ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

越生 山吹の里 太田道灌

2013-04-29 20:46:41 | 史跡
4月29日 晴れ、明日の天気予報は雨らしい

七重八重 花は咲けども やまぶきの みのひとつだに 無きぞかなしき

やまぶきの季節
少し時がたてば、この歌の逸話の雨期になる。やまぶきが雨に似合う花だと思うようになったのは、その逸話を知ってからのような気がする。
・・・
ある時雨に降られた道灌は、山里のみすぼらしい民家に雨宿った。出てきた女性は何も言わず、和歌を書いて差し出した、という。その和歌こそが、七重八重・・で始まるやまぶきの和歌で、雨をしのぐ蓑が無いことを、やまぶきの実に例えたのだという。

そして今日、太田道灌に縁があるという龍穏寺にやってきたと言うわけだ。

龍穏寺(りゅうおんじ)
埼玉県入間郡越生町龍ケ谷452

さて、やまぶきだが、付近に自生は少しあるが乏しく、むしろ山藤の方が目立つ。
   

龍穏寺近くのこの場所は、やまぶきの逸話の里とは違う気がする。

太田道灌の墓は、分骨されてこの龍穏寺に、父の太田道真とともに眠っている。

   

周りは数本のつつじが艶をきそっている。

太田道灌とはいったいどんな人物か、
教科書に載っていた人物像を思い出してみると、まず武蔵野に生まれ、文武両道に優れ、上杉家の家臣として、戦いにも強く、幾つかの城を築き、その城は川越城であったり今皇居の江戸城であったりする。彼の要点は関東管領上杉家の家老と江戸城築城の祖としてであろう。
だが、受験勉強の要点記憶の弊害とでも言おうか、道灌の人物像が少しも浮かんでこない。中高の歴史授業の時、人物の逸話や戦記物の物語でも差し挟んでくれていれば、彼の血や肉を感じられるのだが、道灌だけの事ではないが、いつもそう思う。

少し深掘りして、自分で調べる。
太田道灌は出生してすぐ寺の預けられた。その寺の名が龍穏寺だという。壮年になった時還俗して、上杉家関東管領の家臣になった。時の関東管領の名は上杉持朝 (初代川越城主)だという。そしてたぶん優秀だったのだろう、文武に優れた道灌は、管領家の家宰になった。家宰は家老とほぼ同じ意味だが、たとえば副社長より取締役副社長にちかく、実権は管領と同じくらいあったようだ。そして、太田道灌は生越氏の系譜にあり、生越氏は武蔵七党の児玉氏の一族であった。武蔵七党は歴史書に存在は確認されているが、室町期以降には歴史書から消えた・・消えたかどうかは、私の不勉強からかもしれないが。この頃関東を支配した上杉管領に、調略されたか、敗れたか、すすんでか、家臣団として組み込まれたのではないか、と思っている。太田道灌がいい例の証拠かもしれない。
さて、道灌の生きた時代は、享徳の乱、応仁の乱と続く時代で、上杉家と古河公方は、関東の豪族を二分して争っていた。その中で公方方に、伊勢原で謀殺されて生涯を閉じるわけだが、彼の人格は意外と人間くさく、実務の働きや能力に対し主家の評価が低いことに不平を顕していることが書が散見されるらしい。

それはそうとして、興味が湧くのが武家と寺との関係である。
他でもいくつかの例があるが、太田道灌家と龍穏寺の例を見る時、幼くして危うい時の寺への出家と、年老いて家督を譲った後の出家は、寺がシェルターとして機能していたのではないかと思う。武士は寺を経済的に保護し、寺は武士を危機の時隠匿する。また寺は武士の再生産装置としても機能していたのではないか。これを裏付ける例にいとまはない。相当の勇者が、武装を解き、頭を丸めて寺の入り経文を唱えれば、争う相手は矛先を緩めたのではないだろうか。この視点にたった書は今のところ見えてこない・・これも不勉強のせいでどこかに研究者がいるのかもしれないが。この武士と寺の暗黙のルールを打ち破ったのは織田信長だ。そして寺の僧侶の法衣の下の隠された刃を封じ込み、羊のように馴らしたのは家康であった。
どう見ても、どう読んでも、中世の寺と僧侶はかなり生臭い。ついでながら神社の方も同様に生臭い。

龍穏寺の経蔵の彫刻・・これはすばらしい!

       



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