思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

個人が「個人として輝いたままでは生きてはいけない」国があるようです。

2018-01-08 | 恋知(哲学)

「私」としての、一人の人間としての、個人としての、想いや考えを述べない人々であふれる国。

 そうだからこそ、個々人の固有の存在=命の価値を自覚しない管理者に支配される国。

 個人が自由に個人の意見を主張しないので、息苦しいムードが漂う国。

みな同じ価値観で、まるで昆虫のような属性をもつ集団同調の国。

巨大組織が偉いとされ、それに従う人がやたらと多い国。

今なお、誕生と同時に敬語で遇される家族がいる国。

そういう国はどこにあるでしょうか。

幸福をつくらない国のようです。

 

武田康弘

fbコメントです。

桑村和夫
ごく個人的な経験ですが、私の小学校5~6年生の時のクラス担任の先生が、ここに述べられたような考えを語り、何人かの生徒に具体的に指摘されたことがありました。
それは、個々の生徒が自分たちの親たちの考えに全面的に支配ないしどっぷりと染まった影響下にあり、昆虫の脱皮のような体験を経なくてはならないことを教えるものでした。
生徒一人ひとり受け止め方は違ったと思いますが、私も私なりに強烈な思考を巡らせる体験をすることになりました。
端的に、親たちからの精神的な巣立ち、自立、自律のイニシャル・ステージに立つ契機となりました。
現政権の首脳たちを見ていると、彼らが二代目、三代目のボンボンであり、恐らく私の先生のような指導を受けたこと、或いは自覚した経験など一度もないのだろうと思われてなりません。
脱皮の体験、強烈でした。中学校に進んでなお三年間考えさせられました。
 
武田 康弘 桑原さん、すばらしいコメント、ありがとうございます。
ほんとうの教育=自分の頭を悩ませて考えることで精神の世界をつくる、がない昆虫大国では、あまりに情けないく、哀しく、不幸ですよね。
ただ従わせる教育は、最大の罪です。恐ろしい馴致教育を平然と冷静に行うのは、狂気の国。
健康・健全、人間愛に満ちた教育により新しい日本をつくり出していきましょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

命(いのち)を問い直す=恋知   旭山動物園長ー坂東元さん『人間のエゴ』(同胞新聞)

2018-01-08 | 恋知(哲学)

 以下は、『同胞新聞』(真宗大谷派刊)のインタビュー記事です。
命(いのち)について、動物から学び、広く深く語られます。人間の生き方・価値観の問い直しです。

2017年12月号(前編)と2018年1月号(後編)ー旭山動物園の園長・坂東元(ばんどう・げん)さんが語ります。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

幼子は知っているのです。命とは愛であることを。国家主義が狂気であることを。

2018-01-02 | 恋知(哲学)

 赤ちゃんは、人間としてうまれてきます。
人種の違いこそありますが、国別の存在として生まれるのではありません。
赤ちゃんは、日本人、韓国人、中国人・・・それぞれの言葉・文化の中で育ちますが、その違いの底に共通する人間存在としての命を生きるのです。
 
 人間は、どこの国の国籍を持とうが、それ以前に人間存在であること。この前提に立って物事を考えないと、愚かな想念に囚われ、危険思想を生んでしまいます。いわゆる国家主義へと堕ちるのですが、この陥穽の恐ろしさを世界は忘れつつあるようです。

 赤ちゃんは、おとなよりもはるかに鋭敏に、「愛」という命にとり最も大切な感情を知っています。人間のよき生、とりわけ幼子に特定のイデオロギー(例えば戦前の「教育勅語」)は無意味・無価値です。幼子は、言葉や形ではなく、その人がほんとうに愛ある存在か否かを鋭敏に感じ知ります。ウソやゴマカシは通じません。

 利害・損得計算の人、躾と称して形式主義を強要する親、これが国柄だと称して思想や主義を注入しようとする大人・・・そこには愛がないことを幼子は分かっています。

 幼子は、ほんらい人間は自由であり、生まれた国や文化や状況の中から、自分自身にあったエロース(魅力価値)を汲みだすのが人間の生き方であることを先験的に承知しています。それが分からないのはダメにされた子どもである大人だけーあなたは大丈夫?(失礼)。

 幼子は生れながらにして、「秩序」は、強制されるものではなく、学ぶものであることを知っいます。どのような秩序が必要かは、幼子自身が試しつつ学ぶのです。納得をつくるために、毎日試行錯誤しています。大人が急いで秩序化しようとすると、納得=腑に落ちることがなく、怖いので従うだけの存在になります。

 精神の自由と自立と豊かさのない人、ただ事実として人間であるだけの存在=「事実人」に陥るのです。まるでAI=認識する電子機器のような、あるいは楽譜を正確に弾き歌う自動人形のような、あるいはスポーツ競技をするマシーンのような、あるいは人間のよき生への探求がない技術オタクのような、です。

 そこには内から湧き上がる愛がなく、自由な精神がなく、エロース豊かな存在の魅力がありません。あるのは、他者との競争=勝ち負けのために生きる戦士であり、それへの称賛です。すべては外です。外的価値に支配された人間は、内的秩序をもつソクラテス的人間、自分自身の内なる声に従うことを教えたブッダ的人間とは無縁の存在です。

 どこの国に生まれようが、赤ちゃんは、みな自分自身として生きようとしているのです。それを破壊しようとする大人の所業は、これ以上はない根源的悪であることを知らねばなりません。

 

武田康弘

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

人類はいつまで政治や社会生活に宗教を介在させるのでしょう。愚かで危険です。必要なのは、超越ならざる「超越」。

2017-12-12 | 恋知(哲学)

ユダヤ教を母体に生まれたのが、キリスト教とイスラム教ですが、
ユダヤ教(旧約聖書)を背後にもって政治を行うイスラエルを支援するキリスト教(新約聖書)のアメリカは、国連からの厳しい批判にも関わらず、この三つの宗教の共同の聖地=エルサレムを、イスラエルの首都として認めるという驚きの発表をしました。またトランプ大統領の愚断ですが、背後にそれを支持する右派(キリスト教原理主義者)のアメリカ国民が少なからずいるのです。

日本も、明治政府がつくった天皇教=国家神道=靖国思想がいまだに生き残り安倍政権を支えています。生きている人間を神とし、その家族を神の家系とする宗教思想ですが、これは「国家カルト」と呼ばれます。三島由紀夫は、天皇が神から人になったのは間違えだとし、超越者をなくした日本人の行く末を嘆き、憲法改定のために自衛隊の決起を促して自決しましたが、この思想を支持する知識人や政治家は、自己の内なる善美の座標軸につく思想=恋知(フィロソフィー)を知りません。

個々人が宗教を信じるのは自由ですが、それは、公権力と結びついて政治を動かすイデオロギーになってはいけません。個々人の自由と各自の対等性を大元から奪ってしまう公共悪となります。この民主主義国家では当然と思われる「社会の原理」が揺らぎだしたのでは、混乱・抑圧・暴力が噴出して無秩序となり、警察力と軍事力に頼る強権政治とならざるをえません。全体主義国家への堕落です。

いつまで宗教対立を続けるのか。宗教はミニマム(最小限)でないと困ります。
宗教的信念ではなく、自分自身の心の善美を座標軸にして生きないと、争いが絶えません。平和を祈る者通しの戦いが続いてしまいます。絶対正しいを求める心から解放されないと、人間はいつまでも権力闘争の愚かな歴史の繰り返しです。納得をつくる努力=普遍的な了解が得られる可能性は、一人ひとりが外なる絶対から自由になり、内なる思考をはじめるところにあります。

絶対正しい、これが真理だ、というような発想から離れて、自分自身の内なる声を聞き、そこから出発する人生を始めなければいけません。
頼るのも責任を取るのも「私」なのであり、私以外の超越者(神とか天皇とか)を頼れば、必ず妥協できない争いが起こります。そうではなくて、背後に超越者を持たない「私」同士の対話であれば、妥当な線を導く対話が可能になります。有限な「私」同士が、どう考えどのようにしたら互いに楽しく生活できるかと考えるのがキーです。すぐには合意に至らなくても、そのような考え方は、たとえ「対立」しても相手の「否定」には至らず、妥協点を見いだせます。

宗教を持ち出したら、絶対感情に縛られますから、争いは止むところがありません。言い争いも果てしなく続きます。
繰り返しますが、「私」の主張は、「私」の内なる心に根拠を持たねばならず、なんらかの超越者を持ち出して正しさを主張する思考では、争いは永遠に続いてしまいます。「私」の主張の根拠は「私」の生活体験に基づく考えからでないと、形而上学的争いになり、不幸を導いてしまいます。「絶対」の正しさではなく、より深く大きな納得を生む「普遍性」豊かな思考をしていこうという構え=態度を身につけ、習慣にする努力が何より大切です。

宗教でなくとも、たとえ趣味の会でも、学問や芸術上でも、誰かを何かを絶対視するような態度は「超越的思考」の証です。とても愚かで危険です。善美のイデアの前に謙虚でないとすべてが狂いだします。真実を求める心は、内なる座標軸ですが、真実そのものを知ることは不可能ですから、よきもの・美しきもの・真実なるものへの「憧れ心」こそが超越ならざる「超越」なのです。

その心の働きこそ、人間の証です。人間の証は、みなの一人ひとりの内なる心にこそあり、外の権威や体系にあるのではありません。よい思考の条件は、第一義的には自問自答=自分一人でする沈思であり、他者とのコミュニケーションではありません。他者との対話は大切ですが、それは二義的です。中心にあるもの、基盤となるものが沈思=自問自答にあることを知らなければ、そもそもフィロソフィーは成立しません。思考の名に値する思考は始まらないのです。


武田康弘

fbのコメント

Kunimitsu Kobayashi そうですね、私も全く持って同感です。超越者を失った我々日本人は利己主義に走り日本を悪くしたと、主張する人々がいます。個人主義と利己主義とを同列にみているのでしょうね。だから、昔の国家神道をよしとし、あの時代の日本人は1つになり一丸となって国難に向った、でもいまの日本にはそれがないと嘆くのですよね。私はこの嘆きの方に深い罪があるように思えるのですが、また、中学高校の部活の先輩後輩、根性主義もその辺から発生し、過去の日本の賛美でしかなく、全くの人間としての成長が見られないような気がするのですがね。いまだに、これらを称賛する人々が多数いる現状が悲しいです。

武田 康弘 超越者は、わたし自身なのです。わたしの善美に憧れる心(先験的で自然なもの)が超越ならざる超越で、それは、今までの宗教(一神教)よりも優れてわたしを支える恋知の生です。心身も頭脳も健康に支えます。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

恋知第3章 『公共』  民主主義と公共哲学の核心を平易につかむことができます。ご活用ください。

2017-11-23 | 恋知(哲学)

恋知』第3章 民主制・公共思想 のPDFファイルを白樺同人の古林治さん(白樺教育館副館長)がつくり、アップしました。

民主主義と公共哲学の核心を平易かつ明晰につかむことができると思います。

ご活用ください。A4で28ページです。両面印刷すれば、本にできます。

●恋知 第3章 1.9 MB版
http://www.shirakaba.gr.jp/large_sources/contents/Philosophos_3.pdf

 

製本はとじたくん。クリック)

 

 
武田康弘

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

金泰昌さんが応答しなかったわたしの「命の哲学」=不定形・不確実ゆえに輝くもの

2017-11-21 | 恋知(哲学)

 わたしは幼い頃から体調のよくない日が多く、内臓疾患に苦しめられた経験から、「生と死」の観念は、恐怖や不安と一体となって自己存在を支配してきました。 「命の哲学」としての人間性の肯定―【知・歴・財の所有ではなく、存在の魅力こそが人間の価値である】というわたしの中心思想は、この「生と死」の観念にその源流があります。「既存の制度の中で序列を競うような生き方は、全く生きるに値しない」という思いは、そのような意味での「命の哲学」から来る必然でしょう。

 認識論の原理中の原理は【直観=体験】であり、実存論の原理中の原理は【欲望】だ、とわたしは考えていますが、この欲望とは「命」の別名だと思います。 「命」とは燃えるもの、輪郭線のないもの、不定形なもので、死の確実性とは対極にあります。それゆえにネクロフィリア(死んでいるもの・固定しているものへの愛)の傾向にある人たちが対峙することをひどく恐れるものです。わたしは、日々幼い小学生とも30年間(いまでは40年間)以上交流=授業を越えた授業=をしてきましたが、幼い子ほど初発・初源の「命」の輝きー直接的な生のパワーをもち、大人の固定観念に嵌(は)まらない自由な発想をしますので、彼・彼女らと交わるのは実に悦ばしいことです。

  (以上は、2007年12月のblogの一部で、「命」をテーマにした金・武田の哲学往復書簡の続きでしたが、金泰昌さんからの応答はありませんでした)


武田康弘

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

恋知第3章  「公共をめぐる哲学の活躍」 と 「結語」

2017-11-20 | 恋知(哲学)

(3)「公共」をめぐる哲学の活躍

  民主主義と公共思想は、わたしの小学5、6年生の「政治クラブ」(内容は自由な哲学談義)に始まるものですが、その長い歴史を振り返り、簡潔にまとめたのが以下に載せる「『公共』をめぐる哲学の活躍」です。

 この論文は2010年に書いたものですが、当時わたしは、参議院行政監視委員会調査室で客員調査員として国会職員にソクラテス出自のフィロソフィーの意味と現日本国憲法の哲学的基盤について講義していました。

 そのため、この小論は、行政監視委員会調査室の注目するところとなり、国会議員への情報提供をする「『行政監視情報』平成22年10月15日号」に掲載され(巻末の44ページ~59ページ)、行政監視委員会に所属する議員を中心に国会議員に配布されました。

 ーーーーーーーーーーーーーーーー

「公共」をめぐる哲学の活躍  A4で16ページ

pdfファイルは、ここをクリック

 

 

(4)結語 (自己という中心から公共性は生まれる)

 なお、東京大学出版会のシリーズ「公共哲学」全20巻+別巻は、最初の10巻は佐々木力さん(元東大総長)と金泰昌さん(公共哲学共働研究所長)の二人が編者であり、残りの10巻は、金泰昌さん+各巻テーマの専門の大学教授との共編)でしたが、共にその編集の基本方針として公と公共を分ける=「 『公』と『私』を媒介する論理として公共性を考える」が謳われていました。

  わたしは、それに異論を出して論争したわけですが、2008年6月21日に出した簡明な結語が以下です。

 公(おおやけ)と公共を分けるべき!? 

 主権在民の近代市民社会―民主制国家が成立する以前は、市民の公共とは別に国家の公(おおやけ)とでも呼ぶべき世界がありました。

  日本でも明治の近代化では、まだ主権は天皇にあるとされ、市民的な公共は、天皇制国家の公とは別だと考えられていました。だから、国民の利益とは別に国家の利益がある、と言われたのです。国民は、国体=全体を構成する部分とされ、主権者である「天皇という公」の下に「市民的な公共」が位置づけられたわけです。

  また、国家の主権を天皇から国民へと大転換した戦後の日本社会においても、この明治国家の公=お上という観念が残り、それが役人・官僚が偉いという逆立ちした想念となっています。公(おおやけ)と公共は別だ、という観念をひきずっているわけです。

  だから、歴史的な考察や現状の分析としては、公と公共を区別するという公共哲学=シリーズ『公共哲学』(東大出版会)の主張は、まったく正当なものです。

  しかし、それが「公と公共を分けるべきだ」とか「ほんらい公と公共は異なる世界である」という考えを、主権在民の市民社会の中でするとしたら、時代錯誤の意味不明な言説となってしまいます。

  歴史的にどうであったか、あるいは現状がどうであるかというレベル・次元での話と、原理は何かという次元の話が一緒になれば、いたずらに混乱を招くだけで、百害あって一利なし、という結果になります。

  理論は、それがどの次元での話なのか?を明瞭に意識しないと、すべてが平面に並んでしまい、無意味な衝突を起こします。立体的に見なければならない、これは基本原則です。

  言わずもがなですが、公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた「官」(役人と官僚機構)は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた「官」は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的な公共を実現するためにのみ存在するーこれが原理です。

  社会問題や公共性について、ほんとうに現実的に考え・語ろうとするならば、以上の簡明な原理を明晰に自覚することが何より先に求められるはずです。次元の混同に陥らないように注意しないと、平面的思考の中で無用な言葉を膨大に紡ぐ愚に陥ります。現状分析と原理の区分け=次元分けをし、迷宮に入り込まぬように注意したいものです。

  公共性というみなが関わる世界の原理は、明瞭・簡潔で、ふつうの生活者が深く納得できるものでなければならない、これは原理中の原理です。

2008/06/21 武田康弘

 なお、この結語の青字の部分は、参議院行政監視委員長の山下栄一(参議院議員)さんが注目し、『行政監視と視察』(総147ページ)において、「行政運及び行政監の思想的土台となる」(6ページ)とされたのですが、それは11、12ページに記しました。


ーーーーーーーーーー

最後に、わたしの公共思想の原理について記します。
金泰昌さんとの哲学往復書簡30回(『ともに公共哲学する』東大出版会刊)で述べた考えをそのまま書き抜きます。

(15)自己という中心から公共性は生まれるーーーの中から結語の部分のみ(131ページ)。

 この私の命・生活は何より大事なものであり、この私の心身と私の抱く想念は何より貴重なものである、とわたしはずっと感じてきました。だからこそ、互いにその貴重な世界を守り合い、楽しみや悦びを広げ合うことが必要なのです。これが公共性の起こりであり、公共性とは、集団で生活する人間が、集団に埋没するのを防ぎ、個々人がより大きな私の可能性を開くために必要な思想だ、とわたしは思っています。人間はひとりで生きることはできないので、単なる個人性では、個人の可能性は狭まり悦びも広がりません。公共性とは、互いに私の可能性を広げていくために必要な現実的な思想であり、社会の中でよく生きるための知恵ではないでしょうか。

 狭く私の得だけを考える閉じた自我主義的思考ではなく、広くみなに共通する利益を考える開かれた公共的思考は、私の人生を社会的現実に向けて押し広げてくれます。公共性とは、観念的・抽象的な次元ではなく、現実的・具体的な領域で私を活かす道であり、それは私の人生の充実・悦び・晴れやかさの世界を切り開くことになるのです。

 したがって、公共的思考は、一人ひとりのふつうの個人が、私的生活に閉じ込められてしまう不幸から抜け出るための方法であり、広く社会全体を私の世界にするという発想であり、官・政治権力者・経済的支配者・知の独占者から社会・国家・知を「私」-「民」に奪い返す力をもつものです。公共する哲学によって、現代の民主制社会に生きる私たちの思想の原理を明晰化していきたい、そうわたしは思っています。

----------------------------

最後におまけですが、

わたしは、民主共和党というバーチャル政党をfbでつくりましたが、そこでの基本の考え方を以下に転写します。

昨日の「恋知の会」(2017年9月13日)
バーチャル政党=【民主共和党】(民主政を前に進める共和主義、瑞々しい「水の国=日本」にふさわしい人間に優しく平等な国へ~~をみなで立ち上げました!!
賛同者はご登録ください。

まず、首相のほかに【大統領】(日本の顔=元首で政治権力は持たない・ただし、首相の国会解散を拒否する権利をもつ)を選ぶ

一例として、過去の人でふさわしいのは、学問・芸術に通じた品格の高い人ー例えば石橋湛山(哲学者・経済学者・ジャーナリストで55代総理大臣。美濃部亮吉(豊かな学識をもち東京都知事を務めた品格のある人)。高野岩三郎(戦前に東大教授を辞して社会問題研究所所長・戦後に改組されたNHKの初代会長。庶民派にして高潔)大原孫三郎(中国電力やクラレの創始者で白樺派の同伴者ー心優しい博識の実力者)のような人。現代では、国連で中心的な活躍をしている人などが候補です。

国旗は「日の丸」が候補。国歌は「さくら」(日本古謡)が候補。国花もさくらなので、ピッタリと思う。共に国民の自由な議論で決まります。

元号は個人で自由に。役所と公共機関では、世界歴(西暦)を使用する(今の元号の義務付けは不合理で間違いが生じやすいので)。}

天皇家は、ほんとうの住まいである京都御所に。江戸城は、江戸公園として国民みなに開放。

天皇は、国事行為は行わず、文化的行為のみを行い、基本的人権が保障される。

簡単ですが、骨子です。この線で市民憲法案も出さねば、です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なにはともあれ、オープンに共和制の意味や意義について語られる状況を生みだすことは、とてもよいこと、大事なことです。

大きなタブーがあることは、ひどく不健康ですからね。

細かな話はともかく、みなが、明治維新政府によってつくらた水戸学に基づく「明治天皇制=国体思想=靖国思想=国家神道」の国家カルトの精神風土から解放されて自由になることは、何より大切な「はじめの一歩」と思っています。

集団同調でもなければドライな強権でもなく、水の国=日本のしなやかで自由な共和主義って、いいでしょ~~~


武田康弘

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『恋知』 第3章  民主制・公共思想 

2017-11-18 | 恋知(哲学)

恋知』 第3章  民主制・公共思想 


 (1) 恋知=人間のよき生の原理 前章の結語

 

 第2章「恋知とはなにか」で、わたしは、人間のよき生の原理を提示しました。 それは、人の顔色を見て「場」の空気に従うという日本的な生き方、一言では、「集団同調主義」ではなく、その逆に、強い宗教=一神教に帰依するという宗教者としての生き方でもありませんでした。
 周りに合わせることは、「一般的なよい」に従う生き方ですし、一神教に帰依するのは、「絶対的なよい」を求める生き方ですが、
まったく正反対に見えるこの両者は、実は一つメダルの表裏で、一般的なよいに従う生き方が挫折すれば、絶対的なよいを求める心が生まれ、超越神への信仰に向かいます。

 正反対に見える「一般的」と「絶対的」は、共に自分の具体的経験に照らして自分で考える営みとは無縁で、「自分の頭を使って考えない」という点では同じ態度です。

 人生でのヒドイつますきや、あるいは、ロマン世界を現実に求めてしまう心に支配されると、絶対的な正しさを得たいという欲望が生じ、超越神を受け入れやすくします。宗教には関心が薄く科学好きの人は、科学的な真理を絶対と思い込みますが、これも形を変えた「絶対的なよい」を求める生き方です。科学は、認識する対象を狭く限り、できるだけ数量化して事象を表すことで一定の正確さ・客観性を獲得しますが、その方法ゆえに全体的・総合的な判断はできません。総合判断は、「人間のよき生のイメージ」に支えられなければ不可能ですから、主観性の知である恋知(哲学)の営みが必須です。
(注)主観性の知については、第二章の18~20ページをご覧ください。

  「人間のよい生とはなにか」の探求なしには、科学的認識を含む人間のさまざまな営みは宙に浮いてしまいますので、実人生に根が張れません。
 そうだからこそ、ソクラテスは、自然哲学からの180度の転回を果たし、善美に憧れ、真実を求める人間的な生の「問答による探求」に生涯をかけたのでした。自然哲学(自然の研究)を括弧に入れ、まず第一に取り込むべきは、人間の生き方(生の意味と価値の問題)であるとし、その営みをギリシャ語でphilen(恋愛)+sophia(知)=フィロソフィー(恋知)と造語したのです。

 ソクラテスの求めた「正しさ」とは、みなが言うからという「一般的な正しさ」ではなく、また、「絶対的な正しさ」でもありませんでした。それは、善美に憧れ真実を求める生き方がつくる正しさ=深く納得できる見方の提示でした。善美のイデアを神ならぬ人間は知ることができない、ただ、憧れ求めることができるだけだ、と言い、問答的思考法(ディアレクティケー)により、「普遍的な正しさ」=深く納得できる見方と考え方を生みだす努力を続けたのです。誰であれ人間は、絶対の真理を得ることはできないが、真実や善美のイデアに憧れ、探求することは可能で、それが最も優れた人間の生き方であると言いました。

 わたしもその通りと思います。私自身の子どもの頃からの経験と、40年以上にわたる多くのこどもたちとのホンネでの付き合いから、人間のよき生とは、善美に憧れ、心身の内側からの律動(リズム)と和声(ハーモニー)にもとづいて旋律(メロディー)を奏でることにあると思っています。いかに生きるかの探求を中心にしてあらゆる事象を判断する究極の座標軸は、善美に憧れ真実を探求する私の心にある、これは、人間の生の原理中の原理、と確信しています。外に超越的な神=絶対者を置かず、また、周りに合わす集団同調でもない第三の道、それが「恋知」の生です。

 繰り返しますが、集団同調による「一般的正しさ」ではなく、宗教的信念による「絶対的正しさ」でもない、第三の道である善美に憧れて深い納得をもたらす「普遍的正しさ」を求める営み、それが恋知(フィロソフィー)です。

 だいぶ昔のことですが、この三つの「正しさ」を小中学生向けに書いたことがありますが、これは、とても大事な三区分です。「正しさ」というと誤解を生む可能性もあるので、「よさ」と言いかえてもいいと思います。

1.絶対の正しさ   誰がなんと言おうとぼくの考えは絶対なんだ。とか、偉い人(または神様)が言ったことだからゼッタイなんだ。
2.一般的な正しさ   だいたいこんなところが正解だよ、みんなもそう言っているし。とか、千人からアンケートをとった結果このようになりました。
3.普遍的な正しさ  なるほど、そうだなあ、と深く納得する・腑に落ちる。

  哲学(恋知)で言う「正しさ」とは、3の普遍的なよいです。哲学(恋知)では、1の絶対の正しさというものは認めませんし、2の一般的な正しさでは満足しません。
 
3の「正さ」(よい)をつくるためには、疑い、試し、確かめること、自分の頭でよ~く考えたことを他の人に示すこと、これを何度も繰り返す必要があります。だんだんと自他が共に深くナットクする〈考え〉にきたえていく営みを「哲学(恋知)する」と言います。

 また、科学的な真理とは、この3(普遍的な正しさ「よい」)の一部分です。

  最後にオマケですが、この普遍的な「よい」を想い・考えるためにはどうするか、です。まず、遠くを見る習慣をつけること、とくに無定形なもの=青空や雲を見る習慣は一番よい方法です。視線・視点を無限遠にすると、既成の見方への囚われが減り、心の内からの声が聞こえ、イメージが浮かびます。外ではなく内発的に、内から立ち昇る人生のはじまりです。芸を仕込まれた自分ではなく、自身の内なる想いにつき、そこから考えること。それが何より素敵な生き方をつくります。

 また、心身も内側からを心がけることが必要です。体の中から、中心から外へという動きが大切。固くなり伸び伸びとした動きが減ると、思考も形式的になり言語にとらわれてイメージが豊かに広がりません。心も身体もこわばれば、思考は紋切型になり、有用な価値ある考えを生み出すことに失敗します。内から、内発的にです。

 


(2)ペリクレスとソクラテス


  では、以上の簡明な「人間の生の原理」を踏まえて、第3章ではわたしたちの近代市民社会を支える民主制と公共思想について記します。

  民主制の最初は、古代の大帝国ペルシャを打ち破ったギリシャ都市連合の中心であったアテネで、その最高実力者・ペリクレスの施政にあります。彼は、人々の「自由な気風」こそを第一として民主政治を宣言しました(最初の民主制は紀元前508年だが、ペリクレスにより強まる)。

 有名なペリクレスの演説(紀元前443年・52歳)から一部を記します。


「我らの政体は、他国を追随するものではない。人の理想を追うのではなく、人をして我が範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し、多数者の公平を守ることを旨とし、民主政治と呼ばれる。・・・・・
 我らはあくまで自由に公共につくす道をもち、また、生活において他人の猜疑心を恐れることなく、各々が自由な生活を享受する。・・・・

 また、戦いの訓練においても我らは、敵側よりも優れている。我らは、何人にもポリスを開放し、決して遠方の国の人々を追うことはない。
敵に見られては損をするという考えをもっていないので、学問・知識を人に拒んだことはない。なぜなら、我らが力と頼むのは、戦いの仕掛けや虚構ではなく、事を成さんとする我ら自身の敢然たる意欲をおいて他にはないからである。

 教育においても同様。彼らは、幼くして厳格な訓練を始めて、勇気の涵養に努めるが、我らは、自由な気風に育ちながら、彼らと対等な陣を備えて、危険にたじろぐことがない。ともあれ、過酷な訓練ではなく、自由の気風により、規律の強要によらず、勇気の気質の涵養による・・ここに我らの利点がある。

 我らは、質朴たる「美」を愛し、軟弱に堕することなき「知」を愛する。我らは、富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また、身の貧しさを認めることを恥としないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。

 我らは、国政の進むべき道に十分な判断をもつように心得る。我らのみは、公私領域の活動に関与せぬ者を閑を楽しむ者と言わず、ただ無益な人間と見なす。そして、我ら市民は、決議を求められれば判断を下しうるのはもちろん、提議された問題を正しく理解することができる。・・・

 また、我らは「徳」の心得においても一般とは異なる考えをもつ。我らのいう徳とは、人から受けるものではなく、人に施すものであり、これによって友を得る。・・これに反して、他人に仰いだ恩を返す者は、積極性を欠く。相手をよろこばせるためではなく、義理の負い目を払うに過ぎない。こうして我らのみが、利害損得にとらわれずに、自由人たる信念をもって、結果を恐れずに人を助ける。・・・・

 我らポリスの一人ひとりの市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己の知性の円熟を期することができる・・・・
 我らは、今日の世界のみならず、遠き末世に至るまで、世人の称賛の的となるであろう。」

 ーーーーーーーーーーーーー

 若きソクラテスは、この民主政治を宣言したペリクレスの愛人で才色兼備のアスパシア(自然哲学発祥の地・ミレトスの出身)が開いていたサロンに出入りしていたと伝えられています(ペリクレスの演説はソクラテスが26歳の時)。ソクラテスの師は、他にはプラトンの主著の一つ『饗宴』で、「愛」について教えを受けたというディオティマで、二人とも女性でした。

 「恋知」(philosophia)がソクラテスによる造語(それ以前は自然哲学)であったのと同じく、その少し前に生まれた「民主政治」もギリシャ語による造語です。demos(人々)+cracy(支配する)→デモクラシーで、両者は共に古代アテネの都市国家で生まれ、ほんらいは相互補完的な関係にあります。民主制と恋知(哲学)とは支え合うことで発展し現実性を持つのですが、ペリクレス死後に民主制が堕落して愚衆政治となったアテネでは、ソクラテスを刑死させるという愚を犯しました。 
 近現代史では、民主的なワイマール憲法下からヒトラーが誕生しましたが、世界で最も「理論哲学」が盛んだったドイツは、あっけなく堕ちたのです。20世紀最高の哲学者と言われたハイデガーは自らナチに入り、学生らにも入党を勧めたのでした。壮大な体系・難解な理屈の山・堅固な理論的構築物としての「哲学」は人間に有用な思考をさせず、かえって問題の所在を見えずらくさせてしまう証左です。
 人生や社会のさまざまな出来事の意味と価値をふつうのことばで考察する「恋知」の活動(子どもほど得意)が活発にならないと、民主制(市民主権による自治政治)をほんとうに機能させ発展させることは出来ません。

 ※ハイデガーは1966年に『シュピーゲル対話』で「哲学」の敗北宣言をしました。  彼は「従来の哲学の役目は、諸科学が果たし、サイバネティクスが哲学の座を占める。」  「われわれ人間は、何百年後かに現れる究極の神への心構えを準備するだけだ。」と  言いました。大学内哲学=専門知としての哲学はすでに命を終えています。

 それにしても、必然の神・アナンケを打ち破ったのが恋愛の神・エロースであったというギリシャ神話(「饗宴」の中でアガトンが語る)は、とても示唆に富むエピソードです。規律・掟を絶対とする「厳禁の精神」と人間味に溢れる「恋知と民主制の精神」とは対極です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つづく。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ウィキペディア - Wikipediaに載った自分「武田康弘」の項目を読んで。

2017-11-13 | 恋知(哲学)

2017年10月15日 撮影・西山裕天


ウィキペディア - Wikipediaに載った自分、第三者が語る「武田康弘」-それも履歴書のような形式ではなく、内容・中身が書かれてものを読んで、嬉しく思い、また緊張しました。


自分で自己紹介文を書くのとはまるで異なり、いわゆる「客観的」叙述ですが、大袈裟な賛美ではなく公正だな、と思いました。

このように整理されると、身が引き締まる思いがしますし、今までの活動をよく振り返ることもでき、とても有り難いです。

わたしは今年から高齢者の仲間入り、人生の後半は、「恋知」(豊かな人間愛の民主的倫理が支える無限に開かれたフィロソフィーの営み)を大きく広げるために生きます。

できる限り講演や座談会もお引き受けしますので、お申し出ください。

世界中のみなが「恋知」と共にあらんことを!!

Wikipedia 「武田康弘」 「恋知

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

民主的倫理とは何か?  一例として「さん」「くん」「先生」

2017-11-10 | 恋知(哲学)

民主的倫理とは、
形式としての倫理、外からの押しつけとしての道徳、上下関係に基づく倫理思想とは根本的に異なるもので、
内容としての倫理、ふつうの生活者の納得が得られる自然性をもちます。

それは、人はみな等しく「唯我独尊」として生まれてきたというブッダの根本思想に基づく倫理ですし、
日本国憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」を現実化する倫理です。

こうした倫理を踏まえることは、民主政治が行われる前提であり、同時に民主政治を可能にする条件でもあります。特権者や絶対者はいないというのが自治政治=民主政治の根本ですので、政治のあるべき姿は、民主共和制となります。

民主的倫理を知り守りそれに従う人生は、よろこびと充実をもたらし、生きる意味の濃い生活をつくります。自由と平等を現実化するのは民主的倫理に基づく人生です。個人生活においても社会生活においてもです。人生の意味と価値を豊かにし、互いに楽しく生きるための倫理、それが民主的倫理です。



一例として呼称。「さん」「くん」「先生」などについて言えば、

すべてを「さん」付けで統一するという形の上の平等とは違います。

討論の場では、経験のあるなし、年齢の上下などに無関係に「さん」付けで統一しなければなりませんが、
教場では、教える人には「先生」と呼ぶのがふさわしいのです。もちろん強制はいけませんが、教えるのと教わるのとは立場が異なります。教場では種々の責任は教える側にあり、先生はその役割を担う人ですから、それなりの敬称には意味があります。

内容で考えれば、機械的な「さん」付けが民主的とは言えません。
幼いころから親しくしている間柄では、「君(くん)」付けがふさわしいこともあります。

要は、実際の人間関係のありようを反映して、それにふさわしい呼び名にすることです。
議員に「先生」付けは、笑話でしかなく、論外です。主権者の代行者を「先生」と呼ぶのは、愚かの証拠にしかなりません。

民主的倫理とは、形式ではありませんので、なんでも「一律」ではないのです。
中身・内容としてのよき自他の関係を考えて行為することがポイントです。

 (補足)
わたしの息子は、小学5年生になるときに、「ぼくはお父さんの塾に行くことにしたよ。」と言い(なんでも自分で決める性格)通うことになりましたが、驚いたことに、はじめての日に、わたしを「先生!」と呼んだのです。「お父さん」と呼ばずに「先生」と言われて、わたしは、あ~、なるほどね、と感心してしまいました。確かに、教場では「お父さん」ではなく「先生」なのだよな~

英語の教科書では、先生も「ミスター」で、文化の違いですが、日本ではなじまないのではないでしょうか。教場でも先生を「さん」付けするという合意ができれば、そう変えてもいいとは思いますが、少なくとも今は無理でしょう。愛称で呼ぶのはよいと思いますし、また大学や大学院になれば、「さん」付けはあり得るでしょう。


武田康弘


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

恋知の話(1)~(4)「基本道徳の一例」から、「意味と本質を知る営み」まで。

2017-11-08 | 恋知(哲学)

恋知の話(1)前提は民主的倫理・道徳を身につけることです。

2017-11-06 | 恋知(哲学)

 

誰であれ、基本道徳・倫理がないと、よきものは何も生まず、不幸です。


 経験の豊かな人の話をまず謙虚に聞く。
そういう態度があり、それをしっかり実行した上で
自分の感じ、想い、考えることをきちんと伝える努力をすることが必要です。

 人に話しをするときは、誰であれ、心を持って話すこと。
冷たい態度や慇懃無礼な態度を取るのは、一番いけないことであり、道徳・倫理の基本に反します。

 人が訪ねてきたときに門前払いにするのは厳禁です。失礼極まる態度であり、そういう人に幸福が来ることはないでしょう。
玄関の中に入ってもらい、それから話をするのです。こういう常識すら弁えない人では、どうしようもありません。

 ざっくばらんな飾らない態度はよいですが、それは、ぞんざいであること、無礼であることとは違います。優しい心遣いがない人であっては、自他を共に不幸にします。

 いまの日本には、恩を忘れる、それどころか恩をアダで返すような人が後を断ちませんが、それでは、言葉もありません。

 内容的に乏しいことや非人間的であることを、形式を踏まえることで誤魔化(ごまか)すのが、ほんとうの非礼・無礼というものです。それは民主的倫理とは無縁の態度であり、よき生の障害です。「恋知の生」は、それとは逆で、形式主義を排して、内容を豊かで濃いものにしようとする生き方です。そのためには民主的倫理・道徳を身に付けることが必須です。

------------------------------------------------------------------

恋知の話(2)他者への迎合ではなく、自己のよき考えを貫くこと。関係性以上のもの。

2017-11-05 | 恋知(哲学)

 身内であれ他人であれ、他者の意に合わせてしまう、
関係性をよくするために、他者の意向に迎合する、忖度する(笑)

という生き方は、納得を生まず、よろこびを生まず、人間の生きる価値を減じます。

エゴという意味はでない自分をしっかり貫くこと。
自分の五感につきよく考え、普遍性のある考え方を育てること。

目先の損得や利害を超え、関係性を害するかとビクビクするのではなく、しっかり対話し、よく吟味された「ほんとう」を貫くことがないと、人生は価値あるものになりません。

近い人であれ遠い人であれ、闘うべきは闘わないと、生きている意味が薄まり、やがては消えていきます。
関係性の齟齬(そご)を避けようとする弱い精神は、よきものを何も生まず、生きるよろこびの少ない灰色の人生と社会を生むだけです。

平板でつまらない人生、管理主義で息がつまる社会、エロースに乏しい魅力のない世界は、闘うことを忘れ、自分から発するよきもの=普遍性を貫かない人々がつくります。

 

繰り返します。

関係性を害するかとビクビクするのではなく、しっかり対話し、よく吟味された「ほんとう」を貫く という基本的な姿勢をもたなければ、関係性は、必ず仲間主義・家族主義・同調主義にしかなりません。善美とは無縁のつまらない世界です。

------------------------------------------------------------------------


恋知の話(3)よい心、困った心。内からのよろこびの人生=「恋知」を始めよう~~

2017-11-04 | 恋知(哲学)

 

広々と開かれた世界へ。
明るさ・楽しさのある生き方に。
嬉しさが増す人間関係を。
面白みとよろこびの多い生活へ。
意味の濃い人生に。
前向きで豊かな精神を。

率直に意見を聞き合い、言い合える開かれた自己へ。

一番いけないのは、
他者を拒絶する心。
人を切ること。
耳を傾けないこと。
固く閉じた自己。
その閉じた自我を防衛するためにつく誤魔化(ごまか)しと嘘と捏造(ねつぞう)。
それは、嫌な人間関係を固定化し、問題の解決を不可能にします。

仲間以外は受け入れない閉じた人として生きているあなた、
閉じた家庭環境の中で生きている(生きざるをえない)あなた、
まず、他者を受け入れる表情や態度や話し方(声)を工夫してみましょう~~~~


ぎこちなくてもよいので、やわらかく、楽しげな表情をつくる練習を鏡の前で毎日してみてください。
にこやかな表情で周りの人に話す実践を少しづつはじめてみましょう。
自分が、わたしの家が、自国が、信仰が、に拘(こだわ)らずに、頭から心身から力を抜いて、遠く(とりわけ雲や空)を見て、広々とした気持ちのよい世界を想うのです。

楽しく開かれたイメージを他者に与える表情や言動は、自他をともに幸せにしますから、なによりお得で、徳を生みます。
情緒音痴の尖がり顔や無表情は、一つの得も徳もつくらず、自分も他者もみなを不幸にします。


心の内からのよろこびを生きるのは、人生の最大の価値ですが、そのためには、ちょっとした心構えと日々の練習があればよい、と思います。はじめてみませんか?

----------------------------------------------------------------


恋知の話(4)「目の前主義」の現代人、意味・本質を知ろうとする努力がないと、底なしの不幸です。

2017-11-01 | 恋知(哲学)

 

 「〇〇とは何か」という本質を知るためには、意味としてのつながりを理解しようとする気持ちがないとできません。
 本質とか原理は、直接見ることができませんから、五感で感じ知ったことから類推したり考えることをしないと、意味を捉えることは不可能です。

 それには、直観に基づきつつ、いま見えるものがそのようになった時間的な変化を知ることが必要です。つながりを知り、そこからその事象を捉えようとする営みがないと、目の前にあることの意味・本質はつかめません。

 しかし、いま、多くの人が(とりわけ管理教育世代以降は顕著)、目の前の事態を知ること以上はしない傾向にあります。時間的な変遷を知り、事象の意味をしっかり掴(つか)もうとしないのです。そういう作業は、うっとうしい、分からない、めんどうだ、という人が多く、彼らは、内容のある話を真剣に聴き考えてみることから逃げてしまいます。

 その時その場の「快」「不快」でのみ生きるので、生き方・考え方は、単線的になり、結果主義になります。

 プロセス=時間的経緯とその意味を捉えようとする営みがないと、人間にとって価値ある認識ができないのですが、そのことが分からず、「好きと嫌い」と「快と不快」のレベルから進めないので、内面世界が豊かになりません。

 判断も行動も反射的でしかなく、精神的な深みや大きさとは無縁のまま生きてしまいます。

 したがって、事象の本質を知ろうとせず、分かりやすい結果を追いかけることになりますが、それは精神世界をもつ存在である人間にとって底知れない不幸です。とても残念な生き方で、生の失敗とさえ言えます。

 現代は、お金をいくらもっているか、どれほどの権力を行使できるか、また、物やサービスという目の前に見えるものだけが価値だという風潮がありますが、それでは、人間の豊かな生は拓けず、即物的な存在にしかなれません。それは恐ろしい悲劇です。観念存在である人間は、物質的欠乏には耐えられても、意味の不足には耐えられないからです。

 時間をかけ、手間暇をかけ、結果ではなく過程を大切にし、じっくりしっかり生きること。個々の事実に振り回されずに、事象の意味を知り、本質を捉える努力をし、考えることを人生に組み込まないと、永遠に不幸です。価値ある自分の人生がはじまりません。例え巨万の富があろうとも、それは何の関係もないことです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

恋知の話  前提は民主的倫理・道徳を身につけることです。

2017-11-06 | 恋知(哲学)

 

 誰であれ、基本道徳・倫理がないと、よきものは何も生まず、不幸です。


 経験の豊かな人の話をまず謙虚に聞く。
そういう態度があり、それをしっかり実行した上で
自分の感じ、想い、考えることをきちんと伝える努力をすることが必要です。

 人に話しをするときは、誰であれ、心を持って話すこと。
冷たい態度や慇懃無礼な態度を取るのは、一番いけないことであり、道徳・倫理の基本に反します。

 人が訪ねてきたときに門前払いにするのは厳禁です。失礼極まる態度であり、そういう人に幸福が来ることはないでしょう。
玄関の中に入ってもらい、それから話をするのです。こういう常識すら弁えない人では、どうしようもありません。

 ざっくばらんな飾らない態度はよいですが、それは、ぞんざいであること、無礼であることとは違います。
優しい心遣いがない人であっては、自他を共に不幸にします。

 いまの日本には、恩を忘れる、それどころか恩をアダで返すような人が後を断ちませんが、それでは、言葉もありません。

 内容的に乏しいことや非人間的であることを、形式を踏まえることで誤魔化(ごまか)すのが、ほんとうの非礼・無礼というものです。それは民主的倫理とは無縁の態度であり、よき生の障害です。「恋知の生」は、それとは逆で、形式主義を排して、内容を豊かで濃いものにしようとする生き方です。そのためには民主的倫理・道徳を身に付けることが必須です。


武田康弘

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

恋知の話 他者への迎合ではなく、自己のよき考えを貫くこと。関係性以上のもの。

2017-11-05 | 恋知(哲学)


身内であれ他人であれ、他者の意に合わせてしまう、

関係性をよくするために、他者の意向に迎合する、忖度する(笑)

という生き方は、納得を生まず、よろこびを生まず、人間の生きる価値を減じます。

エゴという意味はでない自分をしっかり貫くこと。
自分の五感につきよく考え、普遍性のある考え方を育てること。
目先の損得や利害を超え、関係性を害するかとビクビクするのではなく、しっかり対話し、よく吟味された「ほんとう」を貫くことがないと、人生は価値あるものになりません。

近い人であれ遠い人であれ、闘うべきは闘わないと、生きている意味が薄まり、やがては消えていきます。
関係性の齟齬(そご)を避けようとする弱い精神は、よきものを何も生まず、生きるよろこびの少ない灰色の人生と社会を生むだけです。

平板でつまらない人生、管理主義で息がつまる社会、エロースに乏しい魅力のない世界は、闘うことを忘れ、自分から発するよきもの=普遍性を貫かない人々がつくります。

 

繰り返します。
関係性を害するかとビクビクするのではなく、しっかり対話し、よく吟味された「ほんとう」を貫く という基本的な姿勢をもたなければ、関係性は、必ず仲間主義・家族主義・同調主義にしかなりません。善美とは無縁のつまらない世界です。



武田康弘

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

よい心、困った心。内からのよろこびの人生=「恋知」を始めよう~~

2017-11-04 | 恋知(哲学)

広々と開かれた世界へ。
明るさ・楽しさのある生き方に。
嬉しさが増す人間関係を。
面白みとよろこびの多い生活へ。
意味の濃い人生に。
前向きで豊かな精神を。

率直に意見を聞き合い、言い合える開かれた自己へ。

一番いけないのは、
他者を拒絶する心。
人を切ること。
耳を傾けないこと。
固く閉じた自己。
その閉じた自我を防衛するためにつく誤魔化(ごまか)しと嘘と捏造(ねつぞう)。
それは、嫌な人間関係を固定化し、問題の解決を不可能にします。

仲間以外は受け入れない閉じた人として生きているあなた、
閉じた家庭環境の中で生きている(生きざるをえない)あなた、
まず、他者を受け入れる表情や態度や話し方(声)を工夫してみましょう~~~~
ぎこちなくてもよいので、やわらかく、楽しげな表情をつくる練習を鏡の前で毎日してみてください。
にこやかな表情で周りの人に話す実践を少しづつはじめてみましょう。
自分が、わたしの家が、自国が、信仰が、に拘(こだわ)らずに、頭から心身から力を抜いて、遠く(とりわけ雲や空)を見て、広々とした気持ちのよい世界を想うのです。

楽しく開かれたイメージを他者に与える表情や言動は、自他をともに幸せにしますから、なによりお得で、徳を生みます。
情緒音痴の尖がり顔や無表情は、一つの得も徳もつくらず、自分も他者もみなを不幸にします。
心の内からのよろこびを生きるのは、人生の最大の価値ですが、そのためには、ちょっとした心構えと日々の練習があればよい、と思います。はじめてみませんか?


武田康弘

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

恋知の話。「目の前主義」の現代人、意味・本質を知ろうとする努力がないと、底なしの不幸です。

2017-11-01 | 恋知(哲学)

 「〇〇とは何か」という本質を知るためには、意味としてのつながりを理解しようとする気持ちがないとできません。
本質とか原理は、直接見ることができませんから、五感で感じ知ったことから類推したり考えることをしないと、意味を捉えることは不可能です。

 それには、直観に基づきつつ、いま見えるものがそのようになった時間的な変化を知ることが必要です。つながりを知り、そこからその事象を捉えようとする営みがないと、目の前にあることの意味・本質はつかめません。

 しかし、いま、多くの人が(とりわけ管理教育世代以降は顕著)、目の前の事態を知ること以上はしない傾向にあります。時間的な変遷を知り、事象の意味をしっかり掴(つか)もうとしないのです。そういう作業は、うっとうしい、分からない、めんどうだ、という人が多く、彼らは、内容のある話を真剣に聴き考えてみることから逃げてしまいます。

 その時その場の「快」「不快」でのみ生きるので、生き方・考え方は、単線的になり、結果主義になります。

 プロセス=時間的経緯とその意味を捉えようとする営みがないと、人間にとって価値ある認識ができないのですが、そのことが分からず、「好きと嫌い」と「快と不快」のレベルから進めないので、内面世界が豊かになりません。

 判断も行動も反射的でしかなく、精神的な深みや大きさとは無縁のまま生きてしまいます。

 したがって、事象の本質を知ろうとせず、分かりやすい結果を追いかけることになりますが、それは精神世界をもつ存在である人間にとって底知れない不幸です。とても残念な生き方で、生の失敗とさえ言えます。

 現代は、お金をいくらもっているか、どれほどの権力を行使できるか、また、物やサービスという目の前に見えるものだけが価値だという風潮がありますが、それでは、人間の豊かな生は拓けず、即物的な存在にしかなれません。それは恐ろしい悲劇です。観念存在である人間は、物質的欠乏には耐えられても、意味の不足には耐えられないからです。

 時間をかけ、手間暇をかけ、結果ではなく過程を大切にし、じっくりしっかり生きること。個々の事実に振り回されずに、事象の意味を知り、本質を捉える努力をし、考えることを人生に組み込まないと、永遠に不幸です。価値ある自分の人生がはじまりません。例え巨万の富があろうとも、それは何の関係もないことです。

 

 

武田康弘

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加