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武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

受動から能動へ (3)

2010-03-21 | 社会思想

受動から能動へ (3)

(1)受動性の哲学から能動性の哲学へのコペルニクス的転回が必要です。

(2)惰性態から能動態への跳躍を可能とする新たな哲学を


皆がどう思うか、皆がどう言っているか、皆がどう評価するか、
それを知るのはよいですが、そこに留まるのはダメです。
私はどう感じるか、私はどう見るか、私はどう考えるか、という能動態にまで進むことがなく、皆は、という世間の価値意識を知るところに留まると、それはプラスどころか、マイナスの結果しかもたらさないからです。

人間は、現実次元の思考と行動においては、能動的な態度を基本にしなければ、「私」の生の意味・価値を感じることができません。人間としてのプライドは、世間的な成功者にのみ与えられる、ということにしかなりません。外的評価に怯え、受動態として生きると、「私」のよさは消え、一般人=ただの人に陥っていきます。

眼差し返す力が弱く、皆のもつ価値観に従って生きることを基本にしてしまうと、他者の眼差しのドレイになってしまいます。深い意味と価値ある世界は、【善美に憧れ、何がほんとうなのかを探求する】ところにつくられるのであり、受動的な存在論(=人間解釈)に支配され、受動的な生き方しかできなければ、人生は決して色づきません。いつも世間的な成功のみを基準に生きると、たえず他者の評価を気にする神経衰弱となり、「私」=内的世界の充実が得られなくなります。

わたしは、「こうしたいので、こうする」という能動性こそが人間の健康な生の条件なのだ、という基本思想をしっかり社会に根付かせ、よい生・よい社会をつくりたいな、と思っています。哲学は、一人ひとりの能動性を生み出すために努力するところに存在理由があり、その反対に受動性を流布するのであれば、「犯罪」です。精神疾患が増える現代社会に寄与する哲学!?では笑えない笑い話にしかなりませんから。

人生や社会の意味ーどういう生が、どのような社会がよいかのは、「私」がつくりあげていくものであり、他者・世間から与えられるものではありません。心身の能動性を生みだすには、どう考え、どうしたらよいか?をみなさんと共に探求していきたいと思います。ぜひご一緒に。


武田康弘

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