きぼう屋

生きているから生きている

神との共働

2010年04月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「働く神との共働」

私たちの神は、
人の身体を伴うまでして、
すべての命の傍らに寄り添ってくださいます。

そして私たちはその神により、
本当に「涙を拭って(ヨハネ黙示録)」頂き、
深い慰めを得ます。

だから私たちは、
日々の生活で抱える困窮を隠さず、
そのまま神に委ねられます。

つまり
格好つけて教会にくる必要はなく、
逆に泣きながら教会に来る私たちを
神は慰めるために待っています。

さらに神は慰めるだけで終わりません。

私たちの生きる世界は、
既に神の慰めの中にあると同時に、
しかし未だに深い痛みと悲しみの中にあるため、
神は、
なおも慰め続けるために働きます。

そして、神の慰めを知った者を、
その神の働きに招きます。
そこで私たちは神の共働者とされます。
そして実に私たちが得る真の慰めは、
慰めのために働く神との共働において、決定的に起こります。

同時に私たちの罪も、
主が十字架で私たちの代わりに裁かれるのと同時に、私たちも主と共に十字架を背負うとき、
つまり他者の罪を身代わりに背負うとき、
自らが神に赦されていることを本当に知ることとなります。

つまり神による慰めと赦しは、
神が私たちを、
神の十字架を背負う働きに招き、
それに私たちが応答し、
私たちが神と共に十字架を背負う中で起こされます。
「自分の十字架を負いなさい(マタイ伝)」という戒めは、
慰めと赦しがそこで決定的に成し遂げられることを意味するものです。

さて
礼拝でも神は働きます。
私たちはその神の働きに参与します。
神の讃美に耳を傾け、その讃美を共に担います。
それは同時に他者の讃美の声に耳を傾けつつ讃美できるという他者との絆、愛ともなります。
また神がご自身を献げるのを受け、共に献身し、献金します。
神が言を語るのを受け、その言を共に語り、また聞きます。

そして日常生活では、
端的に神と共に他者を愛し、他者にかかわり、
すべての場所に、神と共に和解と平和をつくることに、
私たちはそれこそ命をかけます。

この神との共働が私たちのこの世での本来的な行為であり、
これがキリスト信仰による人生です。