思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

哲学することの意味。「超越性原理」の批判

2010-05-11 | 恋知(哲学)

以下は、5月4日のブログ『恋の比喩、優れたイメージの喚起がソクラテスの優位を生んだ』に対する古林治さんと内田卓志さんのコメントです。


哲学することの意味   古林 治


10代の頃から哲学には関心がありました。哲学には、より良く生きるために必要な知恵、もしくはヒントのようなものがあるのかも、と思っていたせいでしょう。
哲学がタケセンの言う、
『自分の生に深い納得を生み、よろこびを広げ、生活世界を豊かにし、問題解決の方途を見出す能動的な哲学(恋知)』
であったならまったくその通りで、「哲学する」とは、人が追求する価値のある行為です。

一方で、学校で学ぶ哲学はそれとは異なるもので、何か『奇妙なモノ』、『私たちの生きる世界と乖離したモノ』という印象を持っていました。
難解な用語を駆使し、現実とは異なる崇高な(観念の)世界があるかのように語る人が少なくなかったですし、哲学を語る動機に不純なものを感じてもいたからです。それはタケセンの次の指摘の通りです。
『異様に難解な理窟の山は、脅迫観念がつくる理論武装なのです。そのために、今でも哲学は不全感の隠しや歪んだ優越感の発露としての役割を果たすことが多々あるようです。』
哲学することで、他人(ひと)にわからぬ難解な概念を操作できることが優れている、という錯覚に陥ってはならないでしょうし、私たちの生きる『意味と価値の世界』から乖離した哲学であったなら哲学などないほうがよいとさえ言えます。

健全に哲学する、そのためにはどうしたらよいのか。
タケセンが実践している通り、徹底して生活世界に身を置き、徹底して日常言語によって考え、徹底して他者と対話し続けることでしょう。(私も専門用語‐哲学用語を出来うる限り使わないよう配慮してます。)
当然のことですが、他者とともにより良い考えを導き出そうという強い意思を前提にしていることはいうまでもありません。
実はこれが本当は難しい。学歴の高い人、地位のある人ほどこれができない。この国で長い間醸成された序列意識というものが邪魔をするのでしょう。東大病はその際たるもの。
私の考えは正しくなければならない、という意識が強すぎて柔らかく自分の考えを紡ぎ上げることができず(非を認めず)、過剰に自己防衛に走ったり攻撃的になったりするのです。
実際に偉い人がソクラテス(タケセン)にやり込められる場面を数多く目の当たりにしてきたので、強くそう思います(笑)。気をつけねば。
自戒をこめて。

追伸.
昔、タケセンのところで(確かフッサールの勉強会やってたとき)、なぜここまで異様に執拗にこねくり回してしつこくしつこく却ってわかりにくくなるような説明や表現が哲学には必要なのか理解できないと尋ねたとき、
『一神教(キリスト教)と強力なギリシャ哲学との折り合いをつけるための2000年間にわたる葛藤の集積があったのではないか。』
というような答えに妙に深く納得した覚えがあります。それ以来、哲学との距離のとり方が少しわかったような気がします。
そういうわけで、次の一節は今も私にはふか~く響いてきます。
『ついでに言いますと、恋のもつ至上性・唯一性への憧れ心は、一神教のもつ絶対性・超越性・唯一性への要求と符合したのです。一神教は、恋愛の聖なる狂気(シンボルはエロース神)を神への愛と献身(シンボルは受難の十字架)に変奏させたのでした。ただし問題は、恋はそれが恋だと自覚されている至上性への憧れですが、一神教の神概念は、その至上性を観念の領域を超えて現実であると信じ込む点です。
ここに、哲学(恋知)における納得(普遍性)の追求と一神教の違い(絶対性・超越性を求める)があります。恋の聖なる狂気は、それが「狂気」であることを知っている意識ですが、一神教に囚われた人の場合は、観念と現実が一体化してしまい、いつまでも覚めない夢を見続けてしまうのです。次元の相違を知らないのが一神教者の危ないところだと言えます。』

哲学ではなく、恋知であるならば、これからもせっせと鍛え上げていこうと思いますし、皆さんにも積極的にお勧めです。


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以下は、内田卓志さんのコメントと、「超越性原理」についての武田の見解です。

大変共感する内容  内田卓志


 大変共感する内容です。
 武田先生のご主張よく分かります。哲学に携わっていない人、関心がないと言っている人にこそ、本来の哲学が必要だということでしょう。武田先生に共感する最大の点はつまりそこなのです。哲学は、大学で行う哲学史と難解な認識論や言語論を探求する重要な側面を持っています。
 つまり純粋学問の世界では、このような研究や探求が人文科学や学問の進歩・発展に大変重要なことです。
 ただし、本来のソクラテス以来の哲学の本筋は、民が現実世界の問題や困難に対峙したところで、どう原理的に物事を考え、そこからどう行動していくかという切実な問いかけにあると思うのです。だから武田先生に共感します。
 今までは、私も大学の哲学者がそういうことをやるべきと思っていました。(山脇先生は大学内で健闘していますね)ソクラテスは、「恋」という誰もが身近な問題に対しそこで対話を行いました。仏教の哲人たちは、「恋」を執着と考える傾向が強く、執着をすて自由になることに重きを置き対話の対象とはならなかったのです。
 その後、龍樹がでて『中論』等により縁起説(空)を展開して東洋的関係論を確立するのですが、そこでも深遠かつ難解な哲理(言語論)のため民の関心とはなりませんでした。
 恋(愛欲の肯定)については、「密教」にいたって興味深い展開を示しますが、これも一方通行で民と民の対話にまでには発展しなかったのです。
 ただし、最近になってようやく本筋である民の側から行動を起こして行かないとダメだということがわかってまいりました。行為の主体は、生活しているこの「わたし」であり「あなた」なのです。白樺の運動の要はそこにこそあると見ております。

追伸:一神教と哲学の問題、大変興味深く拝読。この問題に関しは、かつて梅原猛氏が一神教の危険性を指摘し、加藤周一氏が反論しました。竹内芳郎氏は、解放の神学等の超越性原理貫徹の態度を高く評価していたと思います。私は仏教徒なので一神教論者ではないですが、検討すべき重要な問題です。今後武田先生と考えてまいりたいと思います。

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「超越性の原理」は乗り越えるべき思想  武田康弘


「竹内芳郎氏は、解放の神学等の超越性原理貫徹の態度を高く評価していたと思います。」(内田)

その通りです。わたしは、20年~30年ほど前ですが竹内芳郎氏の著作を全部読んで、いくつかは詳細なレジュメもつくり、討論会も催しました。竹内さんも「武田さんほど私の思想を理解している人はいない」と公言していたくらいです。

しかし、わたしはその「超越性の原理」という思想は、乗り越えられるべきものと見ています。自己や既成社会への反省・批判の立脚点を「超越性」に求めると、その自らが選んだ(つくった)特定の視点に縛られ、批判は外在化し、思想は宗教化(絶対化・超越化)するからです。

そうではなく、イマジネーションを広げる営みにより、いろいろな立場の他者の眼・心を少しでも自分のものとして複眼化し、その眼・心による「自問自答と他者との対話」をラセン的に繰り返し行うこと。それが優れた反省や批判の視点・立脚点になる、というのがわたしの考えです。
自らの生活世界における具体的経験を「対象化」する視点は、人間であれば誰でもが持っていますが、その対象化する力を意識的に鍛えることにより「自問自答と他者との対話」は豊饒化していくわけです。

超越性の原理ではなく、己を対象化する(これは人間の本能と言える)営みに基づく「自問自答と他者との対話」こそが、反省や批判の拠り所なのです。(武田)

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宗教の超越性原理に代わるもの  内田卓志


 私も先生のご意見に賛成です。
 先生のご主張から、私も考えてみました。

 超越性原理は、宗教的な原理でありそれは普遍宗教だったら必ず所持しているものでしょう。宗教内部では、この原理が教義ですので徹底的に守り貫く姿勢が本来求められます。
解放の神学や日蓮宗の不授布施派などが最も良い例です。ただ、ほとんどの日本の宗教(特
に仏教教団)は超越性原理を権力側からの弾圧を恐れ放棄したのでした。本覚思想の拡大・
展開は必然だったのかもしれません。

 そこで、21世紀に求められる批判原理とは、このような超越性原理に代わるものでなければならないはずです。超越性原理はある場合、強力な批判原理として成立しましたが、またある場合は排他的原理として成立し、究極的には宗教戦争を引き起こす要因ともなりました。そのような超越性原理を乗り越え、多様な宗教や人種の人々が同じ土俵で対話可能な批判原理の形成が必要なはずです。

 やはりそれは、ギリシャ以来の哲学の伝統から導き出せると思うのです。それこそ哲学の王道(山脇先生曰く)である主観性の知を鍛え深耕することに他ならないと思います。 
          
 自己に対する徹底的な智見・徹底個人主義による生活の実践により生活(世界)の具体的経験を対象化していく。その上で必要なことが、「自問自答と他者との対話」なのです。
そのような具体的経験をもとに弁証法的に対話(継続的にらせん状に自問し対話を行うこと)を継続的に行っていくこと、そのような一歩一歩の地道な行為により哲学的な批判原理を合意形成すべきものと考えます。

 もちろんその合意形成とは、文明の衝突論とは異なる東洋や西洋を包括するところのある種の普遍性が必要であり、それは宗教の超越性原理ではありません。認識・行為・評価などを行う意識をもつ人間存在の中心である我(主観)を徹底的な智見でもって深く、強く、鍛え耕す思考であり、また主体的な行為でなければならいでしょう。

 つまり、どこまでも主観的な知と主観的な知との対話から生み出され成立する共感や鳴・共有、そこから合意形成を始めるべきものが、現代の批判原理たりうるものだと考えます。
 また、この批判原理はかつてハーバーマスが批判されたような、西洋中心主義の知ではないことを付け加えましょう。(内田)

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