思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

恋知第3章  「公共をめぐる哲学の活躍」 と 「結語」

2017-11-20 | 恋知(哲学)

(3)「公共」をめぐる哲学の活躍

  民主主義と公共思想は、わたしの小学5、6年生の「政治クラブ」(内容は自由な哲学談義)に始まるものですが、その長い歴史を振り返り、簡潔にまとめたのが以下に載せる「『公共』をめぐる哲学の活躍」です。

 この論文は2010年に書いたものですが、当時わたしは、参議院行政監視委員会調査室で客員調査員として国会職員にソクラテス出自のフィロソフィーの意味と現日本国憲法の哲学的基盤について講義していました。

 そのため、この小論は、行政監視委員会調査室の注目するところとなり、国会議員への情報提供をする「『行政監視情報』平成22年10月15日号」に掲載され(巻末の44ページ~59ページ)、行政監視委員会に所属する議員を中心に国会議員に配布されました。

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「公共」をめぐる哲学の活躍  A4で16ページ

pdfファイルは、ここをクリック

 

 

(4)結語 (自己という中心から公共性は生まれる)

 なお、東京大学出版会のシリーズ「公共哲学」全20巻+別巻は、最初の10巻は佐々木力さん(元東大総長)と金泰昌さん(公共哲学共働研究所長)の二人が編者であり、残りの10巻は、金泰昌さん+各巻テーマの専門の大学教授との共編)でしたが、共にその編集の基本方針として公と公共を分ける=「 『公』と『私』を媒介する論理として公共性を考える」が謳われていました。

  わたしは、それに異論を出して論争したわけですが、2008年6月21日に出した簡明な結語が以下です。

 公(おおやけ)と公共を分けるべき!? 

 主権在民の近代市民社会―民主制国家が成立する以前は、市民の公共とは別に国家の公(おおやけ)とでも呼ぶべき世界がありました。

  日本でも明治の近代化では、まだ主権は天皇にあるとされ、市民的な公共は、天皇制国家の公とは別だと考えられていました。だから、国民の利益とは別に国家の利益がある、と言われたのです。国民は、国体=全体を構成する部分とされ、主権者である「天皇という公」の下に「市民的な公共」が位置づけられたわけです。

  また、国家の主権を天皇から国民へと大転換した戦後の日本社会においても、この明治国家の公=お上という観念が残り、それが役人・官僚が偉いという逆立ちした想念となっています。公(おおやけ)と公共は別だ、という観念をひきずっているわけです。

  だから、歴史的な考察や現状の分析としては、公と公共を区別するという公共哲学=シリーズ『公共哲学』(東大出版会)の主張は、まったく正当なものです。

  しかし、それが「公と公共を分けるべきだ」とか「ほんらい公と公共は異なる世界である」という考えを、主権在民の市民社会の中でするとしたら、時代錯誤の意味不明な言説となってしまいます。

  歴史的にどうであったか、あるいは現状がどうであるかというレベル・次元での話と、原理は何かという次元の話が一緒になれば、いたずらに混乱を招くだけで、百害あって一利なし、という結果になります。

  理論は、それがどの次元での話なのか?を明瞭に意識しないと、すべてが平面に並んでしまい、無意味な衝突を起こします。立体的に見なければならない、これは基本原則です。

  言わずもがなですが、公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた「官」(役人と官僚機構)は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた「官」は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的な公共を実現するためにのみ存在するーこれが原理です。

  社会問題や公共性について、ほんとうに現実的に考え・語ろうとするならば、以上の簡明な原理を明晰に自覚することが何より先に求められるはずです。次元の混同に陥らないように注意しないと、平面的思考の中で無用な言葉を膨大に紡ぐ愚に陥ります。現状分析と原理の区分け=次元分けをし、迷宮に入り込まぬように注意したいものです。

  公共性というみなが関わる世界の原理は、明瞭・簡潔で、ふつうの生活者が深く納得できるものでなければならない、これは原理中の原理です。

2008/06/21 武田康弘

 なお、この結語の青字の部分は、参議院行政監視委員長の山下栄一(参議院議員)さんが注目し、『行政監視と視察』(総147ページ)において、「行政運及び行政監の思想的土台となる」(6ページ)とされたのですが、それは11、12ページに記しました。


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最後に、わたしの公共思想の原理について記します。
金泰昌さんとの哲学往復書簡30回(『ともに公共哲学する』東大出版会刊)で述べた考えをそのまま書き抜きます。

(15)自己という中心から公共性は生まれるーーーの中から結語の部分のみ(131ページ)。

 この私の命・生活は何より大事なものであり、この私の心身と私の抱く想念は何より貴重なものである、とわたしはずっと感じてきました。だからこそ、互いにその貴重な世界を守り合い、楽しみや悦びを広げ合うことが必要なのです。これが公共性の起こりであり、公共性とは、集団で生活する人間が、集団に埋没するのを防ぎ、個々人がより大きな私の可能性を開くために必要な思想だ、とわたしは思っています。人間はひとりで生きることはできないので、単なる個人性では、個人の可能性は狭まり悦びも広がりません。公共性とは、互いに私の可能性を広げていくために必要な現実的な思想であり、社会の中でよく生きるための知恵ではないでしょうか。

 狭く私の得だけを考える閉じた自我主義的思考ではなく、広くみなに共通する利益を考える開かれた公共的思考は、私の人生を社会的現実に向けて押し広げてくれます。公共性とは、観念的・抽象的な次元ではなく、現実的・具体的な領域で私を活かす道であり、それは私の人生の充実・悦び・晴れやかさの世界を切り開くことになるのです。

 したがって、公共的思考は、一人ひとりのふつうの個人が、私的生活に閉じ込められてしまう不幸から抜け出るための方法であり、広く社会全体を私の世界にするという発想であり、官・政治権力者・経済的支配者・知の独占者から社会・国家・知を「私」-「民」に奪い返す力をもつものです。公共する哲学によって、現代の民主制社会に生きる私たちの思想の原理を明晰化していきたい、そうわたしは思っています。

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最後におまけですが、

わたしは、民主共和党というバーチャル政党をfbでつくりましたが、そこでの基本の考え方を以下に転写します。

昨日の「恋知の会」(2017年9月13日)
バーチャル政党=【民主共和党】(民主政を前に進める共和主義、瑞々しい「水の国=日本」にふさわしい人間に優しく平等な国へ~~をみなで立ち上げました!!
賛同者はご登録ください。

まず、首相のほかに【大統領】(日本の顔=元首で政治権力は持たない・ただし、首相の国会解散を拒否する権利をもつ)を選ぶ

一例として、過去の人でふさわしいのは、学問・芸術に通じた品格の高い人ー例えば石橋湛山(哲学者・経済学者・ジャーナリストで55代総理大臣。美濃部亮吉(豊かな学識をもち東京都知事を務めた品格のある人)。高野岩三郎(戦前に東大教授を辞して社会問題研究所所長・戦後に改組されたNHKの初代会長。庶民派にして高潔)大原孫三郎(中国電力やクラレの創始者で白樺派の同伴者ー心優しい博識の実力者)のような人。現代では、国連で中心的な活躍をしている人などが候補です。

国旗は「日の丸」が候補。国歌は「さくら」(日本古謡)が候補。国花もさくらなので、ピッタリと思う。共に国民の自由な議論で決まります。

元号は個人で自由に。役所と公共機関では、世界歴(西暦)を使用する(今の元号の義務付けは不合理で間違いが生じやすいので)。}

天皇家は、ほんとうの住まいである京都御所に。江戸城は、江戸公園として国民みなに開放。

天皇は、国事行為は行わず、文化的行為のみを行い、基本的人権が保障される。

簡単ですが、骨子です。この線で市民憲法案も出さねば、です。
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なにはともあれ、オープンに共和制の意味や意義について語られる状況を生みだすことは、とてもよいこと、大事なことです。

大きなタブーがあることは、ひどく不健康ですからね。

細かな話はともかく、みなが、明治維新政府によってつくらた水戸学に基づく「明治天皇制=国体思想=靖国思想=国家神道」の国家カルトの精神風土から解放されて自由になることは、何より大切な「はじめの一歩」と思っています。

集団同調でもなければドライな強権でもなく、水の国=日本のしなやかで自由な共和主義って、いいでしょ~~~


武田康弘

 

 

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