しろくま日記

読んだ本の感想を記録してみたいと思います。
なんだか忘れてしまうので。

赤毛のアン L.M.モンゴメリ著 松本侑子訳 集英社文庫

2014-06-11 | 海外小説

アンのゆりかご」「こんにちはアン」ときて、「赤毛のアン」を読まなきゃおさまりがつかず...。
といって「昔読んだ村岡花子訳を読んでも芸がないかなー」ということで最新訳の本書を手に取りました。
これも新品で購入。

訳者の松本侑子氏はアナウンサー出身の作家の方のようで、作品等読んだことがなく全然知りませんでした。

本書は、松本氏による文中にちりばめられている聖書やシェークスピア等の英米文学などからの引用を精緻に調べた訳註が売りのようです。
集英社文庫からは松本氏訳で「アンの青春」「アンの愛情」も出ていてこちらも訳註が有名な模様。
また訳注だけでなく原書の文章が「子供むけ」というよりかなり難しい言い回しで書かれているのを反映して、原文に忠実に割と大人向けに訳文を作ったとのこと。
村岡訳で省かれている部分も訳している「完訳版」という位置づけでもあるようです。

内容(裏表紙記載)
孤児のアンは、プリンスエドワード島の美しい自然の中で、グリーン・ゲイブルズのマシュー、マリラの愛情に包まれ、すこやかに成長する。 そして笑いと涙の感動の名作は、意外な文学作品を秘めていた。 シェイクスピア劇・英米詩・聖書からの引用をときあかす驚きの訳註、みずみずしく夢のある日本語で読む、新完訳の決定版! 楽しく、知的で、味わい深い・・・・・・、今までにない新しい本格的なアンの世界。

時系列的には、「こんにちはアン」のラスト直後から始まるので違和感なかったです。(笑)

とりあえずの感想、「訳は少し硬いかなぁ…。」

まぁ内容は昔何度も読んだ「赤毛のアン」ですからいまさら特に新しい感想はありません。
ストレートに少女の成長を描いた名作だと思います。
(「花子とアンにさそわれて」で感想書いてますね)

今回読んで気づいたことは、なんとなく「ひとつながりの話」という感じがあったのですが、短いエピソードで作られた「お話」の積み重ねになっているのに初めて気づきました。

また今回は「こんにちはアン」に出て来た話の元ネタがいろいろでてきて「これかー」という発見があったりしてなかなか楽しめはしました。
ただまぁそこは40オヤジですので少年時代初めて読んだほどの感動はない。

その辺のところが美化されていて村岡訳の方がいいような感想になっているのかもしれませんが、とにかく訳文は硬いかなぁとは感じました。
村岡訳のアンの独特の言い回しはやはり魅力的です。
マシュウやマリラも。
最初に読むなら村岡訳、直訳的に内容をきっちり確認したいなら本書という感じでしょうか。
売りの訳註は...力作だとは思いますがただ小説を読む(楽しむ)のにここまで必要なのかは???かとは思いました。

などと書きましたが「こんにちはアン」で哀しい思いをしてきたアンの話を読んだ直後なのもあり、グリーンゲイブルズで成長し幸せになっていくアンの姿に感極まって最後あたりで目から涙がこぼれそうになりました。
歳とると涙腺ゆるみますね....電車の中だったのでとても恥ずかしかったです。(汗)

そのうち村岡訳で「アンの愛情」まで読み直そうかなぁ。

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こんにちはアン 上・下 バッジ・ウィルソン著 宇佐川晶子訳 新潮文庫

2014-06-04 | 海外小説
アンのゆりかご」を読んで「赤毛のアンでも久々に読もうかなぁ」などと思いながらブックオフ大森店の新潮文庫-外国人作家の書棚を見ていたら本書を発見、上巻350円下巻350円で購入
正直「ビミョーかな~」とも思ったのですが...。

原題は「Before Green Gables」クスバート家に引き取られるまでのアン・シャーリーの物語を書いた作品です。
アン誕生100周年(Anne of green gables出版-1908年から100年)を記念してL.M.モンゴメリの子孫の方から頼まれてカナダの児童文学作家バッジ・ウィルソンが書いた作品とのこと。

「シャーロキアン」ほどではないでしょうが、世界中にアン・マニアは存在するようで、“Before Green Gables”についても考証が進んでいるのでそれに合わせて書いたようです。
ホームズものは色々出ているので、言われてみれば赤毛のアンのこの種のものももっと出ていても良さそうなものですね。

私は知りませんでしたが、世界名作劇場でアニメ化もされていたようです。(BSフジ)
アニメ化に合わせてか、新潮文庫で出版されたであろう本書は2008年発行の奥付ですが、調べたらべたらすでに絶版...売れなかったのかなぁ。

私と同世代(1970年生まれ)かちょっと下の方は世界名作劇場で「赤毛のアン」(1979年放送)を知ったという方も多いのでしょうが私は見ていませんでした。
裏でやっていた天才バカボンか何かを見ていたような…。
ちらっとネットで調べたらTVアニメ版の監督 高畑勲、作画の宮崎駿ともに「赤毛のアン」好きではなかったようです。
ちょっと意外ですね。

内容(裏表紙記載)
上巻
はじめまして。あたしの名前はアン、おしまいにeが付くのよ。学校の先生だった両親は、あたしの誕生をとっても喜んだけど、病気で亡くなって、今は一人ぼっち。でも元気はなくさないわ。まっ赤な髪とソバカスは嫌いだけど、お母さん譲りの鼻は気に入っているの。一つでもいいところがあるってすてきよね。世界じゅうの女の子たちを魅了し続ける赤毛のアン、誕生100周年記念作品。
下巻
トマスさんちで9歳まで暮したけど、おじさんが亡くなって、こんどはハモンドさんちへ。なんと双子が3組よ。食器棚の扉に映るケティ・モーリスの代りに、こだまのヴィオレッタがお友達になったの。そのハモンドさんも急に亡くなり、あたしの引き取り手は誰も現れず…でも夢だけは捨てなかったわ。そしてついにプリンス・エドワード島へ。アンがマシュウに出会うまでの物語。

上記の一人称の内容紹介はいかにも「赤毛のアン」ファンの怒りを買いそうですね…。

さてとりあえずの感想「結果ありきで作品を作るのは大変そう」

丁寧に設定と話を合わせていて力作とは思いましたが「赤毛のアン」という確固としたキャラクターが出来ている人物を「生かす」のは大変だったろうなぁということ。

「赤毛のアン」本編では、「あまりにつらくてあまり語りたくない過去」とされているところをあえて描くわけですし,…。
あんまり救いなくしてしまっても読者が引くし、といって楽しくも書けない。
その辺のバランスうまく取っ書いているなぁとは感じました。
でもそれだけにちょっと窮屈な感じがして「ものすごく面白い」というところまではいかないのはしょうがないところなんでしょうねぇ。

アンのつらい生活が終わり、「グリーンゲイブルズ」での輝かしい生活が始まることへの期待感を持たせたラストは「ジーン」と胸が熱くなりました。。

この辺が定番ものの強みですね。
「文学作品」というよりもアンファンの「妄想」の一形式と思えばかなり楽しめる作品だと思います。

ただ1点、トマスさんのところにいた時に出会ったエッグマンとヘンダーソン先生がアンを引き取らないで全く「すまない」とも思わなかったのは納得いきませんでした。
普通この展開なら引き取るだろうと思うのですが....。
なにかアンシリーズ本編に根拠となる事件が書かれているのでしょうか?

そこだけ気になりましたがとにかく楽しく読めました。
「赤毛のアン」ファンなら読んでみてもいいんじゃないかと思います。

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ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを カート・ヴォネガット・ジュニア著 浅倉久志訳 ハヤカワ文庫

2013-11-08 | 海外小説
SFを二作続けて読んだ後はマイブームとなっている、ヴォネガット作品を読みました。
本作近所の本屋で見つけられなかったので、amazonで新品をオーダーし入手。

本作は「猫のゆりかご」と「スローターハウス5」の間、1965年に発刊されています。
これで「タイタンの妖女」から「スローターハウス5」までのヴォネガット長編は一応制覇です。
(諸説あるでしょうが、ヴォネガットこの辺の作品が一番脂がのっていたという説が多いようですね。)
解説に書いていましたが、売れないSF作家であったヴォネガットも「猫のゆりかご」が出版後徐々に評価され、本作発表時に「文学」としてそれなりに評価されている状況だったようです。

内容(裏表紙記載)
聞きたまえ! 億万長者にして浮浪者、財団総裁にしてユートピア夢想家、慈善事業家にしてアル中である、エリオット・ローズウォーター氏の愚かしくも美しい魂の声を、暖かくも苦い愛のメッセージを。金がすべてを支配する現代社会で、隣人愛に憑かれた一人の大富豪が、その限りない愛と、限りある金とを恵まれぬ人々のために分け与えようとしたとき、いったい何が起こったのか・・・・・・? 現代最高の作家が贈る感動の名作。

とりあえずの感想.....、「う~ん、面白くない」(笑)

母なる夜」→「猫のゆりかご」と展開的に「面白い」小説を書く工夫をしてきたように思われるのですが、ここではその辺をあまり考えていない感じ。
物語性が薄いというか....。
この作品で初登場の売れないSF作家キルゴア・トラウト(この後のヴォネガット作品では度々登場する)や主人公エリオット・ローズウォーターの発する言葉もなんだか説教臭くて面白く感じられませんでした。

「小説」は色々な読み方があるのでしょうが、私のスタンスは古典的で「物語」というか「はなし」としての面白さがない作品は「評価しにくいかなぁ...」というものです。
(そんなに自信たっぷりではないですが)

「スローターハウス5」でも「つまらない」と書きましたが、「スローターハウス5」の方は「つまらなくていいんだよー」と開き直っている感じで、その暗い独特のトーンと雰因気が楽しめたのに対して、本作は中途半端に物語性も残していてなんだか読むのがつらいというか疲れるというか....。

私的には今一つの作品と感じました。

「母なる夜」「猫のゆりかご」では意志の強い女性が出てきて、「タイタンの妖女」「スローターハウス5」でもそれなりに強固な存在として女性が描かれています。
しかし本作のヒロイン、エリオットの妻シルヴィアは、エリオットの突飛な行動についていけず...といって否定もできない弱い人間として壊れてしまう存在として描かれています。
一方でエリオットは、盲目的目的意識を持ち慈善活動に精力的に取り組んでいく意志というか憑かれたように行動する男性となっています。
意志のはっきりしない男としゃっきり感のある女性というこれまでのパターンと本作は異なります。

その辺もうまくいっていないような...。

ラストも割り切って(文字通り)終わっていますしこの辺も傾向が他と異なります。

そういう意味では実験作だったのかもしれませんね。

まぁ今の私の気分と合わなかっただけかもしれませんが、これまで読んだヴォネガット作品とは違うトーンの作品と感じました。


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母なる夜 カート・ヴォネガット・ジュニア著 飛田茂雄訳 ハヤカワ文庫

2013-10-24 | 海外小説
前も書きましたがヴォネガット作品にはまって、SFではない本書を手に取りました。

本作、今年の「ハヤカワ文庫の100冊」に選ばれているようで帯がついて新装版が平積みされている本屋もありましたが、別の本屋で旧版での入手です。
(この本屋ガラパゴス的な文庫の在庫が置いてある穴場で、ちょっと嬉しくなる。)

本作「タイタンの妖女」の後、1961年に刊行されています。
訳本としてはこのハヤカワ版の他、池澤夏樹氏訳の白水版が存在するようです。

内容(裏表紙記載)
第二次大戦中、ヒトラーの擁護者として対米宣伝に携わったハワード・W・キャンベル・ジュニア―――はたして彼は本当に母国アメリカの裏切り者だったのか? 戦後15年を経て彼の脳裡に去来するものは、生真面目な父、アルコール依存症の母、そして元美人女優の妻ヘルガへの思いだった・・・・・・卓抜なユーモアとシニカルなアイロニーに満ちたまなざしのもとに、時代にもてあそばれた男の内面を自伝のスタイルで描いた感動の名作。

上記が内容紹介ですが果たして「感動」の名作なのだろうか?....。
「名作」だとは思いましたが。

本作は、SFっけのない現代小説でいかにもヴォネガット的な語り口で書かれています。
中盤若干もたつき感がありますが、意外な展開が続き、はらはらどきどき面白く読めました。
「面白さ」という点では次作の「猫のゆりかご」の方が上な気がしますが、SF的仕掛けのないストレートな展開でわかりやすい作品になっていると思います。
ひとことで感想をいうと....「割り切れない」という感じでしょうか。

ヴォネガットの作品はこれで4冊目ですが、基本スタンスは同じな気がしました。
人生の「目的」とはなにかということと、「意志」で環境もしくは運命を変えることが可能なのかというのが基本テーマでしょうか。
主人公の男性は割り切れない状況で、どうにもならずどんどん悪い方向に向かい最後までどうにも割り切れない状況で終わりを迎える。
という同じような作品なのですが、このトーンが気になり読み続けてしまう...。

登場する男性は割り切れない状況に陥りますが、一方で作中女性の方は割とスッパリ状況を決めて飛び込んでいったり、自己完結(死んだり)していくというのも共通点なような気もしました。
そういう意味では女性に優しい作家なんでしょうかねぇ。

さて、本作の主人公キャンベルは状況に流されるまま、本人が思ってもいないことを書いたり言ったりしてナチスへ協力します。
本気で「やりたい」ことではないのですが、優秀なだけにとても「うまく」。
自分でも「くだらないことをやっている」ことを認識していて、「僕が悪いんじゃなく状況が悪いんだ」と考えている。
その一方、なんだか流されてアメリカのスパイとしても働いている。
(こちらもなにか目的とか意志があるわけでない)

主人公の状況なんだかよくわかる....。
中年サラリーマンたる私は多かれ少なかれこんな感しじゃないでしょうか?
「こういう大きな事業を立ち上げたいんだ」という目的をはっきり持っているわけでなく、「なにがなんでも偉くなってやる」というような意志もない。
そうはいいながらもそれなりに真面目に仕事していたりする。

「目的」を組織に丸投げしている人間が、徹底的に裏目な状況に陥ってなにもなくなったら...どうなるか?
キャンベルは愛する妻も戦中に失うわけですが、愛する家族さえもなくなってその時自分はなにを目的に生きるのか?....重いですね。

印象に残った場面、

キャンベルが「僕の頭の歯車は、ナチスの狂信者などと違い欠けていたりするわけでなく本当は何かをわかって上でしかたなくやっている」と独白している場面。

でもキャンベルがやったり言ったりしたことは狂信者と変わらないことを、かなりうまくやっている...。
「歯車」がどこかで欠けていなければ信念「目的」など持てないのか?
「自分の歯車が正常」などというのは妄想で、いいわけなのか...。
どうなんでしょうねぇ。

あとキャンベルが、「何をやってもいい」といわれて放り出されて「自分がなにをやりたいのか?」「どこに行きたいのか?」わからなくなり立ち尽くしてしまう場面。
これもなんだかわかるなぁ....私だったら「とりあえず飲む」かなぁ(笑)

作中クライマックスで、主人公の妻の妹「レシ」は最後に「猫のゆりかご」のモナとほぼ同様の行動をする場面。
「猫のゆりかご」ではその後主人公はボコノン教に救われるわけですが「何かを信じる」意志のないキャンベルは立ち尽くすだけ...。

最後は自分で自分の状況を決めてしまおうということになるのですが、どうにも割り切れないラストな気がします。
「“罪”の反対は“罰”?」などという人間失格の一節が浮かびました。
(そういう意味では割り切れているのかもしれない)

本作ヴォネガット版「罪と罰」なのかもしれないなぁなどと思いました。

自分の「歯車が正常」と思っていて、なんだか「やりたくないことをやっている」と感じている人にお勧めです。
日本のサラリーマンは殆ど?(笑)

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遥かなるセントラルパーク トム・マクナブ著 飯島 宏訳を読んで

2010-12-24 | 海外小説
これも高校時代に読んだ本の再読。
最近ランニングにはまって、BORN TO RUNを読んだ関係から再読してみようと思いました。
(BORN TO RUNの構成も結構この作品を参考にしている感じがあります。)

私の所有の文春文庫版の奥付は1986年8月、初版で買っていました。
高校の時の国語の先生の推薦本であったので購入(尊敬までいきませんが面白い先生でした。)
高校時代には面白く何回も読んだ本、果たしてどうか・・・。

ストーリー的にはアメリカ大陸横断ロードレースをいろいろな障害を乗り越えながら続けていくというもの。
まぁ波乱万丈といえ面白いのですが、「ちょっと予定調和的かなぁ。」という感じも受けました。
いわゆる深い感動を求める作品ではないですが、ランニング・スポーツ・友情といったものがストレートに「いいなぁ」と思える作品だと思います、読後感もさわやか。

ランナーとして読むと、ランニングというスポーツの楽しさが伝わってくるいい作品でした。
主要人物の一人ドク・コールの「ランナーを殺すのは距離じゃない、ペースだ」などはマラソン大会に出ている方はうなずける部分もあるのでは?、読後走ってみたくなります。

ランナーにはお勧めかとは思います、国語の先生も走っていたのかなぁ?

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