なあむ

やどかり和尚の考えたこと

三ちゃんのサンデーサンサンラジオ66

2016年07月31日 06時44分12秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。
7月の最終日となりました。
8月になると、オリンピックが始まり、高校野球があり、お盆があってと、いろいろ忙しくなりますね。
オリンピックについて言えば、大丈夫でしょうかリオデジャネイロ。
設備の不具合や抗議行動、ジカ熱、またテロの標的にならないかなどの不安があります。
出場を見合わせた選手もいれば、出場できない選手もいるようです。
選手にとっては、生涯に何度とない機会でしょう。
「霊長類最強」などと謳われる女子レスリングの猛者もいますが。
普通は、出場することそれだけで人生最高と思えることでしょう。
4年に一度というスパンがいいのでしょうね。
だからこれほど盛り上がるものと思います。

ただ、世界中が盛り上がる祭典だけに、国威発揚、愛国心の増強など、スポーツが国家の思惑に利用される傾向があります。
政治利用、経済的意味が大きくなり、純粋なスポーツの祭典と言えるのかどうか、疑問を感じるようなところもあります。
国の威信のために、薬物を使用するということもあるようですし、経済大国でないと開催国になれないのが現状でしょう。
国や故郷を愛することは必要なことだし自然なことでもあるでしょう。
しかし、それがあまりに強くなると、またそれを利用すると、他国への攻撃や戦いの原動力にもなります。
むしろ、オリンピックぐらいの愛国心で収めていくのが平和利用と思います。

それに比べ高校野球は罪がないように思います。
出場に私立校が多いのは経済活動だと言えるかもしれませんし、金属バットの使用は企業の戦略だ、などという噂も耳にします。知らないところで行われているいろいろな思惑はあるのかもしれません。
それでも、各県ごとの争いに発展することはありませんし、県をあげて薬物の使用を画策するというようなこともないでしょう。
甲子園という固定した場所がいいのですかね。でも国体という例もありますしね。国体が盛り上がりに欠けるのは毎年開催されるからでしょうか。しかし、国体が4年に一度になったら全国回るのに200年近くかかりますからね。そうもいかないでしょう。

ということで、寝不足になることも予測されます。
暑い時季でもありますので、体調には充分お気をつけください。
選手やその家族、関係者や応援する皆様も、それぞれ頑張ってください。
大いに楽しむことは、生きている喜びにつながることでもあるでしょう。
熱い8月が始まります。


それでは今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ65

2016年07月25日 05時28分12秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。


今は月曜日の朝です。
一日遅れのマンデーサンサンラジオになってしまいました。

いやー、楽しかったなー。
一昨日昨日と、中学校の同級会、還暦同級会でした。
どちらも同じかと思いますが、以前よりはずっと平均寿命が延びた今でも、同級会の中で最大のイベントがこの還暦同級会ではないでしょうか。
還暦は、生まれ変わりという意味も意識の根底にあるせいか、特別な感慨を持つように思います。

この同級会を開催するにあたっては、実行委員会をつくり準備を重ねてきました。
話が始まったのは2年前で、仲間内で実行委員の選定をしていました。
そして、第1回目の実行委員会昨年の6月。
以来5回の委員会を行って、飲みながら案を煮詰めてきました。
松林寺が事務局、私が事務局長。準備するのが楽しかったですね。
卒業以来2名が亡くなって、全員で62名。半分の30名出席を目指しました。
正月に年賀状で予告通知をして、5月に本案内。
果たして何人来てくれるのか、期待半分不安半分。
結果は、祈祷だけの参加も含めて、何と37名の参加となりました。
目標達成!めでたしめでたし。

赤いちゃんちゃんこならぬ、赤いTシャツを作り、中学時代の顔写真を入れた名札シールを貼って、富沢馬頭観音東善院にて祈祷、記念撮影。
今はなき旧校舎跡で校歌の斉唱。
赤倉温泉に場所を移して宴会、卒業アルバムの写真をスライドショー。
ギターの弾き語りをする同級生二人のミニコンサート。
二次会、部屋飲みと、時間が経つのも忘れて飲み、語りました。
一人も口を休めている人がいませんでした。
担任の先生も、部屋の飲みまでつきあってくれて、ギター奏者が休憩させてくれと言うまで歌い続けていました。
今は少し偉くなった者も昔は鼻垂れ小僧だったし、昔乙女今太めの女性も、会えば45年前と全く同じ人間で、時を越えて話せるのが同級生なのでしょう。

そして昨日は、赤倉温泉スキー場で芋煮会。
芋煮会は当時の夏の風物詩で、学校行事でもありました。
当地の芋煮は、新ジャガが定番で、豚肉か塩クジラの味噌味。
今回は二種類の鍋を用意しました。
〆は、スキー場のロッジで蕎麦屋をやっている同級生の手打ち蕎麦と、なかなかバリエーションにとんだいいプログラムになりました。
「次は4年後、オリンピックの年に会うべ、冬季オリンピックには東京で」と誓い合って別れました。
その時はパラリンピックの人もいるかもしれません。
何だかジジ臭いと思いながら、これが現実です。
それが60歳ということでしょうね。
ということで、楽しい二日間でした。
行事を企画するのは本当に楽しい。




今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ64

2016年07月17日 06時25分13秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。

先日13日、東京高輪のネパール料理店、レッサム・フィリリという店に行っていました。
この店の経営者は、先月ネパールに行ったときにお邪魔したパサンさんという方です。
故郷ナムチェ村とカトマンズにホテルを経営し、日本ネパール会の理事であり、カトマンズライオンズクラブの会長でもある方です。
そのパサンさんに、ある方を引き合わせるのが今回の目的でした。
その方とは、大石田町の地福寺住職、宇野全匡さんです。
山形県の方は多くご存じですが、20年ほど前からネパールのズビン村との交流と支援を行う、「NIJI]という団体の代表でもあります。
NIJIでは、ズビン村へ中古の農業機械を送りたいという計画をしていて、その輸送方法などについて悩んでいるという話を伺っていました。
先月パサンさんにお会いして、この方なら何かいい方法をアドバイスしてくれるのではないかとひらめいたのでした。
そこで、日程を合わせて、13日の訪問となったのでした。

宇野さんは、ズビン村へ支援することになったいきさつから、村の青年たちとの交流、彼らの一生懸命さ、ズビン村に学校を建てて、訪ねたときの様子などを、熱く語りました。
村に学校を建てたことにより、そこで勉強して村を出て行く若者が増えてきた。これでは何のために学校を建てたのか分からなくなる。
村に産業を作り、村を豊かにして、村に残る若者を育てていかなければならない。
そのためには、農業を効率化して、余った労働力で、陶芸や機織り、竹細工などを特産品とする産業を作っていきたい。
そのための農業機械で、しかし、山の急斜面に作られた棚田では大きな機械は使えないので、耕耘機とバインダーの稲刈り機がちょうどいい、それから機織り機とろくろと窯も送りたい、と熱っぽく語りました。

パサンさんは、その支援事業の疑問点や問題点を指摘し、意義を納得し、受け入れについて当たってみると約束してくれました。
現在宇野さんの寺で研修をしているズビン村の青年男女二人と宇野さんが電話で話し、パサンさんに代わりました。
ネパール語でしばらく話をしていましたが、「泣いていたよ」と、代わった宇野さんが話しました。
何と偶然に、パサンさんの故郷であるナムチェ村は、ズビン村と同じ郡内だったのです!
日本に来て研修を受けながら、日本で成功した同じ故郷のネパール人と話すことができて感激したのでしょう。
ネパールのおいしい料理とおいしいお酒をいただきながら、楽しい一時を過ごしました。
この二人は、きっとすぐに意気投合するに違いないという予感がありました。思った通りでした。
最後は三人の大きなお腹をくっつけ合って抱き合い、写真を撮りました。
同じ方向を向いている人とは話が早いと、いつも思います。
向いている方向が同じなので、手を伸ばせば隣にいるという感触です。
向いている方向が違う人とは、すぐ側にいてもなかなか出会わないということも言えます。
ということで、新たな事業が動き出しそうな予感で、大変有意義な夜となりました。


それでは今週はここまで。また来週お立ち寄りください。



三ちゃんのサンデーサンサンラジオ63

2016年07月10日 05時38分53秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。

7日、悲しいニュースが舞い込んできました。
池田弦ちゃんが亡くなったと。
フェイスブックで見かけて、何か冗談を言ってるのだろうと気にも留めていませんでした。
しかし、8日実弟の純さんから通夜と告別式の情報が流れましたので、マジか!と目を疑いながらも現実と受けとめる以外にありませんでした。

弦ちゃんは、声楽家で、日本では数少ないカウンターテノールの歌い手として知られていました。
お母さんのヴァイオリニスト敏美さんが最上町の髙嶋さんと再婚されたご縁で、最上町とのつながりができました。
町の小学校で音楽指導を行い、クラシックの音楽家としては珍しく、お母さんとともにどんな小さな場所でも気軽に演奏活動をしてくれました。
松林寺集中講座でも、河北町キャンドルナイトでも歌っていただきました。

特に弦ちゃんと親しくなったのは、震災後でした。
震災の年の6月、まけないタオルの活動が始まって、「まけないタオル」の歌もできたばかりの頃、やなせななさんと被災地にタオルを届けるツアーをしました。その日程の最後に、松林寺の大般若でも歌っていただきました。
まだ、CDもできてなく、最上町では最初のまけないタオルでした。
そのコンサートを聴いた門前の亘君が、ななさんの控え室に「是非子どもたちにこの歌を歌わせたい」と許可を求めてきました。
彼女は快く承諾してくれて、それを学校で歌うために、亘君が弦ちゃんに相談を持ちかけたのでした。
弦ちゃんは、知り合いの編曲者に依頼してまけないタオルを合唱曲に仕上げてもらい、子どもたちに指導をしてくれたのです。
すると、この歌はたちまち町の学校に広まり、全小学校で歌の指導が行われるようになりました。今月の歌のように毎日毎日学校で流れ、町の小学生でこの歌を歌えない子供はいませんでした。

さらに、子供から大人に伝わって、まけないタオルを歌う老若男女混声合唱団ができました。
8月には被災地支援コンサート「音の風」が最上町で開催され、県内外からの140名の合唱団に600名の来場者が集まりました。
そのプロデュースを任されたのが弦ちゃんでした。
見事な構成と演出でした。
会場が一体となって盛り上がり、大きな感動を呼びました。
更に風は広がり、「音の風」コンサート東京開催も行われました。
他にも、最上町での福島から子供たちを招いてのサマーキャンプ。
埼玉加須市での双葉町避難所のコンサートなど、弦ちゃんと一緒に活動した思い出が沢山です。
いろんな所で一緒に酒も呑みました。楽しかった。

最上町に歌の力を植付けてくれた功績はとても大きいです。
歌を通して明るく元気になれる、心を一つにできる、それを実践して見せてくれました。
コンサートを明るく楽しくしてくれる力は、単なる性格だけではなく、彼の勝れた能力だったでしょう。
その歌声が今でも耳にあります。
生の声がもう聴けないと思うと、無性に寂しくなります。
残念、無念!
幼くして父を事故で亡くした弦ちゃん。
48歳、彼もまた、あまりにも若すぎる別れに、戸惑うばかりです。




今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


三ちゃんのサンデーサンサンラジオ62

2016年07月03日 05時55分44秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!

今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

おはようございます。
もう7月ですね。
半年が過ぎるのも、1週間が経つのも早い、今日この頃です。

一昨日金曜日、東京で授賞式、祝賀会がありました。
もちろん、私のではありません。
手束耕治さんという古い仲間が、社会貢献者表彰というのを受賞されました。
手束さんは、今から32年前の1984年、現在のシャンティ国際ボランティア会の前身である曹洞宗ボランティア会に入り、ボランティアとしてタイのカンボジア難民キャンプに赴任しました。
その当時東京の事務所にいて、ボランティアを受け容れていたのが私でした。

その後、カンボジア難民が本国カンボジアに帰還するのにともなって、我が会もカンボジアに事務所を開設することになります。
その初代事務所長に就いたのが手束さんでした。
当時は、ようやく内戦が収まってきた頃で、カンボジア国内はまだまだ混沌としている状態でした。
電気はあるものの、しょっちゅう停電していましたし、交差点の信号も消えたままでした。
首都のプノンペンはポルポト時代の強制退去により廃墟と化していました。
政権が倒れ、住まいと仕事と食料を求めて大勢の人々がプノンペンに入ってきました。
交差点には、車と牛車と荷車と自転車と人があふれ、それぞれが自分の行きたい方向を目指してもがいていました。
この国の現状を写している姿でした。
街には内戦のなごりや強盗が頻発し、手束さんも自動小銃を寝床において寝たこともありました。

団体の事業として、文字を失ってしまったカンボジア国民のために、職業訓練を兼ねた印刷工場をつくり、教科書を初めとするたくさんの印刷物を作成しました。
他にも、縫製、電気などの職業訓練所、保育園、図書館、学校などの建設を手がけました。
徹底的な教育破壊を行った後の復興に、やることは数限りなくありました。
当時カンボジア国内に日本人は20名ほどしかいませんでした。手束さんは日本人会の会長にもなりました。
以来30年、生涯の半分をカンボジアの復興のために捧げてきたと言っても過言ではありません。
現在も、徳島から母親を呼び寄せ、カンボジア人の奥さんと娘さんと4人でプノンペンに住んでいます。

そんな彼が、その功績を認められ受賞したのです。
お祝いに駆けつけないわけにはいきません。
会場は帝国ホテル。はじめて入りました。こんな所に用事はありませんでした。
皇室から瑶子女王殿下がご臨席。この国に「女王」という皇位があることをはじめて知りました。
主催者の社会貢献支援財団の会長は安倍昭恵さんでした。

そんなことより、立食の料理がすばらしかった!
築地の寿司屋が目の前で握ってくれたり、吉兆が天ぷらをその場で揚げてくれたり。
もう会話などどうでも良くなっていました。
こんな事でもない限り口にできない料理を、この時ばかりと漁っていました。
でも、会場を出た後、ガード下の居酒屋に陣取って安酒を飲んで落ち着いたのは性分というものでしょう。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。