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思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

マイファースト(エゴイズム) ではなく、精神の自立(公共に開かれた私)を! fbやりとり。

2025-06-20 | 恋知(哲学)

fbの武田語録と返信欄です。

自分が中心、自分の快と損得が一番、でも、口では立派な理性派。自己正当化の理屈を日々考える。自己こそ!が実存主義????育ちのイカガワシイ人は、そのように実存を遇する。ここまでくれば、何もかも元からお終い~~ですね。皆のためはお題目。マイファースト。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

武田 康弘
これは、大多数の実業家の赤裸々な姿であり本音。世間受けする善は積み、評判は確保。外づら人間で、それが偉い~~~~。自分の損得と趣味だけで生きる。公共の押し開きがなく、実践行動はない。形を整え、言葉でごまかす。いい人生~~~(笑笑)
人間は何かの追求がなく、わたしが生きる意味はない。
 
 
損か得か?
人間のものさし
嘘か真か?
仏様のものさし
相田みつを
を連想します
見返りを求めるのが人間(見返りが得)
見返りを求めないのが仏様
しかし、人間は行動にうつせるか、、、は難題
 
‎、「‎25 も 佛之論老 問い 佛 ٤ ១ さ 3 جع ま か ព * も み راه か を ၇ ま C gain loss the scale fhumans truth falschood the scaleofBuddha leo Buddha‎」というテキスト‎の画像のようです
そうかなぁ。
ボクは、この考え方は、的外れだと思う。
それほど自分ファーストのヒトは、日本人には、少ないのではないか?と思っています。それよりも、世間ファースト、会社ファースト、組織ファーストのヒトたちで、溢れてるのが、この国だと思います。でないと自殺するヒトは、もっと少ない!自分ファーストなら、自殺しないはずだからです。周りのヤツらが、ファーストのヒトが、多いと思います。武田さんは、ひとり活動なので、わからないと思いますが、自分ファーストなら、コロナの時、あれほどマスクしてるヒトたちが、溢れなかったと思います。この国の問題点は、自分ファーストにあるのでは、無いです。周りファーストにあります!
 
石谷さん、
マイファーストと周りファーストは同じです。

自己のありようを赤裸々に見つめる心は、自我にとらわれていると開きません。
マイファーストは、自我ファーストです。普遍性のある(仏教ではダルマ=法)世界を見ようとする自分は、マイファースト=自我ファーストにはならず、自帰依―法帰依のわたしになります。
周りファーストは、自我主義の拡張・強化と同じで、自帰依―法帰依のわたしではなく、他者=周りのエゴイズムの目を気にしてるので、エゴイズムに変わりはなく、自他のどちらのエゴを優先させるかだけの違いで、本質は同じです。日本の場合は、この形をとることが多いので、天皇教=集団同調主義になります。

普遍的なよきもの(善美=good・beautiful)への目がけがなく、自我のわがまま・自我拡張主義は、自他を活かさず、自他を殺します。いや~~な空気を醸す、どんよりした輝きのない目、つくりものの形式主義、理屈が先行する生、固く暗く重い人間性・・・・・
これらは、マイファースト=周りファーストが生み出します。言葉を変えれば、自我主義=自我の開きではなく、閉じた自我(自が先でも他が先でも同じ)主義です。自我の押し広げ、自我の開放ではなく、エゴイズム。
他のエゴイズムを優先させるのも、わたしの自我を優先させるのも同じメダルの裏表にすぎないわけです。
 
他のエゴを、優先させるのが、マイファーストならば、個人主義でも無いですね。
自分も大切にしないのだから。VIVANTというドラマの最終回に、組織を優先させて実の親を、殺していた、あの不気味さは、ああこれが日本人なんだなと、思いました。
身内から戦争に反対するヒトがでたら、喜んで告発する。そんな国の人間です。身内に犯罪したヒトが、でたら、理由も聞かず、捕まえてもらう。そんな国です。単なるエゴイズムよりもタチが悪いと思いませんか?

 

そうですね。個人のエゴイズムと集団のエゴイズムが融合しているのですから、これ以上酷いのはありません。普遍性の意味を知らない人と組織しかない。その象徴が天皇制度です。フィロソフィーは大元から成立しません。わたしとはエゴイズムのこと、と矮小化され、貶められて、何もはじまりようがなく、普遍性をめがけるわたしは消されます。廃仏毀釈という凄まじい思想と実践を招来しました。
それでは、自分を大切にする、ということは、エゴイズムとは、違いますね。
自分の価値を見つけ、自分に自信を持って生きていくのは、エゴでは無い。
なんかフワフワした、のんべんだらりとした、自分でいるコトが、エゴイズムかもしれない。というコトは、個人の考えを持たないのが、そもそもダメなんだと思います。
確固とした個人であるコト!これがエゴイズムと対極ではないか?
石谷 真 さん
まったくその通り!です。それがフィロソフィーで、南無恋知です。 (次に続く)

 

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明治政府が作成した天皇カルトは、いまもまだ。明治政府がつくった天皇という記号の呪縛ほど恐ろしいものはない。オウムと同じ構造。

2025-03-20 | 恋知(哲学)

 日本支配のために、トルーマン大統領とマッカーサー司令官が創作したのが、日本国憲法第1条の「天皇はシンボル」として天皇教ー天皇制を残すというものでした。
トルーマンの演説「日本人家畜化計画」の柱が、象徴という名で天皇制を存続させることでした。

【私】の精神的自立を、
ブッダの根本思想(①人はみな天上天下唯我独尊として生れてきた。②固定した実体は存在せず、すべては縁により起きるという縁起の法。③自帰依・法帰依ー自分自身と法則を拠り所とせよ)により果たすのではなく、
権威の頂点に、天皇という記号化された人間を置くという異様なイデオロギーとそのための天皇儀式。

これは、オウム教と同じ構造の宗教で、これほど異様で異常な思想はありません。生きている人間を権威の頂点にすえ、天皇という記号=天皇制に対する検討も批判も一切禁止する(テレビでも新聞でも)という国は、近代民主制(政)の各自の平等と自由に依拠するという原理を元から否定してしまいます。思想及び良心の自由がないのです。理性は育ちません。

ありえない。あってはいけないことなのです。「明治政府がつくった天皇という記号」pdfをぜひお読みください。


武田康弘



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憧れ想うという恋心がなければ、人間的現実は成立しません。

2025-02-18 | 恋知(哲学)
わたしたち日本人はとりわけ誤解していますが、
現実の損得利害という次元も、憧れ想うという恋する次元に支えられなければ、ほんらい成立しないのです。

ものやお金、さまざまな知識、それらがどれだけあっても価値は生じません。
そこに意味と価値を生じさせるのは、惹きつける=魅了するという作用です。それは「恋心」と呼ばれますが、何かに惹きつけられるという恋心が生じることで、はじめてわたしたちを取り巻く世界は意味をもち、色づきます。灰色の世界から彩色の世界に変貌するのです。
 
だから、ロマンや理念の世界が豊かに広がることがないと、人間にとっての現実は成立しないのです。色を失った魅力のない事実人(犬ではなく人であるというだけ)と事実学(意味論のない受験知)だけの世界に陥ります。

多くの日本人は、この人間の生の原理を知りません。逆転しているので、いつまでも不幸です。

小学校から大学まで、このフィロソフィーの根本意味を教えていません。だから、恋心にとらわれることなくしては、ほんらいの学も知も成立しないことを知らないのです。

ただの「事実学」の羅列、その取得-暗記に耐える苦行が知や学だとしています。意味論=本質論こそがほんらいの知であることを教えない教育は、人間抑圧のアイテムにすぎません。昔の白黒映画「ローマの休日」は、恋が人を人間に変えることを教えています。
古代ギリシャ神話で、規則主義・管理主義で厳禁の精神=「必然の神アナンケ」を打ち負かしたのが「恋心の神エロース」です。人を支配するという発想をもたないエロース神が世界の中心になってはじめて、外的秩序の強制(古代王政)から、一人ひとりの自由と悦びの内的秩序による国(ポリスの民主政)が生まれました。

エロース(惹きつけるもの・恋心)は、『個人』の中にしか生じませんし、
また、個人はエロース豊かに生きることで、わたしの存在を肯定でき、意味充実の生の世界を拓くことができるのです。

【恋知への道】(武田著)より。


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事実学(ただの教科の暗記と解法)の累積は、単なる事実人(猿ではなく人ではあるだけ)に陥る。日本には教育がない。

2024-11-27 | 恋知(哲学)

Fb短文 2024、11後半    武田康弘

 

 ソクラテスは、「育ちのいかがわしい者をフィロソフィーに近づけるな」と言いました。善美への憧れを持たず、真実を追求せず、お金や有名であることや地位という外的価値に従う人=恩を忘れる人(自我主義者)、それが育ちの悪い者です。

 

 「エリート」(学校知の勝者)は、表層知=活字・知識に支配されて盲目だ。人間力の豊かさ=真実に乏しく、社会的評価を人生の意味とする。ほんものの愛情がなく、ほんものの理性もない。事実学(ただの教科の暗記と解法)の累積だけなので単なる事実人(猿ではなく人ではあるだけ)に陥る。恋知がないので魅力なしで気味わるい。

 人間の生きる目的は、恋知(哲学)すること、音楽や美術を味わい、創造すること、恋する=憧れること、でも、そうではない文化が蔓延して、先進国の人間ほどダメな存在に墜ちてい。目的は金と権力と愛なきセックス??(笑愚)

 日本の親は、こどもに豊かな人間性を開花させることは興味がない。聞こえのいい学校に入れることが第一。人生の意味も目的も知らないので、何も教えられない。わたしはとても恵まれていたが、多くの子は、時間と共に魅力を失い一般人に沈んでいく。哀しい。

武田康弘

コメント (1)
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11月30日(土)の哲学対話は、哲学の中心=認識論と言語論です。五反田アイアイスクールで。

2024-11-07 | 恋知(哲学)

6月22日(土)の続き 11月30日(土)の哲学対話は、哲学の中心=認識論と言語論です。易しく、役にたつ講座&対話です。

お申し込みは、五反田アイアイスクールまで

6月22日(土)の会が終わった後で、スタッフのみなさんと。

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「脳幹」 恋知=哲学とは、脳幹を鍛えること。キーは「反芻」

2024-09-26 | 恋知(哲学)
古林治さんがわたしの写真とビデオ(押し相撲)を載せて、体幹を鍛えることの重要性を書いていましたので、
それでは、脳幹!?を鍛えるとは?と思い、書いてみました。
体験談です。
ーーーーーーーー
 
わたしは、考える力(脳幹?)が強いのですが、
それは何故か?とふり返ってみました。

幼いころからの毎日のような父との対話、なぜ?どうして?が基礎なのですが、
それは、いつも考える問題(自分自身の関心)があって、それを質問していたのです。
だから、教えられた通りに考えたり、やったりしないのです。納得がえられるまでシツコイのです(笑)。 なんで、それはなんで・・・・ 分からない、うん、ずっとずっと考える~~

だから本を読んで、とは大きくちがいます。小さなときから「本に頼る人は馬鹿だな~~~」と思っていました。点数のいい人と話すと、「ああ、自分で考えていないな」と思いました。それではダメだ。利口な人は馬鹿だな、と。

それで、父は結論を求めないし、言いもしませんでした(断言するタイプでは全然ないのでした)。なので、いつも自分で反芻して考えていました。結論は出ても、それをまた考えるのです。反芻です。シツコク反芻です。それが習い性になり、今でもずっとそうです。結論はあってもないのです(笑)

なので、「こうだ」という言い方をする人が嫌いです。嫌いでも付き合いますが、ああ、ダメだな~~と思っています。わたしは、小学生の算数を中心に教科の問題を教えていますが、いつもはじめに戻って(まだそれを知らな子どものように)考え、教えます。それは反芻と同じで、絶えず、考え直すわけです。でもこれは、相手(こども)に意味を追うことを求める結果になるので、頭の楽しい労働です(笑)。

この反芻の繰り返しと強度が、思考する頭をつくるのではないかな? と思います。効率よく、ではなく、教えてもらい、ではなく、自分で自分の頭で反芻して考える。というわけです。

また、それとダブるのですが、わたしは、言語で覚えない。書き言葉(=活字)を覚えるのではなく(それが苦手)で、イメージ記憶なのです。イメージ、 必要だな、価値があるな、と思うイメージを思い浮かべます。これもシツコイです(笑)。意味と価値があると思うイメージを反芻します。楽しいし、面白いし、嬉しいからです。そのイメージから必要な時に言語化しますので、同じようなことでもその時その場で、言葉が変わります。変えているのではなく、自動的に変わります。イメージは言葉ではないので、言葉から言葉へ、ではないからです。

言語は好きでなく、色や形や音が好きなのですが、でもなぜか、小学1年生のときから、作文は最高評価をつけられ、学校代表、在校生代表、卒業生代表、とされてしまい、なぜだか分からずいつも戸惑いです。文学少年ではなく、作文の練習などしたことは一度もなかったのに。わたしは、読む人に意味がわかるように書こう、という気持だけで、よい文章を書こうとは考えませんでした。

いま、書いているうちに思いました。わたしは現実から立ち昇るイメージの中に生き、何事も反芻しているのだな~~~と。
繰り返しです。筋トレと同じで、考えも繰り返すので、脳の幹がだんだんと自然に鍛えられるようです。恋知=哲学とは想いや考えの繰り返し=反芻=捉え直しのようです。

武田康弘
 
 
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竹田青嗣らのヘーゲルに依拠した「他者承認の哲学」は、人間を受動的存在へと導く。既成価値の内側に閉ざすために、哲学の意味は元から消える。

2024-09-14 | 恋知(哲学)
武田fb

竹田青嗣とそのグループのヘーゲルに依拠した「他者承認の哲学」は、恋知(love of thinking)
としての哲学の息の根を止める。彼らは、西欧哲学の読解作業に依拠して「一般化の海」に沈む生を成熟としてしまう。人間の主体性を消して受動的存在へと導くために、既成価値の内側に人間を閉ざす。哲学の意味は元から消える。
 
 
 
後藤 敦子

おひさしぶりです。いま、「主体」という言葉を使うことは禁じられている(そうです→)「学習理論」(心理学)が、教育、児童福祉の現場で最大権威となっています。自分でものを考えることは禁じられており、こどもを「どこか」(?)が考える「ある方向」に「学習させ」、「どこか」が考える「リスクのない」安全な環境にのみ生きられる児童に変容させる、という…。リスクや葛藤、苦悩を経験することが認められない、これほど脆弱な、めぐまれない境遇はないと私は思いますし、訓練をへて学習理論の実践者になれば、全員、この心理療法で同じ成果が出せると、言い切る…。

日本・精神医学史を築いた、「度肝をぬく、二度と出ない」哲学を基盤とする精神医学者が次々と亡くなられて、学習理論の大問題を思考検討できる方がいない。パブロフ、ワトソンの系譜が乳幼児に行ってきた実験の重大性を考える力量を、心理学がもてない。識者? の学力低下により、現場は… ご存じかわからないのですが、信じがたい現実がありまして、書かせて頂きました。
 
デジタル機器のデジタル思考に合わせてデシタル的に生きる人間を製造し、他者承認の哲学で受動的に生きるようにします。それが成熟した人間。アナログ存在である人間をデジタル存在に変えるのが教育の主眼。訓練をそのまま受け入れるのが優秀な人。実存するのではなく存在する、人間ではなくてデシタル機器。それらを元からすべて雲散霧消させましょう~~~~
「恋知する実存者」として生きるのが人間のよさ、卓越、魅力。
 
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家系図は原理上、書けません。何の意味もなく、愚かの象徴です。天皇制はもう詰んでいます。抗弁不可能です。

2024-07-24 | 恋知(哲学)

女性の遺伝子(卵子)と男性の遺伝子(精子)が一つになり子ができるのです。

ですから、家系図をつくるとなると、せいぜい10世代くらいしかつくれません。

私の母+父、その母プラス父母、その父プラス父母、となりますから、10世代目で1024名ですが、9世代目、8世代目・・を足して約2倍になりますから、2000名越え。

20世代目で1048576人(100万人越えで、総計は200万人越え)となり、到底家系図など書けません。

家系図というものは、特別の一人の存在を起点としなければ書けませんが、その特定の人もまた無数の男女の遺伝子をもっているのですから、何のことか意味不明です。

誰であれ、無数の男女の遺伝子により存在してるわけですから、特定の人から始める家系図を書くという行為は、愚か極まる所業であり無意味です。家系図とはそれ自体が無意味なのです。

無意味を前提とする天皇家の家系図など、あまりに馬鹿バカしい代物で、冗談にもほどがあるとしか言えません。万人は平等とは、特定の思想なのではなく、事実そのものなのです。

武田康弘

続・最終結語

天皇一家に超特権を与える差別の制度を支えるイデオロギー=神武からはじまる家系図という虚構は、わたしの簡明な指摘で、元から崩れました。誰も何の抗弁も不可能でしょう。

神武(実在しないですが)からはじめた家系図、実在したと仮定して、神武も無数の男女の遺伝子からなりますから(わすか20世代で200万人越え)、その男系家系図には、何の意味もないわけです。残念でしたね、天皇さんとその関係者のみなさん(笑)

マスコミの天皇制喧伝者も、自民党や維新の会などの天皇制支持者も、元からお終いで、詰んでいます。
 
 
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哲学の土台=倫理について

2024-07-07 | 恋知(哲学)

哲学の土台=倫理について

分かりやすい例を出してお話します。

誰でも、友人や仲間とは、対面しての対話をするでしょうが、齟齬や行き違いが生じた人とは、とくに対面での(少なくとも電話)での対話は不可欠です。

文字(メールなど)でのやりとりでは、ますます拗れることが多いのは、活字では左脳ばかりになりますので、言葉はかえって誤解や溝を広げる結果になるからです。文字だけからの印象は人による違いが大きいので、あべこべの伝達になってしまうこともあります。

時間を合わせて、対面で話すのは、人間が生きる上で一番大事な「倫理」の実践といえます。生身の人間と人間の話・応接は、生きる者同士が、対等で自由な存在として交わることですので、倫理そのものです。

それを避けるのは、自分の言動に負い目があるからで、自己存在から逃げることになります。自他の存在を見つめるのが哲学=人間的生の大元ですから、逃げたら元からおしまいです。自己だけの倫理的誠実とは、ありえないことで、生身の他者との交わりがなければ、自閉症にしかなりません。自己存在の認識とは、厳しい他者の目に曝されなければ無価値ですので、自分の思いや考えと違いがある者との対面対話が必須で、それが倫理の根本です。

一例をあげれば、言語学の天才といわれるノーム・チョムスキーは、世界の良心と目されていますが、95歳の現在まで絶えず対面での対話を続けてきました。若者とも思想界の大御所とも厳しく対立する人とも、です。1対1で、あるいは数名、数十名とでも。対面での直接対話を驚くほどの時間と労力をかけて行ってきたので、説得力が桁違いに大きいのです。

それが倫理価値の根本です。人が人として生き合う土台が倫理です

 

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史上はじめての【宗教を超え神を越えた】ナーズムオラトリオ  今日の恋知サロンで感動の全曲80分

2024-06-13 | 恋知(哲学)
 原爆で死んだ少女、紙切れのように燃やされ灰になった7歳の少女は、10年たっても7歳のまま。世界的大詩人ナームズによる悲しみと怒りの哀歌は、ファジル・サイの熱く激しいアメリカ原爆投下への憤りのオラトリオとなり、
 人体実験で原爆を落としたアメリカの蛮行を、「神」ではなく「人間」の名で告発し、人間の名で激しく抗議し、人間として悪業と戦い、人間の名で鎮魂した。史上はじめての【宗教を超え神を越えた】この曲は、万人の胸を打ち、万人に勇気を与え、万人を鎮魂する。作曲者のサイは、愛娘と広島で死んだ少女とを重ね合わせてこれを作曲したのが分かる。
 演奏者も数千人の観衆も全員が一丸だ。21世紀初年の傑作「ナーズムオラトリオ」は、アメリカの悪業を糾弾し元から正す。少女の魂にはどんな軍隊でも勝てぬ。
 
  ラストは、どこにいようとも決して死ぬことはないように生きるべきだ。わたしが生きたと言えるために。
わたしが生きたと言えるために、と何回もみなで歌います。最後は広島の少女が「わたしが生きたといえるために」(そう生きれなかった)を歌い、深い鎮魂のフィナーレ。言葉にならぬ感動が広がる。アメリカによる人類史上最大の蛮行による死は、トルコの大詩人ナーズム・ヒクメットと同じくトルコの音楽の天才ファジル・サイにより永遠に刻まれた。


 今日の恋知サロン。【恋知する実存者】の集まりです。あなたもどうぞ。
 
 
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武田先生(タケセン)との哲学対話-認識論を超やさしく 6月22日(土)第一回 アイアイスクール

2024-06-01 | 恋知(哲学)

アイアイスクール五反田。6月22日(土)武田先生と哲学対話。誰でも分かる認識論=純哲学

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ソクラテスによる【恋知者=哲学者の魂の定義】

2024-05-25 | 恋知(哲学)
昔から書いていますので繰り返しですが、ソクラテスによる【恋知者=哲学者の魂の定義】は、
「真実在をこれまに最も多く見た魂は、知を求める人、あるいは美を愛する人、あるいは楽(音楽と詩)を好むムーサのしもべ、そして恋に生きるエロースの徒となるべき人間の種の中へー」です。(「パイドロス」185ページ岩波「プラトン全集5」)

哲学=恋知の象徴は、エロースです(ルーブル美術館蔵・ラコステ人形)プラトンの学園「アカデメイア」の主祭神はエロース。


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「他者承認の哲学」ではなく「自己承認の哲学」へ上りましょう。

2024-04-10 | 恋知(哲学)
    一般的に受け入れられるかどうかと考えて、他者の視点により語るという人が多いですが、そのような「他者承認の哲学」は、哲学ですらなく、処世術にすぎません。
 
 他者に受け入れるか否かではなく、自分の赤裸々な経験を正直に見て話します。そこからありのままの心を自覚し、開示するのです。
 他者から何をどう言われようと、心の真実を曲げずに貫くことが必要です。もし齟齬が生じたら、個人間の問題ならば、対面して堂々と話すのです。逃げ隠れしたら、元から終わりです。

 それは「自己承認の哲学」で、深い納得を目がけます。そのためには、自己を絶対化せず、相手との直接対話を辞さない精神と実践が求められます。自己の主張が正当性をもつためには、ナマの話し言葉でのやりとりが必要なので、文字(ソクラテスのいう死んだ言葉)を投げつけるのでは、話になりません。そのような言動は、害ばかりで益なしです。卑怯でダメな人間の見本です。

 他者から承認されるのは、もちろんよいことですが、そこに留まるのではなく、また、それを目がけるのでもありません。最も大切なのは、善美への憧れと真実の探求です。今ある自分の肯定ではないのです。他者からの賞賛でもなく、孤塁を守ることでもありません。心身の全体ー内部から湧き出る【自然な確信】で、「おれは最高だ」とか「お前よりおれが上だ」というような稚拙な想念とは元から無縁です。静かで深く、かつパワフルで美しい輝きです。攻撃による他者排除ではなく、愛の心から真実を求めるのです。斜に構えるのではなく、真正面から真剣に、でなければいけません。

 自己承認に至るには、自己の経験を土台にしつつ、しかし、それを絶対化する愚を犯さず、近代的自我の確立というイデオロギーに囚われず、「自我の武装解除」が必要です。自由で伸びやかな心身と頭は、自己防衛とか他者攻撃という発想からは生まれません。
 
 自己承認の哲学を生きたいものです。

武田康弘
==============

関口徹
最近よくわからなくなってきてしまいました。自己承認が良しで他者承認、承認欲求が悪というこですか?
 
武田 康弘
他者からの承認が得られて悪いはずはないです。
しかし、
他者承認を気にして生きるのは哀しいです。
悪とか善という話しではなく、承認欲求を超えないと、自分のよき生が始まりません。
関口徹
つまり承認欲求…スゴいね、さすがだね、みたいなものを求めず生きるってことですよね。自己承認はできてるはずなのですが…仕事が年々つまらなくなっていくのです
 
武田 康弘
仕事が面白い人はとても少数ですよね。どうしたらよいでしょうか。
関口徹
仕事辞めることですかね(笑)
でも、やりがいはあるんですよ。給料も安いですが求めてません。自分ではパーフェクト‼️な仕事をできてると思ったり、自画自賛というか、特に後輩たちにはこうやるんだよ。見て覚えてねみたいに実践で示してるつもりなんだけど
他者承認を気にするのは哀しい
わかります。
他者承認を求めるあまり自分を追いつめ、孤独に、そして自分の健康まで害してしまいました。
死にたいほどツライです。
でも、旅をして、自然に抱かれ同化して、美味しいものを食べる。仕事以外はメチャクチャ充実しているのです。
仕事おそるべし
 
石谷 真
仕事に自分なりの目標と、満足を得られるようにしたらどうでしょうか?
それは生き様すべてにおいて、自分なりの方法を貫くというコトです。
他人は、結果しか見ないので、こちらの途中の行動にアレコレ言ってきます。
承認欲求ばかり、求めると自分なりの方法を貫くコトができなくなります。他人には結果まで待ってもらうコトが重要だと思います。いや、結果ばかり求める今の風潮は、途中の考えや、途中の失敗も重要だというコトを、分からなくしてしまって、良くないと思います。
自分なりにやれる寛容なトコロに身を置くコトも大切です。特に仕事としては。
石谷 真
ボクは昔、他人の言葉に乗っかって、仕事を辞めたコトがあります。
後悔しました。他人はあくまで他人です。
他者承認を求めて行くと、さすがだね、すごいねって言われないと、もうダメだ。オレは出来損ないだ、になるコトがあります。
他人が、「つまらないなら、辞めたら良いよ」と言って辞めたとして、その他人は何の責任も取ってくれない。他者承認を求めていくと、承認されるコトしかできなくなる。そこが問題です。承認欲求は持っても良いけど、信頼を誰に置くか?誰のタメにその仕事をするか?何のタメにそもそも仕事をしてるのか?お金が少なくて良いのか?その仕事は、重要なのか?考えるべきコトは、たくさんあります。仕事が面白くないのは、どこに問題があるのか?
死にたいほどツライけど、ホントに死ぬほどなのか?今、死んで無いからツライの表現に、死にたいを使うコトの意味は?死にたいでは無く、逃げたいかも知れない。
ツライコトと、しんどいコトは、同じですか?頭がツライですか?身体がツライですか?旅をして充実する人生に、仕事は必要ですか?必要なら、後輩の承認、もしくは同僚の承認では、ダメなんですか?上司からの承認じゃなきゃダメなんですか?
承認欲求を満たしてくれる他者とは、誰か考えませんか?ボクとか、武田さん達ではダメなんですか?関口様、ボクはあなたを承認しますよ。やりがいのある仕事を辞めるコトくらい愚かなコトは無いと思います。
関口徹
石谷 真さん。
みずしらすの私に熱いメッセージありがとうございました。まさにおっしゃるとおりです。
承認欲求求めすぎてさすがすごいと言われないと満足できない。ドツボにハマるとわかりました。
今日職場の歓送迎会で普段口を聞いてくれないトップともう一人の管理職の方に私なりの体調の現状を伝えました。
自分のことに感心なんか持ってないこともよくよくわかりました。そんな上の人に認めてもらうために働くのがバカらしくなりました。
他者承認を求めるのがいかに愚かでくだらないかよくわかりました。武田さん、石谷さんありがとうございます。
自分の好きな仕事を自分のために続けていきます。

石谷 真
敢えて管理職ばかりに気を取られると、足元の仲間たちのコトが疎かになるとボクは考えます。
この国のヒトたちは、上ばかり見て、自分を見ていない。それは承認欲求というカッコいい言葉を使うけど、自分自身の能力に自信が無いコトの裏返しだと思います。自分のコトをきちんと見ましょう。
体調が悪くて、チカラを出し切れていないかも。もっと自分自身を大切にしてください。われわれは武田さんのような超人では無いのだから。
 
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明治政府が創作した「天皇教に基づく天皇制度」に呪縛され続けて抜けられない日本人の不幸は底知れず。

2024-04-05 | 恋知(哲学)

日本人は、会社員も公務員も主婦も政治家も学者・・・もみな明治政府が創作した「天皇教に基づく天皇制度」に心が呪縛され、そこから抜け出せません。それがどれほどの不幸を生み出しいるかを自覚できません。

「天皇教と東大病と官僚主義の三者一体」による支配は、人々の無意識領域まで管理して、みな腑抜けの状態にさせられますが、
保守主義=国体思想の政治家には、これほど有難いことはなく、政治支配はどこの国よりも楽です。

哲学までも、ヘーゲルの最初の著作「精神現象学」に依拠して、「他者承認の哲学」こそ哲学の最高到達点だという竹田青嗣と彼のグループが人間を羊化させることに努力するありさまです。
深く「自己承認」できるためには、どう考えどう生きるか、こそ哲学の使命であり意味であることを忘れ、日本的集団同調主義(天皇教・東大病・官僚主義) をソフィスティケートするのですから呆れます。


天皇教の序列絶対主義は、エリート職業の人の精神的拠り所となるために、「天皇教と東大病と官僚主義の三者一体」による支配は、永続化してしまいます、個々人の人間としてのパワー・良心・魅力は元から消し去られ、型が優先し、儀礼が優先し、社会的価値に縛られ、個人は死ぬのです。この序列主義を元から断たない限り、永遠に日本は不幸です。実存の生=個々人からの出発は、はじまりようがありません。

駐留米軍のトップであったマッカーサーの発案で、天皇をシンボルとして天皇制を存続させることで、日本を永遠に支配する=個々人の精神的自立をさせないで、日本人を「天皇教という集団同調主義」で一つにさせ、アメリカの属国のようにすること。天皇家に特権を保障することでアメリカに好意を持たせ、日米同盟の永続化を果たす、という大戦略は見事なまでに成功し、人間家畜化の日本国ができあがりました。


人々を騙す底から嘘の大学教授(直接体験のない書物だけ人間)の書く本に踊らされるのを止めない限り、思想や哲学が民衆の力になり現実の花が咲くことはないのです。公共哲学などという東大哲学は、支配のためのごまかしで、トップに韓国人を据えるなど用意周到ですが、関係者自身も騙されているのは、滑稽でさえあります。


武田康弘



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今日23日は徳仁さんの誕生日でおやすみです。明治政府がつくった天皇教と天皇制について考える日にしましょう。

2024-02-22 | 恋知(哲学)

ユダヤ教にはじまる一神教(ユダヤ教を母としてキリスト教とその弟分のイスラム教)の騙し=荒唐無稽の物語も、
明治政府が創作した天皇教の儀式主義への馴致も、宗教のもつ詐術の強さ・怖さをあらわしています。
わたしは、こどもたちに誰もみな天上天下唯我独尊として生れてきたのだと話し、至上の価値は人間の個々の実存だと教えています。真実を。

23日は、徳仁天皇の誕生日なので国民の休日いまだに続く天皇教は、明治政府が作成した国家カルトですので、天皇制についての批判や制度の見直しについては、話し合うことすらできません。テレビも新聞も批判的な言説をまったく許しませんので、完全なる独裁国家と同じですが、他国を言論の自由の抑圧といい非難する日本のテレビや新聞は、はるかに徹底した言論統制が行われている自国の問題については、頬かむりです。

天皇現人神(天皇は生きている神)という明治政府のつくった天皇教=国家神道=靖国思想=国体主義は、ものすごい暴力(特別警察と憲兵隊)で、反対者をなぎ倒し、また、全国の数万以上の寺を焼いたり破壊したりし神社にかえました。明治政府の出した神仏分離令を端緒にした廃仏毀釈(仏法を排し釈迦の考えを捨てる)の大運動は、野火のように広がり、国宝級の仏像や寺院を破壊した為に、いまある国宝は3分の1程度と言われます(故 梅原猛さんによる調査)。

天皇教=国家神道=靖国思想=国体主義は、敗戦後にいったんは否定された思想でしたが、1946年からはじまったアメリカの占領政策の大転回(逆コースと呼ばれる)で岸信介をはじめとするA級戦犯の解放により、再び彼らやその親族が日本政府の中枢を占める政治となり、天皇教は徐々に復活してきたのです。

明治政府は、天皇教=国家宗教を作成するために、まず、京都御所の天皇とされる男性を江戸城に連れてきてここを皇居となづけて占有させること、次に、日本史上、一度もなかった一世一元の元号制度をつくり、全国民にそれを使わせることを強要しました。時代=時間も天皇が支配することで、空間も時間も日本という国は、天皇が中心であるという意識を国民の無意識領域にまで浸透させるのが岩倉具視による計略でした。

ここで分かるのは、いったんは国のありようを変えたかに見えた戦後日本の今も、明治政府が作成した天皇教という国家宗教は、そのまま生きているということです。江戸城占有は変わらず、一世一元の元号も変わらすですから、日本は、天皇教のままです。天皇教は、教義(内容)を持たず、その時その場の政治勢力と世俗価値に合わせます。形式=儀式だけがあり、それを仰々しく行うのが天皇教という国家宗教の特徴です。まさに日本の特色で、中身・内容は問いません。形式を強要することで、日本人という型をつくるわけです。

「門地(家柄)により差別されない」という日本国憲法14条は空文化され、皇族はよくも悪くも差別され、超がつく特権が与えられます。天皇は、国籍も住民票もなく、そのためにあらゆる義務から逃れ、税金も保険料の支払いませんし、パスポートも発行されず(できない)ために、パスポートなしで外国に行きます。法的には日本人ではなく、人間でさえありません(人権がないのです)。明治政府がつくったように、やはり生きている神なのでしょうか?



明治政府が作成した天皇教とそれに基づく天皇制をしっかり考え直すことは、とても大きな意味をもちますが、それは日本人の義務でさえあると思います。今日23日の天皇誕生日はそのよい機会でしょう。詳しくは、「明治政府がつくった天皇という記号」pdfをお読みください。



武田康弘(哲学者)


「皇族と統一教会」の深い関係を示す写真。明治政府がつくった天皇教が、文鮮明の手本となった。
https://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/bd971b6f2aed5162891b443b0b85c614?fm=entry_awp




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