思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

官僚政府による一元的な教育管理の思想は、戦前の国家主義と同じ(中山大臣ら文教族の本音)

2008-09-28 | 日記
文部科学省の官僚(いわゆる霞が関官僚と呼ばれる行政官僚であり、立法と司法に関する官僚とは異なる)と文教族と呼ばれる保守派の議員とが一体化したわが国の教育行政は、北欧などとは大きく異なり、一人ひとりの子供の側(主観性)に立つのではなく、保守主義者の思想(客観主義)に合わせて学校を管理するというものです。

「天皇陛下を中心とする単一民族国家である日本」にふさわしい子供を育成するのが国家の役割であり、従ってその国家意思(国体)に反対する日教組は、諸悪の根源であり、これは政治権力をもって潰すべき、というのが中山国土交通大臣の思想です。

わたしは日教組の思想には共鳴しませんが、中山大臣をはじめとする文教族の国家主義思想(哲学的には明治の山県有朋ら国権派の思想と同じ)にはさらに共鳴しません。

「日教組は何とか解体しなきゃいかんと思っている」(27日)「日本の教育の『がん』である日教組をぶっ壊すために私が先頭になる決意だ」(28日)(共に中山国土交通大臣)と言う発言は、保守派の実力者といわれる政治家からいままでも繰り返し聞かされてきましたが、こうした戦前の哲学(国体イデオロギー)による教育の国家管理という発想は、民主主義の原理とは二律背反であり、断じて許せません。

近代市民社会の原理(対等な個人による「自由の相互承認」に基づくルール社会)から逸脱した思想をもち、官府の決定に反対する者は排除する、というような人は、民主制社会における市民の代行者にはふさわしくありません。

≪反対する自由≫がなければ、社会(流動的で活力に富む生きた人間の集合)は死んでしまい、固い固形物のような国家(あらかじめの「真理」=「客観」の強要である国体)だけが残ります。
個人の悦び・可能性を広げる生きた社会は、絶対者がいない社会・異論が歓迎され、それに依拠する社会=民主主義の原理につく社会以外にはありえません。

【自問自答と自由対話】こそが、教育と個人のよき生と社会運営の普遍的原理なのです。


武田康弘

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以下は、コメント欄です。

[ 通りすがり ] [2008/09/28 20:34]

あなたが、「断じて許せない」と言っていることと
絶対者がいない社会・異論が歓迎され、それに依拠する社会=民主主義の原理につく社会とは矛盾しませんか?
アホな大臣の発言も異論の一つではありませんか?
貴方がこのブログで発言できることもまた、絶対者がいない社会・異論が歓迎され、それに依拠する社会=民主主義の原理につく社会を我々が持っていることの証左だと思いますが・・・

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[ タケセン ] [2008/09/28 21:28] [ Myblog ]

通りすがり さん

詭弁を弄されては困りますね。
民主主義社会では、自由と人権を否定する自由はないのです。この原理を受け入れなければ、近代市民社会は成立しません。
古代国家でも封建国家でも独裁国家でもなく、民主主義国家の原理は、「自由の相互承認」なのです。政治権力を使って合法活動をしている団体をぶっ壊す自由は認められない、これが民主主義社会の簡明な原理です。

コメント
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