なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ212 大相撲と集中講座

2019年05月26日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第212回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

5月26日、日曜日。

今日トランプさんが大相撲観戦するようですが大相撲の政治利用はやめた方がいいです。貴賓席ではなく升席で観戦するということで千秋楽に一般国民の大相撲ファンが大勢場外へ押し出され、お茶屋さんにも影響が出るようです。国民を犠牲にしてまで機嫌を取るのは隷属関係なのかと釈然としません。例えば安倍さんがスーパーボウルを観戦するためにスタジアムの客席をあけるようなことはアメリカ国民が許さないでしょう。誰が決めたのか。誰が許したのか。トランプさんが無茶を言ったのだとしたら訪問国への敬意と謙虚さに欠けると言わざるを得ませんし、安倍さんが勧めたのだとしたら私物化もいい加減にしてほしい。相撲協会が許したのなら国技をあまりにも安く身売りしたと断じなければなりません。

気をとりなおして。
いよいよ来週に迫った第14回松林寺集中講座、今一度告知をさせてください。
裏方の準備はだいたい整ってきました。
明日からは会場の設定に入ります。
何しろ、私自身が楽しくてやっているので準備もワクワクしながら進めています。
ただ、先へ先へと進めたい方なので、あまりに早く準備しすぎて一度元に戻してやり直さなければならないこともあります。だから、あまり早くしないように我慢して抑えるのが大変です。

やなせななさんの人気は凄いですね。
今回の出演を知ったファンの方々、「おっかけ」と名乗る方々が電話予約をしてくれていますが、山形県内、石巻など宮城県内は言うに及ばず、何と長野県、静岡県からも予約が入っています。
この最果ての地までどうやって来るのでしょうか、どこに泊まるのでしょうか。そこまでは知りません。
せっかく遠くからもおいでいただくのですから心してお迎えしようと準備にも熱が入ります。
席は、座布団と椅子の混合ですが、遠くの席の方も良く見えるようにと、この度高さ15センチのミニステージを作りました。
ふるせさんからパレットを一つ頂戴し、周囲を布で、ベニヤ板とパンチカーペットで上面を化粧しました。思いの外うまくできました。
15センチ高くなるだけでだいぶ違うと思います。当日どんな感じになるか楽しみです。
ななさんが松林寺で唄うのは今回で3回目になりますが、今回はバンドライブです。ピアノ・ドラム・ベースの構成です。
生演奏での音楽はそれだけで心に沁みるだろうと思います。
オープニングはオリジナル曲と語りを中心にしっとりと、落語をはさんでななさんが制作した映画『祭のあと』の上映。
その後、ななさんがお坊さんであることの面目躍如、法衣に着替えての法話があります。雰囲気ががらりと変わってのお話も楽しみです。
最後は、縁のあるヴァイオリニスト池田敏美さん、最上町の合唱団絆の方々も加わってのエンディングライブ。みんなで唄って終わろうと思います。

5月11日は仙台で、六華亭遊花師匠の文化庁芸術祭優秀賞受賞記念の落語会があり、出かけてきました。
遊花さんの師匠である三遊亭遊三一門の遊三師匠、遊七、遊子師匠と、動物物まねの江戸家まねき猫師匠も出演されて賑やかな落語会でした。
それぞれ持ち味のある面白みでよかったです。
受賞記念の口上もありました。これも一つの出し物だと思いました。
もちろんメインの遊花師匠もトリで『八五郎出世』を東北弁で演じられました。大変面白かったです。
遊花師匠の噺は、落語の特徴の演じ分けというよりも、昔語りのような感じで、遠野出身であるだけにDNAに刷り込まれた「語り」がにじみ出てくるのかもしれないと思いました。
当日もたっぷり45分語っていただきますので、こちらも楽しみにしていただきたいと思います。

いずれにせよ、とても内容の濃い講座になることは間違いありませんので、未だ迷っている方はこの機会を逃すことなくご来場くださいますようお知らせいたします。電話予約を受付けています。
※今朝の山新に載りました。


それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『歌姫』島津亜矢の唄でお聴きください。


今週はここまで。来週は集中講座の朝にお送りします。

サンサンラジオ211 大人の子ども

2019年05月19日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第211回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

5月19日、日曜日。

今日は広島からお送りしています。
昨晩は、毎年恒例の呉神応院さんの講話会でした。
今日はこれから帰って宿用院で12教区護持会総会の法話です。

自分の過去のブログを振り返って読んでみて、時折、いいなあと思うものがあります。
これは5年前に書いた記事ですが、今読み返してもなかなかよくまとまっていると思ったので改めて紹介したくなりました。

2014年4月26日、タイトルは『あぶらっこ』。

子どものころ「あぶらっこ」という言葉がありました。
子どもが遊ぶのは屋外であり、誰かと集団で遊ぶのが遊びというものだと思っていました。
遊び場には同年代ばかりでなく、大きな人も小さな人もいて、それらがまざって遊ぶものでした。反対にいうと、まざらなければ遊べないものでした。
小さいころ、大きな人と遊ぶのは怖いことであり、怒られないように、いじめられないように気を遣いながら遊んだと思います。もうそれは、社会でした。
そこで、年齢差のある子どもたちが同じ遊びをする場合、どうしてもまだ一人前(子どもとして)の仲間になれない小さな者は、「あぶらっこ」と呼ばれ、あぶらっこのルールが適用されるという決まりでした。
たとえば、野球の一塁ベースが少し近かったり、缶蹴りの鬼にはさせない、というような特別扱いをされるのがあぶらっこの存在でした。
それは子どもにとってうれしいことではなく、まだ一人前の子ども扱いされない惨めさを感じるものでした。
それでも、まぜてもらえなければ遊べないので、泣きながらでもついていくのでした。
ここで言いたいのは、あぶらっこ側の問題ではなく、どんな小さなものでも仲間はずれしないで一緒に遊ぶことになっていた「大人の」子ども社会のことです。
ルールを変えて特別扱いしても一緒に遊ぶ、という許容量の大きさが子ども社会にもありました。
もう少し以前には、福祉もましてやボランティアもありませんでした。
村社会は、村の仲間を社会の一員として仲間はずれしないで生きてきたので、福祉という隔離政策や、ボランティアのような「善行」が必要のない、「当たり前」のことでした。
「ボランティア」という言葉が日本語になりにくいのは、そういう概念すらこの国には必要なかったということだと思います。
もちろん、障がいや老人に対する対応が、必ずしも優しい社会ではなかったと思います。
でも、隔離せずに一緒に暮らしていれば、そういう人も社会にはいるのだということを知って育ったことは間違いありません。
福祉やボランティアという行為が声高に言われるのは、仲間はずれしない社会が崩壊した現れなのかもしれません。
SVAシャンティ国際ボランティア会の初代会長、松永然道現名誉会長が初期のころよく口にしていたのは、「我々は我々の団体が必要なくなるためにやっているんだ」という言葉でした。
けだし名言だと思います。
元々(本来の意味は若干違いますが)いわゆるボランティア活動は、非日常の状況での活動であり、日常的には、特別な人が特別な行為をしなくても、みんなが助け合って支え合っていける社会が本来であり、その社会の実現のために我々は行動しているのだ、という思いであったでしょう。
この地に、いつからあぶらっこがいなくなったのでしょうか。
この国に、ボランティアが必要のない社会をとりもどすのはもう無理なのでしょうね。

うーん、本当にそう思いますね。自画自賛ですが。
先週ここで「大人はもっと大人になろうよ」という話をしましたが、以前はこの記事のように「子どもですら大人だった」と思います。

以前カンボジアに行った時も同じような光景を見ました。
田舎の村を案内してくれたスタッフが一軒の家に入っていきました。
家とも呼べないような、隙間だらけのあばら家で、暖かい国だからこれでもいいのかと思いました。
そこにはおばあさんが一人で暮らしていました。
生活保護などの社会保障はあるのかと聞くとないと言います。
ではどうやって暮らしているのかと聞くと、こう教えてくれました。
このおばあさんが市場に行くと、知っている人が「おばあさん、今日は何が欲しいの」と声をかけておばあさんが必要なものを買ってくれるのだと言うのです。
必要なものといっても、冷蔵庫があるわけでなし、2・3日分の米や野菜や小魚などでしょう。
それが当たり前に行われているのだと知りました。
そういうことで、この日もわずかなお米をおばあさんにあげるためにスタッフは私をここに連れてきたのでした。
おばあさんは一人暮らしだけど、村では一人ではないという社会でした。
行政の社会保障というのは、見て見ぬふりをしてもいい社会をつくってしまったかもしれませんね。

それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『ホームにて』高畑充希の唄でどうぞ。


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ210 大人になろうよ

2019年05月12日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第210回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

5月12日、日曜日。

10連休も終わり、令和のお祝いムードも落ち着いて、大相撲も始まるのでいつも通りの日常に戻るというところでしょうか。
イベントではない毎日をキチンと真面目に生きていかなければなりません。

昔の大人は今よりずっと年寄りに見えました。
一つには若者から見た相対的な年齢という理由もあるでしょう。
でもそれだけではなく、絶対的に今より老けて見えました。
子どものころに見た記憶の60歳はもういかにも老人でした。
農作業などの重労働によるくたびれや衰えもあったのでしょうね。
そして、服装が違っています。老人には老人らしいというか、老人はボロを着るものだというような決まりがあるかのようでした。
女性も普段化粧するようなことはありませんでした。田舎のことですが。
でも、それだけでもはないように思うのです。

子どもとは違うという、大人の覚悟のようなものが強くあったのではないかと思うところです。
例えば、学校を卒業して働くようになれば、周囲も大人として認めただろうし、それらしい振る舞いをしなければならなかったでしょう。
結婚すれば、それこそ一人前として大人然としていなければならなかったでしょうし、子どもが生まれればなおさらのことです。
そのように、一つ一つのイニシエーションとしての節目を迎えるごとに、それなりの自覚を求められたのだろうと思われます。
それが、いつからか、この国では、大人か子どもか分からないような態度や生活が許されるようになりました。
結婚しても、子どもがいても、自分が子どものように甘えることを容認するような社会です。
子どもが生まれたから親と呼ばれるのですが、親は親らしく振る舞うから親になっていくのであり、産みっぱなしでは親になれないでしょう。
いつまでも若いのといつまでも子どもなのでは意味が違います。

山形生まれの農民詩人、真壁仁に『峠』という詩があります。
長いですが全文を紹介しましょう。

 峠
峠は決定をしいるところだ
峠には決別のための明るい憂愁がながれている
峠路をのぼりつめたものは
のしかかってくる天碧に身をさらし
やがてそれを背にする
風景はそこで綴じあっているが
ひとつを失うことなしに
別個の風景にはいってはゆけない
大きな喪失にたえてのみ
あたらしい世界がひらける
峠に立つとき
すぎ来し道はなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
みちはこたえない
みちはかぎりなくさそうばかりだ
峠の上の空はあこがれのようにあまい
たとえ行手がきまっていても
ひとはそこで
ひとつの世界にわかれねばならぬ
そのおもいをうずめるため
たびびとはゆっくり小便をしたり
摘みくさをしたり
たばこをくゆらしたりして
見えるかぎりの風景を眼におさめる

大人になるということは、子どもの世界とは別れるということ。
結婚するということは、独身とは決別するということ。
その喪失をなくして大人の新しい世界には入っていけない。喪失するから懐かしいのだ。
子どもには、大人として生きる静けさや落ち着き、小事に惑わされない泰然自若とした心持に喜びを感じることはできないでしょう。
年を重ねることはマイナスではなくプラスであると受け止めなければなりません。
夏には夏の、秋には秋の色に染まるだけです。いつまでも若葉では青葉の気持ちも紅葉の喜びも感じられないでしょう。
大人は大人になろうよ。大人らしく振る舞おうよ。

結婚した娘に、峠の詩の一部を色紙にしたためて渡しました。

それではここで1曲お送りしましょう。中島みゆきで『荒野より』。


1.望みは何かと訊かれたら  君がこの星に居てくれることだ
力は何かと訊かれたら  君を想えば立ち直れることだ
   僕は走っているだろう  君と走っているだろう
   あいだにどんな距離があっても
   僕は笑っているだろう  君と笑っているだろう
   あいだにどんな時が流れても
荒野より君に告ぐ  僕の為ために立ち停まるな
荒野より君を呼ぶ  後悔など何もない


2.朝陽の昇らぬ日は来ても  君の声を疑う日はないだろう
誓いは嵐にちぎれても  君の声を忘れる日はないだろう
   僕は歌っているだろう  君と歌っているだろう
   あいだにどんな距離があっても
   僕は生きているだろう  君と生きているだろう
   あいだにどんな時が流れても
荒野より君に告ぐ  僕の為ために立ち停まるな
荒野より君を呼ぶ  後悔など何もない


3.僕は走っているだろう  君と走っているだろう
 あいだにどんな距離があっても
   僕は笑っているだろう  君と笑っているだろう
   あいだにどんな時が流れても
荒野より君に告ぐ  僕の為ために立ち停まるな
荒野より君を呼ぶ  後悔など何もない
荒野より君に告ぐ  僕の為ために立ち停まるな
荒野より君を呼ぶ  後悔など何もない


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ209 SNSと驕奢

2019年05月05日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
♪゜・*:.。. .。.:*・♪
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第209回。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。

5月5日、日曜日。

令和となりました。
今の若い者は何でもかんでもバカ騒ぎするんだと冷めた目で、逆に引いてしまって「如常」とつぶやいてみたりと、若干ひねくれたところがあります。
お祝いするにしても、粛々と心からというのが、この世界において元号を維持するこの国の、伝えていかなければならない態度であり意味でもあるように思います。
また、私も使っていますがSNSは、プチ自慢の披露し合いのような感じでこちらも冷めた感じを持っています。
どこに行ってきた、何を食べた、何を飲んだと、そんなに報告しなければならないですかね。
他を傷つけるような中傷誹謗の言葉ばかりをまき散らすよりはマシだとは思いますが、何気ないプチ自慢がひとを嫌な思いにさせることもあるのではないかと思っています。
例えば幼稚園児が連休明けに、「ボクはどこに行ってきた」「私はここ」と自慢し合っているのを聞いて、傍らでじっと耐えている子もいるだろうということです。
自慢は幸せの表現でしょうから「よかったね」と微笑ましく見ればいいのでしょうし、「こちらまで幸せな気分になる」と共感してくれる人もいるに違いないと思います。それは幸せな人です。
一方で、日々の暮らしに汲々としている人にとってはどうなのでしょうか。あるいは病気の人は。各地の被災者は。
みんなが幸せそうな様子を見るにつけ、置いてきぼりのように自分の境遇の辛さが際立って感じてしまう人もいるのではないかと思うのです。
まあ、そんな人がSNSを見るか、と言われればそうかもしれませんが。見るか見ないかよりも、自慢を拡散させる風潮が、慎みの心を失う原因になっているのではないかということです。

SNSというものがこれほど一般化する前は、どこに行ってきただの何を食べただのという報告は家族や友人程度の範囲であって、世界中に公開するような場はあり得なかった訳で、こういうものが発展して問題なのは、個人的な情報と公共の情報の区別があいまいになってしまったことだと思われます。
テレビなどと違うのは、遠くの赤の他人の情報ではなく、自分の知っている人々が何をしたかが逐一知らされるということです。
出所が身近であればあるほどうらやましさはつのるでしょう。
自慢というのは「どうだ、いいだろう」という気持ちが含まれているわけで、それは見る人に「うらやましい」という感情が芽生えることを期待していることでもあります。
そんな情報のやり取りが拡散されあふれるようになれば、そちら側に行けない人の挫折感を助長することにもなるだろうと思うのです。
幸不幸の格差が広がるような感じです。
それが、無意識の何気ない情報の一つ一つから起こるような気がするのです。
そんなこと流す側の勝手でしょう。見たくない人は見なければいいだけじゃない。遊びなんだからそんなに目くじら立てなくても、というのも分かります。
しかし、遊びも他を慮る慎みの心がなければ、思わずながら他を傷つけることにもなるかもしれません。

道元禅師はこのようなことを言っています。
「人それぞれに欠点はあるが、驕奢、驕り高ぶる心これが第一の欠点である。本人は高ぶる心はないのだが、何の心もなくふるまうと、近くにいる不遇な人の心を傷つけることがある。自分が富んでいると、その幸せにまかせて、不遇な人が見てうらやむのも気にかけないのを高ぶった人というのである」と。

そこまで他を気にする必要はない、というのが現代かもしれませんが、公共を意識する配慮がどんどん低下しているように思います。
個も公共の一部であり、個が公共の配慮をもって公共に臨まなければ公共の意義も失われてしまうでしょう。わがまま勝手言いたい放題が公共ではないはずです。
SNS時代に驕奢を慎むのは、矛盾するぐらいに難しいものなのかもしれません。


島津亜矢『誕生』


今週はここまで。また来週お立ち寄りください。