ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

ウクライナはどこへ行く?

2014-05-16 22:46:48 | 時事ニュース

ウクライナはどこへ行く?

 

”フルシチョフはバカだ”

フルシチョフ


昔フルシチョフは国連での演説で「私はフルシチョフはバカだといった奴を処刑した。なぜなら彼は国家秘密を洩らしたからだ」といったとか。

「《ある男が赤の広場の塀に「フルシチョフはバカだ」と落書きした。この男は逮捕され、懲役11年を言い渡された。「俺の罪は何だ」と男が叫ぶと、裁判官は「1年は国の財産である壁を汚したため。残り10年は国家機密漏洩罪だ」と答えた。》(ソ連のジョーク)」
また、ある説では、"赤の広場で酔っ払いが「フルシチョフは馬鹿だ!」叫び、逮捕された。男は早速裁判にかけられ懲役25年の判決を受けたが、その内訳は不敬罪が5年、国家機密漏洩罪が20年であった"。
これは、一つの事件を、後文の方では誇張しているのかもしれないし、同様な事件が数件頻発していたのかも知れない。
これには原因があって、ソヴィエト崩壊で、クリミアにも独立国家の動きがあった時、多くのクリミア人が”ロシアに残ることを希望した"のに対して、フルシチョフがクリミアをウクライナに併合させて独立を認めたことに、クリミア人もロシア人も共通して抱いた、フルシチョフへの反感だったという。
ウクライナ出身のフルシチョフは、ウクライナへ”恩”を売ろうとしていたのかも知れない。

 

”・・・・・一皮むけば、タタール人”

タタール人

これは、ソヴィエト連邦と呼ばれていた国の中の、住民の多くに共通する諺?だそうで、今ロシア人とかウクライナ人とか区分けされていても・・・一皮むけば、タタール人で、三代・四代前の祖先は”タタール人”だったと言うことらしい。
さすがに、今では”遊牧民族の生活スタイル”を継続するタタール人は少数派になっているが、祖先は遊牧民族のタタール人は、相当数いると言うことの裏付けの諺のようだ。
ではタタール人とはなにか・・と考えると、実は正確には分からない。タタール人はモンゴル人をさしたり、トルコ系民族をさしたり、よくわからない。 無理矢理整理してみると、 タタールはモンゴル系の遊牧部族をさす。モンゴル系とかトルコ系とか、系が付くのが特色で、もともと遊牧民であるのだから、彼等に国境という概念は存在しない。生業の羊の放牧と牧草地が彼等の関心事で、その生活スタイルに適合する民族には、”来るを拒まず、去るを追わず” で融合していったのではないだろうか。

コーカサスの草原

そしてやがて定住していったのが、コーカサスの草原であったり、ロシアの草原であったりした・・・・・その中で、目立つのが、モンゴルとトルコの融合の民族のタタール人・・目立たないが、当然アラブ系や、スラブ系やアングロサクソン系も融合の中にはあろうことは、容易に想像できる。ウクライナと国境を接する国は、ロシアは勿論だが、ルーマニア、ポーランド、ベラルーシになる。したがって、隣接する国からの移動住民は多いのであろう。

広大なユーラシア大陸を、遊牧で移動していると、山岳で様々な鉱脈を発見する機会は多いだろうと想像できる。彼等は、遊牧で旅して、相当レベルの高い”鉱山学"の知識を所有していたのか。
その意味で、古代の日本とも関係が深い。

高麗王陵墓と羊


外秩父丘陵日高地方・高麗の郷に高麗神社があり、高麗王若光を祀った神社とされる。高麗王若王の墓は聖天院に弔われている。若王の墓の前には、確か羊が墓を守っていてという記憶があった。高麗王若王は高麗族=高句麗とあり、昔高句麗は遊牧民族で、時に中華を脅かし、やがて漢民族に追われて、朝鮮半島に入り、そして朝鮮族の対立から日本へ逃避したと由来書は伝える。高麗王の高句麗はもともと遊牧民でユーラシア大陸を闊歩する民族であったのだ。羊は、その頃の遊牧民族の名残・・・

たたら


さらに、鉄の製法を持って、縄文から弥生に時代を切り替えた朝鮮系渡来人は、鉄の製法=”たたら”を伝えた。”たたら”は、「タタール人の開発した鉄の製法」であるそうで・・・。ここで古代日本とタタール人は結びついたのだろう。思えば興味深い”文明伝承の流れ”・・・・・

現実に戻ると、この期にいたって、プーチンから、ウクライナのあり方に、連邦制の提案がなされた。国家の役割を、外交と防衛、それと通貨に絞って限定し、その他の住民サービス・厚生面は各自治国に任せるという連邦制国家の仕組みのことである。プーチンの頭の中から発想なのか、メルケルのアドバイスなのか、よく分からないが、キーになる二国は、これを落としどころと考えているようで、オバマとキャメロンの発想にはないが、概ね賛成できそうである。
ウクライナの欧州派とロシア派の対立軸は、細分化されて、先鋭化が和らぎそうだ。言ってみれば、少し前に言われた小さな国家の考え方であり、ウクライナが西洋側に帰属することもなければ、ロシアに併合されることもない。現時点でも妙手の落としどころのようにも思える。
しかし、矛盾の根元は、ウクライナの経済的基盤の弱さで、ここを再構築できなければ、将来に、今のような対立の構図が再燃するとも予感できる

 


ウクライナ慕情

2014-05-12 18:01:15 | 時事ニュース

ウクライナ慕情

  戦車の写真

コサックとコーカサス草原・・・・この言葉の響きは懐かしい。
かつてロシア文学に憧れた時期、同類があちこちにいた。 
「ショーロホフ」は「静かなドン」を書き、その前「トルストイ」 
は「コサック」を書いた。僕らの・・ボクの知っている「コサック」
と「コーカサス」はロシアそのものであった。                   

コサックの起源については不明な点が多い。                   
15世紀後半にコサックは、ウクライナの中南部、「荒野」という
草原地帯で発祥し、ドニプロ川の中流を中心とするザポロージャ
地方に根拠地を築いた。                                              
16世紀にコサックの一部はドン川の下流に移住し、そこで新たな
根拠地を創立した。                                                   
それらのコサックはザポロージャ・コサックとドン・コサックと     
呼ばれ、コサック諸軍の中で最古軍であった。                    

 コーカサスの高原

コサックは、騎兵・・・馬に乗った勇敢な騎兵が、どこまでも続く
コーカサスの草原を疾走する姿はロマンがあった。           
実際は海賊を生業としていると知っても、あまり暗さを感じる
ことはなかった。                                                   
ロシア革命があった時代やその後、ロシアを学ぶものは多かった。
自分の周りにもロシア史を専攻するものが何人かいた。             
その周辺にいた自分も、ロシアについては関心が深く、              
多少多めに、情報を見聞きする機会があった。                        
「ショーロホフ」の「静かなドン」は、ロシア革命時代のコサック
の運命を描いた大河小説である。                                 
ウクライナの旧体制に反旗を翻したコサックは、やがてレーニンの
ボルシェヴィキと対立し、やがて敗れて飲み込まれていく。         
そこの揺れ動く、肯定と否定に、”力強くも物悲しい生きざま”       
をみると、・・・・・・また繰り返すのでしょうか。                          

 コーカサスの教会と墓地

ウクライナは、多民族国家で、
-------------------------
民族       人口    %
ウクライナ人   37,541,700 77.8
ロシア人      8,334,100 17.3
ベラルーシ人     275,800 0.6
モルドヴァ人     258,600 0.5
クリミア・タタール人 248,200 0.5
ブルガリア人     204,600 0.4
ハンガリー人     156,600 0.3
ルーマニア人     151,000 0.3
ポーランド人     144,100 0.3
ユダヤ人       103,600 0.2
アルメニア人     99,900 0.2
ギリシア人      91,500 0.2
タタール人      73,300 0.2
ロマ人        47,600 0.1
アゼルバイジャン人  45,200 0.1
グルジア人      34,200 0.1
ドイツ人       33,300 0.1
ガガウズ人      31,900 0.1
その他        177,100 0.4
--------------------------
上記表のように複雑です。

クリミヤが、住民投票でロシア併合を議決してロシアになったため、
クリミア住民を除くと数値は変化します。                                

                               ウクライナ人は、それぞれに分解できそうです。                                                       

                                                                   ウクライナの住民デモ

中には、西欧と経済的に仲良くしようとする人がいます。             
中には、ロシアと仲良くしようとする人がいます。                      
この綱引きが、現在のウクライナの現状だと説く人がいます。       
TVなどの解説の論調は、このとうりなのですが、そして              

米国のオバマや英国のキャメロンなどはこの論調の主導者のようです。
・・・これが”たてまえ”。                                                     
”ラブコールされれば、建前はむげにも出来ません。                     

しかし現実はもっと複雑で、ウクライナは、汚職・賄賂横行で、           
かつ経済基盤が弱く、ギリシャ・イタリア・スペインなどと同様、           
欧州経済圏に同盟すれば、足を引っ張られて経済的に沈没しかねない、
と東ドイツを併合して苦労したドイツのメルケルは本気で                  
危惧しているようです。                                                          

これは、ロシアのプーチンも同様で、クリミアは別ですが、       
ウクライナの経済を支えて経済負担が増えれば、ロシアも沈没
しかねないと本気で懸念しています。・・・これが本音。          

 キエフ  

 雀の巣

ソ連・ロシアを通じてのウクライナ出身の政治家は、
フルシチョフとブレジネフとトロツキー。                
文学者は、トルストイとショーロホフ。                  
原発事故のあった「チェルノブイリ」はウクライナ。   
これらは代表の一部でしかありません。               
ウクライナの中には、”我こそロシア本流」の意識がかなり高い   
と言うことで、遠い日本から見ても、彼等政治家や文学者を見て、
ロシアそのものではないかと思ってしまいます。  

当然同族意識ですから、ウクライナからロシアに働きに出て
いる人も多いそうで、この両国の国境の敷居は高くありません。

もし、ウクライナに内乱が起これば、                                    
そしてロシア派が危機に陥れば、同族意識の強いプーチンは、     
ロシア派を守るべく出動するでしょう。                                   
その要諦を理解しているゆえに、ウクライナのロシア派は強気です。
そこには、経済的負担の増加を懸念する本音は吹っ飛んで、         
民族意識が優先してしまいそうです。                                     

ウクライナに、第二次世界大戦の戦後秩序は当てはまりません。        
ソヴィエト崩壊によって生まれた国です。                                    
民族自決の原則に従えば、おそらくその流れでしょうが、血が流れます。
誇り高き民族性故に、でてくる今後の読みは、悲惨です。                 

これが、ロシア文学をかじって、                                         
ロシア革命を学んだ、ロシアの民族性を多少知るものの結論です。

 

チェルノブイリがウクライナにあることは意外と知られていません。

いまでも、ウクライナとロシアがなぜ違う国なのか、分からない。
トルストイとレーニンに埋もれていた頃、ウクライナはロシアそのもので、
いまだにウクライナはロシアだと心の底でおもっている。

写真は画像集の中から、転用させて戴きま


藤圭子 哀悼・・・8/22 ネットのニュースに藤圭子死亡・・が流れました

2013-08-22 15:55:51 | 時事ニュース

今日は、昔よく聞いていた、”暗い歌”を続けて聞いて、暗くなります。暗くなりすぎたら、そこからは、少しずつ明るくなっていくのでしょうか・・・

 

ふじけいこ  ゆめはよるひらく &

http://www.youtube.com/watch?v=PpRthIn_IvM

あさかわまき よがあけたら・・

http://www.youtube.com/watch?v=PpRthIn_IvM

あさかわまき かもめ・・

http://www.youtube.com/watch?v=2rI9xaT42nE

りりー わたしはないています・・

http://www.youtube.com/watch?v=WnK0LtfVm2o

ちあきなおみ かすばのおんな・・

http://www.youtube.com/watch?v=WnK0LtfVm2o

ふじけいこ かすばのおんな・・

http://www.youtube.com/watch?v=Oy35M5jcDFg

あさかわまき くらいにちようび・・

http://www.youtube.com/watch?v=aLiz6nYJT0I

かるめんまき ときにはははのないこのように・・

http://www.youtube.com/watch?v=f6I-Shd9Oqk

 ふじけいこ シングル・・うたいくつか

http://memoryyoutube.blog133.fc2.com/blog-entry-17754.html

 

・・・ビートルズも、、たまにジャズも好きですが、こういう演歌も、好きでしたよ ・・・       哀悼・拝 

 


古都鎌倉のこと

2013-05-04 05:21:45 | 時事ニュース

古都鎌倉のこと

2日前に、新聞やTVでかなり話題に上っていた。世界遺産の登録で、富士山が登録で、鎌倉が落選というニュースのことだ。
このニュースが流れる前に、この二つが申請されていたこと自体知らなかった。この二つが、世界遺産にふさわしいのかどうかも、考えたこともなかった。

鎌倉

古都鎌倉だが、平安末期に源頼朝が平家を破って、鎌倉幕府を打ち立てたことに始まる。
その年代は、1192年ではなさそうだ、と最近言われ始めている。
朝廷から政権の実務の認可が1185年に宣下され、ここが鎌倉幕府の始まりだとされる説だ。
頼朝が征夷大将軍に任命された1192年か、実際に年貢などの徴収権を得た1185年か、学者の論議に口を挟をむつもりはない。
鎌倉幕府での源氏の嫡流は頼朝から始まって三代で終わり、この後北条時政、政子が実権を握る。以来北条家の時代は続くのであるが、将軍は傀儡として、最初はやや頼朝に血筋で近い藤原家から二代選ばれ、続いて他の公家から選ばれるようになる。だが背後には、実際の実権をにぎった北条家が、執権となって権力を振るっていた。
・・・と、これが教科書的説明になるわけだが。
地方豪族、とりわけ東国の豪族側から見たら、どうなるのか。
地方豪族の成り立ちは、その多くを荘園や牧の管理者として発生し、租や馬や兵の供給者であり、その貢ぎ先は、朝廷や公家であった。やがて彼らが自立し始めると、一族郎党を護り繁栄させることが任務になり始め、領土の境界線が争いの種になり始める。その理屈を分かりうるものだけが、武士を納得させ、武士(=豪族)の統領になり得る資格を得る訳だ。そして、源三代は亡び、豪族の領土問題を理解し調整できるもの(北条)が、実際に実権を握ったわけである。おそらく、源三代は、お坊ちゃま育ちで、豪族の領土へのこだわりを、あまり深く理解していなかったのだろう。味方するものの数と真剣さが、北条家に劣るのが、その証拠と思える。そして、北条家に味方するものは増えていく。
北条家に早くから味方するものの中に、諏訪一族がいた。諏訪大社に縁を持つ神官の一族である。諏訪一族のものは、武家同士の争いを調停しルールを作っていった。彼らは北条家から信頼されて政務の一部を任されるようになり、やがて御身内(おみうち)となった。字のごとく北条一族と同じに、身内であると認められた存在である。まえに神社も生臭いと書いたことがあるが、諏訪一族も神官でありながら武装化していく。世に、彼らを諏訪神党という。

その後の北条の歴史。
建武のころ。
後醍醐天皇に征伐を命じられた足利尊氏と新田義貞が北条を滅ぼす時、最後の執権北条高時は遺子を諏訪家に頼んだ。その遺子は相模次郎といい、北条時行のことである。北条時行は諏訪家の領域で潜んで成人し、北条家の復権を目指して諏訪神党を率いて中先代の乱を起こして、いったんは勝利したが、やがて追われることとなる。
後醍醐天皇と足利尊氏の蜜月は短期間で終わり、反目するようになり、尊氏が傀儡の北朝を作ると、後醍醐天皇は吉野に南朝を建てる。新田義貞と尊氏の弟の足利直義は南朝につき、そして北条時行も南朝側に合流する。
建武の新政から南北朝時代は、なんともはや激変で混沌・・・
呉越同舟・・・同じ船に乗りながら、違う夢を見ている
敵の敵は味方・・・なんとまあ、節操のない
この時代のことを司馬遼太郎は「泥沼にはまるようで・」と評して一切小説に書かなかったという。

鎌倉は、確かになぜか懐かしい。そして四季にそれぞれうつくしい。
だが、だれがだれに、何を誇るのだろうか。

蛇足ながら、同じ北条を名乗る一族が、後に発生した。北条早雲を祖とする小田原北条家のことである。紛らわしいので、後の歴史家は、鎌倉幕府の執権の北条家を前北条とか北条得宗家と呼び、後に小田原を拠点とした北条家を後北条とか小田原北条家と呼んで区分けした。

ついでながら・・
東男と京女、と言う言葉がある。東武士は、外に対しては荒ぶる心を持ち、内に対しては一族郎党を護ると言う心構えを持っていたのだろう。東武士は、一族の内部に優しく頼もしく見えたのだろう。当時、王番といって京都や鎌倉の警護をする奉公が、輪番で課せられていたという。京に来た東男は、在来の京男に比べ、いったん仲良くなれば、外見が無骨だが優しかったのだろう。
ついでだが、内に優しく外に荒ぶる東武士の中で、際だったのが、やがて滅ぼされた平将門である。彼は、京への租税や馬や兵の供給までもを拒み、中央からは睨まれた。だが地元では人気があり、英雄であった。
外見は荒ぶれて無骨だけれど内面の家族や一族への優しさへの心意気の質は、個人的に好きである。
だが、
歴史は常に勝者のものである。


朝まで生TV 田原総一郎&ネット社会を見て

2013-04-27 14:17:54 | 時事ニュース
4月27日 夜明け前・・・朝まで生TVをみた、・・この番組は比較的好きだ。

知らないWEB用語が飛び交い、よく分からない部分もかなりある。時代が次のステージに向かっているのかもしれない。
気になる語彙が幾つかあった。安倍総理、麻生副総理、北朝鮮、尖閣問題、戦争責任、靖国神社参拝、などなど。政治問題についてコメントする勇気はない。

違った角度から二点。

靖国神社。・・・
もともと神社仏閣は余り好きでなかったが、妻が神社にある大木が好きで、アッシー君としてお供をするうちに知識を得、疑問な点は調べる様になり、少し分かるようになった。その知識からだと、靖国神社はどうも異例な存在である。
神社には、たぶん大きさから、神宮、大社、神社、宮などがあるようだが、祀ってあるご神体は様々であるらしい。それは、石であったり玉であったり、鏡や剣や木や山や、あげくに那智神社のように滝の例もあるという。数の多い氏神神社は、基本は田の神で祖先が同等に捉えられ、神明神社となった。神明神社と伊勢神宮と同じ系統であるらしい。地方では、呼び方が最初お神明さまといい、のちになまって、おしめんさま、あるいはおしめんさんになったという。これらの神々は大変仲が良く、八百万の神として、どうも反目はないようだ。先日アニメで有名になった鷲宮神社を訪ねた時も、本殿の脇には祠を小さくした色んな神社があった。神々の同居である。
思うに、神社とは、永年を耐えた自然の重みをご神体にし、その生命力を、時々の季節節目行事のとき、分かち貰うために存在し、ゆえに人生の節目に、例えば幼児期の宮参りや厄年の厄払いの時に参詣するのだろう。ある時千木(チギ)を見て天からのテレパシーの受信機なのでは、と思ったことがある。だがそんな霊的ものでなく、穀物の倉庫の穀倉の建築様式の応用だと知った。要は神社は、生きることを謳歌し繁栄を願うためのもので、よく神社はパワースポットだという意味が分かる気がする。ついでだが、社(建物)は参詣する場所であって、ご神体を祀ってあるところではない。この様に思うに至り、昔陰鬱な感じで好きでなかった神社は、今は特に嫌いでもない。神社は、ひとえに人間の「生きる」をサポートするところで、黄泉の世界を感じさせる様な世界観はない。ここが、寺と根本的に違うところのように思う。
しかるに、靖国神社は、他の神社と違って、寺のように戦死者の墓のような取り扱いで、本来と違い、どうも政治的なにおいがしてくる。


麻生副総理。・・・
この人の人柄は嫌いではないが、時々舌禍で問題を起こす人らしい。要は正直な人なのだろう。だが、政治の要職ともなると、この愛すべき人柄も看過出来なくなる時がありそうだ。
安倍総理を生み出した自民党総裁選挙の時、安倍さんの応援団の中心にいた麻生さんは、人気で若手のホープの石原伸晃さんを、まるで明智光秀のようだと評した。谷垣さんの直属の部下が、上司を押しのけての立候補を評した言葉であった。だが、これで流れが変わり、石原さんの人気が落ち、阿倍さんの優勢が決まった。実際はもっと複雑だったろうが、僕のみならず、の感想であろう。この一般論の感想の枠を出たコメントをするつもりはない。
だが、実際の明智光秀は麻生さんが思っている明智光秀像であったのだろうか。
その頃、織田信長は、伊勢長島の一向一揆衆と比叡山や高野山の僧兵を、世界でも類を見ないくらいの大量虐殺を行っていた。比叡山や高野山には多くの公家の子弟や戦国大名の子弟が、僧侶になっていたと言う事実が数多くある。室町中期あたりから嫡子相続が当たり前になり、家督の相続が出来なくなった公家や大名の次男三男などは僧侶になることを選択した例はかなり多い。信長の虐殺を見て、これはたまらんと思い、京都公家衆を中心に、戦国大名の中で一番近かった明智光秀に事態の打開を懇願した、というのが一番真実に近いのではないだろうか。その後明智が秀吉に敗れ、災いが及ぶのを恐れた京都公家衆は口を噤み、証拠を隠滅したので、一部の証左しか残らなかった。

歴史は常に勝者の歴史である。