前も書きましたがヴォネガット作品にはまって、SFではない本書を手に取りました。
本作、今年の「ハヤカワ文庫の100冊」に選ばれているようで帯がついて新装版が平積みされている本屋もありましたが、別の本屋で旧版での入手です。
(この本屋ガラパゴス的な文庫の在庫が置いてある穴場で、ちょっと嬉しくなる。)
![](http://farm6.staticflickr.com/5545/10302130695_2822222764_n.jpg)
本作「タイタンの妖女」の後、1961年に刊行されています。
訳本としてはこのハヤカワ版の他、池澤夏樹氏訳の白水版が存在するようです。
内容(裏表紙記載)
第二次大戦中、ヒトラーの擁護者として対米宣伝に携わったハワード・W・キャンベル・ジュニア―――はたして彼は本当に母国アメリカの裏切り者だったのか? 戦後15年を経て彼の脳裡に去来するものは、生真面目な父、アルコール依存症の母、そして元美人女優の妻ヘルガへの思いだった・・・・・・卓抜なユーモアとシニカルなアイロニーに満ちたまなざしのもとに、時代にもてあそばれた男の内面を自伝のスタイルで描いた感動の名作。
上記が内容紹介ですが果たして「感動」の名作なのだろうか?....。
「名作」だとは思いましたが。
本作は、SFっけのない現代小説でいかにもヴォネガット的な語り口で書かれています。
中盤若干もたつき感がありますが、意外な展開が続き、はらはらどきどき面白く読めました。
「面白さ」という点では次作の「猫のゆりかご」の方が上な気がしますが、SF的仕掛けのないストレートな展開でわかりやすい作品になっていると思います。
ひとことで感想をいうと....「割り切れない」という感じでしょうか。
ヴォネガットの作品はこれで4冊目ですが、基本スタンスは同じな気がしました。
人生の「目的」とはなにかということと、「意志」で環境もしくは運命を変えることが可能なのかというのが基本テーマでしょうか。
主人公の男性は割り切れない状況で、どうにもならずどんどん悪い方向に向かい最後までどうにも割り切れない状況で終わりを迎える。
という同じような作品なのですが、このトーンが気になり読み続けてしまう...。
登場する男性は割り切れない状況に陥りますが、一方で作中女性の方は割とスッパリ状況を決めて飛び込んでいったり、自己完結(死んだり)していくというのも共通点なような気もしました。
そういう意味では女性に優しい作家なんでしょうかねぇ。
さて、本作の主人公キャンベルは状況に流されるまま、本人が思ってもいないことを書いたり言ったりしてナチスへ協力します。
本気で「やりたい」ことではないのですが、優秀なだけにとても「うまく」。
自分でも「くだらないことをやっている」ことを認識していて、「僕が悪いんじゃなく状況が悪いんだ」と考えている。
その一方、なんだか流されてアメリカのスパイとしても働いている。
(こちらもなにか目的とか意志があるわけでない)
主人公の状況なんだかよくわかる....。
中年サラリーマンたる私は多かれ少なかれこんな感しじゃないでしょうか?
「こういう大きな事業を立ち上げたいんだ」という目的をはっきり持っているわけでなく、「なにがなんでも偉くなってやる」というような意志もない。
そうはいいながらもそれなりに真面目に仕事していたりする。
「目的」を組織に丸投げしている人間が、徹底的に裏目な状況に陥ってなにもなくなったら...どうなるか?
キャンベルは愛する妻も戦中に失うわけですが、愛する家族さえもなくなってその時自分はなにを目的に生きるのか?....重いですね。
印象に残った場面、
キャンベルが「僕の頭の歯車は、ナチスの狂信者などと違い欠けていたりするわけでなく本当は何かをわかって上でしかたなくやっている」と独白している場面。
でもキャンベルがやったり言ったりしたことは狂信者と変わらないことを、かなりうまくやっている...。
「歯車」がどこかで欠けていなければ信念「目的」など持てないのか?
「自分の歯車が正常」などというのは妄想で、いいわけなのか...。
どうなんでしょうねぇ。
あとキャンベルが、「何をやってもいい」といわれて放り出されて「自分がなにをやりたいのか?」「どこに行きたいのか?」わからなくなり立ち尽くしてしまう場面。
これもなんだかわかるなぁ....私だったら「とりあえず飲む」かなぁ(笑)
作中クライマックスで、主人公の妻の妹「レシ」は最後に「猫のゆりかご」のモナとほぼ同様の行動をする場面。
「猫のゆりかご」ではその後主人公はボコノン教に救われるわけですが「何かを信じる」意志のないキャンベルは立ち尽くすだけ...。
最後は自分で自分の状況を決めてしまおうということになるのですが、どうにも割り切れないラストな気がします。
「“罪”の反対は“罰”?」などという人間失格の一節が浮かびました。
(そういう意味では割り切れているのかもしれない)
本作ヴォネガット版「罪と罰」なのかもしれないなぁなどと思いました。
自分の「歯車が正常」と思っていて、なんだか「やりたくないことをやっている」と感じている人にお勧めです。
日本のサラリーマンは殆ど?(笑)
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本作、今年の「ハヤカワ文庫の100冊」に選ばれているようで帯がついて新装版が平積みされている本屋もありましたが、別の本屋で旧版での入手です。
(この本屋ガラパゴス的な文庫の在庫が置いてある穴場で、ちょっと嬉しくなる。)
![](http://farm6.staticflickr.com/5545/10302130695_2822222764_n.jpg)
本作「タイタンの妖女」の後、1961年に刊行されています。
訳本としてはこのハヤカワ版の他、池澤夏樹氏訳の白水版が存在するようです。
内容(裏表紙記載)
第二次大戦中、ヒトラーの擁護者として対米宣伝に携わったハワード・W・キャンベル・ジュニア―――はたして彼は本当に母国アメリカの裏切り者だったのか? 戦後15年を経て彼の脳裡に去来するものは、生真面目な父、アルコール依存症の母、そして元美人女優の妻ヘルガへの思いだった・・・・・・卓抜なユーモアとシニカルなアイロニーに満ちたまなざしのもとに、時代にもてあそばれた男の内面を自伝のスタイルで描いた感動の名作。
上記が内容紹介ですが果たして「感動」の名作なのだろうか?....。
「名作」だとは思いましたが。
本作は、SFっけのない現代小説でいかにもヴォネガット的な語り口で書かれています。
中盤若干もたつき感がありますが、意外な展開が続き、はらはらどきどき面白く読めました。
「面白さ」という点では次作の「猫のゆりかご」の方が上な気がしますが、SF的仕掛けのないストレートな展開でわかりやすい作品になっていると思います。
ひとことで感想をいうと....「割り切れない」という感じでしょうか。
ヴォネガットの作品はこれで4冊目ですが、基本スタンスは同じな気がしました。
人生の「目的」とはなにかということと、「意志」で環境もしくは運命を変えることが可能なのかというのが基本テーマでしょうか。
主人公の男性は割り切れない状況で、どうにもならずどんどん悪い方向に向かい最後までどうにも割り切れない状況で終わりを迎える。
という同じような作品なのですが、このトーンが気になり読み続けてしまう...。
登場する男性は割り切れない状況に陥りますが、一方で作中女性の方は割とスッパリ状況を決めて飛び込んでいったり、自己完結(死んだり)していくというのも共通点なような気もしました。
そういう意味では女性に優しい作家なんでしょうかねぇ。
さて、本作の主人公キャンベルは状況に流されるまま、本人が思ってもいないことを書いたり言ったりしてナチスへ協力します。
本気で「やりたい」ことではないのですが、優秀なだけにとても「うまく」。
自分でも「くだらないことをやっている」ことを認識していて、「僕が悪いんじゃなく状況が悪いんだ」と考えている。
その一方、なんだか流されてアメリカのスパイとしても働いている。
(こちらもなにか目的とか意志があるわけでない)
主人公の状況なんだかよくわかる....。
中年サラリーマンたる私は多かれ少なかれこんな感しじゃないでしょうか?
「こういう大きな事業を立ち上げたいんだ」という目的をはっきり持っているわけでなく、「なにがなんでも偉くなってやる」というような意志もない。
そうはいいながらもそれなりに真面目に仕事していたりする。
「目的」を組織に丸投げしている人間が、徹底的に裏目な状況に陥ってなにもなくなったら...どうなるか?
キャンベルは愛する妻も戦中に失うわけですが、愛する家族さえもなくなってその時自分はなにを目的に生きるのか?....重いですね。
印象に残った場面、
キャンベルが「僕の頭の歯車は、ナチスの狂信者などと違い欠けていたりするわけでなく本当は何かをわかって上でしかたなくやっている」と独白している場面。
でもキャンベルがやったり言ったりしたことは狂信者と変わらないことを、かなりうまくやっている...。
「歯車」がどこかで欠けていなければ信念「目的」など持てないのか?
「自分の歯車が正常」などというのは妄想で、いいわけなのか...。
どうなんでしょうねぇ。
あとキャンベルが、「何をやってもいい」といわれて放り出されて「自分がなにをやりたいのか?」「どこに行きたいのか?」わからなくなり立ち尽くしてしまう場面。
これもなんだかわかるなぁ....私だったら「とりあえず飲む」かなぁ(笑)
作中クライマックスで、主人公の妻の妹「レシ」は最後に「猫のゆりかご」のモナとほぼ同様の行動をする場面。
「猫のゆりかご」ではその後主人公はボコノン教に救われるわけですが「何かを信じる」意志のないキャンベルは立ち尽くすだけ...。
最後は自分で自分の状況を決めてしまおうということになるのですが、どうにも割り切れないラストな気がします。
「“罪”の反対は“罰”?」などという人間失格の一節が浮かびました。
(そういう意味では割り切れているのかもしれない)
本作ヴォネガット版「罪と罰」なのかもしれないなぁなどと思いました。
自分の「歯車が正常」と思っていて、なんだか「やりたくないことをやっている」と感じている人にお勧めです。
日本のサラリーマンは殆ど?(笑)
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