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思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

合法的に「生き地獄」を経験させて殺すという刑罰=死刑

2008-04-22 | 日記
死刑の宣告 元少年表情崩さず
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=467730&media_id=4


肉親を殺された遺族は、殺した者を殺すことで「落着」するのだろうか?

死刑囚には、
執行の日は知らされない。
「明日か、明日か、」と殺される日を恐怖におののきながら待ち、生きる。
この世にこれ以上の地獄はないだろう。
どうあがこうと助からない。苦痛の時間が、瞬間的な「死」とは比較にならぬ観念の恐怖が、寝ても覚めても持続する。
地獄の中で生かされながら、ついにその時がやってくる。
合法的に、絶対的に、殺される。万が一にも助かる可能性はない。

この「生き地獄」を味わせた後に殺すという刑罰=死刑に処することで、殺された者は、浮かばれるのだろうか?
遺族は満足する?ほんとうにそうなのだろうか。
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民主主義とは、その場の多数派に従うことではありません。

2008-04-10 | 日記
ある言説に他より大きな説得力があれば、それまで違うことを言っていた人もその考えに従わざるをえないわけで、その場合、従うのは「人」ではなく、その言説内容です。

より優れていると思える考え・言説に従うのが民主主義です。

もし、「既得権益を廃棄する」という思想が、他の言説よりも上位であれば、それに従うのが民主主義というものです。

自問自答と自由対話がなければ成立しないのが民主主義ですから、民主主義は教育とセットですが、自治を可能とする自由対話の教育がないわが国は先が見えません。


武田康弘
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福田自民党政権の責任は明白ですー日銀総裁問題

2008-03-12 | 日記
[ 00:53 ]

財務省の武藤氏を日銀総裁にすることは、日銀の独立性の観点から民主党その他の野党が反対していたにも関わらず、福田政権は、財務省の強い意向を受けて武藤氏を総裁候補としました。これでは混乱は必至です。

このような福田政権の行為は、参議院での民主党の多数という現実を無視した政権党のおごりという以外にはありません。選挙の結果を無視して、従来通り自民党の思惑を通せると思うならば、まったく民主主義を理解していないことの証としか言えません。

日銀総裁を空白にすれば、それは政権党に責任であることは火を見るより明らかですが、反対されるのがはじめから分かっている財務省の武藤氏を出して、それが通らなければ野党の責任だというのでは、あまりにお粗末な話です。こんな簡明な事も分からないようでは政権担当の基本的な能力が欠落していると言わざるをえません。どうしてこうも今の日本の政治家はテイタラクなのか、ほんとうに呆れ返ります。

「主権者の厳粛な信託による」という感覚がまるでなく、緊張感に乏しい言説を日々テレビで見せられ、聞かされていると、公共的な怒り、憤りを覚えます。政権党が自らの問題を野党のせいにして済まそうという精神では、政権を担う基本の資格がないと断ずるほかありません。これには誰も反論できないでしょう。

武田康弘
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丁々発止の討論会ー22日の参議院でのディスカッション

2008-01-25 | 日記
22日の参議院でのディスカッションは、丁々発止のやりとりになり、とても面白いものでした。その丁々発止の大元はわたしです(笑)済みません!?

おそらくは、前代未聞の会であったのではないか?と推察されますが、ただ人の話を黙って聞くだけという時代はとっくに終わっています。

「自分で考える」ためのヒントや刺激を得るためでなければ、ディスカッションにせよ、講習会・講演会にせよ、暇人の時間潰しにしかなりませんし、まともな人は、そのような会に出席させられるのは心底「うんざり」でしかないでしょう。

 わたしは31年間教育の仕事をしていますが、数学や国語にしても単なる技術として「教える」ー「教えられる」ことほどつまらないものはないと思っています。一緒にその場で頭を使う・回すところにエロースがあるので、わたしは、たとえ講演会であっても、リアルタイムでもう一度考え直すという心で臨みます。

 当日も繰り返しお話したように、【「官」は「市民的な公共」とは異なる独自の「公」という世界をもつ】という思想は民主主義の原理に反する、というのがわたしの確信ですが、何にせよ一番必要なのは、自分自身が民主的な人間になることだと思っています。

民主的な人間とは?民主的な倫理とは?民主的な言葉とは?・・・それらについて思索し実践することをわたしは続けてきましたが、その道をこれからもまっすぐに進もうと思っています。

当日の参加者の皆様には、国会開会中にも関わらず出席され、極めて真摯に話を聞いて頂いたことに深く感謝しています。


武田康弘
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「公共世界」は「実存」から生まれるー「自由対話」によって。

2007-10-07 | 日記

一見そうとは思えないでしょうが、現代において公共世界を拓く哲学的基盤は【実存】の思想です。
まず、一人ひとりが自他を「欲望存在」(実存)であることを自覚しなければ、強制は生まれても公共性は生まれません。自他が共に欲望存在であることを知り、それを肯定することがはじめの一歩です。

あらかじめ「よい」の雛形(ひながた)をつくる・道徳や理念を先に置くと、公共性とは、外的なもの=要請や命令に過ぎなくなり、人間の生の現実とはズレていきます。こうしたい、これがいい、という私の心の内側=欲望から出発し、お互いの欲望を認め合い、その上で、集団生活―社会生活の約束事を決めていく。そういう順番で考え、関係性をつくり広げていくのが、公共性を実現するということです。互いの欲望がぶつかり合えば、妥当を導くための話合いをする。どう考え、どう行為したらよいか?【納得を生み出す思考と対話の力をつけること】が公共世界を拓く鍵です。

奇麗事―いかにも立派な理念・道徳律を掲げると、それはタテマエを生きる自己欺瞞しか生みません。己の「こうしたい」をよく見つめ、その場所からほんとうに自他の納得をつくるにはどのように考え・行為したらよいか、それを実情に即して探っていく現実的な思索でなければ哲学にはなりません。ただ理念を掲げ、そこに向かって歩め、という考え方・言い方は、特定の主義や宗派的思考でしかないのです。

ところが、わたしが見るところ特定の主義や宗教を嫌う人もまた実は自分自身が頑なで、自分の枠内から出ようとせず、【自分教】とでも呼ぶべき精神状態に陥り、他者との精神の交歓ができないことが多いようです。自己感情が癒される範囲でしか生きようとしないために、精神の飛翔がないのです。こういう甘えの精神では、【納得を生み出す思考と対話の力をつけること】は到底不可能で、その時々の自己の感情世界に自閉する頑なな「自分教」を防衛する生にしかなりません。

これでは公共世界を拓くことなど出来るはずがありません。最もひどい主義や宗派的な生に転落する他ないのです。「自己相対化」ができなければ、自分の生は広がらず、宗派的・党派的・団体的な言動に終始する人生しか得られませんが、そうなれば、生き生きとした実存の輝きは失われて、欲望は自覚されずに背後に隠れて濁り、腐っていきます。欲望は自覚→肯定されないと、ニヒリズム→ルサンチマン→根源的不幸を生みます。

自己相対化―自己解放の試みは、自己を活かす基本条件ですが、それを可能にするのは、自他がリアルタイムで頭を回転させる【自由対話】―精神の交歓です。自分の観念を架空の世界ではなく現実において活かすのは、自分の想念を互いに他者の中で開き合う営み以外にはありません。精神は閉ざせば濁り、腐るのです。

欲望の自覚→実存を開き・広げる営みが基底になければ、「公共」は、要請や命令でしかなくなります。古い「公」の考え方では、権威と序列による上からの秩序化しかなしえないわけですが、これでは納得を生まず、民主制と背反してしまいます。「公共」とは、実存・心の納得に基づく秩序化を目がけるものであり、それを現実に可能にするのが自由対話です。固めた自我同士の駆け引きや取引ではなく、自他の想念の交歓としての自由対話―対話的精神の羽ばたきが公共世界を生むのです。

2007年10月7日 武田康弘


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安倍首相―自殺のような辞任ー自民党崩壊へのカウントダウンが始まった。

2007-09-12 | 日記

安倍首相の思想的同志であった松岡農水大臣の公的問題による自殺は、現職大臣としては歴史上例のないものでありましたが、この「事件」をきっかけにして、安倍内閣への支持率は急速に悪化していきました。

この松岡大臣の自殺と今回の安倍首相の突然の辞任―国会で所信表明演説をして2日後!!―は、同じような「事件」です。実存=裸の個人としての力が乏しいために、政治家=公人としての思想を鍛えられず、ダダッ子のように権力の座にしがみついていたと思ったら、国会審議も始まる前に突如「ぼく、やめた!」。これでは、お笑い番組―しかも極めて次元の低いーでしかありません。こんな脆弱な人間が一国のリーダーになる(なれる)ような国はろくなものではないでしょう。

いよいよ自民党崩壊へのカウントダウンが始まった。わたしはそう見ます。
後任とされる麻生太郎は、「靖国神社」を非宗教法人化し国営にするという考えですが、これは、明治の保守政権が「靖国神社」の国家主義思想を宗教ではないとして、全国民に靖国・国体思想=天皇崇拝を義務化した(それを国民の義務とし、その枠内で信教の自由を認めた)政策(=国民教化)と同じ思想です。
まさに安倍首相の言う「戦後レジームからの脱却」(明治政府がつくった靖国思想への回帰)路線を大胆に能天気に推し進めようというのが麻生太郎です。

安倍首相の誕生前から、わたしはブログで繰り返し(何十回も)安倍首相のネオ・ウヨク思想の愚かさと危険性を書いてきましたが、次期総理になるであろう麻生太郎に対しても引き続き緊張感のあるブログを書いていこうと思います。日本社会をよくするには、シチズンシップの育成による【市民自治】の政治を深め広げるしかありません。ウヨク思想ー国家主義は、日本人を幸福にしない愚かな想念でしかないのです。

武田康弘




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エゴイズムを越える条件は、自分を愛し、大事にすること。

2007-06-01 | 日記

エゴイズムや独我論を越えるための条件は、自分の心と体と頭を愛し、大事にすることです。
他者への愛は、自分を愛する心からしか生じません。
自己を粗末にする人、ていねいに扱わない人は、真に他者を尊重することもありません。人と、その人の身の回りの様子をみると、どれほどの愛をもった人かが分かります。
その人の「言う事」を聞いてもほんとうのことは分かりません。
実際の態度を観察してはじめて分かるのです。

自分を愛し、大事にしている人でなければ、他者をほんとうに気遣うこともできるはずがありません。自我と他我は深いところでは結び付いているからです。
自分の心が、美しくよい世界への憧れで満たされていなければ、他者への優しさや世界をよくしようという意志が芽生えるはずがありません。
自分を愛し、いたわらない人の思想は、ウソです。

心を透明に保つ努力、頭を鍛える努力、体を健やかにする努力で、自分自身をよい状態に保つこと、自分をていねいに生きることが、エゴイズムによる行動や独我論の思想から自己を解放し、他者と共に生きる広々とした世界―魅力ある人生をもたらすのです。

したがって、教育において何より大事なことは、かつて志賀直哉が強調したように、子どもが自分を大切にし、愛することができるようにすることです。
幼い頃から人はふつう誰でも、人や動物や物に興味を示し、愛しますが、その心を周囲の大人から大切なものとして扱われることで、子どもは、自分自身を愛せるようになります。教育で一番大事な点は、子どもがほんとうに自分を愛せるように配慮することです。
それがなければ、他者愛は、命令や要請による形式愛という欺瞞にしかなりません。当たり前のことですが、愛は強制によっては生じませんから。

私の心身が感じ知る世界は「他者」ー自分の外にある様々な世界です。それらが私の意識の内実なのですから、私の意識に就き、それらをよく見、味わい、愛することは、他者を受容し愛することと結びついているのです。
エゴイズムや独我論は、意識が外なる価値に支配されて、自己の正直な意識につくことに失敗した不幸な観念で、人間からエロースを奪ってしまいます。

武田康弘



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今日5月14日は、【民知の会】の「設立記念会」から一年です。

2007-05-14 | 日記

昨年の【民知の会】(1987年に創設した「哲学研究会」の内容を改めることに伴う改称)の「設立記念会」からちょうど一年、ずいぶんいろいろなことをしてきましたが、今年は、豊かに果実が実りそうです。大事に収穫していきたいとおもいますので、「思索の日記」の読者のみなさんも、ぜひ、民知という恋知としての哲学(哲学の初心)を実践し、広めてください。共に!!

昨年の設立記念会の模様は、白樺教育館ホーム(クリック)にありますので、ぜひ、ご覧下さい。


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皆に共通する立場は、ひとつだけあります

2007-01-18 | 日記

例えば、官僚の立場で考える、学者の立場で考える、技術者の立場で考える・・・・
ということでは、普遍了解性は得られません。
学者の常識に基づいて考えれば、学者仲間には通じますし、技術者にしても、官僚にしても、その社会の通念で考え・語れば、それぞれの世界の住人には通じるでしょうが、ふつうの多くの人の共通了解は得られません。
ひとりでやってれば~、という「集団オタク」の世界から抜けられずに、独我論の世界に陥るしかありません。

では、どうしたらよいか?
皆に共通する立場に立つことです。それ以外の答えはありません。
では、皆に共通する立場とは何か?
生活世界の現場から考え・話し・行為することです。
どのような立場の人にも共通するのが生活世界です。生活世界を持たない人はいないのですから。
生活世界から立ち上げて、生活世界で通用するような言葉、生活世界に受け入れられるような態度で語り、行為することです。

何かを語り、何かをなそうとする時、この原理中の原理をよく自覚し、実践することがまず何よりも先に求められます。この原理から逸脱するような歪んだ「エリート」意識に囚われていると、何を考え、何を語り、何をしても、空しい独我論の世界から抜けられません。
たとえ、言葉・思想として独我論や自我主義を批判しても、それを語る人間の「語る言葉や態度」が上記したそれぞれの世界の枠内のものであれば、つまるところオタクに過ぎず、普遍了解性は得られないのです。

人間や社会の問題について考え、解決し、よい人生を生むためになにより必要な「対話」は、生活世界という共通項の中でするほかありません。このことの深い自覚があれば、対話・討論は驚くほどの成果を生むはずです。
民知に基づく公共哲学は、公共政策の専門家を養成するという「東京大学公共政策大学院」構想の思想を元から断つものです。エリート主義をその発生源から消去し、ふつうの多くの人々の「私」から発する公共性を担保するのが、ほんらいの公共哲学です。けだし、公共性とは、ふつうの市民を主体者にしなければ成立しない概念なのですから。キーワードは、生活世界です。

武田康弘



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イリッチ・「脱学校の社会」

2006-12-19 | 日記

いま、30年前に読んだ本をざっと読み返してみた。

イヴァン・イリッチの「脱学校の社会」である。

線の引いてある箇所を中心に、編集しながら、書き写してみる。私の思いとピタリと重なるからだ。


「教育ばかりではなく、現実の社会全体が学校化されてしまっている。・・・裕福な者も貧困な者も同様に学校と病院に依存しており、それらが彼らの生活を導き、世界観をつくり、何が正しいか正しくないかを示してくれる。学校と病院のどちらも、自分自身で自分の治療を行うのは無責任なことだとか、独学で学習するのは信用できないことだとみなすのであり、行政当局から費用の出ていない住民組織は一種の攻撃的ないし破壊的な活動にほかならないとみなすのである。学校、病院、どちらに依存している人々も、制度による世話に頼っているため、制度に頼らない独立的な活動を疑いの目でみるようになっている。個人や共同社会が自分でやりぬく能力を伸ばされなくなってきている度合いは、ブラジルの東北部においてよりも、ウエスト・チェスターにおいて一層顕著であるとさえいえる。どこでも、教育だけではなく社会全体の「脱学校化」が必要である。」

「学校化された社会では、消費者も生産者も専門家になることを求められ、急進的な批判家と思われている人々も、経済成長を第一とするイデオロギーを信奉することを求められる。・・この社会では、社会が新しい世代の教育に責任を負わなければならないという感覚を持ち、これが、必然的に、誰かが他の人々の個人的な目的を設定し、分類し、評価してもよいことを意味するようになる。・・学生はまじめにカリキュラムに従うとき気が狂いそうな感じを抱く傾向がある。なぜなら、不可解な印をつけられようとしているのは家畜ではなく、彼ら自身の人生目的だからである。」

「教育を革新しようとしている人々でさえも、教育機関が彼らの詰め込んだ教育内容のパッケージを生徒に注入する注射器のような機能を果たすことを前提としている。・・教育者と被教育者の関係が供給者と消費者との関係として続く限り、教育研究は堂々めぐりを続けるであろう。・・・・・学校化された社会では、人々の自由は、専門家によってパッケージされた商品の中から選択する自由という狭いものにされてしまう。」

「われわれは、希望と期待との区別を再発見しなければならない。希望とは自然の善を信頼することであり、期待とは人間によって計画され統御される結果に頼ることを意味する。」 (The Deschooling Society 1971)
――――――――――――――――――

希望とは、親鸞のいう他力から生じる。
小賢しい論理を超えて、生の底から湧き上がる心。生きているものへの愛がつくる自由な世界。――――「私の心にはいつも希望がある」
期待とは、自我の計算に基づく閉じた世界。
「君に期待している」とは、君のエネルギー・生き血を差し出すことを求めているに過ぎない。―――――「国家は君に期待している」!「期待される人間像とは○○である」!


「新教育基本法」ほど愚かで非人間的な理念法はありません。国家=政府が個人に特定の「態度」を要求するのは、根源悪です。絶対に認めることはできません。

※ イリッチー「シャドーワーク」・生活のありかたを問う(岩波書店)もぜひ、ご参考に。

武田康弘




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9月9日ーソクラテス的対話の実践ー「哲学するふつうの市民」と「山脇教授」 in 白樺教育館

2006-09-02 | 日記

9月9日(土)の4時から、「哲学するふつうの市民」の方と、東京大学教授の山脇直司さんとの間で対話の会を催します。私、武田が進行役ですが、大学・ソクラテスクラスの授業の中で行いますので、形式的な司会ではなく、内容に踏み込み、議論を恋知(哲学)にふさわしいものにしたいと思います。日本における全く新しい試みにご注目下さい。白樺教育館で。

安倍晋三のようなナショナリズム宣揚の低次元の想念しかない政治家が大手を振るうようでは、「つまらない国ーちゃちな国」にしかなれませんので(笑)。

以下は、このブログの中でのお二人のやりとりの一部です。コメント欄をクリックされれば、全部のやりとりを見る事ができます。



[ 哲学する普通の市民 ] [2006/09/01 22:49]
山脇さんへ。
公共哲学に対する私の基本的疑問は、主に山脇さんの「現代を如何に生きるか」と「公共哲学とは何か」を読んで感じたものです。したがって、それらが「背景知」です。また、「生活の地平」は「普通の一般市民としての日々」です。なお、「産業構造審議会基本政策部会」の議事録(以下。経産省HP)にある山脇さんの発言を読みましたが、具体的なケースで何か具体的な政策提言をしているものは、確認できませんでした。9日には、基本的疑問について具体的根拠を示しつつ、きっちり説明するつもりですので、ご返答よろしくお願いします。
http://www.meti.go.jp/committee/materials/g50531bj.html
――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[ 山脇直司 ] [2006/09/02 01:55]
返信有り難うございました。当日、武田さんが司会をなさるということで、どのように進行するかわかりませんが、貴方の一連の批判から感じた懸念を一つだけ書かせて下さい。公共哲学は公共政策と違って、主にヴィジョンや思考の枠組みを探求する学問です。政策提言専門であれば、武田さんが非難してやまない東大法学部の先生方でもできるはずです。貴方にとって「哲学する」とはいったい何なのか、教えて頂けないでしょうか?
――――――――――――――――――――――――――――――――

[ 哲学する普通の市民 ] [2006/09/02 06:27]
私は、「人間の存在そのものの充実と輝きを生み出す意味のある知」を求めています。そうでなければ、日々の生活実践の原動力とはなりませんから。「なぜ、どうして、何のために? 何に依拠し、何を目がけるのか?」いつもそう問いながら生きるよう努力しています。それが「哲学する」ことだと思っています。思想史を勉強したかどうか、は関係ありません。そうでなければ、
普通の一般市民は「哲学する」ことはできない、ことになるからです。9日の山脇さんとの対話においても、当然この姿勢でお話しするつもりです。「公共哲学」はしっかりしたヴィジョンや思考の枠組みを欠いているのではないか、という問題意識です。なお、産業構造審議会の答申等は、典型的な役人の文章であり、「哲学する」こととは無縁の代物です。
――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[ 山脇直司 ] [2006/09/02 10:58]
だいたい判りました。公共哲学の思考の枠組みに関しては、『UP』(東大出版会)8月号にもはっきり書きましたが、「政府の公・民(たみ)の公共・私的領域」の相関的三元論、個人一人一人を活かしながら、民の公共を開花させ、政府の公を開いていく(活私開公)」、「ある・べき・できる」の統合、「地域性と現場性に根ざしつつ地球的争点を考えていくグローカリティ」など多々あります。後は当日、討論しましょう。





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「白樺教育館の活動は、日本における注目すべき動向」

2006-08-22 | 日記

――高い評価を頂きました。

金泰昌(キムテチャン)氏は、「公共的良識人」紙―8月号の冒頭対談で、「注目すべき日本の二つの動向」として、『白樺教育館』の思想と実践をあげています。以下にその全文を掲載します。わたしたち白樺同人は、高い評価に深く感謝します。


 金泰昌(キムテチャン):
日本での動向の中で私が特に注目しているのは二つあります。
その一つは、東京大学や千葉大学の公共哲学研究者たちが奨めている「学問研究の構造改革を目指す公共哲学」運動です。極端な専門分野的分割化(タコツボ化と言われます)から専門分野を横断する相関志向への学問研究へのパラダイムシフトを強調しています。
そして、もう一つは、武田康弘白樺教育館長とその同志たちによる民知―恋知による生活知再構築運動です。従来の官知―制度知による生活世界の領土化・植民地化から一人ひとりの市民の主体的・主観的・当事者的自立を支える生きる力としての知の産出とその共有を強調する純民間活動です。
(「公共的良識人」紙8月号巻頭―吉林大学・ヤオ教授を訪ねて、より)

(以上は、キム氏と吉林大学のヤオ教授(哲学社会学院哲学系主任・カリフォルニア大学、ハーバード大学で高級訪問学者として共同研究にも従事)の対談の中でのキム氏の発言です。☆吉林大学は、文科系、理工系、医学部などを擁する中国東北地域最大の総合大学。中国政府により「七つの哲学人材育成基地」に指定される。とりわけ日本に関する研究・教育は非常に充実していて、日本語教育については中国随一との定評がある。)

[ 金泰昌(キムテチャン)氏は、現在、公共哲学共働研究所所長。
韓国延世大学院政治学博士。 駐韓米国経済協調所企画補佐官、国立忠北大学・社会科学大学長、国際関係研究所長、統一問題研究所長、行政大学院長、東京大学客員研究員、国際日本文化研究センター客員研究員、北九州大学客員教授、九州女子大学文学部長、などを歴任。前東京大学総長・佐々木毅氏との共編―シリーズ『公共哲学』10巻の編者。続編も刊行中(東京大学出版会2000-2006)。 
★以上は、『行政研修ジャーナル』No.37・2006年(人事院公務員研修所・発行)によるキム氏の略歴です。キム氏は、人事院からの依頼で、行政研修の講師を務めています。]


白樺教育館・武田康弘



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いま式根島から帰りました!

2006-08-11 | 日記

いま、式根島から帰ってきました。

私が1976年以来毎年続けているキャンプ&ダイビングーその模様は当初の10年間月刊『マリンダイビング』誌で紹介され、日本でこどもたちのスノーケルダイビングを広げるキッカケになりました。

いままで30年間、奇跡のように晴れっぱなしでしたが、今年は、台風の影響=なんと式根島の真上を通過!!子どもたちは初めて本格的な雨を経験しました。7日の夜に発ち、初日は足付港の東海汽船待合所を貸して頂きましたが、二日目からはいつもの大浦キャンプ場で楽しく過ごしました。三日目は誰もいない秘密のプライベートビーチ!?(写真ー10日)でゆっくり美しい海を堪能しましたが、今年は異常に水温が低く、外海は20度以下で、これも初体験。
いつもVIP待遇で迎えてくれるレストラン「サンバレー」をはじめ、村役場の職員の方や式根モータースの浅野さんらにも感謝です。

写真は管君(管剛文)がたくさん撮りましたので、後日整理して「白樺教育館ホーム」に載せましょう。(私はビデオ撮り)

武田康弘


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感情の絶対化と感情の豊かさとの違いは?主観性の発達/客観学の目的化

2006-08-07 | 日記
以下、コメントを記事にします。

[ 智子 ] [2006/08/06 11:41]
先生、ブログを拝読しました。いつも勉強させていただいています。質問で恐縮なのですが、感情豊かに生きるということは私にとっては素晴らしいことのように思える反面、わがままに生きることのようにも思えて、躊躇してしまいます。感情を表すことが(素直に生きること)は他者を傷つけることになると思うと自分を抑えてしまいます。あるいはわがままな子供と他者に映ることを怖れているのかもしれません。わがままであることと感情豊かに生きることにはどういう違いがあるのでしょうか。また先生も批判されている浅薄な感情の絶対化と感情豊かに生きることとはどういう違いがあるのでしょうか?
――――――――――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2006/08/06 14:22]
智子さん、コメント、ありがとう。
わがまま、おおいに結構です(笑) 自芽=「自我の芽」は、わがままが肯定されると階段を上り、成長しますが、否定されると、わがままを内的には克服出来ず、外的に上手にふるまう(誤魔化す)だけの人間になってしまいます。実存次元での嘘=空白の生の上に社会性の仮面をつけた「外的人間」(根源的な不幸人)の誕生!です。
外的人間は、ステレオタイプの感情しか持てないために、自己の感情世界が発展せず、感情豊かに生きることができません。感情の発達とは、主観性の発達と同義ですが、わが国では、主観性が悪であるかのような刷り込みが行われているために、感情も論理も共に発達しないというわけです。
「主観性消去の詐術」(クリック) と、 「おどけ・ふざけ・悪さこそ」(クリック) をご参照ください。
―――――――――――――――――――――――――――――

[ 智子 ] [2006/08/06 16:21]
丁寧にお答えくださって、ありがとうございます。自分はわがままを内的に克服できずに成長してしまったのだなあと今更ながらに思います。今から自分を育てるのはなかなか難しいかもしれませんが(成長するために未発達な感情を表現した結果、他者との間に軋轢が生まれることは怖いことでもあります)、努力してみようと思います。また質問させていただくと思いますが、どうかよろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[ タケセン ] [2006/08/07 09:36]
「私」のありのままの感情を見据えるのは、何より「私」にとって怖いことかもしれません。
私が見るところ、ほとんどの日本人は、外的なしつけを受けるか、甘やかされるかのどちらかですが、この両者はひとつメダルの表裏でしかありません。ともに主観性の発達=自芽の成長がありません。
日本では勉強するとは、客観学の習得のみを指します。思想や哲学の分野でも客観的真理!?を求める有様です。思想とは、主観性の深化・拡大によって開かれる普遍性であるという本質論的了解が、とりわけアカデミズム(学校知)にはありません。たとえば自由や平等の理念や人権という思想は、一人ひとりの実存の生・生活世界の体験を反省し思考することで生じたのであり、客観学はその主観性が生んだ普遍了解性を前提にして成立するに過ぎないのです。
ところが、ほとんどの人は、この本質論的な了解がないままに勉強する(させられる)ために、勉強・学問とは、物知りになることと技術知を身に付けることだと思ってしまいます。人間としての深められたエロース・内的成長・生きる意味充実の世界・強靭な人間力とは無縁の知が跋扈するわけです。手段としての知=客観学が目的化されるわけですが、これは感情が紋切り型でしかなく、自由で豊かな発達がないことと重なる問題です。
幼児的な「感情」と恋知(哲学)の営みなき「技術」(やりかた)だけしかない。「私」が生きる意味を考え創り出す「思想」に支えられたほんものの知が成立しないのです。 あるのは、大学に自閉する講壇哲学か、ことば遊戯のオタク思想くらいです(笑)。
生活体験に支えられた根のある知と豊かな感情の発達とはひとつです。
智子さん、よい質問をありがとうございました。

武田康弘





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独創―革新!日本のMINIになれるかも?三菱の軽自動車=i(アイ)

2006-08-01 | 日記

スモール イズ ビューティフル 近未来的で可愛いクルマを街で見ました。
早速調べてみると、これが独創の塊(かたまり)、心躍るような内容をもったクルマであることが分かりました。三菱i(アイ)のホームページは、クリック


トヨタ車、とくにクラウンなどは、集団同調的な俗人的価値観に溢れた!?クルマですが、どうやら、三菱アイは、それとは対極にあるクルマのように思えます。まだ、触れてもいないので、第一印象でしかありませんが、日本のMINIになれる可能性を持つような気もします?? 軽の規格が1000ccまで上がればね~。ただし、もうそろそろガソリン車は時代遅れですね。このi(アイ)も電気自動車にふさわしいデザインかもしれません。

武田康弘




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