なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ92

2017年01月29日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

今日は1月29日、1月最後の日曜日です。
適当に雪も降って、赤倉温泉スキー場での全中、全国中学校スキー大会も開催できるのではないでしょうか。
関係者は胸をなでおろしていることと思います。

今季、当地は風が少ないんですよ。
吹雪という日がほとんどありませんでした。
宮城県との県境、境田は、奥羽山脈の一番低い峠で、庄内地方に吹き込んだ西風がふいごのように吹き抜ける地形となっています。
そのため、冬は地吹雪の名産地で、アチコチに吹き溜まりができて、視界不良で、車が立ち往生したり追突したり、難儀をしているところなんですよ。
それが今季、地吹雪というのを一度も経験していないんじゃないでしょうか。ここまではですが。

さて、今年も早や1カ月を過ごそうとしていますが、月日は休みなく流れ去っています。
そんな、時という流れの上を、波乗りのように浮き沈みを繰り返しながら進んでいくのが人生というものなのでしょう。
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」とは、松尾芭蕉「奥の細道」の序文ですが、古来より、人生は旅に譬えられてきました。
多くの人と出会ったり別れたりを繰り返しながら、しかし実はたった一人で、とぼとぼと自分の足で歩いてきたのです。
旅であるならば、いつかは出発した家に帰るのですが、人生の旅は帰らない旅です。
毎日毎日、踏み出す一歩一歩が、これまで誰も歩いたことのない未知の旅です。
誰かが先に行って、その後ろを自分が歩いているような気がしますが、そうではないでしょう。
過去と未来を考えてみれば、過去はまさに過ぎ去ったことであり、未来は未だやって来ないのですから、今私たちが生きて進んでいる現在の今の連続が、先頭なのです。
私の前には、誰一人歩いている人がいません。
旅を終えてしまった人は、先に行ったのではなく、残念ながら過去になったのです。
過去の人を振り返り、参考にはできますが、今この時、この一歩を踏み出している自分は全く誰も歩いたことのない道をたった一人、進んでいるのです。

立ち止まり 振り返り 
   またも行く 一筋の道だった

山形県を代表する童話作家、「泣いた赤鬼」を書いた浜田広助の言葉です。

自分の歩いてきた道を振り返れば、迷い戸惑い、寄り道をしながら、それでも歩いてきた事実として一本の道になっています。
それぞれが一本の道をつくってきました。
誰とも比べる必要がない、まぎれもない、自分の道です。
帰ることができないのは寂しいけれど、ここからどこへ向かうのか不安だけど、それでも今日の一歩を進めるしかありません。
横を見れば、同じように未知の一歩を進める人々が横一列となって前に向かっています。
手をつなぐことができます。肩を抱くことができます。
この旅が、どこまで続くのかは誰にも分かりませんが、それでも今日、今日の一歩を進めます。

時には、一寸先も見えない地吹雪のような日もあるかもしれません。そんな時は、慎重に手探りでも、一歩を進めなければなりません。
人生は帰らない旅。
寂しくなったら手をつなぎましょう。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ91

2017年01月22日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

今日は1月22日です。


季節にもよりますが、今頃の午前4時はまだ真っ暗です。
この午前4時。朝なのか夜なのかは、その人の生活スタイルによって違ってくるでしょうね。
また、季節によっても違うかもしれません。
朝方の人、つまり、夜は9時か10時には寝て、朝5時か6時には起きる人にとっては、当然午前4時はちょっと早い朝、になるでしょう。最近の私はこちらです。
一方夜型の人、11時前には寝ない、あるいは完全に夜に働いている人にとっては、午前4時はまだ真夜中、少なくても夜ということになりますよね。
そう、朝か夜かさえも、その人の生活状況によって概念が違います。
雪が降って困る人と、降らなくて困る人がいます。
円が安くなって喜ぶ人もいれば高くて喜ぶ人もいます。
稀勢の里が勝って喜ぶ人の陰には、かならず負けて肩を落とす人がいるはずです。
見る方向によって、景色は全く逆の見え方をするものなので、一概に善し悪しを決めつけない方がいいのだと思います。

大相撲は、日本人の横綱を待ち望む空気で充満していますが、それは私もその通りなのですが、「なんかなあ」という感じも否めません。
先日国技館で初場所を観戦してきました。
テレビ観戦と違うのは、国技館場内の歓声とか一体感のようなものでしょう。
贔屓の力士を応援する掛け声が各所から飛ぶのですが、気になるのは、日本人力士が勝ったときの拍手歓声と、日本人力士が負けて外国人力士が勝ったときのがっかりしたため息の差ですね。
分かります。私も日本人ですから、内心同じ感情をもっていることは否定しません。
しかし、大相撲の品格というようなものは、たとえ勝っても負けた相手のことを慮り、派手なアクションをしたり笑い顔を見せたりしないという紳士な態度をもって良しとするところがあります。
だとするならば、日本人が勝とうが外国人が勝とうが、あからさまに喜んだりがっかりしたりしない観客の礼儀も合わせて大相撲の一部とすべきだと思うのです。

しかし、それもこれも日本人力士が弱く、モンゴルをはじめとする外国人力士が強いので、そのフラストレーションが溜まっているということも原因の一つと考えられます。
まずは、稀勢の里に優勝してもらって横綱にもなってもらって、溜飲を下げて落ち着いて、公平に見られるようになることが必要なのかもしれませんね。
まあ、今日の千秋楽、白鵬に勝ってようやく横綱の声が上がってくるというのが本来でしょう。横綱二人と大関一人が休場の中で優勝してもどれだけの成績なのか、というのが本当だと思います。
昨日の段階で横綱審議員から「白鵬に負けても(横綱にしても)いい」というような甘い言葉も出たようです。
甘いです。過去に双羽黒という一度も優勝していない力士を、世間の待望論で横綱にして、結局品格がなくすぐに引退してしまった苦い経験もあります。
待望論は分かりますが、ここは厳しく毅然とした判断があってしかるべきだと、私は思います。

何はともあれ、近年朝方の私は、朝のお勤めの後、四股を踏むのがルーティーンとなっています。
股関節を開き、足腰を鍛えるのにはもってこいのエクササイズです。
併せて蹲踞も行っているのですが、これがまた、坐禅の姿勢に似ていいのですよ。
いいなあ、大相撲。ごっちゃんです!


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ90

2017年01月15日 08時40分44秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

今日は1月15日です。
もうあっという間に1ヶ月の半分が過ぎました。
1年の24分の1が終わったことになります。

一昨日快晴の東京から戻ってみると、雪国はやっぱり雪国でした。
雪のない正月を過ごし、楽でありながらもどこか物足りなさを感じていました。
でもこうやってまとまった降雪があるとやはり大変です。
しばらく筋肉痛とのつきあいになります。

さて、先日は静岡県修善寺で知り合いの本葬がありました。
カンボジア難民時代の仲間で、以来長くおつきあいさせていただきました。
シャンティ国際ボランティア会の代表として弔事も読ませていただきました。
その内容を紹介させてください。


弔辞
丹羽耕健老師、旧姓野村耕健さんとの出会いは1980年のカンボジア難民キャンプでした。
もじゃもじゃの髭を伸ばし、頭に青いタオルをかぶって、キャンプの中を自宅の庭のように闊歩する姿は鮮烈でした。
この人は一体何者なのだろう。ゲリラなのかチェ・ゲバラなのか。
自由闊達な行動、過激な発言、水のように飲むビール。
まさか曹洞宗のお坊さんだとは思いませんでした。
しかし、いったん話をすると、禅の教えと坐禅に裏打ちされた禅僧の姿が、達磨さんのように浮かび上がってくるのでした。
弱い立場の人々に対する大いなるやさしさ、慈悲心が、許せない社会の不条理に対する怒りとなって噴き出すのでした。

SVAの運営について、何度も厳しく叱責されました。
「お前な、このままではつぶれるぞ」と何度言われたことでしょう。
しかし、野村さんは最後までSVAを見捨てることはありませんでした。
厳しいことを言った後、必ず支援の手を差し伸べてくれるのでした。
口先だけの人とはまるで違いました。本当に、心から優しい人でした。
お蔭をもちまして、SVAは昨年、三十五周年を迎えることができました。
我々の先達、有馬実成師は「NGOの道はけもの道を行くに似ている」と言いました。
野村さんは、そのけもの道の先頭に立ち、道なき道をブッシュをかき分けかき分け歩いてこられました。
今、その道を多くの後輩たちが続いています。

愚労軽塾、ゲリラサバイバルツアー、バン・サワイ村の井戸お袈裟プロゼクト。
次々と生み出す、新しい事業の企画者でもありました。
物欲、名誉欲、そんなものは微塵も持ち合わせていない人でした。
既成の概念、凝り固まった価値観、そんなものをぶち壊すことに快感を感じていたのかもしれません。

野村さんを表す最も的確な表現、それは「野武士」これに尽きます。
巨大な悪に果敢に立ち向かっていく、七人の侍の野武士のような人でした。
この混沌とした時代において、そんな野村さんと、わずかばかり行動を共にできたことは法幸この上もありません。
SVAにとっても、私個人にとっても、とても大きな存在でした。
大変お世話になりました。そして、とても楽しかったです。
ここに、SVAシャンティ国際ボランティア会を代表し、万感の思いを込めて感謝の意を表します。
丹羽耕健老師、野村さん、本当にありがとうございました。
   
公益社団法人シャンティ国際ボランティア会
副会長 三部義道


数十年の人生において、誰と出会うかでその中身が違ってきます。
私にとっては、とても大きな出会いの人でした。
先に道をつくって行っててください。後から追いかけます。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ89

2017年01月08日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

1月8日。今日は東根温泉からです。
高校のクラス会で、還暦は過ぎましたが、年度内ということでその一環でしょうね。
高校時代もこのクラスも好きだったので大変楽しい一夜を過ごしました。
「♪クラス仲間はいつまでも~」

さてさて。
当地の方言で言えば「すらんねごどはすらんね」あるいは「するらんねごどはするらんね」。
河北町では「さんなねごどはさんなね」。
関西方面では「せなあかんことはせなあかん」「せんならんことはせんならん」などでしょうか。
標準語で言えば、「しなければならないことはしなければならない」ですね。
それぞれ、その地の言葉で言われることだと思いますが、その心の大事さを思います。
「それはどういう意味なの」「なぜそうしなければならないの」
などと聞いて、納得がいかなければやらない、というような傾向があるように感じられますが、あまりにも薄っぺらな考えだと言わなければなりません。
伝統文化のようなものは、理屈や理由などを超えた儀礼として伝えられてきたものでしょう。
理屈を超えた「形」を大事にしなければ、祭礼や神事、伝統芸能などは数百年の歴史を重ねてこられなかったと思います。
例えば「なぜ朝起きてすぐに顔を洗わなければならないの」「どうして仏壇に手を合わせなければならないの」
などと聞かれて、その意義を語れば語れないこともないのかもしれませんが、それよりも「しなければならないことはしなければならないの!」と一言で言い切ることの方が意味があると思うのです。
親の法事や葬式さえもしないで済まそうとする人がいるようです。
「なぜそんなことをしなければならない」「それにどんな意味がある」
などと理屈を並べて何でも簡単に済まそうとすることで、アイデンティティや人間の深みのようなものはどんどん失われていくでしょう。

宗教や伝統文化は、長い時間をかけて「形」をつくってきたもので、その形そのものに意味があると言っても過言ではありません。
その形をかたくなに守ることに、理由は必要ありません。
理由もなく形を守ろうとする姿とその心に、むしろ人間の深み厚みを感じたりします。
深みのない人間には魅力がありません。
「せんならんことはせんならん」
「さんなねごどはさんなね」
それだけで済ませることを失ってはならないと思います。
同じようなことで、有名な会津の「什の掟(じゅうのおきて)」に語られる言葉に
「ならぬことはならぬものです」があります。
それはもう、問答無用、言語道断、理屈を思うことさえ許さぬという態度でしょう。
それでいいと思います。

繰り返しますが、宗教・伝統文化を失った者には人間の深みがありません。深みのない人間は魅力がないと言い切ってしまいましょう。
現代社会がどういう未来に進もうとしているのか分かりませんが、いわゆる進歩と人間の深みは矛盾しないことです。
AI、ロボットに人間の深みを求めることはもちろん無理でしょう。
だとするならば、それはそれに任せて、人間は人間にしかできない人間らしい深みと魅力を追求していくことはできるはずです。
今年、これから、理屈も理由も度外視した、
「しなければならないことはしなければならない」
ことを求めていきたいと思います。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ88

2017年01月01日 05時30分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

新年、明けましておめでとうございます。

平成29年正月元旦を迎えました。
皆様に素晴らしい出会いが訪れますことを祈ります。
また、素晴らしい出会いだと受け止められる感謝の心が多くあることを祈ります。

お寺の正月は元旦の元朝祈祷から始まります。
ああ、その前に除夜の鐘がありましたね。
昨晩、大晦日の11時45分から15秒間隔で撞き、61声目で歳が改まります。
0時11分45秒、108声目を撞いて終わりです。
そして、今朝の4時から祈祷を始めました。
大般若経の「理趣文」を読むのが習わしですが、普段読み慣れないのでずいぶん時間がかかります。
諸仏諸菩薩には重ね餅を供えています。
御明かりを灯して若水と線香を供え、太鼓をたたいて今年最初の読経をいたします。
仏法興隆、世界平和、檀信徒各家の家内安全、身体堅固、諸災消除、諸縁吉祥を祈ります。

今日の10時からは、松林寺恒例の元朝祈祷、終わって新年会です。
明日は同じように、宿用院の正月祈祷と新年会です。こちらにも顔を出します。
三が日、三朝祈祷したお札は、4日から檀家に配って歩きます。
5日は寒の入りで、この晩寒念仏を行います。
16日は小正月、地元以外の家ではこの日に寺参りをする習慣ですので、この日も祈祷を行います。
というのが、おおよそお寺の正月行事です。
お寺は亡くなった人の供養を行うだけでなく、生きている人々、広く世界の平和まで「祈る」ことも大事なお寺の務めなのです。

昨日までの歳末は割と時間があったので、衣部屋や事務室、内仏の仏壇の隅々まできれいにすることができました。
そう、これまではおざなりにしてきた所もありました。
仏壇の中を、動かせるものは全部動かしてきれいに拭き清めて、位置をキチンと正し、線香をあげて掌を合わせると気持ちがスーッとしました。
仏様の周りをきれいにすることで自分の気持ち、心もきれいになるんだなと改めて感じました。
自然の風景を見て「心が洗われるようだ」とつぶやくことがありますが、別にどこかに出かけるまでもなく、例えば仏壇や神棚などをきれいにすることでも、心を洗うことができるということですね。
心は目に見えないけれども、気持ちがスーッとするということが心がきれいになったという証しです。
吸う空気もきれいに感じられます。それは自分の体も気持ちいいということでしょう。

道元禅師は「身を清むるは心を清むるなり、身心を清むるは国土を清め、仏道を清むるなり」とおっしゃっています。
自分の顔を洗うように、身辺を清めることによって、心も、国土も、仏道も清めることになりますから、とても大事なことです。
清掃を誰かにさせても自分の心はきれいになりません。自分が清めることに意味があるのです。
年末忙しくアチコチ清めることができなかった人は、今からでも遅くはありません。松の内ですから。
朝起きたら顔も洗いましょう。
顔を洗って出直す、という言い方があるように、朝の洗面は気持ちを新たにして一日を始めるという意味があります。
年の初めです。身も心も清めて一年をスタートさせましょう。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。