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しろくま日記

読んだ本の感想を記録してみたいと思います。
なんだか忘れてしまうので。

風たちぬ・美しい村 堀辰雄 新潮文庫

2014-10-23 | 日本小説
昨年公開された宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」を今年DVDを借りて見た後に本書が気になっていてブックオフで見かけて購入してしまいました。(ありがちですね)

「美しい村」が1933年、「風たちぬ」が1936-1937年の作品です。
(イギリスではピーター卿が活躍していた辺りの年代なんですねぇ…)

私の中での堀辰雄は武者小路実篤や志賀直哉的な「私小説を書いている人」で「あまり得意じゃないなぁ」というイメージ。

でもwikipediaで掘辰雄を調べてみたら“それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした作家である”らしいです。

内容(裏表紙記載)
風のように去ってゆく時の流れの裡に、人間の実体を捉えた「風立ちぬ」は、生きることよりは死ぬことの意味を問い、同時に死を超えて生きることの意味をも問うている。バッハの遁走曲に思いついたという「美しい村」は、軽井沢でひとり暮らしをしながら物語を構想中の若い小説家の見聞と、彼が出会った少女の面影を、音楽的に構成した傑作。ともに堀辰雄の中期を代表する作品である。

取りあえず読んでみましたが思いっきり自分の体験に基づく作品のような気がしましたが…。
これは私小説とはいわないんでしょうか? 
日本文学なかなか難しいですね….。

純文学もあまり得意ではなく、ということで物語性の少ない本書収載の2作も「楽しく読めた」とはいいにくいのが正直な感想です。

ただ「美しい村」での心象と結びついた軽井沢の情景描写の見事さや、「風立ちぬ」のどこか不気味で重々しい中でのサナトリウムの四季の描写などは大したものだなぁとは感じはしました(小学生の作文のような感想ですが….)

「美しい村」はバッハの遁走曲から思いついたとのことですが、どこか絵画的に感じ「風立ちぬ」の方がなんだか音楽的で短調のピアノソナタのような印象を受けました。

また「風立ちぬ」の「純愛」の「純」な部分はどこか嘘くさくも感じられましたが….。

まぁその嘘くささも含めて楽しむ作品なんでしょうね、「純」愛度は映画「風立ちぬ」の方が「純」に描かれていましたね。
その分単純化された「作り物感」があるわけで...。
(映画は主人公の飛行機への「愛」の方がリアリティがありましたねぇ…。)

実際の人間は「純愛」といいながら色々なことを考えますしもしかしたら裏に「憎悪」のようなものもあるかもしれない。
「嘘くささ」こそリアリティかもしれませんね。

そんなこんなで本書、宮崎駿さん世代の方が青春時代に読むとすっと入っていけた世界なのでしょうが、私はなかなか素直に入っていけませんでした….。

やっぱり「この辺の日本文学苦手」かもしれない。
というのを再認識しました。

単に私の感性がオヤジなだけかもしれませんけれども….。

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虞美人草 夏目漱石著 新潮文庫

2014-10-08 | 日本小説
雲なす証言」読了後、ピーター卿シリーズを続けて読むかをちょっと悩んだのち「雲なす証言」の解説でちょっと言及されていた「虞美人草」を読むことにしました。
(べつにセイヤーズ及びピーター卿シリーズと「虞美人草」はなんの関係もないのですが、虞美人草最後の「この街では喜劇ばかりはやる」が英国事情の紹介で引用されていた。)

本自体は昨年漱石を読んでいた時ブックオフで程度のいいものを108円で購入済。

夏目漱石はひそかに(?)しばらくかけての全作読破を目指していたりします。

本作は漱石が教職を辞し朝日新聞社に入社後の第一作で1907年(明治40年)に朝日新聞で連載された作品。
1905-1916年という漱石の短い作家生活の中でも初期の作品ですが、前年の1906年の「坊ちゃん」や本作と同じ1907年の「野分」とは色合いが違い、後の作品につながっていく転換点的色合いの深い作品です。

一般的な評価が高くないようで同時代の正宗白鳥は「勧善懲悪の馬琴時代に退行している」などと評価し、現代でも難解な文章が多い点を「力の入り過ぎ」とか「人物が類型的」などという批判が多く出ている作品のようです。

内容(裏表紙記載)
大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才小野。彼の心は、傲慢で虚栄心の強い美しい女性藤尾と、古風でもの静かな恩師の娘小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさからぬけ出すために、いったんは小夜子との縁談を断わるが……。やがて、小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。東京帝大講師をやめて朝日新聞に入社し、職業的作家になる道を選んだ夏目漱石の最初の作品。

内容、あらすじはほぼ上記内容紹介のとおりですこぶる単純です。

漢語的表現で西洋哲学的概念を説明している文章がときどきはさまり確かに難解です。
あまりにご都合的展開(特に最後)も「安直」に見えるかもしれません。

ただ....筋がわかっていてもさすが漱石先生とにかく読ませます。

難解な部分もよく読むと、見方に漱石独特のアイロニーが入っていてとても面白い。
主人公:小野のなんとも小市民なところも「自分」の弱さを見ているようで...なんともいえない気分になりました。

ということで私は「名作」と思いました。

正宗白鳥は「馬琴時代に退行」と批判していたようですが、私は本作での漱石は近代文学を飛び越えて一気に「現代文学」の領域まで入っているように感じました。
作中で作者が時々出て来て状景や人物の解説を自ら行っていてメタフィクション的なつくりになっています。
そこで言い訳している以上展開がどんなにご都合主義的でもそこは「空想」もしくは「仮想」世界での出来事なので「なんでもあり」になっている。

小夜子と宗近・甲野が何度も京都で会うのも、同じ電車で東京に出てくるのも、博覧会で宗近・甲野・藤尾と小野・小夜子親子が遭遇するのもすべて現実的には在りあえない偶然ですがそこはメタフィクション的現実世界なので何でもあり。
(ここも作者自身が作中に出てきてご都合主義なのを説明している)

あえてそんな状況を創ってそこから出てくる「状況」の変化を作者が超越的位置から楽しんでいる。
そんな作品と感じました。

メタフィクション的状況を軸にして、ストーリーはシェイクスピア戯曲のパロディ的に展開させています。

男女がそれぞれ思惑を抱きながらもすれ違って会話を交わして関係がややこしくなる。
そんな状況をシェイクスピアの喜劇的に宗近が大活躍して大団円を迎えそうなところを…。
(このご都合主義的な活躍も意図的にご都合主義にしていると思うと楽しめた。)
藤尾の死を意図的に不自然かつ唐突に描くことで悲喜劇にしている。

人生やら小説は悲劇なのか喜劇なのか?

ラストは甲野の「悲劇とは生か死かである」という述懐と宗近のシェイクスピアの本場+近代の象徴(?)イギリスからの述懐「この街では喜劇ばかりはやる」で終わる。
あいまいだ....。

漱石...すごい。
構成に隙がないです、とても頭がいい...。

解説で漱石の書簡中に「藤尾がきらいだから殺す」というようなことが書いてあったことが紹介されていますが、ここまで凝った構成になっている作品で単純に嫌いだから殺したわけではない気がします。

「藤尾」を殺してしまうことで、登場人物全てになにがしか翳を与えて、安直な「喜劇」になることを避けているように感じました。

この作品に出てくる宗近やらの人物造形が類型的という批判もあるようですが、異常な状況の中で意図的に実際にはいなそうな類型的人物を配役して演じさせているわけで、そういう批判は本作の場合あてはまらない気がするのですが….。

シェイクスピア的展開をメタフィクション、パロディ化して不条理なラストで〆るというあまりに実験的かつ巧み、現代的な構成は当時の世相からすると受け入れがたかったんでしょうか?
何せ明治ですからねぇ。

あまりに「巧みすぎる」感もあり「軽い」と感じないでもないですが、一種のドタバタ悲喜劇と捉えて筒井康隆辺りが同じようなことをやったと考えれば1970年代辺りでは傑作「純文学」として受け入れらる作品な気がします。

漱石の凄さを改めて感じさせられた作品でした。
活動初期段階ですでに完成されていた作家なんですねぇ...。

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虚人たち 筒井康隆著 中公文庫

2014-04-04 | 日本小説
インフルエンザも治り「きまぐれフレンドシップPart1」やら「星新一-1001話つくった人」やらを読んで筒井康隆作品が読みたくなり手に取りました。

「虚人たち」は「惡の華」でも春日くんが常磐さんにお勧めしていましたしね。

本自体は昨年川崎のブックオフで見つけて購入はしていました、105円。

本作、筒井康隆がSFから明確に外れていきはじめた作品というイメージがあります。
1979年6月~1981年1月まで純文学雑誌「海」に連載され、1981年刊行されています。

「SF作家」が純文学雑誌に連載したということは文壇的には大きな事件のようで、著者本人もいろいろ思うところがあったようですね。
(大江健三郎が口をきいたらしい)
このころからしばらく「実験的」「純文学作品」にチャレンジし、本作では泉鏡花文学賞、「夢の木坂分岐点」では谷崎潤一郎賞を受賞しています。

この辺から「文学賞」に縁のなかった星新一と筒井康隆の仲も微妙な関係になっていったようです….。
でもまぁ「星新一」はある意味究極的な意味で完成された作家=「天才」なので、「実験作」を書こうとは思わなかったし書けなかったんだろうなぁ…。
「偉大なるマンネリ」スタイルとでもいうか、SFでも時代小説でもどの作品も同じスタイルで書かれている作品が今でも普通に読み継がれているわけですから「天才」としかいいようがない。

そういう意味では筒井康隆の方が器用に何でもできるわりに「自分のスタイル」に絶対的な自信はなかったのかもしれませんね、
筒井康隆が折有るごとに「星新一」を持ち上げているのは本音なんだろうなぁと思いました。
う~ん微妙だ....。

本作の存在自体は中学生時代から知っていました。
地元の図書館でハードカバーの本書を見て「借りようかなー」と悩んだ記憶があります。
あの頃読んでいたら....まぁまず最後まで読み通せなかったと思います。

内容(裏表紙記載)
同時に、しかも別々に誘拐された美貌の妻と娘の悲鳴がはるかに聞こえる。自らが小説の登場人物であることを意識しつつ主人公は必死の捜索に出るが・・・・・・。 小説形式からのその恐ろしいまでの“自由”に、現実の制約は蒼ざめ、読者さえも立ちすくむ前人未到の話題作。泉鏡花賞受賞作

とりあえずの感想「つまらない」。

かなりの力作で意欲的なチャレンジをした作品であることはわかるのですが、とにかくつまらない。
実験的な描写と「おもしろさ」を両立させることは可能じゃないかなぁ?と思うのですが、本作では著者の頑ななまでに「おもしろく」しないという意志を感じました。
「純文学」=「つまらない」=「おもしろくない」という様式を守っている。

要素要素では「ドタバタSF」的な描写を使用していますがそれでもとにかく面白くならない(しない)で展開していく。
私は純文学の良し悪しはよくわかりませんが「場面場面」が強烈に印象に残ったのできっと「純文学」としては成功作なんでしょう。
泉鏡花賞受賞してますしねぇ。

ただ何がいいたいのかはよくわからない....。
人間性の追求とかいったものを排した「純粋」な「文学」を書いたんでしょうか?
文学とか小説の約束事を徹底的にチャカしている感じでもあります。

この作品の実験性についてはいろんなところに書いてありそうなので詳細省きますが、これだけ複雑な構造にした作品を書ききるというのは並大抵の才能ではない気がするのでとても感心はしました。
「きまぐれフレンドシップpart1」で星新一が筒井康隆を評して「世界中のみんなが狂ってもこの人だけでは狂えないのではないか?」と評していたのがなんだかよくわかる気がしました。

でも、つまらなさに耐えられれば読書体験として一読の価値はある作品かと思います。

あと余談ですが、冒頭の辺りでヴォネガットの著作名を登場人物が適当にしゃべる場面があります。
筒井康隆はヴォネガットを評価していたのでしょうか?
SFから文学へ行った感のある作家ですのでちょっと立ち位置似てますかねぇ。

ちょっと気になりました。

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門 夏目漱石著 新潮文庫

2013-12-05 | 日本小説
エッセイ風の本二冊の後は「SFに戻ろうかなぁ」とも思ったのですが、「それから」を読んだら「門」まで読まないと落ち着かず。
大森のブックオフで105円で購入。

読み始めました。

内容(裏表紙記載)
親友の安井を裏切り、その妻であった御米と結ばれた宗助は、その負い目ゆえ、かつて父の遺産相続を叔父の意に任せ、そして今、叔父の死により、弟小六の学費を打ち切られても積極的解決に乗り出すこともなく、社会の罪人として、諦めの中に暮らしている。 そんな彼が思いがけず耳にした安井の消息に心を乱し、救いを求めて禅寺の門を潜るが・・・・・・。 「三四郎」「それから」に続く三部作の終編。

とりあえずの感想「山場がない...。」

内容紹介ではドラマチックに「親友を裏切り」と書かれていますが、その辺は作品の中盤ちょい後あたりでさらっと書いてあるだけ....。
お米と宗助の結ばれた辺りの描写は、
「事は冬に下から春が頭を擡げる時分に始まって、散り尽くした桜の花が若葉に色を易へる頃に終った。」
と書いてあるだけです。

さすが「月がとっても青いなぁ」伝説のある漱石先生、鮮やかというかなんというか。

「それから」の続編的位置づけということで、なんとなく内容紹介にあるような事象があったと想像できるのですが、思いっ切り書いて読者に先入観を持たすのは「どうかなぁ?」とは思いました。

そんなこんな「山場」になりそうな場面で「盛り上げよう」という感じは全編ありません。

最大の山場になりそうな「安井」出現の箇所でも主人公宗助は禅寺へ逃げてしまう。
禅寺でも見事にこれといったことは起こらない....。

解説で「突然禅寺に入ってしまうのがこの作品の難点ともされている」とありました。
(漱石の体調悪化のためという説もあるらしい)

私は禅寺に入る展開が不自然とは思いませんが、盛り上がらないは盛り上がらないですねぇ。
まぁ嫌なことが出てきたら逃げてしまうのは人間としては自然な感情ではある気もします。

そんな感じで全編、宗助は「無理しない」感じで生きています。
弟 小六の学費のことでも逃げ回っているし。

ということで全体的トーンは「それから」より切迫感はなく、ある意味明るく、面白い(つまらなくなかった)と思いながら読みました。
「それから」の代助は他者に寄りかかるなんとも不安定な生活をしていましたが、宗助は自分で稼いで自分の世界でて生きている。
まぁ読んでいて安心感はありますね。

いろいろ過去にあったことや、御米の病気、過去の流産話などが展開されながらも、宗助・御米夫妻は仲良く暮らしています。

宗助は仕事が忙しくて疲れていても、寝る前に1時間はたわいないことで会話している。
明暗」では主人公津田が、家に帰って「洋書を読む」といってすぐ別室に行ってしまい、実際にはその本を読まないでいろいろ自分の世界に入っていた....。

えらい違いです。

実際の夫婦関係というのはこの中間くらいかなぁ、というのが実感ですが、そんなことを思う私は悪い夫かもしれない....。

暮らし向きも「弟の学費を払う程豊かではない」とはなっていますが大晦日に掛け売りの支払は全て済ませ、下女を一人置く余裕はある。

子供がいないのが「悩み」ですが、子供がいたらいたで学費に悩んだりするわけですね。
(現代的話題だ...)

宗助も出費のかさみそうな娯楽(洋書を読むとか)は「今の自分には縁がない」とあきらめている。
今の生活を改善しようという気は一切しないため「無理」もしないので、とりあえずは裏切られたり挫折することもない。

「役所の人員整理に合うかもしれない」ということが暗示されますが、まぁ元々「それから」の代助ほどの高みにいるわけでもないのでなんとかなりそうな...。

ある意味宗助は「悟って」いるわけですが、禅寺では「もっとぎろりとしたものを持ってこなければ」と怒られている。

禅寺的悟りとは違うわけですが、まぁ「これはこれで幸せなんじゃないかなぁ」と思わされます。
「幸せってなんだろう?」ということも考えさせられる作品ですね。

ポジティブな人が読むと「何だこの野郎逃げ回りやがって」とも思うような気もしますが…。
(ネットでそんなことを言っている人もいた)

私の現在の気分は若干ネガティブなので、まぁこれはこれで共感が持てるような気もします。

ラストは一応当面の問題が片付いてそれなりに明るいはずなのですが…。

最後のセリフ
”御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏(はさみ)を動かしていた。」”

宗助は思いっきりネガティブです。
こうなにか根本的に改善もせず、悪化もしないで生活が続いていくんだろうなぁというような感じは受けます。

「戦わない生き方」ともいえる、生活は「それから」の反対側を描いている気がします。

他、
私は作品を読んでいるときは人の意見を見ないでいて、感想を書くときにはにネットで人の意見を見てみるようにしています。
今回も見てみましたが、さすが「漱石」いろいろな人がいろいろなことを言っていますね。

本作については「漱石は「門」以外読む価値なし」という人もいますし、漱石自身が一番好きな作品は「門」だといっていう説もあるようです。

私にはそれほどとは感じられませんでしたが....。
まぁいろんな読み方があるんですね。

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それから 夏目漱石著 新潮文庫

2013-11-27 | 日本小説

「明暗」に続いて読んでみようと、武蔵小山のブックオフで105円で購入。

本書も実家にあるはずなんですがが...、まぁ105円ですし。
漱石は読もうと思えば、Kindleでも青空文庫でも無料で読めるのですがやっぱり紙の方が気分が出ます。

「それから」は高校生の頃「三四郎」を読んでそれなりに面白く、「続きを読もう」と読みだしたのですが....。
高校生の私には手が出ずそのままになっていました。
宿願果たせました。

内容(裏表紙記載)
長岡代助は三十にもなって定職も持たず、父からの援助で毎日をぶらぶらと暮らしている。 実生活に根を持たない思索家の代助は、かつて愛しながらも義侠心から友人平岡に譲った平岡の妻三千代との再会により、妙な運命に巻き込まれていく・・・・・・。破局を予想しながらもそれにむかわなければいられない愛を通して明治知識人の悲劇を描く、「三四郎」に続く三部作の第二作。

読み始めての感想、「つまらない」
主人公代助は何をするわけでもなくぶらぶらしていて、まったく魅力がない。
「こいつ、いったいどうするんだろう?」と思いながら読みました。

芝居小屋でのお見合いとか、「芸者と当節の女性が同じだ」というセリフなどが、「明暗」でも出てくる場面で「続いていくんだなぁ」と興味深かったくらいで、どうも…。

ただ終盤に代助が三千代を奪おうと決心したあたりから、俄然テンポが変わって代助ととりまく環境の壊れ具合は「すげぇ」と思いながら読みました。
終盤の布石としての前段であれば、つまらなさも許せるような気がしました。

代助の住む主観世界の「風船」の中で展開してた前段と、その「風船」を中から破ってしまい現実世界に翻弄される代助という感じでしょうか。

前段の部分は「代助の主観」世界ですから、書かれた人物やら関係性などが、客観的に事実かどうか、終盤ではかなり疑わしく感じました。
三千代の代助に対する感情やら言葉も本当かどうかはわからない。
三千代が平岡を振り向かせるために、代助を利用しただけかもしれない。
もしかしたら平岡と三千代で共謀した美人局かもしれない...。

自分の主観世界の内側だけで生きてきた代助は外の世界に触れた瞬間何もわからず、すべてが壊れていく。
ラストは「ノルウェイの森」をちょっと連想しました。
そう思うと類似性があるような気もします。

代助ほど極端ではないでしょうが、「自分の主観世界」で生きているというのは誰にでもあてはまることかもしれませんね。
私も「自分の職場」から「辞めてやる」といってやめたら同じようなことになるかもしれない...怖い。

男女の三角関係という点やらなにやらは「明暗」へつながっている作品な気がしました。
「それから」の書き直しが「明暗」かもしれませんね。

前段の「つまらなさ」に耐えられればすごい小説だとは思いました。

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