なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンサンラジオ362 猫と犬がいました

2022年04月24日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第362回。4月24日、日曜日。

昨日は、花の鶴楯を創る会の春の作業でした。
昨秋、降雪直前に伐採した樹木を道路脇まで引き下ろし、一定のサイズに切り揃え、トラックに積んで「木の駅」に引き取ってもらいます。
そして、仮植えしていた桜の苗木10本をその跡地に定植するという作業でした。
この冬は降雪がとても多く、支えをしていましたが苗木の半分が途中から折れてしまいました。
寺の植木もこれまでにないくらい枝折れしていましたから、今年の雪は本当に多かったのだと知らされました。
鶴楯の山が桜の山になることを思い描いて作業していますが、思い通りの姿になるまでにはかなりの年数がかかります。
あきらめず、たゆまず、一年一年のすべきことを続けて行こうと思っています。

これまで飼っていた猫と犬のことを思い出していました。
物心ついた時から松林寺には猫がいました。その当時はネズミ除けのためにどこでも猫を置いていたように思います。
はじめての猫がどんな名前だったのか「チャコ」だったか憶えていませんがトラ猫だったと記憶の片隅にあります。
父親がいたずらで前足に輪ゴムをはめて、それがとれなくてかわいそうだった、と祖母が思い出話をしていたのを覚えています。
小学低学年だったと思いますが、前の猫が死んだ後に姉妹の猫をもらってきて、姉がその当時の流行歌手にあやかって「ジュン」と「ネネ」と名付けました。
間もなくジュンは死んで、残ったネネは私の布団の中で寝ていました。何と布団の中で出産もしました。
その頃、少年の間で鳩を飼うのが流行っていました。
ネネが見えなくなり、あちこちみんなで探しましたが見つからず、あきらめた頃、近所の少年が、鳩小屋に近づいた猫を殺したと自慢げに言うのを聞きました。残念ながら犠牲になったことを知りました。
まだまだ野蛮な時代で、産まれた子猫を川に捨ててくるというようなことは普通に行われていました。
それでも、飼い猫の最期には胸を痛め、しばらくの間傷心の日々を送っていました。
その後松林寺には猫の不在が続いたと思います。
私も大学から松林寺を離れていましたので猫の記憶はありません。
一度戻りましたが、間もなく宿用院住職として河北町に移住しました。
宿用院では、まず黒猫がやって来て「なむ」と名付けました。バタバタして何日か家を空けたことがあり、いったん戻った時に足元に甘えるなむを置いてすぐに家を出てしまいました。
その晩家に戻った時には、なむはいなくなっていました。名前を呼びながら近所をずいぶん探しましたが帰ってきませんでした。
足元にじゃれついた時に餌の皿が空になっていたのを見ていながら補充をしなかったことをずーっと後悔していました。

順番から言えばその後は犬ですが、その話は後回しにして、猫を続けます。
父親がパーキンソン症候群と診断され、言葉も出なくなりぼんやり暮らすようになって、アニマルセラピーとして犬か猫かを飼ったらどうだということになり、松林寺でアメリカンショートヘアを求めました。名前は「風太」だったか何かですが「フー」とばかり呼んでいたので本名を忘れました。
ペットショップで「あまり外に出さない方がいい」と言われたので夜はゲージに入れて飼っていました。
それでも春になれば外に飛び出し、父親と墓のあたりでウロウロしていた時に姿が見えなくなりました。父親が何か言うのですが意味が通じず、側溝に落ちたのかどこかへ飛び出して事故にでもあったのか、結局は分からずじまいでした。
宿用院では黒っぽい猫がやって来て、毛の先が黒く中が白いので「ティラミス」と名付け「ティラ」と呼んでいました。
何年居たのか、姿が見えなくなったと思ったら床下で固くなっていました。猫は死ぬときに姿を隠すというのをその通りだと思った記憶があります。
その後は、子どもたちが拾ってきたりペットショップで処分寸前のを買ってきたりした「ミータン」「くつした」「ロビン」という猫がいましたが、それぞれ、寿命、事故、腎臓病で亡くなりました。

で、犬ですが、子犬でもらってきた時には「メグ」という名前が付いていました。「めごめご」からその名前になったとのこと。
少し下がり目の悲しげな顔がかわいい真っ白な犬でした。
初めて散歩に連れて行った時には、途中で怖くなって尻込みして歩きません。仕方ないので抱いて散歩を続け、腕の中で震えていました。
避妊手術をして入院から帰った時には包帯のまま雪の中を走り回り、おとなしくさせようと足を出したら運悪く包帯の腹に当たってしまい「キャン」と鳴いて飛びあがりました。
大丈夫かと心配していると、恐る恐る足元にやって来て上目遣いで泣きそうな顔をしていたのを忘れられません。
散歩をしてあげられませんでした。
いつの間にか私の係になっていたので、寺に居る時は朝の散歩を日課にしていましたが、外に出ている時が多くなり、忙しいとか疲れたとかを言い訳にしてズルズルと散歩の回数が減っていきました。
寺に帰ると、姿を見つけて声を上げて立ち上がり散歩を要求するのですが、見て見ぬふりをしていました。
老犬になり、たまに庭でリードを放してもヨタヨタと歩くばかりで走る筋力はなくなっていきました。
長く伸びた爪を切ろうと、鋏を入れたところ、爪の裏の肉まで切ってしまいました。
寒い夜、外からサッシ戸を何度も叩いて「クーンクーン」と鳴いて、今日はやけにアピールするなと思っていた次の朝、冷たくなっていました。

何て冷たい飼い主だったと、思い出しては胸が締め付けられています。
この犬には本当にかわいそうなことをしました。飼い主の資格は全くないと思っています。
猫と違って犬は従順なだけに不憫に思います。
そんなことを時折思い出しては自分を責めているのです。呻きの声を発しながら。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ361 縁はつくれる

2022年04月17日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第361回。4月17日、日曜日。

川西町に来ています。
昨日今日と、高徳寺様の慶弔会、先代方丈様の本葬と新命方丈様の晋山結制に、カミさん共々お招きいただきお邪魔しています。
実は、新命の雅廣さんと奥様の朱珠さんは、私たちが仲人を務めさせていただいたという関係です。
そういう訳で、二人でご招待いただきました。
先代様は、禅僧として凛とした方で、尊敬申し上げていました。
ただ、お子さんに恵まれず、後継者を探しておられました。
一方、雅廣さんは河北町の在家出身ですが、大学時代に縁あって出家され、修行に行かれた永平寺で私との縁も生まれました。
朱美さんとは中学時代からの同級生で、長くおつきあいがあったようです。
修行から帰って、寺の決まっていない雅廣さんには、いろんなお寺さんから声がかかりましたが、結果として高徳寺様に落ち着いて今があります。
そんな中で、結婚される際に仲人を頼まれたのでした。
雅廣さんは、先代方丈様の薫陶を受け、高徳寺の後継者として研鑚を重ね、立派な住職となられました。
今、長男の風雅君は永平寺の修行中ですが、他出の許可をいただき本日首座法戦式を務めます。
その晴れの姿を先代様にもご覧いただきたかったと思いますが、きっと大寂静中、目を細めてご照覧のここと思います。
人と人とがどこでどのように出会い、どのように展開していくのか、筋書きのないドラマです。
中島みゆきは『糸』で、めぐり逢いを「仕合わせ」とよんでいます。

全ては縁によるものです。
犬も歩けば棒に当たるというように、何もしないでただぼんやり過ごすのも、縁と言えばそれも縁でしょうが、自分の願いや夢を持ち、それに向かっていくとき、その行動の中で紡がれる縁があるでしょう。
縁はつくることもできます。
脳内の神経伝達構造ニューロンのように、一つの出会いは次の出会いへとつながっていき、縁は無尽に広がるとも言えます。
雪が解けると様々な作業が待っていますね。
雪囲いを外し、冬の間の汚れをきれいにしたり、植木鉢の移動などもあります。
一つを片付けると次のことが見えてきて、やればやるほど次から次へと作業が続いていくという経験はあるでしょう。
やらなければ見えないことがやることによって見えてくる。
行動しなければ次の行動は生まれないし、縁は広がらないのです。

高徳寺さんの先代様が亡くなられた報せをいただき参上したときに、永平寺から帰って来ていた風雅君と少し話す機会がありました。
先代様を血のつながったおじいさんだと思っていたと。結婚当時のお父さんの話をすると、何も聞いてはいなかったようで、お父さんがこの寺に居ることも当たり前のことであり、何の疑問も持たなかったと。
そうなのでしょう。
日常に慣れてしまえば、今ここに自分があることが当たり前のことであり、不思議にも疑問にも感じなくなります。
しかし、ここに自分があることは、決して当たり前のことではなく、親や先祖が知らない苦労をしたり、塗炭の苦しみを味わったり、数奇な出会いがあったりして奇跡的に今があるのです。
戦争のない中で暮らしていけることが、どれほどの努力の上に成り立っていることか、少しは考えた方がいいですね。
縁は作り出せるのですから、平和な世界だって作り出せるはず。
強く思うことで縁はつながっていきます。

シャンティ国際ボランティア会がウクライナ難民への支援活動を開始します。
今月末からポーランドとモルドバに入っての調査を行いますが、どんな支援活動になるかはその調査を待ってからになります。
シャンティの活動地はこれまでアジアに限られてきて、ヨーロッパは初めての地です。
ウクライナの難民、避難民が発生してから、関心は寄せていましたが、シャンティの活動地であるミャンマーやアフガニスタンにも来日の希望者があり、支援を必要としています。福島沖地震の被災地もあります。
ウクライナの問題に光が当たれば当たるほど、その陰となって関心は薄れてしまいます。
なので、ウクライナへの支援は二の足を踏んでいたことでありました。
しかしまた、当会の活動のスタートはカンボジア難民支援であり、これほどの歴史的な難民問題に対して座視看過するわけにもいきませんでした。
曹洞宗門の関心の高さもあり、行動を起こすことになりました。
古い支援者からは、あまり活動地を広げないでというアドバイスもあります。その通りだと思います。
ただ、我々の活動は団体の運営のためにやっているわけではなく、より困難な人々を見て見ぬふりすることが苦しいというところからスタートしている以上、その心は捨ててはならないと思っています。
ご理解とご支援をいただけたらありがたく思います。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

サンサンラジオ360 戦争とSDGsと虹

2022年04月10日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第360回。4月10日、日曜日。

あの遠くはりめぐらせた 妙な柵のそこかしこから
今日も銃声は鳴り響く 夜明け前から
目を覚まされた鳥たちが 燃え立つように舞い上がる
その音に驚かされて 赤ん坊が泣く
  たとえ どんな名前で呼ばれるときも
  花は香り続けるだろう
  たとえ どんな名前の人の庭でも
  花は香り続けるだろう

私の中の父の血と 私の中の母の血と
どちらか選ばせるように 柵は伸びてゆく
  たとえ どんな名前で呼ばれるときも
  花は香り続けるだろう
  たとえ どんな名前の人の庭でも
  花は香り続けるだろう

あのひまわりに訊きにゆけ あのひまわりに訊きにゆけ
どこにでも降り注ぎうるものはないかと
だれにでも降り注ぐ愛はないかと
  たとえ どんな名前で呼ばれるときも
  花は香り続けるだろう
  たとえ どんな名前で呼ばれるときも
  花は香り続けるだろう
          『ひまわり"SUNWARD"』

中島みゆきの1994年の作品ですが、まるで、ウクライナ侵攻を予測したかのような歌です。
「SUNWARD」とは「太陽に向かう」という意味。花の香りに国境はない。
垣根をなくすことは混ざり合うことではない。互いを尊敬しあって生きていくということ。
全ての人に太陽は降り注ぐ。

人はなぜ戦争をしたがるのか。
どんな大義があろうとも、武力、暴力によって相手を組み敷くような、あるいは命を奪うようなことは断じて許されません。許してはなりません。
また、同じ土俵に登って、武力によって武力を制するようなことも許されません。それは、正義を武力によって勝ち取るという手法なのですから。

やはりお釈迦様の説かれる
すべての者は暴力におびえ、
すべての者は死をおそれる。
己が身に引きくらべて、
殺してはならぬ。
殺さしめてはならぬ。

という真理を広めるしかありません。

自ら武器を置くことは勇気がいることです。
しかし、武器は武器を呼ぶ、核は核を連れてくるというのが現実です。
どちらかが先に放棄しなければ、決して平和は訪れないでしょう。
本当に、100年も前に逆戻りしたかのような世界になってきました。
原因は一人の狂った権力者なのかもしれませんが、その一人が生まれる背景もあるのかもしれません。
世界を二分して、どちら側につくかを選ばせるような枠組みは、やはり不安をあおり、焦りを引き起こすようにも思います。
何色かに色分けするのではなく、全ての色を多様性として受け入れていく以外にないのです。
虹がきれいなのは、それぞれの色が自分の色を持っているからであり、混ざり合ってしまえば虹でもないしきれいでも何でもないでしょう。
自らのアイデンティティに誇りを持ち、だからこそ同じように、他人のアイデンティティも尊重する、それが虹の美しさの理由です。
SDGsは17色で表現されています。それぞれのゴールを色で表現したものですが、その目標が美しい世界であることを表しているものと思います。
SDGsの対極にあるものが戦争です。
いわば、戦争は真っ黒、ブラックホールかもしれません。もちろん、SDGsに黒は入っていません。
戦争は持続可能性を完全に否定するものだからです。

しかし今回の出来事では、国連の力のなさを思い知らされて悲しくなりました。
武力によらない解決を図るのが国連の存在意義ではなかったのか。
戦争の始まりを抑止できず、始まってからも止められない。
NATOを「NO ACTION TALK ONLY」つまり、行動しないでしゃべってるだけ、と揶揄されたことがありましたが、国連も同じだと思い知らされたことです。
かといって、国連が軍隊を持つようなことはやはり間違いです。
あくまでも武力を使わないで解決する仕組みを作ることが国連の役割です。
難しい?宇宙に人を送るような科学と技術に使う頭脳があるのなら、それこそ叡智を結集して世界の平和に貢献すべきです。
そして国連は、白、あるいは無色透明であるべきです。何系という色がついた段階で機能を果たせなくなるでしょう。

ひまわりの色は平和の象徴の色に思えました。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンサンラジオ359 古風を慕う

2022年04月03日 05時00分00秒 | サンサンラジオ
三ちゃんのサンデーサンサンラジオ。第359回。4月3日、日曜日。

4月に入りましたが田んぼはまだ顔を出していません。雪の下です。
当地の春はまだ先のようです。

先週はバタバタと色々ありました。
27日日曜日、岩手県の本葬に参列しました。本寺である正法寺の山主老師と、得度の師である宮城県林泉寺東堂老師と、不肖私で三仏事を勤めました。
28日月曜日、シャンティの総会出席のため上京。新幹線が不通のため、庄内空港から羽田へ。
29日火曜日、東京から永平寺へ。禅師様へ拝問しミャンマーの僧院学校支援の御礼をさせていただきました。また、懐かしい方々と懇親の時間がありました。お山は何年ぶりでしょうか。いつ訪れても心が鎮まります。
その日は門前に泊まり、30日、小松空港から羽田経由で庄内空港へ。
31日朝、会林寺方丈様が遷化されたとの訃報が入り、取るものも取りあえず参上。
前日夕方、本堂の戸締りの途中に倒れそのままだったと。享年95歳でしたがお元気でしたので、あまりの突然に驚きました。
方丈様には一方ならぬお世話になりました。
法類総代であり、松林寺並びに宿用院の責任役員をお願いしていたので、寺のことで何があっても真っ先に相談する方丈様でした。
私たちの仲人でもあり、息子夫婦と2代に亘って結婚式の式師をも勤めていただきました。
永平寺での修行から帰り、しばらく寺のお手伝いをさせていただいた時期がありました。
その間に結婚が決まり、その相手はその寺の檀家の人でもありました。
寺では囲炉裏に炭をおこして暖を取っていました。
ある日、方丈様も奥様も外出して留守番を頼まれていました。
炭をおこそうと思いましたが、私一人なのでもったいないから炭を1個だけガスでおこして囲炉裏にいけました。
煙突を立てたり団扇で扇いだりしますが、炭はおこるどころかだんだん消えかかっていきます。
そこへ方丈様が帰って来られました。
私の様子を見て、笑いながら教えてくれました。
「義道さん、炭は1個ではおきないんだよ。互いに暖め合っておきるんだ。夫婦も同じなんだな」と。
図らずも、炭の教えは仲人による結婚の教示となりました。
その後、毎年正月とお盆には拝登し、お邪魔するたびに子どもたちにお年玉、お小遣いと頂戴してきました。
こんなこともありました。
ずいぶん以前のこと、松林寺の檀家のおじいさんがこんな思い出話をしてくれました。
方丈様が定時制高校の先生をしておられた頃のこと、お顔を知っていた方丈様が自転車で向かってくるのを見かけて声をかけたところ、「何と先生は乗っていた自転車から降りて挨拶してくれた。こんな俺にわざわざ自転車から降りて頭を下げてくれたことが、今でも忘れられない」と。ずいぶん昔のことを昨日のことのように感銘深く話してくれました。
確かにそういう方丈様でした。一時の邂逅が何十年もその人の胸に刻まれるような、そんな行動の人徳の方でした。
新庄市長に押されたこともありましたが、「俺は政治家よりも住職の方が上だと思っているから、人はなかなか上から下へは下りられないものだよ」と冗談交じりに呵々大笑していました。
帝国大学、現東大の印度哲学を修められた方丈様は、月例の坐禅会を何十年と行じられ、宗門の要職の他、市の教育委員長はじめ数々の役職を務められました。
それなのに、名誉や、持ち物、建物などには全く頓着がなく、ある意味、伽藍は朽ちるに任せていました。
寺に居る時はいつも着物を召され、どなたに対しても丁寧な言葉づかいで、やわらかな容顔で向かっておられました。
こよなく煙草を愛し、最期まで手放すことはありませんでした。
毎朝朝課の後に雨戸を開け、夕方決まった時間に閉める。そんな日常を勤めておられました。
冬は建付けの悪い雨戸から雪が吹き込み、朝晩ほうきと塵取りで片づけておられたようです。
その日常はまさに「古風を慕う」禅風そのものでした。
4日に入棺、逮夜。5日に密葬が執り行われます。
方丈様、大変お世話になりました。ありがとうございました。
大寂静中、真位の増崇を祈ります。

本日3日は、午後から松林寺の総代会、役員会を行います。
6月の大般若、護持会総会に向けた協議です。
一気にいろんなことが動いてきました。
季節より前に行事が先に春を迎えたようです。

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。