ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

入間川: 新河岸川

2021-07-05 11:23:17 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

入間川:

新河岸川:3(承前)

 ◇:新河岸川  (厳密には、新河岸川が入間川の支流かどうかは、覚えが確かではない。運河であると思っているわけで‥)

 今は昔・・「与野」という町がありまして、大変栄えておりました」-・なんて書くと違和感があるが事実である。平成の大合併の末、「与野市」は「中央区」と名を変えて、「さいたま市」に飲み込まれた。この合併というのが曲者で、街名を、上下に分けたり、東西南北にしたりで、中とか中央としたりして、昔からの人情の歴史をそぎ落としていく。これが事実だが、極端な違和感を覚えないのは、JRにまだ「与野駅」という名の駅が存在しているからだ。でも。中央区なんて、味もそっけもなく好きでない。その与野駅も、もともとは浦和市の所在であったのだが・・

 時をさかのぼること、1883(明治16)年、鉄道が敷設された。そのころ、大宮の戸数は「243戸」であり、やや大きな町であった浦和も、与野よりは人口の少ない県庁所在地であった。バラの「与野公園」の河岸段丘の上段の「与野本町」辺りが、この周辺の農産物の集積の商業地で、一番栄えていたようだ。農産物は、船で流下し、「新倉」に運ばれ、新河岸川の「河岸」で集荷されて・江戸/東京へ運ばれた。


 
 新河岸川と荒川は新倉で接近するが、合流せず岩淵水門まで並行する。分離して流下する方が、勝手がいいのだろうと思う。

 イントロ・・が長くなったがようやく新河岸川が出てきた。

 また少し脇道に逸れる。


 大宮公園に、「あかしで」という老木がある。「あかしや」ではなく「あかしで」である。一般にはそれほど馴染みはないが、「盆栽」愛好家にはなじみの名前であり、枝の格好や幹の奇怪さで好まれるようだ。---・見ての通り、「筋肉隆々」の様子・・場所は、「青木昆陽碑」と「ボート池」の中ごろ辺り・・


 その、「青木昆陽(1698-1759)碑」の「説明書き」に、「田島ヶ原」で「サツマイモ」の生育に成功し、飢饉を救った」とあった。(一説には、サツマイモの試作は、九十九里とされている)
 柳沢吉保(1658-1714)は、青木昆陽より少しだけ年代が遅い。だが、被って生きた時代もあった。昆陽が、サツマイモ試作に成功し、幾分かの飢饉の民を救った折には、丁度「川越藩主」を務めていた時であったようだ。松平信綱が、「川越」に商家を集めて街を作り、経験から「火事に強い」町つくりをし、「新河岸川」という水運の動脈を整備した後に、柳沢吉保が「「川越藩主」になった。吉保は、不毛の地・「関東ローム層」の三芳野という武蔵野台地に手を付けたのだった。
 まず、「けやき街道(=いも街道)」に30軒余りの,細長い矩形に仕切られた農家がある。いずれも同じ仕様で、まず屋敷と屋敷林があり、その裏手に、かなり広い畑(五町歩あまり)がある。これが、柳沢吉保が、不毛の地に入植を勧めてできた「いも農家」であった。


 「関東ローム層」は火山灰が積もった赤土である。火山で「塵」が風で運ばれて降り積もるのだかたら、粒子は極めて細かい。しかも、積もった「塵」にはほとんど栄養分がない。三芳野の台地は、今の三芳から狭山と所沢の一部も含まれる。この「関東ローム層」の厚みは20から30mともいわれる。江戸時代から、住居とすることを求めて、「井戸」を掘ったが、20m掘っても地下水にたどり着けまかったことが記録に残る。冬を終えて3月ころ、地が乾き、風で砂塵が巻き起こる。「人は、これを所沢の砂嵐」と呼ぶ。砂塵による「ホワイトアウト現象」・・この火山灰は、富士山噴火が三割、浅間山噴火が七割とされているようだが、そこはあまり詳しくない。
 とにかく、柳沢吉保は、この関東ローム層の入植地に「共同の井戸」を掘った。屋敷林は、砂塵の防御と落葉の堆肥化(=腐葉土)のためであった。腐葉土は、バクテリアによる「発酵」を意味する。これが役立った。バクテリアによる「落葉」の発酵・分解は、土壌の温度の上昇と腐葉土の栄養を生み、不毛の「関東ローム層」から「富のいも(=サツマイモ)」を生み出したのだった。瞬く間に人気化した「川越のサツマイモ」は「栗(九里)より甘い十三里」(江戸と川越の距離)と呼ばれるようになった。もちろん、江戸への運搬は、「新河岸川」による水運であった。
 
過去のブログ:三富のこと:tps://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/791660a7dd7d80aafdaaf302b22b437b
参照してくだされありがたいです。

 この「三富」地区の「柳沢吉保」の評価ですが、古い農家ほど、神様の次ぐらいに高い評価なのです。教科書の記載には、元禄文化の奢侈を厳罰に取りしまり、花開いた文化を停滞させたとか、「生類憐みの令」とか、権謀術数的に「出世をするのは、金と女を使うに限る」とか、負の評価が多いが、ここではまるで「逆」の評価なのだ。

 

 「新河岸川」は柳沢吉保の前の川越藩主「松平信綱(伊豆守)」が整備した。
 「新河岸川」は、農業用灌漑用水として入間川(笹井堰)(今の豊水橋付近)から取水して、はじめを「赤間川」と呼んだ。これを「伊佐沼」に繋ぎ、不老川や霞川を合流して流下した。この川を運河として利用しようとしたのが「松平伊豆守」である。船は荷積みで沈むが、当時の「新河岸川」は流れが速く、かつ浅瀬であったようで、水運は思うようにいかなかった。そこで考え出されたのが、「クランク」というか「S字」というか、「ダム的」構造にする工事であった。これを、「九十九曲がり」と呼んだ。お陰で、船底をこすることは無くなったが、行程は、2から3倍になった。江戸・東京まで農産物を運ぶと空の船を川越まで戻さなくてはならない。船に綱をつなげて岡を引き返す作業である。曳舟という。当初の曳舟は空だったが、江戸の産物や川越観光の客を乗せるようになった。花川戸がその出発地であったようである。あるいは曳舟という地名の場所のそんな場所だったかもしれない。
 新河岸川の水運も、鉄道が敷設されることで廃れたが、そのころ以前の小説には、川越は、江戸(東京)から一番近くの観光地で、船旅の様子や川越の賑わいの様子が描かれている。一昔前は、大宮や浦和ではなく川越が、武蔵の国一番の街であった。今は、昔の物語である。

 

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