ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

入間川 支流・成木川

2021-07-01 17:23:53 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

入間川:

成木川:2(承前)

 ◇:成木川

 西川材・・

 ・杉や檜の美林・・

 

 この「西川」には、「成木川」を加えていいものかどうか?。「成木川」にも、「筏流し」の記録がわずかに残る。。この「わずか」を、あえて「西川」にしていいものはどうか・・「入間川水系」には違いないのだが・
 かつて、この成木川の川沿いの街道を二度くらい通ったことがある。付近ならさらに数度行ったことがある。つつじの名園:「塩船観音」と「鎌倉古道」所以のためであった。さらに言えば、古族・豪族:金子一族の遺跡探求もあった。

成木川清流:1


 「成木川」は青梅に源を求め、飯能に流下して、名栗川に落合する。以後を「入間川」という。「成木」地区は、飯能との隣接地帯、山岳と里山を形成している。
 地層は、少し掘れば、石灰岩が現れる、地区の80%に「石灰岩層」があるといわれる。これが「良質」で、焼くと「消石灰」となり「漆喰」の原料となった。江戸初期にこの地に詳しい「大久保長安」が検案し、江戸城築城の白壁の材とした。以後、江戸への運搬の「ルート」を「成木街道」と呼んだ。江戸城が成った後も、雨に強く、火災でも延焼を防ぎ、見た目にも美しい「白壁材(漆喰)」は、商家の蔵としても人気を呼び、成木は栄えたという。
 その後、「成木街道」は、青梅の農産物や炭・薪などの燃料の運搬が増え、「青梅街道」と名称を変えて現在に至る。

成木川清流:2


 ついでながら、似たような「街道が並行して江戸に向かう。「伊奈街道」・・・、こちらは、多摩川支流の秋川の伊奈地区から秋川の「岩」が江戸に運ばれた。秋川の「伊奈」は、信州・高遠石工衆の集団移民先であった。因は、---・信玄亡き後、長篠の戦で敗れた「武田勝頼」が、織田・徳川軍との戦いに備えて、領民に年貢を増額したために、山村に暮らす住民は耐えられず「逃散」した例が多かったようで、「高遠石工」もその例のようである。もともと、灯篭や墓石で、出稼ぎが多かったから、そのように決断したのだろう。「勝頼」のこの重税は、山岳を領有している家臣を中心に次々に離反を呼んで、あの強固な武田軍団は急速に弱体化してしまった。
 秋川・伊奈の「岩」は砂岩で脆く、石垣には向かなかった。「岩」の供給は、主に伊豆稲取が担い、秋川・伊奈は「石工」の技術のみが「石垣造成」に供せられた。
 「伊奈街道」は、後に「五日市街道」と名称を変え、農産物や炭・薪が運搬される主役になった。
 入間川の水運の荷に材木や炭・薪の他に、所沢の「赤土(=壁材)」を多く見かけるが、刻んだ藁を混ぜると、この赤土(関東ローム層)は、強度を増すらしい。そこで、成木の「漆喰」も船荷になったのでないかと探してみたが・・・能わず。

成木川清流:3

 今では、都内の静かな清流・・釣り人の「メッカ」。

成木川清流:4 曼殊沙華!

 

                近況・・

高齢者講習が終わり、「免許更新」しました。  
それにしても、「あっちこっち」でめんどくさい。
何とか、もっと合理的にできないものか。    


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