なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ323 ミミズの冒険

2021年07月25日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第323回。7月25日、日曜日。

いつの間にかオリンピックが始まっていました。
スポーツを観るのは好きなので、特に団体競技が好きです、始まればついつい見てしまいます。
それぞれの試合に一喜一憂、ハラハラ、イライラしたり安堵したりしています。
選手は試合が始まれば試合に集中するでしょう。会場で観客の共感を受けられないことにも次第に慣れてくるのでしょうね。
呪われたTOKYO2020。いや違うな。外部の要因ではなく、この国の恥部が一気に露わになったのだろうな。
最後まで無事に終わるのか。終わった後はどうなるのか。とても心配です。
これがこの国の転落の開会式にならなければいいがと思います。
コロナのせいだというかもしれませんが、コロナの対応のあり方も含めて、この国の形、この国の心というものを見つめなおさなければならないと強く思います。
そういう機会をこのオリンピックとコロナが与えてくれたのだ、これがそのラストチャンスなのだと受け止めれば、まんざら無駄にはならないでしょう。もし、このラストチャンスをみすみすうやむやに打ち過ごしてしまえば、本当に国そのものの威信が崩れ去るでしょう。
愛国心発揚どころか、白けた個人主義に進んで行くように思われます。
国土や資源、水や森林などが知らぬ間にどんどん売られていくかもしれません。国に対する愛着心がなければ個人の損得が優先されるでしょう。
日本人としての矜持、文化、礼儀、情、義理、恥、それを失ってはなりません。それを失ったら日本人は日本を失い根無し草になってしまいます。勝ち負けよりも大事なものを日本人は腹の中で見据えていなければなりません。
そのことを発信するのが、日本のオリンピックの意義にすべきだったと思います。
ラストチャンスを本当にチャンスにするためには、あるいは大きな痛みを伴わなければならないのかもしれません。だとするならば、オリンピック後のコロナの感染拡大、経済の急激な落ち込み、倒産、閉店、失業、貧困、経済難民、そういう危機的な状況も覚悟して受け止めなければならないでしょう。よもや、目先の救済のために他国の資金に頼って、甘い罠にはまってはなりません。痛みを共有することによってはじめて、その痛みからの解決のための理念が強調されてくると思います。
「すべて人間の心に訴えるものは、正しさではなく、むしろ正しくあろうとして間違った時、その間違いから発せられた、正しさへの欲求であり、失敗や誤りは、人間になつかしさを感じさせる」亀井勝一郎
間違いをごまかさず、しっかりと受け止めることからこそ、あるべき姿が見えてくるはずです。

朝の散歩コースの道で、よくミミズを見かけます。
乾いた土の上をどこに向かうのか、土まみれになりながら、うごめきうごめき進んでいます。
道幅は約5m。ミミズにとっては命がけの行程に違いありません。
途中で力尽きたか、あるいは車に轢かれたか、干からびたのもあります。
なぜそんな過酷な選択をするのか。
生まれた場所の近くで、湿ったある土の中に居ればいいのに、あえて冒険を選ぶ理由は何なのか。
その道の向こうに何があると感じたのか。新天地に楽な暮らしの匂いがしたのか。
目も鼻もないだろうミミズを誘っているものは何なのか。
そんなことを考えながら注意して歩いていると、そのうごめいた軌跡がいくつもいくつもあることに気づきました。
これはミミズの習性か、宿命なのでしょうか。
土の道だけでなく、アスファルトの道を横断しているミミズを見かけることがあります。
もちろん途中で息絶えた姿もたくさん見ます。
焼けつく道を、命がけで渡らなければならないその重い定めを思います。
なぜミミズが道路に出てくるのかを知りたい人は他にもいるようで、ネットで検索してみると諸説あるようですが結局その答えは明確に分からないようです。中には「ミミズに聞いてみないと分からない」などというふざけた答えもありました。
土を耕し栄養分を供給するミミズの役割は、古代から植物の友のような存在で、遠因として、ミミズがいるから人間がいるといっても過言ではないでしょう。まさに縁の下の力持ち。感謝しなければなりません。
もし、全てのミミズが一斉に道路に這い出したらと想像するとゾッとしますが、その時はおそらくこの世の終わりなのでしょう。
途中で命尽きるのかもしれませんが、せめて、踏みつぶさないように、気をつけて歩かなければなりません。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ323 どうでもいいですが

2021年07月18日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第322回。7月18日、日曜日。

山形も梅雨が明けたようです。ようやく7月らしい暑さになってきました。
雨ばかり続く毎日で、気持ちも晴れない日々でした。
盛り上がらないオリンピックを直前にして、心配なのはその後の借金です。
コロナ対策も加わってどれほどの資金を投入したのでしょうか。
それらは全て国民に対する将来にわたっての借金なわけで、祭りの後の寂しさに加えて重荷を背負わされることを覚悟しなければなりません。祭りが盛り上がらなければ寂しさも少ないか。
将来の借金だけではありません。
オリンピック開催によって感染者は増えると、やる前から予想されているのです。
「多少の犠牲は仕方ない」と主催者が言ったとか。
そうなれば、オリンピック後も緊急事態宣言、まんえん防止は続くでしょう。
経済がさらに悪化していくことは避けられません。
気分は落ち込み、観光は冷え込み、残るのは借金だけということになります。
しかし、「緊急事態」ってそんなに何度も長く発令されたら、誰にも緊張感がなくなるのは明白です。
返す返すも、オリンピックが世界最大の祭典であるのなら、全世界の人が集まる開催国に優先的にワクチンを供給するという処置はとれなかったものかと思います。
まあ、冷めないうちに選挙でもやって、自分たちの責任をうやむやにしてしまおうと考えているのでしょう。
その陰で、苦しみを抱える人々、子どもたちがさらに増えて、ますます見えにくくなっていくのだろうと思われます。
祭りが華やかであればあるほど、当たる光が強ければ強いほど、当たらないところは暗さを増します。
祭りは参加するから楽しいのです。参加しなければ、できなければ、妬ましく思ってしまうことにもなります。
来年2月には北京で冬期オリンピックがあるそうですが、それがもし大成功裡に開催されれば、その分日本国民は寂しく妬ましく思ってしまうのだろうなあと想像しています。どうでもいいですが。

本当にどうでもいい話です。
女性の名前の愛称についてふと考えました。
と言っても、キラキラネームではありません。
女の子の名前に「子」が少なくなったのは1970年代から80年代の境目にかけてのようです。
で、私の周りの子のつく女性の呼び方、愛称ですが、「~ちゃん」と呼ばれるのにある一定のパターンがあるように思ったのです。
「キミちゃん」「ノリちゃん」「マサちゃん」「ミキちゃん」「ユミちゃん」等々、名前から「子」をとって「ちゃん」をつけるのが最も多いと思います。
しかし、「子」までつけて「ちゃん」と呼ばれることが多いパターンがあります。
「リョウ子ちゃん」「キョウ子ちゃん」「ショウ子ちゃん」「ヨウ子ちゃん」「ユウ子ちゃん」などです。
これらの名前で「子」をとって呼ばれるのを私の周りで聞いたことがありません。もちろんあるのだとは思います。
何故か「子」の前に「ウ」がつく場合その傾向があるようですが、どんな法則なのか、そこまでは分かりません。
また、「アッちゃん」「サッちゃん」「ナッちゃん」「ミッちゃん」「リッちゃん」のようにはねる場合もあります。
この場合は「チ」や「ツ」のつくパターンが多いようですが、「ヨシ子」が「ヨッちゃん」「ヤス子」が「ヤッちゃん」というのもあります。
語呂としての呼びやすさだと思いますが、不思議だなとふと思ったのでした。ただそれだけのことです。

大相撲名古屋場所は本日が千秋楽です。
幕内力士は全部で42人、うちモンゴル出身が7人、他の国の出身が3人、日本人が32人です。
今場所、楽日を待たずに勝ち越しを決めたのは全部で15人、その中でモンゴル出身力士は全員勝ち越ししています。
モンゴル出身とはいっても、流暢に日本語を話し、日本の文化になじみ、それぞれの部屋で厳しい稽古を乗り越えてきた個人個人の結果です。
今更出身がどこだなどと区別するような見方はすべきではありません。
しかし、そうではありながら、日本人力士のふがいなさと、モンゴル出身ばかりが勝ち上がる対比において、いまいち素直に相撲を楽しめない場所でした。郷土ゆかりの力士琴の若の活躍にはワクワクしました。
国技である大相撲に、日本人横綱が全くと言っていいほど誕生しない近年の状況に少し嫌気がさしています。
口に出さないまでも、多くの相撲ファンの日本人は同じフラストレーションを感じているのはないかと思います。
ここはひとつ、尾車親方に「神風」でも育てていただかなくてはと独りやきもきしています。
(四股名「神風」の名で戦前から戦後にかけて活躍した力士がいました)

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ322 信じる構図

2021年07月11日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第322回。7月11日、日曜日。

9日は和田みさ子さんの1周忌、命日でした。
河北町環境を考える会の代表、副代表として20年一緒に活動してきた仲間でした。
その存在の大きさを改めて思いました。
ご自宅の仏壇に掌を合わせ読経させていただきました。お経が読めることをありがたいと思います。
今でも毎日、散歩先の観音様で戒名を唱えてお参りしていますよ。そうすることで、私が落ち着いてきているように思います。
本当に楽しい20年だったね。お疲れ様でした。

アメリカのキリスト教徒の55%は「創造論」を信じ「進化論」を排斥している、という2004年の調査があります。以降急激にその割合は減り2015年の調査では40%に減退しているそうですが。それでも4割の人は「進化論」を信じないのですね。
「創造論」とは、神が自身に似せてアダムとイヴを造ったというもの。
「進化論」はダーウィンの説から、人間は猿から分かれて進化したとするもの。
当然、旧約聖書を信じるキリスト教徒は創造論を信じ、進化論が事実として証明されようともそれには耳を貸さないということでしょう。
人間は、信じたものをそう簡単に捨てることはできないものです。それが事実であろうとなかろうと。
「信じる」というのは、その対象が不確かであるということを条件としています。
つまり、証明された事実、真実であるならば信じるもなにもありません。不確かであるからこそ、そこに「信じるか、信じないか」という問いが現れるわけです。それが「信じる」という構図のはずです。
しかし、一旦信じたものに対しては、なかなかそれを覆すことができないことも事実です。
トランプ前大統領を信じる人々は、その言動に対する反証が現れたとしても、それをこそ疑い、陰謀論などを信じたりします。
Qアノンのように、裏社会の陰謀を信じ、表社会が全て噓であるかのように信じてしまうことにもなります。
自分が信じたものに対しては、信じた自分を信じ、信じてきた自分を裏切れないのです。
宗教まがいの人、セミナーなどの指導者、詐欺師、宗教でなくとも信じてしまえば同じです。
「信」は自分自身の中にあり、生きる拠り所でもありますから、それを失うのには大きな喪失感と苦しみを伴います。
なので、そこから抜け出すにはそれ以上の信じるもの、あるいは人の出現を待つ以外にありません。そして時間がかかります。

日本の今にも、「ワクチン陰謀論」のようなものがあります。
「ワクチンにマイクロチップが埋め込まれている」「人類を絶滅させようとしている」等の情報がまことしやかに流され広まっています。
この場合も、事実かそうでないかはあまり意味がありません。
事実は嘘だ、と言ってしまえばどんな事実も不確かなものになってしまうからです。
コロナによる社会的な大きな不安と継続的な不満、さらには孤立感によって、それを解消する憂さ晴らしのような情報にワクワクする状況が生まれてきているのでしょう。
「一部の人間しか知らない」という情報は、それを知っている人間に優越感をもたらします。自分は「選ばれた人間」のように思い込んでしまうのです。
しかし、そういう情報を流して喜んでいる人がいるということも事実だと思われます。
自分の流した情報で人々が右往左往し、パニックになったり暴力的になったり、情報がどんどん変異して補完され、それが事実のようにネットで話題になる様子を見て、ゲラゲラと笑っている愉快犯のような人がいるだろう、と私は思います。それで稼いでいる人もいるとういう情報もあります。
信じる人に「信じるな」とか「それはデマだ」などと諭しても、かえって反発して信じる力に油を注ぐだけです。
「バックファイヤー現象」と言われます。
好きな人と別れさせようとされると余計に燃え上がるようなものです。

お釈迦様は「自分を拠り所にせよ、法を拠り所にせよ」と教えました。
人を拠り所にすることに慣れてしまうと、誰かに頼らないではいられなくなります。
まず自分自身をしっかり立てる、それにはお釈迦様の教えを実践することです。手っ取り早いのは坐禅です。
私は1回目のワクチンを打ちました。
これまでインフルエンザの予防接種を受けたことはなく、できれば打ちたくない方です。
しかし今回は、高い割合でワクチン接種をしなければ感染を止めることができないと判断し打つことにしました。
まあ、多くの人が打てば打たない人も感染する確率が低くなるでしょう。
それによって「信じた通り打たなくてもよかった」と信じるのも勝手です。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンサンラジオ321 地産地消の生き方

2021年07月04日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第321回。7月4日、日曜日。

7月に入りました。
梅雨の中どんよりした日々が続いています。

28日月曜日、清凉院で「山と水と、」のレコーディングでした。
「山と水と、」は、以前ここでお話した通り、今最上町で創ろうとしている吟醸酒の名前ですが、そのテーマソングも同じ名前です。
私が歌詞を書いて、同級生の柴田敬君が作曲したものです。
それを東京のプロが編曲してカラオケ状態になったものが送られてきました。
そこに歌をのせる作業が残っていました。
この曲の歌い手に選んだのは、気仙沼清凉院さんの副住職、三浦賢道さんです。
以前から何度か、いやたくさん一緒にカラオケで歌ってきて、その声がこの曲にピッタリだと思っていました。
意外にというと失礼か、体形に似合わず(もっと失礼か)美声の持ち主なのです。
地元の音響芳賀さんの協力も得て、敬君と私の立会いの下レコーディングは始まりました。
歌はうまいし、音程はしっかりしているし、声は出るし、2~3テイクで終わるものだろうと踏んでいました。
ところが、数回の練習の後録音に入ると、同じ個所で音程がズレます。ズレるというか楽譜通りではないということです。
練習の時は問題ないのに、カラオケに合わせると何故か同じところではずれてしまいます。
カラオケの音に引っ張られてズレるのかもしれません。他の個所は問題ないのに何故か1か所だけです。
やればやるほど、頭の中で音程が混乱しているような感じです。
3時間ほど試してもうまくいかず、いっぺん頭をリセットしようと、飲みに行きました。はじめからその予定だったのですが。
そして次の朝、7時から再開することになりました。声も出るようです。
リスタートして、わずか3テイクで完了しました。
昨日悩んだ個所も難なくクリアです。
昨日の苦しみは何だったのかと思うほど。
住職曰く「まだ酒が残ってんだろ」。そうか最初から飲んでやればよかったのか。
ということで、何とかレコーディングは完了しました。
今は東京のスタジオで歌と演奏を合わせてもらっているところです。
完成すれば、CDに焼き付けということになります。
酒の販売店で販促のために流したり、イベント会場で流したり、欲しい方に買ってもらったりする予定です。
町の合唱隊に歌ってもらうのもいいかと思います。
素人の思いつきから始まった素人での歌作り、縁のある歌い手を得てどうにか完成です。
公開までもうしばらくお待ちください。

その前の週の25日には、もっちい主催のセミナーを開催しました。
芸工大三浦秀一先生の「脱炭素社会と持続可能な地域づくりを目指して」という演題でした。
最上地産地消エネルギー(もっちい)の総会に合わせて開催したのですが、最上町長、副町長はじめ、6名の町会議員、役場の課長、職員などなど30名ほどが聴講しました。
内容は非常に具体的で、最上町のエネルギーの現状と、30年後のゼロカーボンの町の実現性を数字を示して提言されました。
その中には新電力立ち上げへのビジョンも含まれ、その方向が一気に現実味を帯びてきました。
一番喜んだのは町長のようで、興奮気味に感謝の意を表していました。
もっちいは一昨年から地域新電力立ち上げのための勉強会を月例で行ってきました。
電気のことはなかなか難しく、それを売り買いしていくにはかなりの知識が必要になります。
我々民間の有志だけではなかなか前に進まず、行政との連携が不可欠だということで、今回のセミナー開催を企画したのでした。
町議会、行政の理解を得て、町が一丸となって進めていかなければなりません。
そういう意味で、今回のセミナーがスタートラインだったと思います。
短距離走のように焦るつもりもありませんが、かといって競歩のように時間をかけることもできません。
来年度中には何とか形になるようなロードマップで進めていきます。
エネルギーの地産地消は、国の世界の流れです。
三浦先生も、「エネルギーは今後農産物と同じように産地で選ぶ、作り方で選ぶ時代になる」とのことです。
その先進地を目指して挑戦してみようと思っています。

酒も地産地消、エネルギーも地産地消、食物も、木材も、人も、夢も、地産地消でいきたいと思います。
誰とも、何処とも比べない生き方。
それが「ここに生きる、ここを生きる」生き方です。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。