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しろくま日記

読んだ本の感想を記録してみたいと思います。
なんだか忘れてしまうので。

小説・言の葉の庭 新海誠著 角川文庫kindle版

2017-05-05 | 日本小説

正月に「君の名は」を見て新海誠作品が気になり「言の葉の庭」(映画)をTSUTAYAでレンタルして1月末に見ました。

映画は「言の葉の庭」というタイトルではありますが言葉=セリフというよりは絵画的なイメージで観せる作品で場面場面の美しい映像が印象に残っりました。


作中の折々に万葉集の短歌が引用されています。
短歌は「言葉」でイメージを写し取ろうという試みなのかもしれません、そういう意味ではタイトルの「言の葉」は適当なのかもしれませんね。

あとル=グウィンの「言の葉の樹」との関係が気になりましたが…。
こちらはネットでいろいろ検索しても関係が出てこなかったので無関係かもしれません。
新海監督はSF好きのようですからなにかしら関係があってもですが…
(「言の葉の樹」は入手済なのでそのうち読んでみたいところです。)
余談ついでですが映画「言の葉の庭」に出てきた本をまとめたサイトがありました。
ウィリスの「航路」が出ていたようです。
それが縁で新海監督がハヤカワ文庫の「航路」の帯に推薦文を書いたようです。
私は映画を見てわかった本は「額田女王」だけでした、見る人は見てるんですねぇ。

映画の方の感想ですが雪野先生・・・魅力的でした。
この作品の最大の見どころの孝雄が雪野先生の足のサイズをはかる場面、最高にエロティックでした。
あんな先生が高校にいたら確かにもめそうですね。
高校生なんて男子も女子も最高に妄想混じりで色気づく時期ですからねぇ。

一番印象に残ったセリフが雪野先生をいじめていた相沢祥子が「雪野先生」に「淫乱ばばぁ」と言い放った場面。
高校生から見るといろんな妄想が沸き立つ美貌の女教師だったんでしょうね。

文学好きの美人国語教師、私みたいな本好きの人間には永遠の妄想の対象かもしれない…。

孝雄君と雪野先生は最終的にどうなったのか?非常に気になるラストでした。

さて小説の方、「ダールグレン」の後ということで軽いものをということで映画を見てしばらくしてから読み始めました。
字の本、とくにSFはできるだけ紙で入手するようにしているのですが、この手の比較的軽いもの(失礼)とマンガは家の本棚のスペースの都合もありKindle版で出ているものはkindleで入手するようにしています。

脱線ですが、昨年秋にKindle Paper whiteマンガ用(メモリーが多い!)を購入しました。
前からかなり気になっていたのですがAmazonでタイムセールをやっていたのを機についにポチッとしてしまいました。
結果近年私が入手した「もの」の中ではかなりの当たりとなりました。

マンガの細かい字などは読みにくいといえば読みにくいのですが電池もちの良さと携帯性の良さ素晴らしいです。
別にKindleでなく他でも電子書籍で入手できるのかとも思いますが手塚治虫作品を安く買えるのもいいところです。
あとKindleショップの日替わりセールと月替わりセールにはまってしまいついつい買ってしまいます。
最近だと日替わりセールで「回想のシャーロック・ホームズ」やら「マイナス・ゼロ」などついつい買ってしまいました…。(いつ読むのやら)
5月は月替わりセールで「青春を山に賭けて」が199円で出ていて悩んでいます…。
不朽の名作ですが紙で持ってるし、何度も読んでいるし…。

さて本題の小説の方

内容紹介(amazonより)
靴職人を目指す高校生・秋月孝雄は、雨の朝は決まって学校をさぼり、公園で靴のスケッチを描く。ある日、孝雄は、その公園の東屋で謎めいた年上の女性・雪野と出会った。やがてふたりは、約束もないまま雨の日だけの逢瀬を重ねるように。居場所を見失ってしまったという雪野に、彼女がもっと歩きたくなるような靴を作りたいと願う孝雄。揺れ動きながらも近づいてゆく二人の心をよそに、梅雨は明けようとしていた―。圧倒的な支持を受けた劇場アニメーション『言の葉の庭』を新海誠監督が自ら小説化。アニメでは描かれなかった人物やドラマを織り込んだ、新たなる作品世界


小説「言の葉の庭」ですが映画で描かれていない場面も多く書かれていたり、映画では殆どでてこなかった人物にスポットライトを浴びせたりと映画を補完するような形になっています。
「映画」で描かれなかった事物をどのように憶測するのか(妄想するのか)解釈するのかはあくまで映画を観た人の自由かと思いますが、「小説」としては映画製作者の書いたものでもあり一つの真実だととらえるべきなんでしょうね。
その辺が映画と小説の難しい関係性です。

本作については「映画」と「小説」作品として「どちらが上か?」といわれればまぁ映画の方が上だと思いました。
フィクションは鑑賞する人にいかにいろいろな解釈や思いを浮かばせるかが価値の一つかと思うのでその面では映画の方が上かと。

ただ映画の方を観た私が、映画の裏ではこんな風になっていたんだというのを覗けて楽しくはありましたので本書の楽しみ方の本質はそこにあるのかもしれません。

特に映画ではちょっとしか出てこなかった雪野先生の元恋人の伊藤先生、前出の女生徒相沢祥子の話は興味深かったです。
この二人でそれぞれでストーリー作っても面白かったかもです...。

雪野先生の中高時代の話や孝雄のお兄さん、お母さんの話は「まぁこんな背景なんだろうなぁ」と妙に納得いってしまう感じでした。
その辺のメジャーな登場人物の話では雪野先生がもう少しで見知らぬ男とホテルに入りそうになったのが一番ドキドキしたかなぁ…。

映画でドキドキした「淫乱ばばぁ」も小説では雪野先生の人となりがいろいろ語られているのでミステリアス感も薄く妄想の余地が少なくドキドキしませんでした。(^^)
その辺が違いかと。

映画に出てこない興味深い人物と各章に添えられた万葉集の歌など味わい深いですが、全体的には「映画」があって成り立っているストーリーで単独の文学作品としては弱いかなぁと感じました。

なお「君の名は。」に美人古典教師ユキちゃん先生として少し出ているのは有名ですが、相沢祥子のちょっといけていない中学生時代の友人が「君の名は。」で三葉の友人テッシーとサヤちんになっていたりもします。

と、きびしい評価を書いたようですが...「映画」を見た人はけっこう楽しめる作品だと思います。

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続明暗 水村美苗著 新潮文庫

2016-08-21 | 日本小説
本書は「明暗」を3年前に読んだあとブックオで見かけて入手済みで「いつかは読まなきゃなぁ」と思っていました。
今回なんとな~く読みたくなり手に取りました。

写真の新潮文庫版は現在絶版のようですがちくま文庫では入手可能なようです。

「明暗」の続きを書こうなどという人はどんな人なのだろうと思ったのですが著者の水村氏は12歳で渡米した人なんですね。
アメリカの大学で近代日本文学を教える傍ら本作を書いたようです。

「あとがき」で「漱石に比べられるべきもないが、外地より漱石を望み見た人として云々」というようなことが書いてありましたが外地から見た方が漱石の偉大さが素直に見えてくるのかもしれませんね。

「続明暗」出版が1990年、著者39才、早いような遅いような…。
本書で芸術選奨新人賞を受賞、多作ではないようですがその後も実験的な作品を発表しすべての単著がなにかしら「賞」を取っているようです。
「すごい」ですが「なんだかな」という気もしますね。

内容紹介(裏表紙記載)
漱石の死とともに未完に終わった『明暗』―津田が、新妻のお延をいつわり、かつての恋人清子に会おうと温泉へと旅立った所で絶筆となった。東京に残されたお延、温泉場で再会した津田と清子はいったいどうなるのか。日本近代文学の最高峰が、今ここに完結を迎える。漱石の文体そのままで綴られて話題をよび、すでに古典となった作品。芸術選奨新人賞受賞。


読後の感想ですが「明暗」読んでそこそこ面白いと感じた人であれば、まぁ楽しめる作品かと思います。
面白くて4日くらいで読了してしまいました。
(1日読書に充てれば1日で読めるでしょう)

かなり丁寧に未完の「明暗」の最終部分から話をつなぎ、解釈もつじつま合わせて話を進めていきてなんとか「完結」させています。
「清子の心変わり」の原因やら吉川夫人の「いじわるな行動」にいたる性格描写やら、伏線をうまくつないでいて正直「うまいなぁ」と感心しました。

清子と津田にからむ、温泉宿の中年夫婦(もしくは不倫カップル)や温泉宿での清子と津田のかけあいも秀逸でした。

ただしこれはこれで労作とは思いますが、本人も書いているようにあくまで「似て否なもの」で漱石の「明暗」の全体をつつむなんとも救いのない重苦しさまでは表現できていないとは思いました。

オリジナルの「明暗」では延子の内面もかなりどろどろしていたように感じられましたが、本書では津田の「どうしようもなさ」の被害者として描かれているように感じられ、「善玉」にはなりましたがその分印象が薄くなったような...。

一見女性に優しいようですが、教育を受けた男子である津田の自我に巻き込まれず「自分」を持ち暗部に落ち込んでいく「強い」延子に対し、男性側や吉川夫人の策謀に他動的にに翻弄される「弱い」延子像になっているのではないでしょうか。

津田も自分のプライドと弱い感情との間のどうしようもないギャップに救いようもなく落ち込んでいくという感じでなく、「弱さ」で周りを不幸にしていく単純な悪者…というか「迷惑な人」に矮小化されているように感じました。

津田に影を落としていた小林も終盤で温泉宿まで駆けつけて狂言回しをするいい人になってしまっている….。

漱石が生きていたらどう完成させていたかはわかりませんが、津田も延子も自分の強烈な自我を譲らずもっと泥沼化していたのでないでしょうか?
小林もなんの救いも与えず、どうにもならないところまで二人を追い込み、清子は救いになっていたのか破壊者となっていたのか…。

あくまで仮定の話でありますが未完のまま漱石が逝ってしまったのが悔やまれますねぇ。

ということで本作、ストーリーや文体は「明暗」をなぞっていますが日本には珍しいドストエフスキー的に「人間」のつよい「自我」とその「情念」から生まれる事態を描こうとしていたと思われる漱石の「明暗」と本質的なところで違って日本的な小説世界におさまってる気がします。

海外経験豊富な水村氏が書いて日本的に収まるというのが面白いところですが(笑)まぁ文学賞を器用に獲得する才女であっても漱石を超えるのはなかなか難しいんでしょうね。

ちょっとけなしたようになりましたが、「続 明暗」を書こうという意気はすばらしく、面白い作品ではありました。

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アマノン国往還記 倉橋由美子著 新潮文庫

2016-08-06 | 日本小説
倉橋由美子のSF(的)作品です。

1986年発刊、1987年泉鏡花賞を受賞(wikipediaによるとマンボウ賞も受賞しているようで…こちらの方がより気になりますが…)しています。

倉橋由美子の作品は先日「聖少女」を読んだのみなのですが、私の中で「いつかは読もう」という作家の位置づけで、古本屋で著作を見かけるたびに購入しています。
本書も10年位前に購入してそのままになっていました。

ふっと気が向き読んでみました。。

内容紹介(裏表紙記載)
モノカミ教団が支配する世界から、幻の国アマノンに布教のため派遣された宣教師団。バリヤの突破に成功した唯一の宣教師Pを待っていたのは、一切の思想や観念を受け容れない女性国だった。男を排除し生殖は人工受精によって行われるこの国に〈男〉と〈女〉を復活させるべく、Pは「オッス革命」の遂行に奮闘するが……。究極の女性化社会で繰広げられる、性と宗教と革命の大冒険


上記の内容紹介「オッス革命」のところがなにやら大江健三郎チックですが、読んだ印象はひたすら「エロ」で、そんなに難しい話ではありません….多分。

未来(と思われる)モノカミ教団が独裁的に支配する地球上の世界で、異色で謎の存在で不可思議なバリアで保護された鎖国状態となっていて、ほぼ女性で構成されているアマノン国に往還した宣教師Pの物語です。
往還記とはなっていますが本当に往ったのか…還ってきたかも最終期には怪しいような気はします…。

アマノン国、80年代の日本的社会を風刺している風でもあり天皇制やら宗教、マスコミ、政治等々当時の日本の社会を批判している部分もあるのでしょうが…そこはそんなに鋭い批判という感じでなく、まぁ「滑稽だねー」くらいなイメージです。

女性が支配する世界では宗教やら政治が「理念」的な面が薄れよりあけすけかつ実利的にになっているという見方は面白かったです。
お寺のお坊さんはわかりやすくお金のためだけに動いています。
そんな世界でもビッグマザー的存在の黒幕エイコス(田中角栄をイメージ?)はそれなりに理念的に動いていた感じもあるので「社会を支配するにはある程度理念的なものが必要」というメッセージもあったのかなぁとも思います。

対するPは「モノカミ教普及」というかアマノン国支配のため「オッス革命」=「アマノン国の女性とセックスしまくる」ことに注力し、アマノン国の政界の有力者や有名人とひたすらセックスしまくるテレビ番組「モノパラ」を企画し大当たりさせます。

書いていて恥ずかしくなるくらいあけすけですが….。

冷静に考えれば「そんなもので支配できるのか?」という話なのですが、本書の中ではPのその方面の非凡な才能の力により見事にその戦略が成功するようになっています、いやはや….。
著者の写真見ると真面目そうな風貌なのでこんな話を書くようには見えないのですが….意外ですね。

まぁ性描写はそれなりに巧みでよくも悪くもエロ小説として読ませています。
純愛の対象として、ティーンエイジャーの秘書(本書では「セクレ」なる呼び名)ヒメコを最後まで精神的な対象と残しておいたりするじらし方もまた巧みです….。

その他なんとも不気味な存在の不死人=イモタル人や天皇的存在=エンペラを描いた部分が不可思議感でていましたがなんだかそこだけ描写が浮いていた感じはしました。

ラストも唐突かつ力技過ぎるような…。
ギリギリ夢オチではないんでしょうが肩すかしされた感じはあります。

まぁ読み物として読んでいて面白い話ではあり、骨太で個別のエピソードは印象に残っています。
終盤のボスキャラとの相撲の場面などもなかなか迫力ありますが….。
ただ全体としてみると何ともまとまりないような気もしますし、何やら肩すかし感はありました。

「聖少女」の緊張感あふれる印象と大分異なります。
単なる失敗作なのか純文学者が娯楽小説を書くとこんな感じになるのでしょうかねぇ。

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三四郎 夏目漱石著 新潮文庫

2016-07-23 | 日本小説
「次何読もうかなぁ」と書棚を見ていたら本書と目が合い読み始めました。
漱石も私の中では読破したい作家の一人ということになっております。

1908年(明治41年)「虞美人草」「坑夫」に続いて朝日新聞に連載した作品です。

初読は思いっきり背伸びしていた小学校高学年時期かも中学生頃だった記憶があります。(そのときも写真の本...だったと思う)
当時は田舎から出てきた大学生を主人公としたビルディングノベル的な理解でそれなりに楽しく読んだ記憶があります。

まったく深く読めていなかったとは思いますが小学生でもそれなりに楽しませるのは漱石の手腕ですかねぇ。
小悪魔的なヒロイン里見美禰子に翻弄される三四郎のラブコメ的読み方もしていたかなぁ。

その当時本作の後に同様な舞台設定(と思われた)鴎外の「青年」を読んでこっちもそれなりに楽しく読めました。
(調べてみたら鴎外は思いっきり「三四郎」を意識して書いたようですね)

その後単純に「三四郎」の続編と思い「それから」に手を出し挫折した記憶があります。
こっちは小学生には厳しかったなぁ….。

最近、「それから」「」は読んだので、今回本書を読んでこのブログ上漱石の前期三部作制覇です!!

内容紹介(裏表紙記載)
熊本の高等学校を卒業して、東京の大学に入学した小川三四郎は、見る物聞く物の総てが目新しい世界の中で、自由気儘な都会の女性里見美禰子に出会い、彼女に強く惹かれてゆく……。青春の一時期において誰もが経験する、学問、友情、恋愛への不安や戸惑いを、三四郎の恋愛から失恋に至る過程の中に描いて『それから』『門』に続く三部作の序曲をなす作品である。


読後のとりあえずの感想ですが。
「三四郎」中高生の読書感想文の課題図書的に取り上げられていますが、上述したような表面的な読み方はできるでしょうが、一般的な中高生が深く読むには厳しい作品な気がします。

三四郎や美禰子より広田先生的な年になった自分からいろいろ見えてくるものがありました。
小中学生から見ると三四郎他登場人物はみんな年上になるわけでなかなか客観的に見られませんよね。

地方から大学に入ってしばらくは真面目に講義に出て、段々サボりだすというようなところは妙に現代の大学生っぽくてその辺追うだけでも楽しいのですが、多面的に見た方が楽しめる作品な気がしました。

と書いてきて….「まぁ感じ方は好き好きかもしれない」という気もしだしました。
オヤジ視点だと逆に若者に見えてるものが見えないところもあるかと思います。

老若問わず楽しめ、時代を超えているところが漱石の天才性なのかもしれません。

若いうちに読んだ人には是非オヤジ(もしくは淑女?)になっても読んで欲しいものです。
ただ三四郎のあまりのウジウジ感というか自意識過剰ぶりは女性受けしないような気もしますけれど。

ウジウジ感は女の子に声をかけるのにも基本ウジウジする自意識過剰タイプだった私にはとても共感できました。
基本漱石作品の主人公はウジウジ系ですよねぇ、その辺が漱石作品好きな理由の一つかもしれません。

この感想を書いている時点であだち充の漫画を多く読んでいて(「MIX」 1-8)その影響もあり感じたのですが漱石作品の登場人物、シチュエーションもあだち作品同様結構ワンパターンですね。

本作の広田先生と「猫」の苦沙弥先生、「こころ」の先生、「三四郎」の与次郎と「明暗」の小林かなりかぶります…。
美禰子と「坊ちゃん」のマドンナ、野々宮とうらなりなどもかぶっている気がする。

「三四郎」は田舎から都会に出てきて戸惑いますが、「坊ちゃん」は江戸のにおいを残した東京と田舎の伝統社会、赤シャツを代表する近代との間で戸惑う話ですから「坊ちゃん」の裏返し的作品と考えてもいいのかもしれません。

ワンパターンといえば村上春樹も主人公の性格設定など(海辺のカフカ以降の作品は読んでいませんので何ともいえませんが)ほぼ同じキャラのような…。
一つの「形」で多様な世界観を描き出す…才能なんでしょうか?

さて「三四郎」、冒頭の宿屋での女性との一夜からぐっと読者をひきつけます。
絵的にはタッチの上杉達也がはまりそう(笑)、間違いなく草食系ですね。

その後電車の中での広田先生との出会いに(この時は誰だかわかっていない)なりますが、偶然出会ったこの広田先生が三四郎の東京での生活に大きな影響を与える人になります。

現実ではありえない展開なので、自然主義的立場の人たちは怒りそうですが…。
電車の中で広田先生と出会った辺りからこの作品独特の異世界に入り込んでいることを暗示していると理解しました。
電車の中での広田先生の話が全体のモノローグというか予兆として機能している感じです。

恋愛小説的部分は置いて、九州の裕福かつ優秀な青年がそれなりの自負感を持って帝大生として東京に出てくるわけですが、まじめに授業を受けていても何も得ている感じも得られず集団に埋没してしまう感を得てしまう。

それを解決するには余程の才能に恵まれているのでない限り、普通に考えるとコツコツ努力していくしかないわけですが…。(野々宮氏のように)

周りを見ると余程の才能があるわけでもなく、コツコツ努力しているわけでもないのに与次郎や美禰子のように広田先生いわくの「露悪」的に生きることでなにやら自分の位置を確保しているように見える人がいたりもする。(実際に「ある位置」を確保しているのかもしれない)

そんな「露悪」的な人になにやら魅力を感じながらも、九州の地元の「偽善」的文化からも離れられない三四郎は明治の東京で「ストレイシープ」になってしまう。
一方「露悪」的な与次郎・美禰子もどこかで「偽善」的世界から理解や賛美も欲しくて三四郎についついちょっかいを出してしまう…。

また美禰子はコツコツ努力して光の研究で成果を出しそうな野々宮にも惹かれるわけですが、自分の露悪的立ち位置とは相いれないこともわかっていて、野々宮へのあてつけもあり自分のひとことひとことに反応してくれる三四郎にもちょっかいを出してしまう。
それはそれで「ストレイシープ」な状況ですね。

江戸時代的な変化の比較的ゆるやかな時代ならともかく、明治以降の変化の激しい中で価値観がバラバラになっている状況では社会の普遍的な課題といえるのかもしれません。

狂言回したる広田先生は「偽善」から「露悪」への社会の変化を十分認識し分析しているわけですが世の中や人のために動こうという気はありませんし三四郎に対しても「解説」はしていますが、三四郎の行くべき方向は何も示しません….。

冒頭「ビルディングノベル」ということばを出しましたが鴎外の「青年」と違い作品世界を通して「三四郎」はほとんど成長していないように見えます、まぁ「東京」及び近代に戸惑っているだけです。

ただ与次郎・美禰子のように近代世界になんとか折り合いを付け「露悪」していたり、広田先生のように「傍観」しているだけの人より誠実に今を生きているといえる態度のような気はします。

出番は少ないですが、野々宮の妹よし子も「露悪」でも「偽善」でもないある意味企まない「ながれのまま」に生きています。
三四郎もそんなよし子にそこはかとない好意を持っているようにも見えるのですが、美禰子の態度に戸惑い具現化しません。

最終的に美禰子はよし子のお見合い予定の相手と結婚していますので、三四郎だけでなくよし子に対してもなにやらちょっかいを出してしまう気持ちがあったのかもしれません。
同じ「露悪」でも与次郎のそれは陽性ですが、美禰子は何やら陰にこもった闇があるような...。

漱石という男性作家の描く世界ではあるわけですが、意識において性差(善悪・優劣ではない)はあるわけでこの辺も普遍的な課題ですよねー。

「三四郎」いろいろ考えさせてくれる名作です。

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桜田門外ノ変 上・下 吉村昭著 新潮文庫

2016-07-10 | 日本小説
まだ「SF」という気にならず本書を手に取りました。

吉村昭の歴史小説は高校生時代に結構読んでいたのですが最近とんとご無沙汰でした…。
(2011年に「ポーツマスの旗」を読んで以来)

「しばらくぶりに読みたいなぁ」という気持ちのある中、ブックオフで見かけ108円だったので購入しました。

1990年8月刊、2010年10月映画化されている作品です。

映画化の印象がありもっと最近の作品のイメージだったのですが結構前の作品だったんですねぇ、意外でした。

内容紹介(裏表紙記載)
上巻:
安政七年(1860)三月三日、雪にけむる江戸城桜田門外に轟いた一発の銃声と激しい斬りあいが、幕末の日本に大きな転機をもたらした。安政の大獄、無勅許の開国等で独断専行する井伊大老を暗殺したこの事件を機に、水戸藩におこって幕政改革をめざした尊王攘夷思想は、倒幕運動へと変わっていく。襲撃現場の指揮者・関鉄之介を主人公に、桜田事変の全貌を描ききった歴史小説の大作。
下巻:
水戸の下級藩士の家に生まれた関鉄之介は、水戸学の薫陶を受け尊王攘夷思想にめざめた。時あたかも日米通商条約締結等をめぐって幕府に対立する水戸藩と尊王の志士に、幕府は苛烈な処分を加えた。鉄之介ら水戸・薩摩の脱藩士18人はあい謀って、桜田門外に井伊直弼をたおす。が、大老暗殺に呼応して薩摩藩が兵を進め朝廷を守護する計画は頓挫し、鉄之介は潜行逃亡の日々を重ねる……。


徹底的に史実にこだわる吉村昭作品ということで、桜田門外の変前後の事情が細かく描写されています。
水戸藩と彦根藩の確執、幕閣と御三家たる水戸家の確執などなかなか興味深かったです。
「幕府」とはいえ徳川一家の親類、配下で構成されているんですから、まぁ人材難になりますよねぇ…。
老中やらなにやらといってもまぁ基本中譜代藩のお殿様なのだから非常時の危機管理能力など出るはずもないですよねぇ。

さて物語は主人公に設定されている水戸藩士・関鉄之助の視点から描かれています。

吉村昭の時代物の共通なのですが、主人公はじめ登場人物は標準語で思考し話しているように記述されます。
これは意図的とのことですが((前に著者が何かで書いてあるのを読んだ)雰因気は出にくいですよねぇ。
司馬遼太郎的に坂本竜馬に「ぜよぜよ」しゃべらすのも事態を正確に表すのには向かないとは思いますが....。

言葉も影響しているのか主人公にはそれほど野心や色気がないように感じられます。
その辺も事件を客観的に記述したいという作者の意図を感じます。

まぁそれはそれでいいんでしょうが、実際はどうだったんでしょうかねぇ?

本作の主人公の場合は江戸に妾を囲ったり、最後の逃避行でも水戸藩内の豪商との付き合い方というか癒着というか…お金のもらい方もかなり派手なのでそんなに小人物的な人ではなくてそれなりに野心があったんじゃないかなぁ…という疑問は浮かびました。

野心もないのに命を懸けて国事(藩事)に奔走しなきゃいけない武士階級ってなんだか損ばかりなような....。
大きな歴史的な流れでは「水戸藩」は維新の捨石的な立場になってしまったようなところもあるのでこのなにやら乾いた感じも違和感はないのですが、個々人はそれなりにウェットだったんじゃないかなぁなどと感じました。

主人公、国元の家族は地味な暮らしをしていそうなのに、諸国を旅して結構いいものを食べたりしているので特にそんな感じを受けました。

あと吉村昭の小説には珍しく、維新期の有名人である坂本竜馬がちらっと登場したのが「おっ」と感じたところでした。(ひたすら地味な登場、「ぜよぜよ」いっていません)

維新前後の話は好きなので、吉村昭は本作の舞台の後の水戸藩の動きを描いた「天狗争乱」や「生麦事件」など維新あたりのマニアックなテーマの吉村作品もそのうち読みたいところです。

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