fbの武田語録と返信欄です。
自分が中心、自分の快と損得が一番、でも、口では立派な理性派。自己正当化の理屈を日々考える。自己こそ!が実存主義????育ちのイカガワシイ人は、そのように実存を遇する。ここまでくれば、何もかも元からお終い~~ですね。皆のためはお題目。マイファースト。
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fbの武田語録と返信欄です。
自分が中心、自分の快と損得が一番、でも、口では立派な理性派。自己正当化の理屈を日々考える。自己こそ!が実存主義????育ちのイカガワシイ人は、そのように実存を遇する。ここまでくれば、何もかも元からお終い~~ですね。皆のためはお題目。マイファースト。
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日本支配のために、トルーマン大統領とマッカーサー司令官が創作したのが、日本国憲法第1条の「天皇はシンボル」として天皇教ー天皇制を残すというものでした。
トルーマンの演説「日本人家畜化計画」の柱が、象徴という名で天皇制を存続させることでした。
【私】の精神的自立を、
ブッダの根本思想(①人はみな天上天下唯我独尊として生れてきた。②固定した実体は存在せず、すべては縁により起きるという縁起の法。③自帰依・法帰依ー自分自身と法則を拠り所とせよ)により果たすのではなく、
権威の頂点に、天皇という記号化された人間を置くという異様なイデオロギーとそのための天皇儀式。
これは、オウム教と同じ構造の宗教で、これほど異様で異常な思想はありません。生きている人間を権威の頂点にすえ、天皇という記号=天皇制に対する検討も批判も一切禁止する(テレビでも新聞でも)という国は、近代民主制(政)の各自の平等と自由に依拠するという原理を元から否定してしまいます。思想及び良心の自由がないのです。理性は育ちません。
ありえない。あってはいけないことなのです。「明治政府がつくった天皇という記号」pdfをぜひお読みください。
武田康弘
Fb短文 2024、11後半 武田康弘
ソクラテスは、「育ちのいかがわしい者をフィロソフィーに近づけるな」と言いました。善美への憧れを持たず、真実を追求せず、お金や有名であることや地位という外的価値に従う人=恩を忘れる人(自我主義者)、それが育ちの悪い者です。
「エリート」(学校知の勝者)は、表層知=活字・知識に支配されて盲目だ。人間力の豊かさ=真実に乏しく、社会的評価を人生の意味とする。ほんものの愛情がなく、ほんものの理性もない。事実学(ただの教科の暗記と解法)の累積だけなので単なる事実人(猿ではなく人ではあるだけ)に陥る。恋知がないので魅力なしで気味わるい。
人間の生きる目的は、恋知(哲学)すること、音楽や美術を味わい、創造すること、恋する=憧れること、でも、そうではない文化が蔓延して、先進国の人間ほどダメな存在に墜ちていく。目的は金と権力と愛なきセックス??(笑愚)
日本の親は、こどもに豊かな人間性を開花させることは興味がない。聞こえのいい学校に入れることが第一。人生の意味も目的も知らないので、何も教えられない。わたしはとても恵まれていたが、多くの子は、時間と共に魅力を失い一般人に沈んでいく。哀しい。
武田康弘
6月22日(土)の続き 11月30日(土)の哲学対話は、哲学の中心=認識論と言語論です。易しく、役にたつ講座&対話です。
お申し込みは、五反田アイアイスクールまで。
6月22日(土)の会が終わった後で、スタッフのみなさんと。
女性の遺伝子(卵子)と男性の遺伝子(精子)が一つになり子ができるのです。
ですから、家系図をつくるとなると、せいぜい10世代くらいしかつくれません。
私の母+父、その母プラス父母、その父プラス父母、となりますから、10世代目で1024名ですが、9世代目、8世代目・・を足して約2倍になりますから、2000名越え。
20世代目で1048576人(100万人越えで、総計は200万人越え)となり、到底家系図など書けません。
家系図というものは、特別の一人の存在を起点としなければ書けませんが、その特定の人もまた無数の男女の遺伝子をもっているのですから、何のことか意味不明です。
誰であれ、無数の男女の遺伝子により存在してるわけですから、特定の人から始める家系図を書くという行為は、愚か極まる所業であり無意味です。家系図とはそれ自体が無意味なのです。
無意味を前提とする天皇家の家系図など、あまりに馬鹿バカしい代物で、冗談にもほどがあるとしか言えません。万人は平等とは、特定の思想なのではなく、事実そのものなのです。
武田康弘
哲学の土台=倫理について
分かりやすい例を出してお話します。
誰でも、友人や仲間とは、対面しての対話をするでしょうが、齟齬や行き違いが生じた人とは、とくに対面での(少なくとも電話)での対話は不可欠です。
文字(メールなど)でのやりとりでは、ますます拗れることが多いのは、活字では左脳ばかりになりますので、言葉はかえって誤解や溝を広げる結果になるからです。文字だけからの印象は人による違いが大きいので、あべこべの伝達になってしまうこともあります。
時間を合わせて、対面で話すのは、人間が生きる上で一番大事な「倫理」の実践といえます。生身の人間と人間の話・応接は、生きる者同士が、対等で自由な存在として交わることですので、倫理そのものです。
それを避けるのは、自分の言動に負い目があるからで、自己存在から逃げることになります。自他の存在を見つめるのが哲学=人間的生の大元ですから、逃げたら元からおしまいです。自己だけの倫理的誠実とは、ありえないことで、生身の他者との交わりがなければ、自閉症にしかなりません。自己存在の認識とは、厳しい他者の目に曝されなければ無価値ですので、自分の思いや考えと違いがある者との対面対話が必須で、それが倫理の根本です。
一例をあげれば、言語学の天才といわれるノーム・チョムスキーは、世界の良心と目されていますが、95歳の現在まで絶えず対面での対話を続けてきました。若者とも思想界の大御所とも厳しく対立する人とも、です。1対1で、あるいは数名、数十名とでも。対面での直接対話を驚くほどの時間と労力をかけて行ってきたので、説得力が桁違いに大きいのです。
それが倫理価値の根本です。人が人として生き合う土台が倫理です。
アイアイスクール五反田。6月22日(土)武田先生と哲学対話。誰でも分かる認識論=純哲学
日本人は、会社員も公務員も主婦も政治家も学者・・・もみな明治政府が創作した「天皇教に基づく天皇制度」に心が呪縛され、そこから抜け出せません。それがどれほどの不幸を生み出しいるかを自覚できません。
「天皇教と東大病と官僚主義の三者一体」による支配は、人々の無意識領域まで管理して、みな腑抜けの状態にさせられますが、
保守主義=国体思想の政治家には、これほど有難いことはなく、政治支配はどこの国よりも楽です。
哲学までも、ヘーゲルの最初の著作「精神現象学」に依拠して、「他者承認の哲学」こそ哲学の最高到達点だという竹田青嗣と彼のグループが人間を羊化させることに努力するありさまです。
深く「自己承認」できるためには、どう考えどう生きるか、こそ哲学の使命であり意味であることを忘れ、日本的集団同調主義(天皇教・東大病・官僚主義) をソフィスティケートするのですから呆れます。
天皇教の序列絶対主義は、エリート職業の人の精神的拠り所となるために、「天皇教と東大病と官僚主義の三者一体」による支配は、永続化してしまいます、個々人の人間としてのパワー・良心・魅力は元から消し去られ、型が優先し、儀礼が優先し、社会的価値に縛られ、個人は死ぬのです。この序列主義を元から断たない限り、永遠に日本は不幸です。実存の生=個々人からの出発は、はじまりようがありません。
駐留米軍のトップであったマッカーサーの発案で、天皇をシンボルとして天皇制を存続させることで、日本を永遠に支配する=個々人の精神的自立をさせないで、日本人を「天皇教という集団同調主義」で一つにさせ、アメリカの属国のようにすること。天皇家に特権を保障することでアメリカに好意を持たせ、日米同盟の永続化を果たす、という大戦略は見事なまでに成功し、人間家畜化の日本国ができあがりました。
人々を騙す底から嘘の大学教授(直接体験のない書物だけ人間)の書く本に踊らされるのを止めない限り、思想や哲学が民衆の力になり現実の花が咲くことはないのです。公共哲学などという東大哲学は、支配のためのごまかしで、トップに韓国人を据えるなど用意周到ですが、関係者自身も騙されているのは、滑稽でさえあります。
武田康弘
ユダヤ教にはじまる一神教(ユダヤ教を母としてキリスト教とその弟分のイスラム教)の騙し=荒唐無稽の物語も、
明治政府が創作した天皇教の儀式主義への馴致も、宗教のもつ詐術の強さ・怖さをあらわしています。
わたしは、こどもたちに誰もみな天上天下唯我独尊として生れてきたのだと話し、至上の価値は人間の個々の実存だと教えています。真実を。
23日は、徳仁天皇の誕生日なので国民の休日。いまだに続く天皇教は、明治政府が作成した国家カルトですので、天皇制についての批判や制度の見直しについては、話し合うことすらできません。テレビも新聞も批判的な言説をまったく許しませんので、完全なる独裁国家と同じですが、他国を言論の自由の抑圧といい非難する日本のテレビや新聞は、はるかに徹底した言論統制が行われている自国の問題については、頬かむりです。
天皇現人神(天皇は生きている神)という明治政府のつくった天皇教=国家神道=靖国思想=国体主義は、ものすごい暴力(特別警察と憲兵隊)で、反対者をなぎ倒し、また、全国の数万以上の寺を焼いたり破壊したりし神社にかえました。明治政府の出した神仏分離令を端緒にした廃仏毀釈(仏法を排し釈迦の考えを捨てる)の大運動は、野火のように広がり、国宝級の仏像や寺院を破壊した為に、いまある国宝は3分の1程度と言われます(故 梅原猛さんによる調査)。
天皇教=国家神道=靖国思想=国体主義は、敗戦後にいったんは否定された思想でしたが、1946年からはじまったアメリカの占領政策の大転回(逆コースと呼ばれる)で岸信介をはじめとするA級戦犯の解放により、再び彼らやその親族が日本政府の中枢を占める政治となり、天皇教は徐々に復活してきたのです。
明治政府は、天皇教=国家宗教を作成するために、まず、京都御所の天皇とされる男性を江戸城に連れてきてここを皇居となづけて占有させること、次に、日本史上、一度もなかった一世一元の元号制度をつくり、全国民にそれを使わせることを強要しました。時代=時間も天皇が支配することで、空間も時間も日本という国は、天皇が中心であるという意識を国民の無意識領域にまで浸透させるのが岩倉具視による計略でした。
ここで分かるのは、いったんは国のありようを変えたかに見えた戦後日本の今も、明治政府が作成した天皇教という国家宗教は、そのまま生きているということです。江戸城占有は変わらず、一世一元の元号も変わらすですから、日本は、天皇教のままです。天皇教は、教義(内容)を持たず、その時その場の政治勢力と世俗価値に合わせます。形式=儀式だけがあり、それを仰々しく行うのが天皇教という国家宗教の特徴です。まさに日本の特色で、中身・内容は問いません。形式を強要することで、日本人という型をつくるわけです。
「門地(家柄)により差別されない」という日本国憲法14条は空文化され、皇族はよくも悪くも差別され、超がつく特権が与えられます。天皇は、国籍も住民票もなく、そのためにあらゆる義務から逃れ、税金も保険料の支払いませんし、パスポートも発行されず(できない)ために、パスポートなしで外国に行きます。法的には日本人ではなく、人間でさえありません(人権がないのです)。明治政府がつくったように、やはり生きている神なのでしょうか?
明治政府が作成した天皇教とそれに基づく天皇制をしっかり考え直すことは、とても大きな意味をもちますが、それは日本人の義務でさえあると思います。今日23日の天皇誕生日はそのよい機会でしょう。詳しくは、「明治政府がつくった天皇という記号」pdfをお読みください。
武田康弘(哲学者)
「皇族と統一教会」の深い関係を示す写真。明治政府がつくった天皇教が、文鮮明の手本となった。
https://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/bd971b6f2aed5162891b443b0b85c614?fm=entry_awp