ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

第三章 簸王子社と荒脛神社

2020-07-16 13:49:30 | 時事ニュース

承前啓後  簸王子社と荒脛神社


「承前」と書いてみて、ハタと思いとどまった・・「承前啓後」のほうが、意味が似つかわしいのではないか・?と・

今回も、かなりマニアックな「神社」の由来に関するもの・・こういう歴史に関するものは、興味のない人は冗長である。「ロマン」を感じる人だけを対象としたい。「ロマン」を感じない人は、飛ばしてください。


前回、「”武蔵一之宮:大宮氷川神社”は、創設当初は「二社」であった。」と書いた続きである。この思わせぶりの「書き様」は、後にも、氷川神社の存在を暗示している。
第三の氷川神社は、「簸王子社」と呼ばれたり、「中氷川神社」と呼ばれたり、「中山神社」と呼ばれたりしている。
由来---・「中氷川」の由来は、氷川神社と氷川女体神社の中間に位置することから付けられたという。社伝では、鎮火祭(後述)の火により「中氷川」の氷が溶け、「中川」の地名になったとされる・---
 
◆:中山神社:アラバハギ神社

祭神は、大己貴命 (大国主の別名)で、氷川女体神社の祭神:奇稲田姫の子とされる。脇に建つ「荒脛神社」は、その由来の因を示すといわれているが、謎が多い。
じつは、「アラバハギ神社」は、武蔵一之宮:大宮:氷川神社(男体神社)にもあるのだが・どういう訳か、神社の名前が違うのだ。
 
◆:「門客人神社」(アラバハギ神社):大宮氷川神社

かっては、「アラバハギ」神社と呼ばれていたのだが、今は「門客人神社」という訳の分からない名前になっている。「アラバハギ」も分からなければ、「門客人」も分からない・神社名。ちなみに、「門客人」は「マロウド」と読ませるらしい。
二社が出発点であった「氷川神社」は、明治中期と後期の「神社合祀」により整理されるにいたる。その時、武蔵一之宮:大宮氷川神社は、先述の「四社」の併合により成立したものとされているが、定説では、「アラバハギ」神社を除いたものが正論いう説もある。
この流れは、県社、郷社、村社という括りでその範囲を鎮護:あるいは鎮守するという意味合いが付与されている。従って、併合の社(神社)は、摂社と末社ということになり、時を重ねて併合を重ねていったらしい。ただ、氏神としての屋敷神としての神社は、併合の流れからは外れていたようで、「おしめん様」などの俗称の「神明神社(=伊勢神宮系)」はほとんど併合されていない。


違う角度から眺めてみよう。


先述の「四社」の神官家を調べてみると、江戸時代以前には、氷川神社は、男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が社家として神主を世襲した。三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、幕府から、1699年(元禄12年)三社・三社家を同格とする裁定が下った。


*1:---・この岩井家だが、神社では、祭祀のことを「祝」、呼称は「ほうり」とよぶ。つまり「読み」は「ほうり」だが、「書き」は「祝」であり、書いた「祝」を「いわい」と読むに至り、「岩井」となったのではないか・---と思っていて、勝手にかなり信じているのだが、古書の裏付けがほとんどないので、私見です。


*2:大宮氷川神社が、神社としての体裁を整えてきたのは、江戸時代初期で、関東郡代:伊奈忠次が命じられて「中山道」を整備したころに始まる。---・文禄5年(1596年)8月に関東郡代伊奈忠次を奉行として氷川神社:男体社の社頭を造営した。江戸時代には幕府から社地三百石が寄進されていた。江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとする宿の意見を受け、寛永5年(1628年)に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった・---。

中山道が整備される江戸時代以前に、大宮氷川神社:男体社に関する記述は、かなり乏しい。
江戸時代以前、古書に登場するのは、ほぼ三室の「女体社」:氷川神社である。その事実から察するのは、有名かつ、信仰を集めていたのは、どうやら三室の方でありそうであるが、これも古書から散見する類推の域を出ないので、私見としておく。


さて、四番目の神社は、「荒脛巾神社(=アラバハギ:神社)」であり、この社の神官は「氷川家」である。この氷川家は戦国期には、潮田家の家臣であった。


多少なじみが薄かろう潮田家のことを、概説だけ述べていおくと、岩槻の太田道灌に系流する「別家筋」で、太田家の有力武将である。地領は、今の大宮周辺で、寿能城(寿能町:氷川神社のある高島町となり)が居城で、太田道灌は、説明を必要としないまで有名な武将で、武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰であった。どうも、かっては、氷川氏が神官である「荒脛巾神社」の社叢が、そのまま「氷川の森」で、氷川神社の敷地になった可能性が強い。ほとんどが状況証拠なので、このことも私見とする。


なお、岩槻:太田家は、三室の女体社:氷川神社を保護・後援していた事実が書に残る。江戸時代以前までは、三室:氷川神社の方が信仰を多く集めていたらしい」の傍証である。


*3:三室:氷川神社の角井家(後に東角井家を称する)は、「武蔵武芝」一族であるという有力な説が存在する。この武芝は、『更級日記』に登場する「たけしば」寺の伝説で、地方の小豪族から国造に昇った武蔵不破麻呂から武蔵武芝までの盛衰が一人の人物による伝説化して語られたものとする説がある。また、「平将門の乱」では、--・武蔵国へ新たに赴任した武蔵権守・興世王と同介・源経基が、赴任早々に収奪を目的とし足立郡内に進入してきた。そのため、足立郡郡司と武蔵国衙の判官代を兼ねていた武芝は「武蔵国では、正官の守の着任前に権官が国内の諸郡に入った前例はない」として、これに反対する。しかし2人の国司は武芝を無礼であるとして、財産を没収する。武芝は一旦山野に逃亡した後、平将門に調停を依頼した。将門の調停により興世王と武芝は和解したが、和議に応じなかった経基の陣を武芝の兵が取り囲み、経基は京に逃亡、将門謀反と上奏し承平天慶の乱の遠因となった。その後の武芝の消息は不明であるが、『将門記』では氷川神社の祭祀権を失ったとしている・---  その後の武芝の消息は不明である」のは、平将門が、朝廷に敵対したため、同盟を組んでいた「武芝」は、「武笠」と名前を変えて隠棲して生き延びて、今日に至るという説が根強く残り、武笠の末裔が明治になって、文部省の役人になり、唱歌:「案山子」を作ったとされる。


 

参考:みむろ物語 ・・・武蔵武芝のこと

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/b21fb3fca3b9c831a6aa935caaa4e621
(https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/b21fb3fca3b9c831a6aa935caaa4e621)

さて、本筋に戻ります。
荒脛巾神社の--・氷川内記が神職であったときに、神祀伯吉田家へとどけ出て、門客人社と改号し、テナヅチ、アシナヅチの二座を配社した」とあります。大宮氷川神社にある「門客人」神社は、もともとは「アラバハギ」神社と呼ばれたのだ。


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