思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ハイデガーとサルトル、竹田哲学と武田哲学

2010-03-13 | メール・往復書簡

武田先生

受動性の哲学のハイデガー論、大変参考になりました。
勇気あるとても良いご意見と思いました。最近私の大切な
恩師が逝去し思考能力が低下しておりますのでこの件は、
またのチャンスで私の意見も述べたいと思います。先生と
ハイデガー論をするにはまたハイデガーを読まないといけ
ませんので。一点のみ本日は記します。前期ハイデガー
『存在と時間』の頃は、サルトルもハイデガーに能動性の
哲学を見ていたように思います。『実存主義はヒューマニ
ズムである』でハイデガーを神なき実存主義といっています
ね。「死への存在としての」現存在はそのような死への不安
や自覚から再度生を捉えなおし再構成しようという意気込み
のようなものが、『存在と時間』にはあったように思います。
だからサルトルも影響を受けたのでしょうかね。ただ、
「転回」以降のハイデガーは先生の文脈で言うと受動性の哲学
だったのかもしれません。それを哲学の自殺とまで言われると
難しい判断です。アドルノだったら先生のご意見に賛成でしょ
う。私にはそこまでの判断はつきません。
結論として、ハイデガーの哲学は私が求めている哲学ではあり
まえん。ただいまだに彼の論文を読んでいるとやっぱり引き込
まれますね。(笑い)どのようなものに引き込まれるかはまた
のチャンスに。

内田

――――――――――――――――――――

内田さん
はい、そうですね。
前期と後期は明らかに違いますよね。しかし、「存在と時間」自体にすでに問題の根
はあると思うのです。人間存在の分析と物の存在の分析を分けて考えることはできな
いはずですから。また、わたしは、サルトルの思想が「正しい」と考えているのでは
なく彼の哲学ならざる哲学が為になるー面白いと思うのです。哲学を「正しさ」競争
から解放しないと、能動性は支えられない、そう思うのです。「正しさ」を基準とす
れば、哲学は死ぬ(客観主義へと堕ちていく)。それがわたしの基本思想です。後期
のハイデガーも「正しさ」競争をしたのではないのですが、「受動的な存在論」がそ
れを導いてしまった、というのが私の見方です。
武田
――――――――――――――――――――――――

武田先生

ありがとうございます。
私もサルトルの思想が「正しい」と考えたことはありません。
あのサルトルの楽天的といえるほどの主体的な思想はどこから来る
のでしょうか?よくアンガジェするとか言っていましたね。(笑い)
「受動的な存在論」という文脈からすると、前期ハイデガーにも確か
にそのような根はあったと私も感じます。基礎的存在論(存在とは何
だろうと質問している人間存在の研究)の次の問題ですね。
しかし、哲学史家としてのハイデガーは驚くべき存在です。哲学史家と
してのハイデガーを「正しい競争」から評価しても意味がありません。
また、短い哲学論文ですが『同一性と差異性』とか強靭ともいえる思索
力で本質に迫ろうとします。
再度申し上げますが、ハイデガーの哲学は私の求める哲学とは違うのです。
主体性の哲学という文脈では、サルトルやヤスパースの方が近しい存在と
思います。
(ヤスパースに関しては先生も竹田青嗣さんも批判的のようですが?)

                               内田
――――――――――――――――――――――――

内田さん

哲学を知る、というときの「知る」は、考え出す・生み出す・提案する・意味を与える・・・という「主観性の知」です。徹頭徹尾「意味論」なのであり、したがって、通常の勉強・学問(「事実学」)とは頭の使い方が異なりますが、その点の認識が明晰でないために、ありもしない「正解」を求める悪弊から抜けられないのではないでしょうか(=一神教の枠内にある哲学)。サルトルの哲学は、その悪弊を打ち破ろうと企図したものでしょう。 「専門の哲学の学者」ではない「哲学する者」としての哲学者というのがサルトルであったと思います。  「理論」(静的な論理の構築物)ではなく、自らの生きる姿勢を問い、生を創造する哲学であり、したがって「研究」しても意味がないわけです。知的言語ゲームではなく、心身全体によるその都度の思索なのではないでしょうか。

武田

――――――――――――――――――――――――

武田先生

ありがとうございます。大切なポイントですね。
「心身全体によるその都度の思索なのではないでしょうか。」⇒ 哲学的に知るとは、
先生の文脈から考えると、『全身による会得』というような感じでしょうかね。
正に意味を与えるのは、主観であるこの私ですね。意味論であり主観性の知ですね。
知られて事実だったら勉強したり、研究したりしてもよいのですが、こちらがその意味
を与えるのですから主体的な行為の問題となると思います。
極端に言えば、未知の事物に出会ったときにどうするでしょう。無条件・無前提・今ま
での常識は通用しません。そのときは裸の個人として、その事物に対峙せざるをえない
のです。その時、人は意味を与えるでしょう。ただ、そのような反射や行為に伴う知を
会得するには、常に訓練が必要かもしれません。それは、勉強や研究とは違ったもので
しょうね。
違った頭の使い方をしないと確かに対応不能なことだと思います。今の学校の勉強では
ダメですね。柔軟なしなやかさを伴う、とっさの時の実践知のようなものでしょうか。


追伸 竹田青嗣さんと竹田先生の哲学の違いについて私なりに想像します。

ちょっと話しは外れますが、昨年東大名誉教授の高崎直道先生にお会いしました。その際
開口一番、「仏教学は文献学なので哲学でないのです 哲学はできません」と言われま
した。私が、比較思想(哲学)を研究しているのをご存知で言われたのでしょう。高崎
先生は、『如来蔵思想』の世界的な研究者です。如来蔵とは、仏性と同義の言葉です。
簡単に言うと、すべての人に仏となる性質が本来私たちには誰にでも備わっているとい
う意味でしょうか。私は、高崎先生を仏教哲学者と思っていましたのでその発言には驚
いたと同時に、先生の学問である文献学への真摯な態度と誠実で謙虚な人柄に心をうた
れました。高崎先生は、僧侶でもあり市井の民に接しておられることもあって東大病か
ら遠い立派な方と思いました。

本論に戻し、竹田青嗣さんの哲学は常に厳密な文献学的手法を用いテキストを正確・精
緻に読み込むことを基本にされていると思います。その意味では原典主義の伝統的な日
本の哲学者の態度のように思います。学者としては、正に正統的かつ立派な姿勢をお持
ちです。その成果がヘーゲルやカントやフッサールですね。
そこをベースにして自らの哲学を表現されているのでしょう。だから、テキストの読み
に執拗にこだわられていると思います。私など非力な原典が読めないものからすると驚
きですが、居直ってしまって「偉大な思想は誤読から始まる」親鸞や道元など・・・と
思っております。恥ずかしい限りですが。
武田先生の哲学はそれと正反対で、直接的な体験や経験から立ち上げる哲学でありテキ
ストはあくまで参考程度というところだと思います。もちろん、先人他のテキストを読
むことは、体験や経験だと思いますがそれは2次的なこと。まずは、子供たちと学び遊
ぶところから、自分と同じ考えや異なる考えの人との対話から、自由闊達な人との交わ
りから立ち上がってくる哲学と思います。
どちらの哲学がより価値があるかとは言えないと思いますが、このスタイルの違いは大
きいですね。ただ竹田青嗣さんのようなスタイルで哲学をしている方は、彼ほど素晴ら
しく行えなくても結構おいでになるし、私も存じ上げております。
ただ、武田先生のようなスタイルの方は、哲学の世界ではいわば天然記念物の希少価値
生物(失礼です)なのです。ただ、市井の民にとってどちらが頼りとなるかということ
です。本来哲学は、「いつでも、どこでも、誰でも、ただで」行えるものと思っており
ます。そのような開示性がないと、民は哲学から離れるでしょう。
つまり、学者が求める哲学と民が求める哲学は違うということでここに日本の哲学界の
不幸があるように思います。一番肌身で感じておられるのは、30年市井の民の中で哲
学をされている武田先生でしょう。

内田

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