思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

原理としての思考(恋知) と 知識としての理論(イデオロギー)

2006-03-11 | 恋知(哲学)

原理の次元を踏まえて思考するのがほんらいの恋知(哲学)ですが、一般に言われる論理の営みとは、「知識としての理屈・理論」という世界でしかないことが多いですね。

ここに不幸を生む主要な要因があります。
そのような論理であれば、論理とは無用なもの、いや有害なものにしかなりません。生活世界の問題を解決し、人生や社会を魅力あるものとするのでなければ、論理には存在理由がありません。目を濁らせる理論武装によってエゴを肥大化させるだけです。

そんな理屈や理論なら出来るだけそのようなものに関わらずに生きた方がよい、ということになりますね。

そういう知識としての理屈の塊ではなく、自分の生活世界の体験に照らし、おおもとに戻して原理的に考える営みはいかに可能か?それを探求するのがほんらいの恋知(=哲学)です。

部分的な合理性を探求する個別学問に携わる場合も、そこに自閉したらアウトです。人間の生の全体を志向する全体的思考をバックボーンとして持っていないと、個別学問は生きて役立つものにはなりません。そうでないと、かえって専門知崇拝の権威主義に陥り、生身の生きた人間を部分合理にしかすぎない世界に圧し込めるという根源的な不幸を招いてしまいます。

原理に戻して考えるという営みには、それ相当の順を追った努力が必要です。独りよがりや、集団よがりに陥っては台無しですから。
イデオロギー(理屈の塊)ではない思想、「恋知」という思索と生き方を始めるための基本は、まず思考の原理=認識論を了解、会得することです。一人で読むのであれば、 「はじめての現象学」竹田青嗣著(海鳥社刊1700円)が一番のお勧めです。

ただし、はじめに注意しておかねばならないのは、 「認識論」とは思考の原理であり、どうしても踏まえなければならない基盤ですが、それは、自分で考え・生きるための前提にしかすぎないということです。「価値意識」なしに人間が生きることは不可能ですから、広い意味での思想は必須のものですが、その自分の考え・思想を育てつつ生きるための基盤として役立つのが「認識論」という原理なのです。ここが終わりなのではなく、ここから自分で始める=始発点なのだということを明晰に意識しておかないと、「認識論に自閉する」というおかしな話になってしまいます。自分の体験を基にして自分の頭で考えることを始めるための基盤ーそれが認識論としての現象学なのですから。

武田康弘



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