来直接に会うことができず、ガラス越しに一度顔を見ただけでした。母の孫たちも会いたがっています。
少しは介護したいという思いもあり、ようやくの帰宅となりました。母にとっては約4か月ぶりとなります。
去年の今頃までは自分で外にも出て、草も少しはむしったと思います。
それから徐々に衰え始め、秋ごろからは言葉も笑顔も少なくなりました。
入院月以来、足に力が入らないらしく、ついに介護度4の寝たきり状態となりました。
1年でこんなに変わってしまうのかと思います。
帰宅して、どんなに喜ぶのかと思いましたが、言葉と表情がわずかなのでなかなか読み取れません。
私とカミさんの顔は分かるようで、話しかけると少し反応があります。

しかし今の介護環境は充実しています。
介護度4のサービスを最大限利用すると、週4回のデイサービス、週2回のヘルパーを利用することができます。
家族だけでの対応は週に1日だけです。都合がある時はショートステイをお願いすることもできます。
介護用ベッドも車椅子もスロープも安く借りることができます。
ケアマネージャー曰く「介護度4での在宅は家族が大変なので私たちも全力でサポートします」と。
どれほど大変かも分からないので、やれるだけやってみようということにしました。
帰宅した晩、台所での食事後、カミさんと二人でベッドに寝かせようとすると匂いがします。
おしめをめくってみると大きい方をしていました。
施設の人が「帰宅前にしているので朝まで大丈夫ですよ」とのことでしたが、帰宅して緊張がほぐれたのか、早速試験をされたような形です。
赤ちゃんと同じような態勢で何とか二人がかりで取り替えました。
次の日介護士に報告すると、「そういう態勢だと骨折させる場合もあります」と驚かれて、早速、おしめ交換のコツを教えに来てくれました。
赤ちゃんと似ていながら違うところがあるのでした。
おしめに排泄するのは抵抗があるように思いますが、それも慣れてくるものなのか。それとも脳の萎縮によってその感覚が鈍くなってきているのか。
この時は排便していても全く表情に変化は見られませんでした。
下半身を晒す羞恥心もなくなったのか、あるいはありながら仕方ないと諦めて、ないようにふるまっているのか、それとも認知症は羞恥心も奪ってしまうのか、真偽は分かりません。
ただ、脳の障害がなければ、おしめに排泄する気持ち悪さは慣れるようにも思われないし、息子に下半身を晒すことなどとても耐えられないと思います。
もし、認知のためにその苦痛と羞恥心が薄れているのだとすれば、それは救いだと思ったことでした。

金曜日は孫ひ孫も顔を見せて、一緒に食卓を囲みました。
大きな声で泣いたり笑ったり、賑やか過ぎるほどで、疲れたかと思い「そろそろ寝るか」と誘うと「まだいい」とはっきり言いました。
表情にほとんど変化がないので楽しんでいないのかと思いましたが、そうではなかったのでした。
表情からだけでは感情が読み取れないのだと知りました。声をかけたり尋ねたりしながら意志の確認をしていかなければなりません。

父親の時もそうでしたが、母親に対しても、元気なうちはなかなか優しい声もかけられず、邪険にあたったりしました。
介護が必要になってようやく優しく接することができるようになっています。
進行性のアルツハイマーはどんなスピードで進行するのか、こういう状態がどれほどの期間続くのか、また、こちらがどこまで頑張れるのか、分かりませんが、せっかくのチャンス、介護をさせてもらおうと思っています。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。





義道 その14

2021年04月14日 05時00分00秒 | 義道
松林寺時代

平成17年(2005)に松林寺に戻り、すぐに晋山式の準備に取り掛かった。松林寺の住職になるということは、宿用院を離れなければならないということで、それを檀家に納得してもらうためには後継者を決めなければならなかった。檀家からは「住職が松林寺に帰るのははじめから分かっていることなので仕方ないが、息子は置いて行ってくれ」と言われていた。檀家を納得させるにはそれしかないだろうと思っていた。そこで息子の成長を待っていたのだがモタモタして思うように進まなかった。18年(2006)に松林寺晋山式を決め、後は息子に住職を渡せるまで宿用院を兼務する以外になかった。
晋山式と同時に松林寺集中講座の準備も進めた。この寺をどのように使っていくつもりかを実践で意思表示したいと思った。宿用院で地蔵まつりや色んな行事をやってきたことが参考になり、またやれるという自信もあった。本番をシュミレーションして準備を整えるのがとても好きで、1年間は晋山式と集中講座の準備に没頭して楽しい時間を過ごした。
平成18年9月17・18日、松林寺17世住職退董式、18世住職晋山式並びに再会結制を挙行した。寺院総勢115名の大法要となった。父親の退董式も、身体を支えて何とか務めることができた。本堂を引くときには檀家が涙を流して合掌してくれた。体の状態とタイミングがギリギリ何とか間に合ったと安堵した。
晋山式から1か月後の10月16日から22日、1週間の日程で第1回松林寺集中講座を開催した。宿泊参加も受け入れて、朝晩の坐禅と法話、外来講師が6名という膨大な内容だった。2回目からは1泊2日の日程で開催、9回目からは1日だけの日程となった。これも「10年やれば伝統になる」の言葉通り、15回を数えてすっかり定着してきた。集中講座をここまでやって来て一番良かったと思うのは、スタッフの人たちが寺の中を自由自在に楽しそうに動いてくれることだ。寺というところに初めて入ったという若い女性もいて、寺の敷居を下げることができたことは大きな成果だと思う。

平成21年(2009)11月6日、父親が遷化した。満80歳だった。平成8年(1996)頃から体調がおかしいと言っていた。筆で字が書けないと悩んでいて、その後言葉が出にくくなり、足の動きもおぼつかなくなった。言葉は出なかったが意識ははっきりしていて、そのために自分で自分が歯がゆかっただろうと思う。集中講座にも聴衆として着席し笑顔を見せていた。しかし、次第に症状は重くなり、介護、入院、老健施設、寝たきりへと移っていった。
わずかばかりだったが、松林寺で介護した期間があった。母親と交代で父の隣で寝た。布団をはぐ音がしてトイレかなと抱き起し、トイレまで連れて行って下着を下ろして座らせて、頃合いを見て抱き上げてベッドまで連れてきて寝かせてと、それが一晩に5回も6回もとなると次第にイライラしてくる。しかもトイレに座っても少しも音がしないのに立ち上がろうとしたりすると「出たくなけりゃ寝てればいいだろう!」と怒声を浴びせたこともあった。実は疥癬という皮膚病に罹っていて、身体がかゆいので寝ていられなかったのだ。それが言葉で伝えられなかったのだと後から分かった。
それでも、敵と思っていた父親を介護することになって、その体に触れて、風呂で体を洗ったり、お尻を拭いたりした。そんなことができる自分を意外に思った。せざるを得なくてするのだが、その機会を与えてくれたのは父だった。
もし父親が病気にならず、元気なまま突然ポックリ逝ってしまったら、おそらく何年か後にきっと後悔していたことだろう。宿命のように反抗し、口も利かずに別れてしまったら「これでよかったのか」と自分を責めていたに違いない。わずかでも介護のまねごとをして親孝行とまではいかないまでも少しは世話をさせてもらった。そのお陰で後悔の念が軽くなっていることは事実だ。もしかしたら、父は息子のために病気になってくれたのではなかったか、とさえ思う。

亡くなる前の年、9月20日の誕生日に数え80歳の傘寿の祝いとして、孫たちも集まって記念写真を撮った。車椅子で施設からの一時帰宅だったのだが本人はようやく帰って来られたと喜んでいたのだろう。みんなで楽しく過ごした後、車に乗せて施設に戻る時には抗議の声を発した。しかしすぐに諦めたようだった。老人介護は残酷だと感じた。
その後病院と施設の入退院を繰り返し、反応もなく寝ているだけの状態になった。そして、鼻からの栄養補給が喉に詰まり誰もいない病室で息を引き取った。
本葬は初七日に行った。それが父の希望だった。ずいぶん前から自分の葬儀の配役を書き残していたし、頂相の掛軸も準備していた。私もいつかその日は来ると感じていたので、日付だけを空欄にして準備を進めていた。お陰で何とか父の望みを叶えることができたと思う。本葬には多くの参列をいただき、住職54年の慰労と感謝の気持ちで送ることができた。

大学のために上京するとき、都会へのあこがれと父親からの解放と共に、故郷からの解放感も感じていた。田舎特有の相互監視のような閉塞感を息苦しく思っていた。誰も自分を知らない世界はキラキラとした明るい未来を想像させた。監視のない生活は確かに楽しかった。しかし、親につながる故郷は凧の糸を切り離しはしなかった。凧の糸の範囲で遊んでいたにすぎない。しがらみのない解放は解放と言えるのだろうか。糸の切れた凧は解放とも自由とも違うように思う。
30年ぶりに腰を落ち着けた故郷最上。しがらみではあるけれど、それを消極的な決断にはしたくなかった。どんな理由にせよ、ここで生きていくと決めたならば、ここでよかったと思える生き方をしなければ損だと思った。嫌々生きる人生よりも、ここでいいと思える人生を生きたいと思う。つまらない点があれば自らが変えていく、あるいは作っていけばいい。死ぬときに「楽しかった」と言えるために、ここで精いっぱい積極的に生きてみようと思った。
「もがみ地産地消エネルギー」では地域新電力立ち上げに向けて勉強会を行っている。「最上の地酒を創る会」では最上町産の米と水で新しい地酒を創ることになった。「花の鶴楯を創る会」は地元下小路・立小路の起源である鶴楯を花の山として整備しなおすための事業を始めた。
常に、もっといい方法はないか、もっと楽しむ方法はないかと考えている。

サンサンラジオ309 半開微酔

2021年04月11日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第309回。4月11日、日曜日。

全国的に桜の開花が早いようですね。
山形県内でも開花したところが出てきましたが、最上はまだです。
桜の開花ですから、華やかで希望を感じたりしますが、それが例年に比べて異常に早いということであれば、それはやはり異常気象なのでしょうから、喜んでばかりはいられません。
この異常が今後どんな形で牙をむいてくるのか。身構えておかなければならないと思います。
木曜から金曜にかけては雪が降りました。でもこれはよくあることで、入学式に雪が降るのは珍しいことではありません。
近年の異常気象、あるいは大震災、疫病の蔓延などを見るにつけ、思うことがあります。
地球を一つの生命体と考えれば、地表でうごめいている異端分子を、犬が水を払うように身震いして振り落とそうとしているのだろうかと。
人類は地球にとってのがん細胞だという話を以前もしましたが、もし地球に意思があればですが、人類は何をしでかすかわからない危険分子に違いありません。

地球が生まれて約45億年。原子生命体が誕生して40億年。
それ以降、極寒期と極暑期が繰り返して生命体絶滅の危機が何度もあり、その度ごとに生き残った生命体が新たな生命体へと進化を遂げてきました。
恐竜の全盛期もありましたが絶滅していきました。
そして人類の祖先が生まれたのが160万年前。
以来、人類はその数を増加させ続け、現在80億人。2050年には100億人に達すると予測されています。
しかし、増加はそこまでで、それ以降は減少に転じます。全世界の食糧とのバランスが崩れるのです。
多くの難民が発生し、各地で紛争が起こり餓死者があふれるでしょう。
しかし、人口減少は一時的な出来事ではとどまりません。全世界で出生率が低下していきます。
子どもを産まない傾向が強くなっていくというのです。
2100年には全人口が50億人までになるという予測があります。
21世紀の人口は、2000年の60億、2050年が100億、そして2100年が50億へと乱高下する世紀なのです。
つまり、今日本の田舎で起こっている人口減少が30年後に全世界で起こるということです。
人口が減るのに消費拡大などできるはずがありません。
これまでの成長戦略の終わりが始まっているのです。
それまでに30年間、儲けるだけ儲けると考えますか。
儲けて何を残すのですか。30年後の子孫は何を頼りに生きていくのですか。
子孫のことなど知らん、その時に勝手に生きればいいと言いますか。
そうではないでしょう。
子々孫々に伝える、使っても使っても使い切れない宝を残すべきです。
それは何か。
「物は一有りて二無き者を至宝となす」(『言志四録』)という言葉があります。
「二つとないものを宝の中の宝という」という意味で、人に向けた言葉です。
唯一無二の存在としての自己を見つめ有効に生かすこと、自己こそが至宝であると気づかなければなりません。
それこそが子々孫々伝えていかなければならない宝のありかです。
宝を他に求め、他人の宝を数えても詮無きことです。

4月8日はお釈迦様の誕生日でした。
お釈迦様は、誕生とともに「天上天下唯我独尊」と宣言されたとされます。
それが仏教思想の誕生だと言ってもいいでしょう。
40億年の昔から絶滅する未来まで、自分と同じ生命体は存在しなかったしこれからも生まれてきません。
「唯我独」だからこそ尊いのです。
使っても使っても使い切れない宝は自己そのものである。
自己の存在のありように目覚め、自己の行為によって、湧き上がる喜びを享受することができます。
一期一会の桜に歓喜することもできるのです。

『菜根譚』に「花は半開を看、酒は微酔に飲む」というのがあります。
最上の桜も間もなく咲き始めるでしょう。
華やかな気分も微酔にとどめておきたいと思います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

地球そして生命の誕生と進化 【最新版】

本動画は丸山茂徳先生並びに冥王代生命学研究グループが、平成26年度文部科学省科学研究費補助金・新学術領域研究事業として行った、太陽系や地球の...

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義道 その13

2021年04月07日 05時00分00秒 | 義道
シャンティボランティア会時代

「21世紀はNGOの時代だ」と話していたシャンティ国際ボランティア会専務理事有馬実成師は、その直前の平成12年(2000)9月18日に遷化された。前年、待望の団体の法人化を成し遂げたばかりだった。「曹洞宗ボランティア会」は改組して「社団法人シャンティ国際ボランティア会」となった。
師は、法人化の祝賀式典終了後真っすぐ病院に向かわれた。病状は芳しくなく、そのまま帰れないのではないかと思われた。主だったメンバーは祝賀会どころではなく、懇親会の途中で会場を抜け出して対策を考えた。有馬さんの代わりができる人などいるはずがなく、かといって誰かがやらなければせっかく法人化を成し遂げたばかりで団体は崩壊してしまうかもしれない。混沌とした中で一人が「三部、お前がやれ」と言い放った。それにつられて「そうだ、それしかない」とみんなが声をそろえた。「ちょっと待ってくださいよ。できるわけないじゃないですか」と反論するも、「あんたがやると言わなければ、誰かが手を挙げてとんでもない方向に行ってしまう、やるしかない」と責め立てられた。
有馬さんは、当会の指導者であるばかりでなく、もう既に日本のNGO界のリーダーであると衆目が認めていた。その後任を務めるというのは、何も準備していないのにいきなり満場の大舞台に立たせられるようなもので、自分の力不足からいって、とても任に堪えられるものではなかった。しかし、それに対抗できる方策を持ち合わせているわけではなく、結局押し切られて大役を受けることになってしまった。
平成12年(2000)の総会において、正式に専務理事に就任した。専務理事は常勤となるので、永平寺役寮以来の単身赴任となり、特派布教師も退任させていただいた。
永平寺の勤めを終えてから特派布教師を務めていたが、同時にシャンティの東京事務所を手伝ってほしいという要請で時々顔を出していた。有馬さんのサポートという役割だったが、それさえも役に立っていたかどうか疑わしい。それなのに、団体の方針決定、業務の執行責任、人事の掌握、事務局の統括、他団体との交渉等々、専務理事の責任は重く、いくら当て馬だったとしても、振り返ってあまりにお粗末だったと汗顔の至りで慚愧に堪えない。

父親は平成8年(1996)頃から体調に異変を感じ始め、方々の医療機関を渡り歩いていた。手が震えたり、上手く字が書けなかったり、言葉が出なくなったりという症状が出ていた。「疲れたのだろう」「軽い脳梗塞ではないか」などの診断で薬を処方され、ぼんやりした状態が続いていた。後にパーキンソン症候群と診断された。お経も途中で出てこなくなり、葬儀や法事に高校生の私の息子を手伝わせたりしていた。それを知りながらも専務理事の業務は席を空けられなかった。
ある時、寺に帰った私をつかまえて父親が声を振り絞った「もう限界なんだ」。目には涙が浮かんでいた。私の大変さも理解して何とか頑張ってはいるが、これ以上は無理だという訴えだった。その状態は檀家にも知れ渡って心配の声が上がり、平成15年(2003)に開催された役員会で、「どうするつもりだ、いつまでもボランティアではないだろう」と迫られた。平成18年(2006)に住職交代の晋山式を行う予定を示し、何とか切り抜けた。
後任の専務理事候補は目星がついていたが、その人の都合もあって、ギリギリの綱渡りをしているような状態だった。何とか交代できる目途がつき松林寺に帰ったのは平成17年(2005)の5月だった。
この5年間は私にとって最も忙しい時代だったと思う。シャンティの常勤をしながら、宿用院の住職、そして父親に代わって松林寺の務めを果たさなければならなかった。忙しさにあこがれていたが忙し過ぎることも悩みだった。

ボランティア会初代会長であり、永平寺役寮時代にも国際部長として大変お世話になった松永然道師が平成19年(2007)2月24日遷化された。温かい慈悲の衣で包むような父とも慕う存在だった。ボランティア会はどうしても有馬師が表に出るが、松永師がいなかったらここまで続かなかったろう。それは当時のボランティアたちが等しく口を揃えるところだ。静岡とはいえ、2月に寒桜が咲く境内の本堂で本葬の通夜説教をさせていただいた。大きな存在をまた一人失った。
もう一人、五反田事務所の時代に入職した沢田隆史君は、下半身に障害があり主に事務所の総務を担ってくれていたが、平成20年11月20日47歳で亡くなった。団体の財政が厳しいと感じ自分の給料の一部を誰にも言わずに団体に寄付していた。生活を切り詰めていた困難が積み重なり、一人の部屋で倒れていた。そういう状況を見過ごしていたことに愕然とし自分を責めた。痛恨の極みだった。

サンサンラジオ308 そもそもオリンピック

2021年04月04日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第308回。4月4日、日曜日。

3月は大相撲があり、高校野球があり、サッカーのテストマッチも何戦かありました。
スポーツの観戦好きには楽しみが多かったのですが、全てが終わり祭りの後のような寂寞感があります。
4月に入りました。
本来ならここでオリンピックへ向かう高揚感で盛り上がるのでしょうが、聖火リレーさえも無観客だったりお断りされたり、何をしているのだろうかというような寂しい感じです。
しかし、今回のオリンピックぐらいケチが付いた大会はないでしょうね。
指折り数える指が足りないほどです。いちいち思い出すのも嫌になります。
何が悪かったのでしょう。
「アンダー・ザ・コントロール」から始まって、原発事故から目をそらすために使われたような目的がよくなかったでしょうか。
政治利用しようという見え透いた魂胆が間違っていたでしょうか。
スポーツの祭典をオリンピックというビックマネーが動く経済活動に祭り上げて、一部の人たちにブラックマネーが流れるようなことがそもそも冒涜だったのでしょうか。
直前にまで来て、開催国民の半数以上が開催に疑問を感じるような「祭典」は果たして祭典と呼べるのか。
コロナの影響はもちろんありますが、オリンピック・パラリンピックの意義そのものが問われ始めているのだと感じます。それはそれでいいことかもしれません。
もちろん、開催され始まってしまえばそれなりに盛り上がりはあるでしょう。
しかし、経済活動を目的とした開催は結局経済活動で痛い目にあうような予感がします。
スポーツも文化も人間を豊かにするものです。この場合の豊かさは人間そのものの豊かさで、経済の豊かさではありません。
人間の豊かさと経済の豊かさを混交して見誤ってしまうことが間違いのもととなるでしょう。
テレビというものを通してスポーツを観ることで、スポーツがスポンサー収入の商品となり、商品には値段が付き、不正や薬物投与などの温床になったかもしれません。ある意味テレビの功罪ですね。
地球温暖化の問題で産業革命前に戻れと言っても無理なように、オリンピックも古代ギリシャには戻れないでしょう。
戻れないほどに長い時間かけて現在があるのですから。
ただ、原点は何かを踏まえて修正していく智慧は人間が持ち合わせるものと信じます。
世界の経済のビジョンに成長という路線はもう既にないでしょう。コロナの後はそれがますます明確になってくると思われます。
成長ではなく、徐々に下降していく、その過程はきっとつらいものでしょうから、抵抗があって今以上に格差も生まれる。暴動や紛争、もしかしたら戦争も起こるかもしれません。
しかし、できればそうならずにある程度のところに軟着陸できないものかと思うところです。
人間的な豊かさという方向に価値の舵を切れば、できないことはないはずです。
それは、地球環境的にも無理のない方向だし、スポーツや文化の純粋性にも寄与するでしょうし、社会の安定と個人個人の幸せにもつながると思うのですが。
人間が生きるためにお金は必要ですが、それは人間的な豊かさのために使われるべきです。
私腹を増やすためのお金儲け、お金のためのお金儲けは人間の豊かさを失っていきます。
お金の使い方の目的が間違っていれば、経済活動そのものが悪だということにもなりかねません。
『論語と算盤』のような話ですか。
何だか変な方向に話が行ってしまいました。これぐらいにしておきましょう。

さて今日は、8時半から鶴楯の整備作業があります。創る会の会員が集まって参道の整備と伐採作業を行います。
昼前には法事が3件あり、午後からは寺の総代会役員会があります。その後孫の入学祝をします。
雪解けとともに一気に動き出した感じです。
田舎が田舎の中だけで動いていれば、コロナもさほど恐いことはありません。
ただ、家族が家族の葬式にも参列できない現状は心が痛みます。
そのストレスが、いつか別な形で表れてくるのではないかと心配されます。
やはり移動は必要ですね。自由に移動できることを願わずにはいられません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。