思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

明治が生んだ「天皇」という制度は、実は、とても怖いのです。なぜ? 私の人生を充分に生きよう!

2019-12-19 | 学芸


白樺教育館のホームページに分かりやすい私の論考が載りました。簡潔ですので、ぜひお読みください。大切な人生のために。

206. 天皇system+ismとは、集団同調ismを生み、理性を育てません

 人々の自立を妨げ、集団同調を強い、深く考えることを阻害する何かがこの国の社会にはある、と指摘する人はいます。でも、その原因について触れる人はいません。避けているように見えます。
 その真の原因は一体何なのか、それを明らかにしようと試みたのが館長・武田によるこの論考です。公平公正な本来の民主制(共和制)実現のためには避けて通れない王道でもあります。
きわめて重要な話ですのでじっくりお読みください。PDFファイルも準備してあります。印刷される際にご利用ください。
PDFダウンロード=>

 なお、この論考は客観的に分析的に語ったものですが、一方で内的な視点から語った同様の論考があります。以下を参照ください。両方併せて読んでいただけると、より深く了解可能と思います。

私と共和制  楽しい公共社会を生むために +人類思想の三分類と恋知


古林 治

 


   天皇system+ismとは、集団同調ismを生み、理性を育てません   武田康弘

 
 日本には、平安時代前期の村上天皇を最後として、江戸時代の後期に光格が再び天皇を名乗るまで800年以上の間、天皇と呼ばれる人はいませんでした。 天皇は権力を失い、京都周辺のローカル王になったからですが、とりわけ鎌倉時代の承久の乱(1221年)で、仕掛けた側の後鳥羽院が完全敗北し、隠岐に島流しの刑となり同地で死去した後は、京都の西側までもすべて鎌倉幕府が治めることになりました(北条義時と姉の政子による)。
法然とその門下親鸞など12名の僧を死罪・流刑とした後鳥羽院は、自らが島流しとなり最期を迎えたのでした(左上図)。

 
 その後天皇家は細々と生き延びてきたのですが(権力欲に憑りつかれた後醍醐による南北朝の戦いは例外)、その存在は、明治維新が成立した後でも、とりわけ東国では天皇を知っている民衆はほとんどいませんでした。明治政府は看板に書いて広めなくてはならなかったほどです。

 いまの天皇制は、明治維新の岩倉具視や伊藤博文、山県有朋らがつくった「近代天皇制」と呼ばれるものですが、それは、祭事(まつりごと)や武士の政治権力を聖化する儀式をして生家を立てていた一家の長を現人神(あらひとがみ・生きている神)として崇める政府神道(明治政府がつくった国家宗教)です。この政府がつくった宗教の総本山が「東京招魂社」(官軍側の死者だけを国家の軍神として祀る施設)でしたが、10年後に名称を「靖国神社」と改め、日本の伝統の神社でもあるかのように装ったのでした。

 知恵者である岩倉具視(※)は、まだ民衆にはあまり知られていなかった天皇を知らしめ、意識させるために、新しい元号制度を考案しました。数年に一度変わっていた元号(天災が起こったり祝い事があると変えていた)を、天皇の存在と結びつけ、天皇と時代名を一致させる「一世一元」にしたのでした。これにより民衆は、いやでも天皇を意識するようになり、時代名として元号を使うことで時間感覚まで古代の王制のように支配され、天皇教として無自覚に心身に入り込むことになったのです。太平洋戦争敗戦までの明治憲法時代(主権者は天皇で現人神)も、敗戦後の新憲法時代(主権者は国民となり天皇は「人間宣言」をした)も、同じ昭和時代と呼ばれ、それを誰もおかしいとは思わないのですから不思議です。


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